プロローグ
シン・アスカ
鉄灰色の砂塵が一斉に舞い上がる。落雷のような衝撃を脳天から叩き付けられ、全身は為す術なく羽毛のように浮かび上がる。
意識を手放しそうになる寸前、真紅の瞳から一滴の涙が零れ出した。小さな玉となった雫の行方を追う眼差しと同じく、少年の意識は移ろい過去へと遡っていく。
あの日――、汗と恐怖とで全身を冷やしながら逃げ出していた。灼熱の閃光に骨までも焼かれ、魂さえも燃やし尽くされる思いがした。炸裂した火薬と黒煙と、そして血の匂いがいつまでも離れなかった。
少年はあの日から、何を求めていたのだろうか。
少年は今、何を望むのだろうか。
戦火に包まれる遠き故郷において、両親と妹の優しき笑顔を永遠に失ったあの日――。絶望の中で咽び泣き、孤独の闇を歩き続けてきた少年は今――。
少年の名はシン・アスカ。その心に何を欲し、何を手に入れたのか。
数限りなく問い続けてきた想いに、少年は如何なる答えを求めたのか。
そして何故、その答えを手放してしまったのか。
あらゆる葛藤と後悔が、少年の中で生まれては通り過ぎていく。
シン・アスカは、無重力の海へと放り出された。視界には無数の星々が煌めき、無限に広がる闇夜を照らしている。その光の一つ一つが、シンには自分を深淵へと誘う死者の魂に思えた。その内の幾つかは、やはり自分が葬り去った命なのだろうかと無意識に考えが浮かぶ。
瞬間、シンの身は強張り粟立つ。己が殺めてきた命の重さに身震いし、自らも死という断罪に打たれる予感に恐怖した。迫りくる死神の魔手から逃れたい一心からか、はたまた生ある人間の本能なのか、シンは自分自身を抱き締めるかのように身体を小さく丸めようとした。
しかし、恐れによる全身の硬直がそれを許さない。また先刻まで戦闘を繰り広げていた疲労が、脳から身体への指令を鈍らせる。シンは姿勢を不格好に歪ませ、次いで何処かへと引き寄せられる感覚を味わった。
（落ちる――）
天地が逆転した世界で、足下ではなく頭の方から奈落へと落ち行く絶望感。次の瞬間、シンの身体は肩口から吸い込まれるようにして地面へと落下する。僅かな重力に引かれて着地した震動の痛みも、頭脳を支配する恐怖には勝らない。シンは自分の身に何が起こったのか理解できず、ただただ横たわりながら漆黒の闇を見上げていた。
呆然と星の瞬きだけを見続ける視界を、不意に覆う影が現れる。とうとう死を告げる闇の到来かと、シンは今一度その身を強張らせる。そんなシンを労わるかのように、影はシンの頭を優しく抱き起した。
「シン……シン！ 生きてるのね？ ……よかった」
影が口をきいた。その声を聞いて、ようやくシンは我に返った。ヘルメット越しにシンの頭を包み込む腕の力も柔らかく、互いのバイザーを密着させて伝わる少女の声も聞き慣れたものだった。
「ル、ナ……」
バイザー越しに映る同年代の少女の顔を確かめると、シンは唇を震わせながら彼女の名前を呼ぶ。その相手ルナマリアは、シンを安心させるためにしっかりと頷いてみせる。
「ルナ……お、俺……俺は……負けた、のか？ 俺は……俺の、力はっ……」
虚しさのせいか、悲しみのせいなのか。はたまた怒りか、突きつけられた絶望によるものか。シンの声は震え、歯を鳴らす音に阻まれて上手く発音できないでいた。
ルナマリアはシンに何も言葉を返さない。瞳にいっぱいの涙を溜めて訴えかけてくる少年の哀れな姿を前にして、自分の言葉が如何に無力であるかを悟っていたのだ。
シンは戦いに負けた。かつて故郷が戦渦に巻き込まれた際、失意の中で咽び泣きながら力無き自分を呪ったシン。その手に全てを守る力を得たと確信したのも束の間、更なる大いなる力にシンは屈服させられた。
