願い

　扉を挟んだ向こう側の廊下から、パタパタという足音が二つ聞こえてくる。ああ、きっと次は勢いよく扉が開かれて、二つの舌足らずなソプラノが響くのだろうな。
「おとうさん！　見て見て！」
「ミナね、ほら！　ちゃんと書けてるよ！」
　果たして書斎の静寂を破ってくれた愛娘たちに、私は苦笑まじりに振り返った。長女の優奈、次女の美奈、ともに習字の半紙を両手で広げて満面の笑みを浮かべている。
「おとうさん、ユナね、自分の名前、漢字で書けるんだよ！」
　確か、優奈の字は六年生で習う漢字のはずだ。これは素直に嬉しい。
「ミナも、ほら！」
　姉に比べるとバランスも悪く、あちこちに墨が飛び散っているが、どこか微笑ましい。
「だって、ミナの字はかんたんじゃん！」
「は？　かんたんじゃないし！」
　それぞれの名前が書かれた半紙をこちらに見せながら、姉妹は口をとがらせて顔を見合わせている。我が娘ながら可愛らしい様子だが、少しばかり違う。そう、彼女らが誇らしげに掲げている名前。その漢字に込められた想いとは、少し釣り合わない。
「二人とも、よく書けてるよ。頑張ったね」
　私が声を掛けると、とたんに姉妹は笑顔を取り戻して見上げてくる。目を細め、白い歯を見せられると、私の中から少しだけ邪気が消えた。説教をしてやろうという思いが、にわかに失われていった。代わりに私は、昔話を始めることにした。
「優奈の、この優しいという字はね、他の人に対する思いやりを持ってもらいたい。誰にでも優しく出来て、みんなを幸せにできる。そんな子になってほしいっていう、お母さんとお父さんの願いが込められているんだ」
　初めて授かった子供。その子が生まれてきた瞬間、私も細君も笑っていた。自然と笑顔になれた。まだ目も開けられていない赤々とした肌の我が子が、皆に優しい気持ちを与えてくれた。そのことに対する感謝と、これからもそうであってほしいという願い。
「美奈はね、この美しいって字はね、見掛けの美しさだけじゃない。心も同じくらい美しい子になってほしいという願い。他人を思いやって、みんなと仲良く出来るような美しい心を持ってほしいという、お母さんとお父さんの願いが込められているんだよ」
　二人目の子供も女の子だった。きっと、歳の近い姉とは、事あるごとに張り合ってみせるんだろうな。それならいっそ、姉に負けないくらい、優しい子になってほしい。皆を幸せに出来るくらい、美しい心を持って育ってほしいという願い。
「ねえねえ、それじゃこの字は？」
「奈って、なんていみ？」
　そろそろ、それを教えても良い頃だろうか。餌を催促する雛鳥のように、身を乗り出してくる二人を落ち着かせて、私は答えた。
「この字にはね、意味は無いんだよ。怒らないで聞きなさい。ちゃんと説明するからね。この奈って字は、漢字自体は何の意味も持っていないんだ。ただ、ナという音を表すために作られた漢字だそうだよ。でもね、優奈と美奈の名前はそうじゃない。この字には、何の意味も無いからこそ、ここには二人が自由に意味を持たせられるんだ。優しさや美しさに、自分の好きな意味を足すことが出来るんだよ」
　きょとんとして見上げてくる二人の手から、半紙を取り上げて今一度、その字に込めた願いを思い出してみる。ここまでの十年間は、願いどおりに来れただろうか。いや、目の前の二人を見ていれば、それは分かる。今度は十年後、また同じ話をしてみよう。
「よく書けてる。それじゃ、今度はお父さんが話したことを思い出しながら書いてみようか。優奈や美奈という名前に込められた願い、二人がこれから見つけていく願いを考えながら、もう一度書いてごらん。今度は、もっと上手に書けるはずだよ」
　半紙の字を二人に見せ、「分かった人？」と尋ねると、二人は同時に手を挙げて答え、そうして書斎から駆けて出ていった。私は、もう一度、二人が持ってきた半紙を見つめてみる。十年後はきっと、二人のほうから話してもらえるだろう。それぞれが見つけた、二人だけの願いを。

おわり