朝陽の目が、二つの大きな背中を見つめている。
その背中が、遠ざかって小さくなっていくまで見送る。
片方は、同じグループのドラマー、ラビの背中だ。
とても温かくて頼りがいのある、いつでも追いかけていたい背中だ。
今日だけは、それを目にしておきながら、追いかけることが出来ずに見送ってしまった。
今、ラビの肩に親しげに手を回している、もう一つの背中を認めたために。
そのもう一つの背に一瞥をくれた朝陽が、口をとがらせている。
子供が拗ねる時にするような、普段の朝陽には見られない仕種だった。
「オレだって……ラビさんと……」
一緒に食事に行きたい、という言葉を飲み込んでうつむく。
もうすっかり視界から消えていった二つの背中――ラビともう一人、竜胆椿の会話が頭の中で繰り返される。
聞き慣れたラビの声が耳に入ってきた時には、朝陽も胸を躍らせて姿を見せようとした。
しかし、聞こえてきた声は一つではなかった。
ラビの声に答える椿の姿が目に入るや、二人に気づかれないよう咄嗟に物陰へと隠れてしまった。
自分の臆病な性格を恨みながら、すぐ近くを通り過ぎていく二人の会話に耳を澄ませていた。
「覚悟しとけよ、ラビ？ 今日は俺が納得いくまで、帰すつもりはないからな」
「怖いな……。けど、オレも中途半端で終わらせたくないからな。最後まで付き合うよ」
「よっし！ そうと決まれば行きつけのバーに行くぞ。あそこなら静かだし、遅くまでやってるしな」
「……日本って何歳から飲めるんだ？ オレ、十七歳なんだけど……」
「忘れてたわ……歳の割りに落ち着いてるし、貫禄あるからなぁ。相当、修羅場くぐってきてるだろ？」
「ま、まぁ……そこそこは」
「流石に未成年は入れさせてくれないか……。じゃあ、第二候補だ！ 美味い鍋をご馳走してやるよ」
「おっ、それは楽しみだな。どこへでも連れてってくれ」
耳に残るラビの楽しげな話し声が、少しだけ憎らしかった。
すぐ側に自分がいることにも気づかず、メンバー以外の人間と楽しそうに話している。
その声色も、何だか自分と話している時よりも弾んでいるようにさえ聞こえていた。
ラビと椿とが、グループの垣根を越えて仲が良いのは朝陽も前から知っている。
それにしても、最近はよく会っているような気がする。二人だけで食事に行く数も、増えているように思われる。
そのことに対して朝陽が出来るのは、ただただ深い溜息を漏らすことだけだった。
＊ ＊ ＊
一日経って、ますます考え込んでしまう。
最近、ラビと椿の二人が、やけに仲が良さそうに見えることについて。
それによって、ラビや朝陽が所属する「Ｉ♥Ｂ」内のコミュニケーションが上手くいってなかったり、バンド活動に支障が出ているわけではない。
事実は、朝陽が慕っているラビが、他のグループの人間とも交流を深めているということだけ。
それは、朝陽にとっても喜ばしいことのはずなのに。それを朝陽自身も分かっているはずなのに。
口をついて出るのは、憂鬱な溜息だけだ。
「……どうかしたんすか、朝陽？」
「えっ……何です？ 蛮さん……」
向かい側から声を掛けられて、ハッと我に返る朝陽。
昨日はラビと椿が一緒に夕食を摂ったようだが、この日は朝陽が別グループの蛮とランチを摂っていた。
二期生の十文字蛮は朝陽よりも二つ年下だが、アイチュウとしては先輩にあたる。
行き倒れている蛮に朝陽が食べ物を恵んで以来、こうして一緒に食事をする機会が何度かあった。
多くの場合、蛮の異常なまでの食べっぷりに朝陽は圧倒されてしまい食欲が削がれることもあるのだが、大らかな性格の蛮はそんなことを気にしたりはしない。朝陽にしても、蛮を相手にしている時は必要以上に思い悩むこともなかった。
その二人の食事風景にしては珍しく、空気が重い。
蛮も、いつも以上に少ない朝陽の食事量に心配そうな視線を送っていた。
「だって朝陽、さっきから全然手ぇ付けてないっすよ？ いくら中国では料理を残すのがマナーだからって、食べなさすぎっす！」
