綺麗だ――。
　細くて、小さくて、なめらかな指の一本一本に触れて、そう思う。
　この少女のような指から奏でられるメロディーもまた、綺麗な響きを作り出してオレの心を満たしてくれる。
　黒(Ebony)と白(Ivory)の上を走る朝陽の指が、今はオレの手に触れて、オレの心臓を打ち鳴らしていた。

　＊　＊　＊

　何だか、ヘンな感覚だよなぁ。
　こうして日本の大地を踏みしめている時の方が、故郷に帰った時よりもオレらしく思えるだなんて。
　一時的にロシアに帰国して、数日ほど向こうで過ごしてきた。アイドル活動の骨休みになった一方で、何か物足りないと感じていたのも事実。
　オレは、それを忙しい仕事のスケジュールから解放されたためだと考えていた。
　仕事から解放されたことで手に入った自由な時間に、なんとなく手持ち無沙汰になっているためだと思っていた。
　こうして日本に戻ってきて……仲間たちと再会したことで、気が付けたよ。
　オレが感じていた物足りなさは、彼らの存在だったんだ。
　同じ夢を目指すために集まった、かけがえのない仲間たちが側にいないこと……そのことが、オレの日常に足りなかったんだ。
　その仲間たちが待ってくれている日本の大地が、今ではオレのもう一つの故郷と思えるようになっていた。

「お帰り、ラビ。ふふっ、キミが戻ってくるまで『Ｉ♥Ｂ』をまとめておくのがタイヘンだったよ」
「待ってたぞ、ラビ。今日は、お前のためのパーティーだな。……オレも、こんな日ぐらいはハメを外したい」
「ラービー！　おみやげ買ってきてくれた？　ラビがいなかった間、話すことたくさんあるんだぜー？」

　温かく出迎えてくれた、同い年の仲間たち。
　ほんの数日の別れだったはずなのに、まるで何年も会っていなかった肉親と再会したかのような騒ぎようだ。
　夕食のテーブルには、ロシアでは見られないような日本の味を並べてくれた。
　乾杯用に、ノンアルコールのシャンパンまで用意してくれて。
　オレが持ってきた、何でもないような土産の品にだって、みんな大喜びしてくれた。
　大げさだって思うかな？　きっと会えない間、気が気でなかったんだと思う。
　オレが果たして、無事に日本へと戻ってこれるんだろうか。居心地のいい故郷を離れたくないと思いやしないかって。
　みんなの気持ち、分かるよ。オレも……同じ思いだったからさ。

「……どうした、朝陽？」

　オレを取り合うように構ってくれる三人の陰で、肩を小さくすぼめる朝陽に声をかける。
　ご馳走にもあまり手を付けていない様子で、時折こちらを窺ってはくるものの、なかなか会話には加わってこない。
　照れ屋だからなぁ。毎日顔を合わせていれば別なんだろうけど、久しぶりに会ったってことで緊張してるのかな？
　出来るだけ優しく名前を呼んでやると、朝陽も何かを言いかけるんだけど……。

「っ……い、いえ……」

　顔を赤らめて、うつむいちゃった。
　そんな朝陽に、オレだけでなくレオンとリュカまで視線を注いでいる。
　オレがいない間に、何かあったのか？
　見当もつかずに朝陽の恥じらう表情を見つめていると、ノアがそっと耳打ちしてくれた。

「朝陽は、照れているだけさ。もうちょっと待っててあげて。……大丈夫。ラビが帰って来るまでの間、毎日カレンダーとにらめっこしてたぐらいなんだ。朝陽だって、ラビが帰ってきてくれて嬉しいって思ってる。ただ、いざ顔を合わせると気恥ずかしいってこともあるだろう？」

　耳元から離れた、ノアのにこやかな笑顔に了解と感謝を短く伝える。
　そうだな。今日からはまた、同じ屋根の下で暮らすんだ。同じ学校に通い、同じ現場で働く……また、いつでも一緒にいられるんだから。
　パーティーの間中、朝陽の様子を盗み見ながら他の三人の相手をする。
　あっ……今、朝陽……オレが見ていないとおもって、油断したな？　あんなに嬉しそうに微笑んじゃってさ。
　その笑顔……もっと近くで見たいな。
　日本に帰ってきてから、まだちゃんと聞けていない朝陽の声……早く、聞かせてほしいな。

　＊　＊　＊

　パーティーが終わり、オレは一人で静かな夜を迎えていた。
　郊外だからかな……バルコニーに出てみれば、綺麗な星空が頭上に広がっている。
　みんな、もう寝ちゃったかな？　少なくともレオンは、はしゃぎ疲れてノアに部屋まで引きずられてたっけ。明日の朝は、さっそくノアとリュカの説教が聞けそうだ。
　朝陽……どうしてるかな？　オレがいない間、何をしていたのかな？　どんなことを考えて、オレを待ってくれていたのかな……？
　久しぶりに「Ｉ♥Ｂ」全員が顔をそろえた夜。全員で、もっと色んなことを語り合いたい。
　そう思う一方で、ただ一人と静かに語り合いたいと思う。
　いや、言葉なんて交わさなくてもいい。その人の存在を身近に感じて、その人の顔をただ眺めていられれば……。
　手の中には、包みが一つ。それを届けたい人への想いが、夜空へと吸い込まれていく。

