港をさがして（初稿）

　 　総武線の黒い窓に、痩せこけた自分の顔が映っているのに気付いた雄一は、ふと無意識に鞄を持つ手を左に替え、空いた右手で自らの顎をなぞった。既に夜も更けた頃を走る列車の窓では、髭の伸び具合までは分からない。指先で口髭の刺激を確かめてみるところで、自分の行為が怪しげに捉われないかと思って手を下ろす。高速で過ぎ去る光景を、いちいち目で追うことはしない。ただ、人間社会からの帰りにいる自分の意識を、どこか超自然の感覚へと押し込めたかった。それを叶えさせてくれそうな深い闇と、点々と浮かび上がる灯りを見つめ続けることに、自然と意識が集中した。髭のことなど、日常の最たるものではないかなどと、この男は思わない。自分の目に映る風景から、暗い海を漂う船の灯りを思い浮かべていた。
　瀬戸雄一は、都内の商社に勤めていた。この十年、無断で休むこともせず、会社の売り上げに貢献し続けてきた。二十八歳の時に結婚した、妻の美枝子と隣県の団地で暮らしている。夫婦生活は、まだ冷え切るには早すぎるが、今の雄一に子供を持ちたいという思いは芽生えていない。この日も、妻の声で目覚め、妻が作った朝食を摂り、玄関に立つ妻に背中を見せて出社した。毎日、自分の生活を支えてくれる美枝子の存在を、当然と思う傍らで感謝もしている。だが、心のどこかでは、美枝子が本当に自分が帰り着く 港と足り得るのか、疑問を感じている。
　客先から自社への帰り、自らの顔を薄く映す中央線の窓越しに、まだ太陽の明るさを知っている白や灰色のビル群を見つめて、雄一は妻とは異なる女の顔を浮かべていた。会社への報告を済ましたら、この日は退社するつもりでいた。居残りの上司や、飲みに誘いを掛けてくる同僚を尻目に、雄一は会社の前でタクシーを拾った。彼のアフターファイブは、完全に仕事と切り離されることが多かった。後部座席で大きな溜息をついた雄一は、ネクタイを緩めて腕組みをしたまま目を閉じた。十分と経たず、タクシーは雄一の声で停車した。新大久保駅から少し離れた路地で、丁度の代金を払い、意味の無いレシートの受け取りを断って、雄一は町に足を下ろした。途端に空気が変わったことに、何某かの孤独感を感じながら、どこか揚々とした気分も得ていた。二つ三つ、周囲の看板を確認したところで、自分の進む方角を決める。その間に、アナログ時計の読めない雄一は、ステイタスだけの用しかなしていない時計を、自分の左腕から外して鞄にしまった。これを贈った妻への罪悪感からではない。手首にまとわり付く感触が、社会に出てから十年経っても慣れないのだ。
　ここからが、本当の船出だと言い聞かせるように、やや早足で目的の店へと向かっていく。雄一は二年ほど前から、この町で遊んでいる。始まりは、得意先との商談をまとめた功績から、上司に誘われて焼肉を奢ってもらった際、その上司の行きつけということで訪れたことにある。二件目の店では、自分の財布を使ったにもかかわらず、同僚と飲みに行くよりも低予算で済み、深夜でも居座り続けられたことに魅力を感じていた。ただ、唯一の懸念は自分を誘った上司であった。今後、この町で上司に見つかったことを考えると、気まずくて仕方が無かった。だが、その人は転勤で都内を離れていった。今や気兼ねなく、雄一は夜の大久保を満喫できていた。
　一階に携帯電話の販売店が入ったビルのエレベータに乗り、三階で降りると、雄一は目の前の茶色いドアを確認した。やや黄色を帯びた壁に、白地に黒い文字で店の名前が書かれているであろう看板がはめ込まれている。看板には、ローマ字とハングル文字で文字が書かれていたが、雄一にはどちらも解読が出来なかった。ただ、音だけで店の名前を記憶していた。ドアの上に付けられたガラス窓から、光が漏れている。ドアを開けると、野太い男の歌声が届いてきた。改めて、ここがカラオケスナックであることを思い知らされる。まだ夜には早い時間に、随分な量の酒が入っている奴がいるのかと思うと、若干気が滅入った。ウェルカムベルの音を聞きつけて、この店の小ママが壁の角から覗き込んできた。赤いドレスを着た彼女は、来客が雄一と分かると奇声のような母国語と一緒に駆けてきて、雄一の手を取った。独特のイントネーションで、早口に店の混み具合などを捲くし立て、部屋の角のソファへ雄一を座らせた。その間、鼻をつく香水の香りに眉間を締めかけたが、不必要に科を作ろうとはしない小ママの態度は好ましかった。ネクタイを更に緩め、シャツのボタンを一つ外した雄一の前に、注文する前から水割り用のグラスと乾き物の皿が置かれた。小ママは、雄一と一人分空けた斜めの席に座り、手際よく酒を作った。小ママが雄一の手元にグラスを置くまで、彼女から二、三の話題が振られるが、雄一はいずれも曖昧な相槌と上辺だけの微笑で誤魔化し、皿の上のつまみに手を出した。店の奥から彼女を呼ぶ声がして、小ママは不機嫌そうな表情を見せて席を立つ。小柄な後姿と入れ違いに、もう頭一つ小さい女の子が小走りでやってくる。短い黒髪をなびかせ、その娘は雄一のすぐ右側に立つと軽く会釈して、互いの太ももを密着させるようにして座った。小ママとは異なる、芳しい女の香りがするように雄一は思った。白っぽいドレスも、やや色黒の肌も、薄暗い店内でははっきりとした色調は分からなかった。ただ、エスニックな顔立ちだけは特徴として捉えていた。