「あ……」
昨夜から、ずっとラビと椿のことが胸を行き来していて、他のことに頭が回らなかった。
そのため、朝食にも手を付けられず、いまいち元気も無かった。
底抜けに明るい蛮と食事でもすれば気分も変わるかと思ったが、その食事中でさえ考え込んでしまっていたようだ。
慌ててフォークを動かそうとするが、口元まで運ばれることはなく皿の中のパスタをひたすらかき回すだけだった。
結局、注文した料理はほとんどノドを通らずじまい。砂糖とクリームを多めに入れたカフェラテを流し込んだだけで店を出た。
朝陽が残したパスタは無事に蛮の胃袋に収まったが、気持ちの方は治まらない。
朝陽の悩みも、蛮の心配も。
「朝陽、何かあったなら打ち明けてほしいっす！ 俺に出来ることなら、相談に乗るっすよ？」
「蛮さん……。ありがとう。でも……」
胸の内を巡る悩みを打ち明けるということは、密かに秘めたラビに対する想いまで話すということ。
まだラビ本人にも告げていない言葉を、他の人の耳に入れるのは気が引けた。
悩みを打ち明けそうな素振りを見せない朝陽に、蛮も焦れた様子で詰め寄る。
「……朝陽、話すだけでも気持ちが楽になることだってあるっすよ。俺、ライブの前に不安とか緊張とか感じてても、マスターや澪に聞いてもらえるだけで胸がスーッとなってリラックス出来るんすから！」
言い終えると、ニッと笑って朝陽を元気づけようとしてくる蛮。
そこまで気に掛けてもらえていると分かると、断るのが返って悪いとさえ思えてくる。
ふと見れば、蛮が自身の耳を指先でチョンチョンと指している。
面と向かって話すのが恥ずかしいのであれば、こっそりと耳打ちしてくれという合図だ。
「……ありがとうございます。実は――」
うっかり自分の恋慕を口にしてしまわないよう、話す内容を何度も心の中で繰り返した後に蛮の耳元に顔を近づける。
ラビと椿の仲が、最近特に良くなったこと。
同じバンドの一員として、二人が何をしているのか、どんな話をしているのか気になっていること。
そんなことを気にする自分を、恥ずかしく思っていること。
つっかえながらも全部話したことで、確かに心に重くのしかかっていたものが軽くなった気がする。
もう少しだけ、待ってみよう。もう少しの間、ラビの様子を見守ろうという気持ちが芽生えていた。
今日のところは、それだけでも満足だと考えていた朝陽。その朝陽の手を、蛮が強く握ってきた。
珍しくマジメな表情に言葉を失っていると、今度は蛮の方から朝陽の耳元に囁き返してきた。
その内容にうっすらと微笑みながら、朝陽が蛮の手を握り返す。
少し離れたところから二人を見つめる、ラビの視線に気が付かぬまま。
＊ ＊ ＊
「帰りましたぁ……」
玄関の鍵を回して、中を覗き込むようにしてから朝陽が家の中に入った。
「Ｉ♥Ｂ」メンバーが共同生活している家の中は、やけに静まっていて人のいる気配が無い。
まだ誰も帰っていないのか、と思うと心細さを感じてしまう。朝陽は、駆け足で階段を上って自分の部屋を目指した。
その足が、ふいに止められる。
朝陽の部屋の前――そこで待ち受けていた人物の顔を見て、朝陽は身をすくませるようにして立ち止まってしまった。
「……おかえり、朝陽」
迎えてくれたのは、いつもと同じ笑顔。
今朝も「おはよう」と挨拶を交わしたラビの笑顔だ。
その笑顔が、自分の部屋の前で待っていた。息をひそめて、わざわざ部屋の前で待っていた。
その異変に、朝陽は言葉を返すのを忘れてしまった。無言で立ち尽くす朝陽の姿が、ラビの心を騒がせる。
引っ込み思案の朝陽でも、兄弟のように仲の良いラビに返事もしないということは滅多にない。
何故――朝陽の反応に、そんな言葉が浮かんでくる。
普段のラビであれば、いつもの冷静さがあれば朝陽の心を推し量ることも出来ただろう。
昼間に目撃した光景から余裕を失くしていたラビの目には、朝陽が後ろめたさを感じているために自分に答えないのだと映っていた。
