「あれ？ カノジョかと思ったけど…もしかして、カレシ？ まぁ…こんだけ可愛けりゃ、どっちでもいーか」
休日の街中。黎朝陽は、かつてないほどの恐怖に震えていた。
行く当てがあったわけではない。自分も、たまには寺を回るだけでなく、年頃の少年たちと同様に街へと繰り出してみようと思っただけだ。
ショップのウィンドウに背中を預けて、行き交う人々の流れを見るとはなしに眺めていた。
そこを、見知らぬ若者に声を掛けられたところだ。
それがナンパ目的だというのは、すぐに分かった。
ナンパ好きなバンド仲間のレオンが、女性に声を掛ける時の調子と非常によく似ていたから。
それでも、まさか男の自分に声を掛けてくるとは思わなかった。
相手も顔をよく覗いてみるまでは、朝陽が男だと気づかなかったみたいだ。
目深に被ったキャップと、長い三つ編みの後ろ髪のせいだろうか。
まだまだ見習いのアイチュウとはいえ、芸能人が街中に出る時は変装するものだと出がけにレオンが言ってきた。
そのレオンから借りたキャップが、仇となったようだ。
視線を下げ、服の胸元を両手できゅっと握り締めながら、全身を震えさせる朝陽。
ニヤついた男の顔が、朝陽の顔を下から覗き込もうとする。
その動きを制止するように、背後から近づいた影が男の肩を強く掴む。
「って！ 何しやが…」
噛みつくように吠えながら振り返った男の顔が、一気に真っ青に変わる。
一八〇センチを超えるロシア人が、碧い瞳を怒りで真紅に染めて見下ろしていた。
「お前…誰の連れに手ぇ出してんだ？」
「え…あっ、カノジョ…あ、いやっ、カレシ、お兄さんの連れっすか？ い、い、いや、僕は…何も……そう、道を聞いただけっすよ！ もう解決しましたんで、そんじゃっ…」
見た目とは裏腹に、はっきりとした日本語で威圧してくるロシア人の迫力は凄まじかった。
へどもどと弁解しながら、ナンパ男は逃げるようにしてその場を立ち去っていく。
人混みの中に消えていっても、怒りの瞳はしばらくその方角へ刺すような視線を放ち続けていた。
「あの…ラビ、さん？」
怖々と名前を呼ばれて、ハッとする。
声のした方へ視線を向けてみれば、怯えたような困ったような目が震えながら自分を見上げていた。
見知らぬ人間に顔を迫られた恐怖が残っているのだろうか。
それとも、普段は見せたことのないラビの表情や声色に驚いているのだろうか。
我に返ったラビは、殊更おどけた調子で朝陽に声を掛けた。
「こ……怖かったぁ…朝陽を助けたいと思ったら、あんな顔や声も出せるんだなぁ」
いつもの表情。
朝陽を心の底から思いやっている、優しいラビの笑顔。
それがラビの本当の顔なのだと、朝陽も微笑みを取り戻した。
「は、はい…助けてくれて、ありがとうございます。…ふふっ、ラビさん、きっといい役者さんになれます」
初めて目撃したラビの一面が、果たして演技なのか。それとも本性なのか。
後者だとは、少しも疑わずに朝陽はラビを笑顔で見上げている。
その笑顔に、ラビの胸がズキリと痛む。
騙しているわけではない。
話す必要のない過去だというだけだ。
自分の心にそう言い聞かせて、笑顔を絶やさぬよう心掛けながらラビが朝陽へと近づく。
「朝陽のためなら、いつでも白馬の騎士になってみせるさ。…怖い目見なかったか？ 何もされなかった？」
「は…はい。声を掛けられただけなので、どこにも触られてないですし…」
もし触られてるところを目撃してたら、あんな脅しでは済まなかった。
そんな思いが口に出そうになるのを抑えて、一息吐き出す。
心を落ち着かせて、考えよう。今、朝陽に掛けるべき言葉を。
「言ってくれれば、一緒に出掛けたのに…。もう、用事は済んだのか？」
「はい…あ、いえ…元々、用事や目的があったわけじゃ、ないので…」
「…なら、もう少し静かな所へ移ろうか？ もう、怖い思いはしたくないだろう？」
「……はい」
自分の提案に頷いた朝陽の背に手を添えて、移動を促す。
これから後は、家に帰るまでずっと自分が一緒だ。
もう何も、朝陽を怖がらせるものを近付かせたりしない。
自分が付いていることの安心感を与えようと、朝陽に穏やかに微笑みかけるラビ。
その瞳の色は、どこまでも誠実で、博愛に満ちていた。
その碧眼に魅せられていた朝陽が、ハッと気が付く。
「あっ…ラビさん！」
「ん？」
どこか落ち着ける場所へと考えていたラビを、朝陽が制止する。
朝陽からも何か提案があるのだろうかと、笑顔で聞き入れる態勢を作る。
そのラビの顔の前に、朝陽が被っていたキャップを脱いで差し出してきた。
「芸能人は、外に出る時は変装しなくちゃいけないそうです。あの…これ、どうぞ」
「…ありがと。でも、それだと朝陽の顔がバレちゃうよなぁ…」
受け取ったキャップを被りながら、わざと思案するフリをするラビ。
