兄の言葉に、僕は耳を疑った。
「去年、騒ぎがあった京都の神社の放火事件……あれは、俺がやったんだよ」
　一秒、二秒と時が止まったかのように立ち尽くす僕の目の前で、兄は僕の様子を窺うかのようにニヤニヤと笑っていた。
「驚くなよ、アギト。生まれた時から社会から外れて生きてるような俺達なんだ。何やったって構わないだろ？」
　口から出た内容に反して全く悪びれた様子の無い兄の態度に、僕は目の前がクラクラと左右に揺れる感覚を味わった。
　この兄は僕より六歳も年上で、当然僕が身に付けている以上の倫理観は備えているはずだというのに。
「何を考えてるんだよ、カサネ……過激派になっちゃったのか？」
　中学を卒業してすぐに家を出た兄は、当然どこかに勤めているものだとばかり考えていた。仕送りなんて期待できない家だから、きっと必死に真面目になって頑張っているんだろうと。
　そんな期待を裏切られた悲しさが込み上げてきて、僕は何年かぶりに涙を流した。あれはクラスの友達のお母さんからもらったお菓子を、兄に内緒にと一人藪の中で食べようと真夜中に家を出た時だ。
　真っ暗で帰り道が分からず泣いていた僕を、心配した兄が大声で僕の名前を呼びながら見つけてくれたんだ。あの時の兄は、あんなにも優しくて頼りがいがあったというのに。
「……何も泣くことないだろ……冗談だよ、そんなことしちゃいないよ」
　僕の泣き顔が堪えたのだろうか、兄は小声で自分の発言を否定するとサッと顔を逸らしてしまった。
　安堵と同時に僕の胸に怒りが湧き出てくる。久しぶりに実家に顔を見せたと思ったら、こんなたちの悪い冗談を言ってくるだなんて。
　文句の一つも言ってやろうと、今の僕の悲しみに溢れた心境に相応しい言葉を考えていると、兄はまたしてもニヤニヤと笑い出した。
「でも、これは知ってるか？　二か月くらい前に東京の電車の中であったっていう暴行事件……過激派同士の揉め事だっていうけど、あいつらを衝突させたの実は俺だったんだよ」
　その事件なら、まだ記憶に新しい。友達と一緒に街まで遊びに行って、家には無いテレビを街頭で眺めている時にちょうど放送していた事件だ。
　これもまた悪趣味な冗談なのだろうか。それとも今度は本当に兄の仕業なのだろうか。冗談にしろ真実にしろ兄が何を考えているのか全く理解できず、僕は力を無くして項垂れた。
「……冗談だよ」
　僕に背を向けながら、興醒めしたかのように兄が吐き捨てる。自然と僕も兄に背を向けていた。しばらく一人になりたい心境だった。
「アギト……お前も、もうじき中学卒業だろ？　こんな社会から隔絶された谷底にいつまでもいる必要なんかないんだ……卒業したら俺のところに来いよ」
　お互いに顔を向けてはいないが、兄がもう軽薄そうに笑ってなどいないことは声の雰囲気から伝わった。けれども、僕はもう兄の言うことなど何も信じられない心境だった。
　しばらく無言の状態が続いた後、この場を去っていく兄の足音だけが耳に届いた。久しぶりの我が家に泊まっていくことはおろか顔を見せるつもりもなく、このまま帰っていくつもりらしい。
　完全に足音が聞こえなくなってから、僕は兄の誘いに返事した。
「……嫌だ」

　僕が生まれ育った土地は、外の人からは萢沢と呼ばれていた。萢というのは湿地帯のことだが、僕の家の周りはゴロゴロとした岩ばかりの荒地だった。四方を斜面に囲まれた谷底に位置し、学校へ行くためには雑木林の坂道を上っていかなくてはならなかった。
　非常に水はけが悪く、雨が降ると土砂崩れや冠水などの被害に見舞われるため、僕や兄は幼い頃から土嚢を積む手伝いをさせられた。
　ある時、学校の窓から雨雲を眺めながら「帰ったら、また土嚢を積まされるな」などとぼやいたのを笑われたことで、僕は自分が特殊な環境に生まれたことを自覚した。それまでは、どこの家でも子供は雨の日に土嚢を運んでいると信じていたのだ。
　友達と遊んでいる時でも、子供が外にお金を持ち出してハンバーガーを買っている姿に驚いたものだ。僕にとってハンバーガーとは、母親と一緒に街に出かけた時にだけお目に掛かれる高級食品だったからだ。