「朝陽……」
笑顔を保ったまま、廊下を朝陽の方へと歩いていくラビ。
その全く笑っていない笑顔が、朝陽に小さな恐怖を抱かせた。
表面上はいつものラビなのに、その裏側はまるで違う。いつも朝陽と接している時のような、優しい思いやりに欠けていた。
ラビの冷たい笑顔に、朝陽は底冷えしていた。
恐怖から背を向けて逃げ出すことも出来たが、朝陽もそれだけはしたくなかった。
常に自分を近くで守ってくれていたラビから逃げ出すことだけは、絶対にしたくなかった。
それなのに、自分に向けられるラビの笑顔から、いつもの優しさを感じられないのは何故なんだろう。
とうとう体が触れ合うくらいの距離にまで朝陽に迫ったラビが、声を低くして尋ねてきた。
「今日、街で……朝陽を見たよ。誰かと……一緒だったよね？」
「……っ」
「すごく、仲が良さそうに見えたなぁ……。ねぇ、何を話してたんだい？ こんな風に手まで握ってさ……」
素早く伸ばされたラビの手が、朝陽の小さな手を掴む。
朝陽が思わず「痛いっ」と短く呻いてしまうほど、その力は強かった。
触れるたびに安心と温もりを与えてくれたラビの手が、初めて朝陽に苦痛を与えていた。
痛さから顔を歪める朝陽を見て、ラビも反射的に握る手を緩めてしまう。
それでも全てを聞き出すまでは、この手を離すつもりはない。
二人の手をしっかりと繋いだまま、怯える朝陽の顔に迫る。
「なぁ……何を話していたのか、オレには教えてくれないわけ？ 蛮には話せることでも、オレには話せないのか？ いつもだったら、何だって話してくれるのに……。これまで……その場所は、オレのものだったのに……」
「……！」
ラビの言葉が、痛烈に朝陽の心臓に突き刺さる。
普段はあんなに温厚で面倒見の良いラビが、まるで脅迫するように自分に迫ってくる。
それに対して朝陽は、一言も返せないでいた。
ラビが目撃してしまった、蛮との内緒話。その内容が、他でもないラビに関することであるために。ラビに対する複雑な想いであるために。
その想いを、ラビ本人に正直に話すのが躊躇われた。
いつもと様子の異なるラビに対しては、なおさらだった。
「オ、オレ……。ラビさん、オレ、は……」
「……ウソは許さないぞ？ 怒らないから……本当のことを言ってごらん？」
はぐらかそうとした考えは、簡単に見破られてしまった。
またしても、ラビの手に力が込められる。
握られた箇所に痛みを感じる暇もなく、視線をあちこちへと泳がせて、朝陽は心臓を爆発させながら言葉を選んでいた。
心の中であれば、素直に何でも言える。
ラビを欺こうとしたことに対する謝罪も、自分が蛮に打ち明けた内容も。
ここ数日、食事もノドを通らなくなるくらいラビが好きだということも。
それを言い出せずに、朝陽は怯えきっていた。
「っ……！」
歯をカタカタと鳴らして怯える仕種に、ラビもついイライラしてしまう。
それは、初めての感情だった。
普段から朝陽の怯え癖を心配することはあっても、苛立ちを覚えたことなど一度もない。
ラビが苛立っているのは、自分に対して真実を言ってくれないという点。自分に心を開いてくれない態度だ。
自分よりも後に出会った蛮の方を、より信頼しているのだろうか。より男として頼りになると思っているのだろうか。
自分よりも、彼の方が好きなのだろうかという勘繰りが、ラビから冷静な判断と余裕とを奪っていた。
そこから来る苛立ちが、朝陽の心にも伝わった。
「ラ、ビ、さ……」
自分を見上げてくる朝陽の瞳から、一筋の光が零れ落ちていった。
それを見た瞬間、ラビの体から一気に力が抜けていく。握っていた朝陽の手も、あっさりと解放してしまった。
自由を取り戻した朝陽は、涙を拭うこともせずにラビの脇をすり抜けて自分の部屋へと飛び込んでいった。
それを目で追うのも忘れて、ラビは立ち尽くしていた。
バタン、という音が耳に入っても思考は止まったまま。