　カタン――。

　ガラス戸の音がして、そちらを振り向く。
　パジャマ姿の朝陽が、戸の側に立ってオレを見ていた。
　手には、湯気の立つマグカップが一つずつ。オレがバルコニーにいるのを見かけて、お湯を沸かしてきてくれたみたいだ。

「……寒く、ないですか？」
「ははっ。オレ、ロシアから帰ったばかりだよ？」

　今の季節、日本でも夜は肌寒く感じるんだろう。でもオレの実家の辺りじゃ、夜はもう外に出られないくらいの寒さになるんだから。
　朝陽からマグカップを受け取りながら、短いやり取りを交わす。
　二人の間を行き交う吐息は、確かにうっすら白かった。
　隣に、誰かの温もりが欲しくなる夜。ちょうど顔を思い浮かべた、その誰かが隣に現れた。
　空の上から神様が見ていたのかな？　――アミン(アーメン)。

「……ちょうどよかった。朝陽に、渡したいと思ってたから」
「オレ、に……？」

　何のことだか分からないとばかりに、子猫のような目を見開く朝陽。
　オレは、備え付けられた木製のテーブルの上にマグカップを置くと、手の中の包みを開けて、中から四角い布を取り出す。

「みんなには、内緒な？　ほら……朝陽にだけ、特別のお土産だ」

　内緒だとか、特別だとか、口にするだけで胸が高鳴る響きだ。
　朝陽も同じなのかな？　白い頬に、ちょっとだけ色味が掛かった。
　取り出した布を広げてみせる。ロシアの伝統的な装飾品――プラトークだ。
　こういう伝統工芸品には、可愛い柄を許さないのが祖国(ロシア)のお堅いところ。無地の物を買って、姉(ナターシャ)に頼んで刺繍をしてもらった。
　五匹の猫の可愛らしい刺繍が、朝陽の目を引いたようだ。

「これ……オレに、ですか……？」

　目を丸くして尋ねた後、小さく「かわいい」と呟いたのを聞き洩らさなかった。
　朝陽の手も、マグカップをテーブルに置いて空っぽの状態。手渡すことも出来るけど、それだけじゃ勿体ない。
　せっかくのプレゼントだ。どうせなら、身に付けたところをすぐにでも見たい。
　パジャマのボタンが一つ外れて、寒そうな首元に巻いてやる。

「本来は頭に巻くんだけど……うん、イイね。こうして首だけに巻いても可愛いな。似合うぞ、朝陽」

　感触を確かめるようにして、首元に手を伸ばす朝陽。
　その表情からは戸惑いも窺えるけど、嬉しそうな笑顔の方が大きかった。
　唇の端を上げたまま、珍しく朝陽の方からオレの目を見つめてくる。
　少しだけ潤んで見える眼差しに見上げられると、心臓のＢＰＭが上がるのを自覚する。

「『ありがとうございます』は、えっと……スパシーバ？」

　オレからの贈り物に対して、朝陽がわざわざロシア語で感謝の言葉を言ってきた。
　その方が、よりオレに気持ちが伝わると思ってくれたのかな？
　なんだろう……「嬉しい」よりも先に「可愛い」って思ってしまう。
　はぁ……オレって、イジメっ子かな？　そんな可愛いトコロを見せられると、ちょっとしたイタズラ心が出てくる。

「ふふっ、朝陽にもっと似合う言い方があるよ。『スパシーバチキ』って言ってごらん？」
「スパシーバ……チキ？」

　意味が分からないまでも、オレが言ったとおりに繰り返す朝陽。
　頭の上で疑問符が飛び交っている朝陽にちょっとだけ顔を近づけて、言葉の意味を教えてやる。

「ロシアの女の子が、可愛く言う言い方」
「！　ヒ、ヒドイです……」

　ははっ、ゴメンって。泣くな、泣くな。
　からかわれたのが悔しいのか恥ずかしいのか、朝陽は顔中をピンク色に染めて視線を下げてしまった。
　贈ってあげたプラトークが女性用のファッションだと知ったら、もっと大泣きされてしまいそうだ。
　どうやって慰めてやろうかな。
　まだ微かに残るイタズラ心から、朝陽との距離を一歩近づける。
　朝陽が後ずさる前に両手で肩を抱いてやって、ふんわりとしたチェリーピンクの髪にそっと顔をうずめる。
　すっかり冷え切った髪の毛から、いい匂いが鼻を通っていった。