　だから小学校高学年にもなると、友達の家から帰宅した際に自宅のみすぼらしさを突きつけられる思いがした。今にも朽ちそうな黒い木造平屋は、あばら家という言葉以外に相応しい呼び名があったら教えてほしい。
　両親にも兄にも尋ねたことは無いが、萢沢には他に家らしい建物は一件しか見当たらず、それがいつ頃からそうなのかは分からない。何でも残る一件の家というのは、数年前に世間を騒がせた過激派の家族が隠れ住んでいる家だとか。
　つまり萢沢に住むというのは、そういうことなのだ。
　小学校や中学校のクラスメイトから目立って差別を受けたという記憶は無い。だが、大人は必ずしも平等に接してくれていた訳ではなかったと思う。
　例を挙げれば通っていた小学校には正門と裏門があり、ほとんどの児童や教師は正門から登下校していた。僕達兄弟だけは、雑木林を抜けた先のゴミ捨て場脇にある裏門を利用していたのだが、幼い僕はこれを近道だからだと考えていた。
　真実のところは分からない。学校側から僕らの親に子供を裏門から通学させるよう連絡があったのか、それとも親の方が学校に配慮して僕らに裏門を通るよう教えていたのだろうか。
　とにかく僕らの境遇はかなり特殊なものだったのは確かだ。それを確信したのは中学に上がってからで、クラスメイトの一人とある話題で意気投合したことがあった。
　彼が言うには、何でも彼の家は周りに何も無いところだそうだ。僕は口にしないまでも内心、自分もそうなんだと頷いていた。僕は彼に興味を抱いて、恥ずかしそうに語る彼を説得して自宅へと遊びに行かせてもらった。
　向かった先は、萢沢とは反対方向にある平地だった。自転車など当然持っていなかった小学生時代の僕の行動範囲から外れた土地は、草茫々の中を突き進んでいくこととなった。
　途中で線路を横断したが、彼曰くここが駅らしい。駅舎も踏切も無い単線の脇に小さな箱が設けられた無人の駅。どうやら降車した乗客は、その小さな箱の中に切符を入れる決まりらしい。それでは、ここから乗る際の切符はどうするのだろうか。電車内で車掌が販売しているのか、それともバスのように降車時に運賃を支払うのだろうか。
　そして、この滅多に人も電車も通らない線路の端から端はどこへと延びているのだろうか。ついに利用することなく地元を離れた僕には、永遠の謎となった。
　話を戻そう。線路を渡った先にあるという彼の家は、話に聞いていた通り辺りに遮るものが無く見晴らしがよかった。十キロメートル以上は離れている別の民家が目視できるくらいに。
　彼の家は、田んぼのど真ん中にあった。本当の意味で何も無い荒れ果てた土地で生まれた僕は、寸でのところで「君は何も無いと言ったけど、田んぼがあるじゃないか」と言うのを堪えた。
　僕は、自分が色んな意味で世の中から掛け離れた場所にいることを自覚した。だから、再会した兄の言葉が無くとも中学を卒業したら地元を離れるつもりでいた。
　もちろん、兄を頼るつもりはなかった。

　身一つで田舎を出た僕は、住み込みで働ける場所を探した。昼間は工場で働き、夜は年齢を偽って風俗店でボーイとして働き始めた。
　まだ酒も女も知らない、法的に許されない年齢ながらも夜の街の空気に慣れた頃だった。どこから聞きつけたのか、僕が働く店に兄がやってきた。
　仕込まれた「いらっしゃいませ」という言葉を飲み込む僕に、いつかと同じニヤニヤした表情で店の外へと誘ってきた。
　僕は店長にタオルを交換してくると告げて受付を離れた。客の目の届かない店内の一角に、風俗嬢が使用済みのバスタオルを収納する場所がある。むせ返るような雄の臭いと格闘しながら、山積みとなったタオルを店外へと運ぶのもボーイの務めだった。
　袋に詰められた使用済みタオルを持って店の裏へと回り、新しい未使用のタオルを持って店へと戻る。その過程で、僕は兄と半年ぶりに向き合った。
「やっぱり萢沢から離れたか。しかし連絡くらいあると思っていたからな……探したぜ、アギト」
「連絡しなかったのは、探してほしくなかったからだよ。客として来たんじゃないなら、帰ってほしいな」
　目も合わせずにタオルを処理する僕に、あからさまな舌打ちが聞こえた。
「冗談じゃない……俺にこんな店の客になれって言うのか？　それに、お前もこんなところで働かせるのも冗談キツイぜ」