　雄一は、この少女とは半年前に出会った。留学生だという小ママからの触れ込みだが、詳細は尋ねていない。それは野暮だと思った。屈託の無い笑顔を見せながら、この日も彼女は雄一の話に付き合う。雄一にもはっきりと聞き取れる発音だけが、彼女の魅力ではなかった。具体的な年齢は分からないが、若く輝くようなエネルギーを彼女から受け取っていることは事実であり、仕事や人間社会の煩わしさから自分を解放してくれる非日常を、自分の周りで最も持っているのが彼女であるという意識を、もはや雄一は手放せないでいた。そうした高尚な意識の傍ら、男の本能なのか雄一は彼女の全ても欲する気持ちさえ持っていた。このビルを出た次の角にあるラブホテルに、いつかは今日こそは誘い出してみたいという欲望が、常にこの男の胸に疼いていた。それが出来ずにいるのは、やはり美枝子への感情ではなく、自分の中だけで決着が着くことである。断られれば、もう二度とこの店へは来られない。彼女のいる、この正しい店名も分からないスナックこそが、今の雄一の波止場である。少なくとも、この柔らかくもないソファに腰を下ろしている間は、そう意識していた。隣の彼女と逃げ出すことも考えた。それを実行に移せなかったのは、瀬戸雄一の男としての見栄である。
　店を訪れた時間が早いせいか、いつもより幾分か早い時間に店を出た。玄関まで見送りに来たのは、小ママでも若い彼女でもない別の女性だった。右手と愛想を振りながら送り出す女性に、軽く右手を上げて答えると、雄一は店のドアノブを手放した。ドアの向こうでウェルカムベルが虚しく響く。来た時と同じく、エレベータを使って建物の外へと出た雄一は、左の袖を微かにめくったところで時計を外していたことを思い出した。読めずとも、時間を見る振りだけは続けてきた故の癖である。ズボンのポケットから携帯電話を取り出し、デジタル表示された時間を確認すると、駅とは反対方向へと足を進めた。まだ十分、電車は動いている。それでも、胸につかえる「もや」が気になって仕方が無かった。これは、深夜の町並みを一人歩くことでしか紛らわすことが出来ないと思ってのことである。漆黒の中の孤独は、自然と男を詩人にさせた。数件のラブホテルを通り過ぎ、道の端々に停められた高級車や酔っ払いのサラリーマンに目もくれず、足早に雄一は歩き続ける。風俗店の看板も見えてきたが、寄るような気持ちではなかった。まだ携帯電話の番号交換さえしていない若い彼女の笑顔が、未だ脳裏から離れないでいる。そうした気持ちのまま、家に帰り着くのが怖い。次の朝を迎えるのが怖かった。気付いた頃には、歌舞伎町を抜けて新宿駅の改札にまで辿り着いていた。最寄り駅までの電車は、まだ動いている。
　黄色の帯をまとった列車の中で、雄一は薄らぎつつあった「もや」を取り払うかのように、目の前の暗闇を凝視した。それは、夢心地から現実へと戻るためか、それとも大久保の件も日常の一つに過ぎないからなのか。暗闇に浮かぶ、幾つかの光の点が波間で揺れる船の灯りに思えた。自身の最寄り駅の名前がアナウンスでかかると、それまで封じていた聴覚を取り戻し、降りる準備をした。東京の歓楽街から、一層暗い闇が伸びる地元の駅に降り、道に迷うこと無く帰路へと着く。不気味なほど静かな住宅街を突き進んでいると、このまま自分の機関さえ沈黙の闇に飲み込まれ、二度と帰ってこられないのではないかという幻想まで浮かんでくる。それは、何に対しての恐れか。不思議な考えに囚われたまま、雄一は今朝と同じ垣根を越えた。住民たちが利用している駐車場にまで回り込み、休日しか乗る機会の無い白の軽バンを見つける。新婚時代、丁度この団地に越してきたときに購入した車が見つめる先に、彼の住宅がある。その建物の四階を見上げたところで、雄一は自分の部屋の窓から灯りが届いているのに気づいた。視線は窓へと向けたまま、ほぼ無意識に右手で左の袖をめくってしまう。時間が知りたかった。空っぽの左手を、ズボンの中で眠る携帯電話に触れさせて、むしろ早くその部屋へと向かうべきなのではないかと自問した。人とは、ここまで献身的になれるものなのか。過剰な反応かもしれないが、ここで初めて雄一は妻への罪悪感というものを実感していた。街のネオンに惑わされて難破しかけても、結局いつも、この灯台を目指していた。それを実感できたこの日に、雄一は自分の港を見つけた。

終わり