「悪かった。ほら、顔を上げてくれよ。プラトーク姿の朝陽……もっと、よく見せてほしいな」

　返事はない。
　顔は上げてもらえるどころか、ますます視線を下げられてしまう。
　それが、オレを拒む態度でないということは、よく分かっていた。

（思い出すな……朝陽と、初めて顔を合わせた日のことを……）

　オレたち五人は、元々はＳＮＳを通じて出会ったんだ。それぞれ違う国の人間同士が、出会ったこともない同士が心を通わせられることに、オレは感動を覚えた。
　そして、早くみんなと直接出会いたいという気持ちが高まっていった。
　ノアの呼びかけで集ったオレたち。白状すると、オレは朝陽と会えるのが一番楽しみだった。
　その朝陽は、オレの姿を見るなり視線を下げて震えだしてしまった。
　文章だけのやり取りであれば、あれほど相談を持ちかけてくれた朝陽。ＳＮＳ上では、あれほど礼儀正しかった朝陽のオドオドとした態度には参った。
　けど、それによってオレの中から朝陽への興味が失せるなんてことはなかった。
　上辺の態度からでは計り知れない、黎朝陽という少年の本来の心――既にオレは、それに触れていたのだから。
　だからこそ、朝陽が持つ繊細で優しい心を表面にも引き出してやりたいと思った。
　その手伝いをしたいと願った。
　今なら分かるよ。初めて出会った時、オレが想像以上にデカい図体をしてたから、驚いて上手く話せなかったんだよな？
　今ならもう、黙っていたって朝陽の気持ちが手に取るように分かる。

「……冷たい」

　唇を結んだままの朝陽。
　指先で首元のプラトークをいじっているのが、密着した体から分かる。
　その指先が、外の空気に触れて冷たくなっていることにも気づいた。

「大事にしなきゃダメだろ？　朝陽の指は、『Ｉ♥Ｂ』全員の宝なんだから」

　朝陽の頭から顔を離して、少しの傷もない十本の指に目をやる。
　その手を取って、オレの手のひらの温もりで温めてやる。

「あっ……」

　ようやく開かれた朝陽の口から漏れた声。驚きと戸惑いの中で、微かに喜びを含んだ声を耳にして、朝陽の指をさする手の動きが速くなる。
　細くて、まっすぐな指に触れる。小ぶりな丸い関節に触れる。綺麗に磨かれた爪に触れる。そのどれもが、心を打ち鳴らすほどに触り心地がいい。
　とても綺麗で、完成されたメロディーを奏でる朝陽の指。キーボードの上を滑っていく、しなやかな指。
　その指を見つめながら、その指が鍵盤の上で踊る様子を想像する。
　アクリル製のキーボードじゃない。高級なピアノに使われるような、象牙(アイボリー)の白鍵と黒檀(エボニー)の黒鍵だ。
　白と黒――人種の垣根を越えたエボニー・アンド・アイボリーを、アジア人の朝陽が弾くことに意味がある。
　朝陽こそが、多国籍の人間が集まった「Ｉ♥Ｂ」を一つにまとめられる神の手を持った男なんだ。

「……だいぶ、温まったかな」
「ラ、ラビさっ……」

　その温もりを確かめるために、朝陽の指先をオレの顔にまで持ってくる。
　朝陽の両手でオレの頬を包み込ませ、指先から伝わってくる繊細な温もりに安堵する。
　朝陽にも伝わってるかな？　寒空の下だっていうのに、オレの顔が熱くなっているの。
　オレの行動に頬っぺたをリンゴみたく真っ赤にしてる朝陽と同じく、オレにだって照れがある。
　オレたちの宝である朝陽の指を、独り占めしているという状況。
　嬉しさと気恥ずかしさから、オレも頬の紅潮を隠せない。
　その様子に、安心してくれたのかな？
　恥ずかしがっているのは、自分だけじゃないって分かってくれたのかな？
　朝陽の目が、オレの顔を見上げて細められている。
　子猫のように大きな瞳が、優しげに細められている。
　いつもはオレの方が朝陽の面倒を見ているのに、今では朝陽の方が「しょうがないな」ってカンジに笑ってる。

「ラビさんの頬っぺた……柔らかくて、温かい……」

　控え目にだけど、素直な感想を朝陽が言ってくる。
　オレの体なんて、どこもゴツゴツしてて硬いから新鮮だったのかな。
　もっと、色々な場所を朝陽に触れてもらいたい。
　頬に添えさせていた朝陽の手を取ってオレの背中に回し、オレ自身の腕も朝陽の細い腰へと伸ばす。

「ラ……！？」
「朝陽……今夜だけは、もう少しこのまま……このまま、朝陽の手でオレの体を弾いてもらいたい」
「…………はい」

　そっと背中を這う朝陽の指先の感触を受け取るたびに、オレの心臓の速さが変化する。
　朝陽の指でしか奏でられない、オレの命の旋律。
　朝陽が待つ日本に帰ってきたという喜びが生み出す、愛の鼓動。
　その鼓動を、ぴったりと胸にくっつけた朝陽の耳に伝えながら、この夜が永遠に続くことを星空に祈った。

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