再び力を失い、迷いながらも築き上げてきた自信をも砕かれてしまった。打ちひしがれ、ただただ自らを抱き上げるルナマリアに縋るような視線を送ることしか出来ないでいる。暗闇の中で怯える幼子のような瞳に見詰められ、ルナマリアはその心を癒してやりたいと更に自分の胸元へとシンの頭を引き寄せる。震える背中を優しくさすり労わる様子は、正しく子供をあやす母親の姿であった。
惨めに思えた。同年代の少女に己の弱さを晒し、そして子供の様に扱われることが酷く惨めに感じられた。それでも今のシンには、ルナマリアの優しさに身を委ねることでしか自己を確かめる術が無い。悔しさと惨めさ、そして自分が今、確かに存在していることの証としてシンは声を荒らげて泣いた。
あれは遠い過去のはずだった。紅蓮の炎が舞い上がる恐怖の中を家族と手を取り合って逃げ惑い、そして全てを失ったあの日――。
あれから月日は流れ、新たな絆を手に入れた。大切な日々を二度と壊されぬよう、力を身に付けたはずだった。
またしてもシンは全てを失ったのか。否、初めから何も手に入れてなどいなかったのかもしれない。
あの日から自分は、少しも前へと進んではいなかったのではないかとシンは自問する。
暗い過去だと言い聞かせてきた悪夢は、未だ脳裏から消えてはいない。シンの背中にずっと纏わりつき、その足を留めさせていた。
心に悲しみを宿した小さな少年のまま、シンの時間は止まり続けていたのだ。
誰かが近付く気配があった。ルナマリアではない他の誰かが、自分の肩に手を置くのをシンは感じ取った。
その手の主を予感して、シンはますます体を縮こまらせる。その人物から顔を逸らすようにして。
「シン……」
震えるシンの背中を抱きながら、ルナマリアが声を掛ける。シンのことを気遣うようでいて、彼の背中を後押ししているようにも聞こえる。自分の側に立つ人物に顔を見せて応えるようにと促していた。
分かっている――。ここで自らに差し伸べられた手を拒んでしまえば、今度こそ二度と前へと進むことが出来なくなってしまう。シンはゆっくりとルナマリアの胸から顔を離し、首だけでその人物を見返った。
責められるかもしれない。詰られるかもしれない。許してなどもらえないかもしれない。様々な不安が去来し、その表情を曇らせながらもシンは最後の勇気を振り絞った。敗北した惨めな心に、ただ一かけら残っていた勇気を。
過去に打ちひしがれた心の上に、今やっと築き上げた力と自信。それらを打ち砕いた、その相手の顔を見るために。
両目に涙を浮かべ顔を歪ませながらも、真紅の瞳はその人物の顔を映らせる。全てを受け止めるかの様に静かに微笑む眼差しが、まっすぐシンへと向けられていた。
「アスラン……」
唇を震わせながら、シンはその人の名前を呼んだ。全てを失った自分を立ち直らせ、弱かった自分を導き明日への光を示してくれた恩人の名を。
そして今、過ちへと突き進もうとしていた自分の前に立ちはだかり、身をもって制止してくれたアスラン。全てを許そうという微笑みに見つめられ、シンはまた一つ涙を零した。
どうして、この人から離れてしまったのだろうか。この人の言葉に耳を貸さず、この人の信頼に背くような真似をしてしまったのだろうか。本当の意味で自分が過去と決別し、愛すべき世界を守っていく道はこの人と歩んでいく以外に無かったというのに。
シンは自らの裏切りを自覚した。決して裏切ってはならない人から離れ、その人から示された道を外れたことを今こそ悟り、謝罪の涙を心から流した。
その後悔の念が、シンの胸に一つの想いを蘇らせる。
――そうだ……俺は、この人を目指していたんだ。この人に付いていき、この人が作る世界を望んでいたんだ。アスランと、そして……。
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