真っ白になった頭の中で、朝陽の泣き顔だけが消えずに残っている。
この世で一番見たくない光景が、瞼の裏に焼き付いていた。
その光景を作り出したのが自分自身なのだと自覚すると、ラビもまた後悔の涙を流した。
「……バカ野郎……」
涙を噛みしめながら呟いても、時計の針は戻らない。
何故、朝陽の心を信じてやれなかったのか。
朝陽と蛮がどんなに仲良くしていようとも、ラビには分かっていたはずではないのかと。
ラビが日頃から向き合っている朝陽の心が、誰に対して一番強く向けられているのか。
これまで朝陽と一緒に過ごしておきながら、どうして自分が一番だと信じられなかったのか。
その情けない心を殴りつけるつもりで、ラビの握った拳が自らの胸を強く叩いた。
＊ ＊ ＊
暗い部屋の中に逃げ込んでドアを閉めた途端、大きな後悔が朝陽を襲った。
どうしてラビの前から逃げてしまったんだろう。
一言も謝ることをせず、どうして逃げ出してしまったのか。一番、逃げたくない相手から。
今さら引き返したところで、ラビが許してくれるかも分からない。
無言で泣くことしか出来なかった自分を、果たして許してくれるのだろうか。
「…………」
朝陽には、知るすべもなかった。
廊下で立ち尽くすラビが、朝陽の涙を見せつけられて打ちひしがれていることを。
その涙に、自分の猜疑心を責められているような気がして沈み込んでいることを。
けれど、朝陽の中にはラビを責める気持ちなど少しも無い。
むしろ朝陽こそ、ラビから責められているのだと感じていた。
自分がラビに、本当のことを打ち明けなかったせいで、返事もせずに怯えていたせいで、ラビを怒らせてしまったと朝陽は考えていた。
零れ落ちた涙は、自分のせいでラビを怒らせてしまったという悲しみから。
ラビを怒らせた上、そのラビを置いて逃げ出してしまった。
そんな自分に、ラビと顔を合わせる資格があるのだろうか。
「……ラビ、さ……」
閉められたドアにすがるようにして、朝陽は胸の奥から想いを吐き出す。
今、一番伝えたい言葉を声に出す。
例え本人には届かなかったとしても、これだけは言っておきたかった。
「ごめん、なさい……。ラビさん……ごめんなさい」
涙でくぐもった声を、ドアに染み込ませる。
後はもう、泣きじゃくることしか出来ない。
その朝陽の泣き声をかき消すような言葉が、ドアの向こうから聞こえてきた。
「ごめん……。それを言うのは、オレの方だよ……朝陽」
ドア越しで顔は見えない。
けれども、感じられる温もりは、いつものラビのものだった。
もう、偽りの笑顔で素顔を隠してはいない。
暗闇の孤独の中、自分が今一番求めている温もりを朝陽は感じていた。
その温もりに安心して、朝陽の手がゆっくりとノブを回した。
＊ ＊ ＊
「ごめんなさい。オレ……」
「謝らなきゃならないのは、オレの方だって。朝陽のことを……疑うなんてさ」
灯りを点けた朝陽の部屋の中、向かい合いながら床に座る二人。
まだ、ぎこちなさはある。それでも、二人とも自分の本心を見せたいという気持ちを持っていた。
変な勘繰りは止めて、相手への純粋な想いだけを語ろうとしていた。
そのラビの本心から出た言葉に、朝陽は目を丸くした。
「うたが、う？」
「オレ……朝陽と蛮が仲良くしているのを見て、さ……そう、嫉妬したんだ。メンバーにだって、あんな風に甘えてるのを見たことがない朝陽が、蛮には甘えるんだ……って思って。バカだよな……朝陽が、オレたち以外の人とも怯えることなく話せるよう……仲良くなれるよう……ずっと、それを望んでいたはずなのに」
いつになく落ち込んで話すラビの言葉に、朝陽はハッとさせられた。
まるで、自分の胸の内を言い当てられたような気がして。
自分は蛮に対して、特別な感情は抱いていない。けれど、ラビの目には特別の仲のように映っていたようだ。
朝陽もまた、同じ光景を見ていた。
ラビが「Ｉ♥Ｂ」以外のメンバーと会って話していることに対して、特別の仲ではないかと勘ぐってしまった。