「まだ未成年だから？　店長は目をつぶってくれるってさ。もちろん、僕だって一生の仕事にするつもりはないよ」
　兄との話をなるべく早めに切り上げたくて、僕は口と手を同時に動かして自分の仕事を済ませようとする。真新しいタオルを取り出そうとした僕の手首を、兄は信じられないような強さで掴んできた。
「何を……っ」
「冗談じゃない、って言ってるんだよ。お前を……お前の体に、こんな他の男の精液の臭いを染み込ませる仕事なんて今すぐ辞めさせてやる」
　思わず悲鳴を上げてしまいたくなるくらいの握力で締め上げられて、僕は恐怖すら感じていた。とにかく早く兄の前から立ち去りたい。そんな思いから力ずくでも兄の手を振り解こうとする。
「何、言ってるんだよっ……僕は別に客の相手をしてる訳じゃない。こんなの風呂に入って服を洗濯すれば綺麗になるよっ」
　中学を出たばかりの僕では、六歳も年長の兄にはまだ力負けする。それでも懸命に腕を振り回して、何とか自由を取り戻す。
　もう替えのタオルなんか手に取らず一目散に戻ろうとするが、兄は細い路地の左右の壁に手を付いて道を塞いでくる。
「何だよ……僕は仕事中なんだ！　もう帰ってよ、兄さん！」
　怒りに任せて叫んでみるが効果は無い。それどころか、兄は僕以上の怒りを孕んだ瞳で迫ってくる。
「俺のところに来いよ……俺の仕事を手伝ってくれれば、こんな店で働かないで済む。俺とも一緒に暮らせるんだぞ」
「……い、嫌だよ……訳の分からない嘘で人を混乱させたり、急に乱暴をするような兄さんと一緒になんか……」
　僕の抗議が終わらない内に、兄は更に身を寄せてきた。間近で見た兄の瞳は、燃えるような怒りの奥に悲しみの色を湛えていた。
「何で……そんな呼び方、するんだよ」
「え……？」
「兄さんなんて、呼ぶなよ……昔みたいに、名前で……カサネって呼んでくれよ」
　思いがけない言葉に、僕の思考は停止した。兄が何に怒り悲しんでいたのか。何てことの無い変化に、何故こんなにも感情的になっているのか。何も考えられなかった。
　やがて兄はいつかの時と同じように背を向けて、感情の読み取れない声で話し始めた。
「お前……母親のこと、覚えてるか？」
　兄の言葉に、忘れかけていた記憶が蘇ってくる。まだ僕達が小さい頃に萢沢を出ていった母。はっきりとした目鼻立ちまでは思い出せないまでも、とても美しい人だったと記憶している。
「俺は、よく覚えているよ。初めて家に来た時、親父から紹介された時、俺はまだ五つだった。そんな俺にも理解できるくらい、お前の母親は若くて綺麗で美人だった」
　兄が何を言おうとしているのか。僕は先程までのやり取りや店のことも忘れて、ただ聞き入っていた。
「お前の母親が親父の後妻になって一年後、お前が生まれた。お前は母親の顔もよく覚えてないかもしれないけど、俺は今でもはっきりと思い出せる。アギト、お前の顔はお前の母親そっくりなんだよ……子供のお前はその分、より可憐であどけなくて……お前の母親が少女だった頃は、こんな感じなのかなってよく考えてた。けど……俺が見ている以上に、彼女は俺を見てはくれなかった。そして、もう二度と……。彼女も、彼女によく似たアギトも、俺が馬鹿みたいな冗談を言って注意を引こうとしても、もう俺を見ては……」
　最後の方の兄の言葉は震えていて、注意して聞いていなかったら聞き取れなかったと思う。僕は何を期待して、一字一句逃さず聞き取ろうとしていたのだろうか。
　言うだけ言って、兄は振り返りもせずに去っていってしまった。兄としても、こんなことを言うつもりはなかったのかもしれない。我に返った途端、いたたまれなくなったのだろう。
　残された僕は一人、離れ離れとなった萢沢の家族のことを考えていた。
　父は何故、母と再婚したのだろうか。僕は何故、母から生まれたのだろうか。何故、兄と僕は兄弟になってしまったのだろうか。
　兄の実母はどんな人だったのだろうか。父と僕の母は愛し合っていたのだろうか。兄は、誰かに恋していたのだろうか。
　そして、僕は家族を愛していたのだろうか。兄は、どんな家族を求めているのだろうか。
　兄が消えていった夜の街は萢の底のように暗く無口で、答えを返してくれそうになかった。

終わり