「それ……オレも同じ……なん、です。オレ……オレ、ラビさんがこの頃……一期生の椿さん、と……仲が……良いから……」
「オレと……椿が？」
言いづらそうにしながらも、胸の奥に引っかかっていた想いを朝陽が打ち明ける。
ラビが話してくれたのに、自分だけ話さないわけにはいかない。
もうこれ以上、ラビから逃げたくはなかった。
それを打ち明けられて、ラビも衝撃的だった。
確かにラビと椿は、接点の少ない一期生と三期生にしては気が合う方だ。
それはラビも自覚しているし、互いに面倒見の良い性格から苦労を分かち合えるという点でも、椿と話すのは楽しかった。
しかし、それをどうして朝陽が気に病む必要があるのか。
何故、二人の仲が良いことを本人に話すのが嫌だったのか。
様子を窺うようにして朝陽の顔を覗き込むと、顔を真っ赤に染めながら朝陽がポロポロと涙を零すのが目に入った。
「だって……だって……オレ、怖かったんです。ラビさん……ラビさんを……取られちゃうと、思ったから……」
切れ切れに話す朝陽の言葉の一つ一つが、ラビの胸を引き裂く。
ラビも、ようやく朝陽の気持ちに気が付いた。
ここ数日、ある理由から椿とは以前にも増して会う機会が多かった。
そのことについて、朝陽はヤキモチを妬いていたのだ。
ラビには、その気持ちがよく分かった。
自分もまた、朝陽の隣を蛮に奪われるのではないかと恐れ、余裕を失くしてしまった。
朝陽も同じように、ラビの隣という自分だけの居場所を椿に奪われてしまうのではないかと悩んでいたのだ。
「あ……これは、完全に……オレのミスだ」
ラビが信じてあげられなかったのは、朝陽一人ではない。
大切な仲間である「Ｉ♥Ｂ」のメンバー誰一人にも相談せず、自分の判断だけで突っ走ってしまったことを反省した。
＊ ＊ ＊
朝陽の濡れた頬も目じりも綺麗に拭ってやって、朝陽が落ち着きを取り戻したのを見計らってラビが説明をする。
メンバーに黙って進めていた、椿との計画を。
「ごめんな、朝陽……。ちゃんと話すよ。椿とオレが話していたのは……ライブについてなんだ」
「ライブ……？」
「あぁ。椿たちのグループ『天上天下』のステージは、歌と踊りだけで音楽はあらかじめ録音したものを流してるだろう？ それを、オレたちに演奏してほしいって口説かれてたんだ。『天上天下』の和のステージを、あえて外国人の『Ｉ♥Ｂ』に任せたいって言ってくれた」
そんな話があったなんて、朝陽は初耳だった。
リーダーであるノアからも、事務所のプロデューサーからも聞かされていなかった。
ラビが「Ｉ♥Ｂ」のまとめ役だと見抜いたからこそ、椿はまず初めにラビに接触したのだろう。
ラビから、「Ｉ♥Ｂ」メンバーを説得してもらうために。
「もっと、話がちゃんと具体化してから話そうと思ってたから……つい、言いそびれちゃったな。そのことで、朝陽をこんなにも苦しませるなんて思わなかったから……本当に、ごめん」
朝陽の瞳が、「そんなに何度も謝らないで」と言いたげに揺れた。
ラビの行動、ラビが抱えていた秘密は、結局は「Ｉ♥Ｂ」のことだった。
誰よりも仲間を大事にする、いつものラビだったのだから。
「聞かせて、ください……。ライブの話……。ラビさんが、オレたちのことを考えて進めてくれてた話……聞きたい、です」
「……うん。オレも、椿から聞けば聞くほど面白いって思えるようになった。和の舞台っているのは、そもそも演奏を担当する
「オレたちの……可能性？」
「あぁ。一期生の先輩が、相当期待してくれてるみたいだぞ。オレたちのことを、椿が……何て言ってたっけなぁ……確か『ガリョウホウスウ』……だったかな？」
「臥竜鳳雛……『三国志』に出てくる言葉、です。とても優れた能力を持っているのに、まだ世の中に知られていない人を指す言葉……って、オレたちが！？」
「ははっ、嬉しいな。その期待に、応えてやらなくっちゃな」
ラビの口から、素直な笑い声が飛び出す。
椿が言ってくれた言葉の意味が理解できると、そこに込められた想いの深さがいっそう染み渡っていくように感じられた。
臥竜鳳雛という言葉が最も似合うのが誰だったのか、言葉の意味を知る前からラビには分かっていた。
全ては、その人のために椿の誘いを受け入れたのだから。
「オレ……朝陽の演奏を『天上天下』のファンにも知ってもらいたいって思ったから、この話を受けたんだ。だから、キーボードを一番活かせる曲について、椿と何度も何度も相談していたんだ。椿は、和のテイストは絶対に外せないって言うし、オレはオレでキーボードを目立たせたいしで……納得のいく音楽が出来るまで、椿と何度も会って話してた」
「キーボード……オレの……ため、に？」
「でも、それはオレの独りよがりだったな。朝陽のためだと言っておきながら、その朝陽を傷つけてしまった。朝陽に……ヤキモチを妬かせちゃった」
「ヤキモチ……」
「あぁ。それなのに、オレまで朝陽にヤキモチして、さっきみたいに詰め寄って怖がらせたことは、本当に謝る。でも……一つだけ聞かせてほしいな。どうして朝陽は、オレにヤキモチ妬いたんだ？」
その理由は、さっき泣きながら伝えたはず。ラビを椿に取られたくないからだと。
ラビが聞きたいのは、どうして椿に取られると思ってしまったのか。どうして、椿に取られたくないのかの理由だ。
ただの友達であれば、こんな風には思わない。こんな風に妬いたりしないはずなのに、どうして朝陽はラビのことを友達以上に妬いてしまったのか。
咄嗟には答えられない朝陽に代わって、ラビが自身の想いを告げる。
ラビもまた、蛮に朝陽を取られるのではないか、朝陽が蛮に好意を寄せているのではないかと疑った。
その理由を――。
「オレが妬いたのは……朝陽が好きだからだよ」
心の中に染み込んでくる、短い言葉。
それが聞けることを、ずっと願っていた。
叶わないと思いながらも、今日までずっと待っていた。
「好きだ」という簡単な言葉が、朝陽の心を温かい涙で濡らした。
朝陽は、今こそ蛮に囁かれた内容を思い出し、それを信じようと思った。
蛮もまた、ヤキモチ妬きのメンバーの姿を側でよく見ている。
だからこそ、知っていた。
ヤキモチを妬くという行為は、それだけ相手のことを想っている証拠なのだと。
そして、ラビに妬いている朝陽の想いが、きっとラビにも通じているはずだと信じてもいた。
蛮がよく知っている二人の仲を、側で見ているために。
蛮が慕うマスター――エヴァが、澪をどれだけ愛しているか知っているために。
そのことを蛮から教えてもらっていた朝陽には、ラビの言葉がどれだけ重くて、どれだけ純粋なのかも分かった。
朝陽のラビに対する想いもまた、同じくらい純粋で、同じくらいの重さがあった。
「……同じ……です。オレが……や、妬いてたのも……ラビさん……ラビさんの、こと……が……」
それ以上先を告げようとすると、胸が締め付けられて焼けるように熱い。
震える唇が、どうしても開かない。
けど、想いだけはどうにかしてラビに伝えたい。
そう思ってラビの顔を見ると、ラビが指先で自らの耳元を指しているのに気づいた。
そのジェスチャーに対して朝陽がうなずいてみせると、ラビの腕が朝陽の体をそっと抱き寄せる。
ラビの胸にすっぽりと収まった朝陽が、小さな勇気を抱いてラビの耳元へと唇を寄せる。
「ラビさんの……ことが――」
広い世界の中で、ラビにだけ聴こえたメッセージ。
それを伝えたい相手が一人だけである以上、その人にだけ届けば朝陽は幸せだった。
ラビもまた、消え入りそうな声をはっきりと受け取って、朝陽を強く抱きしめる。
力強く抱いた腕の中の小さな温もり。この温もりだけは、決して手放すまいと思った。
朝陽が告げてくれた想いを、今度こそ疑ったりしないと心に誓った。
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