朝陽も目をパチパチとさせながら、軽く戸惑う感じでラビを見上げる。
その朝陽の髪の毛に、ラビの大きな手が触れてきた。
「ふふっ。じゃあ、こうしようか？」
柔らかな髪の毛に指を埋めて、自分の胸元へと引き寄せる。
朝陽の頭が、ラビの厚い胸板にストンと受け止められる。
軽く驚きはしたが、すぐにラビの意図が分かった。
朝陽も目を細めて、ラビの胸に顔を寄せる。
こうしてラビの体に隠してもらえば、帽子が無くとも朝陽の顔は見られないということだろう。
それに、これなら他の男に声を掛けられる心配もあるまい。
ラビの匂いを大きく吸い込みながら、朝陽がラビの背中に軽く掴まる。
ラビも朝陽の頭から手を離して、朝陽の肩を抱く。
二人寄り添った形で、静かに雑踏を離れていった。
＊ ＊ ＊
夜を迎えた。
風呂から上がったラビは、部屋の中に一人でいる朝陽を見つけた。
ガラス戸の側に椅子を持ってきて座り、カーテンの隙間から外を眺めている様子だ。
「…何、見てるんだ？」
うっすらと微笑みながら夜空を見上げる横顔が、何だか神秘的な美しさを醸し出しているように見えた。
一瞬、声を掛けるのが躊躇われるほどに。
動揺を抑えながら、ラビが朝陽に近付く。
それに気が付いた朝陽は、カーテンを少しだけめくって空を指差した。
「ラビさん…見てください。綺麗ですよ？」
「月か…満月だからかな？ すごい明るさだ」
朝陽の顔から視線を外して、言われるまま見上げた夜空に大きな丸い月が浮かんでいる。
いつもは青い光をぼんやりと灯しているだけの欠けた月が、今夜は見事な円形を描いて黄金色の光を放っている。
その満月の周囲の空だけが、まるで昼間であるかのように白く輝いて見えるほどに。
「月明星稀…」
「ユエ…？」
朝陽がつぶやいた言葉を、反射的に聞き返そうとする。
何と言ったのだろうか。彼の祖国である中国の言葉のようにも聞こえた。
視線を月から朝陽へと戻したラビを振り返って、朝陽が目を細める。
月の魔力がさせるのか。朝陽の表情に、湯から上がって冷め始めたはずのラビの体が火照り出す。
それに気付いているのか、いないのか。朝陽は、穏やかな口調で自分がつぶやいた言葉の意味を説明する。
「月明らかに星稀に…月の光があんまり明るすぎて、周りの星の光が隠れてしまっています」
朝陽の側まで寄って、ガラス戸の向こうを見上げてみる。
確かに朝陽の言う通りの景色が観測できた。
すぐ隣にある朝陽の顔を盗み見ると、うっとりとした目で明るい満月を見ている様子だ。
速くなっていく心臓の音に、ラビは朝陽の顔を見続けるのを怖いとさえ感じていた。
そんなラビの心境に気付くことなく、朝陽は静かに話し続ける。
「あの大きくて明るい月が…ラビさん。オレは、その光を隠れ蓑にしている、臆病な星…。今日も、ラビさんの体に隠してもらっちゃいました」
「あ…あぁ、あれは…」
自分が勝手にやったこと。そう言おうとしたラビを、珍しく朝陽の方から遮ってくる。
穏やかな瞳に夜空を映しこんで微笑む朝陽の顔に、ラビも思わず口をつぐんでしまう。
ラビに伝えたい想いがある。
そんな瞳に見つめられて、ラビは朝陽の言葉を静かに待った。
「…いつまでも、ラビさんに守ってばかりじゃダメ。分かっているのに…それなのに…オレは、ラビさんを頼ってばかり。ラビさんの側が…心地良いから。ラビさんの光が…とても、温かいから。オレは、いつまでも、その光を浴びていたい。一番近くで、ラビさんの光を見ていたいです」
言葉だけ聞けば、自分の成長を諦めてしまったようにも受け取れる。
けれど、ラビには分かっていた。
朝陽の瞳には、しっかりとした意思が込められている。
決して自分の弱さに負けてはいない。
それを受け止めた上で、どうすればラビと共に立つことが出来るか――その方法を見つけられたという強い意思を、ラビも感じた。
「それは…月明かりに消されてしまう星とは違う。オレは、夜來香になります。他の花が眠っている夜、月の光に照らされて匂いを放つ夜來香の花に…」
朝陽が語ってくれた想い。
ラビはそれを、ラビの側から離れないという告白と受け止めた。
それは、ラビに守ってもらうためではない。
ラビという強い光に隠れるためではない。
ラビの隣に立って、自分自身もいっそう強く輝くために。
消え入りそうな自分の光が、ラビの隣に立つことで明るく輝けると信じて。
「なら…その香りを楽しませてくれないか？ オレのためだけに、朝陽の香りを漂わせてほしい」
月を見上げる朝陽の顔や瞳が、どうしてラビの胸を速く打つほどに美しいのか。
その理由をラビも悟っていた。
朝陽が、満月を通して何を見ていたのか。それに気が付いていた。
朝陽が自分で言った通り、それを側で見ている時の朝陽には新たな魅力が備わっていた。
その魅力を、一番近くで堪能したい。
今宵だけは、自分だけのものにしたい。
朝陽の想いに応えるべく、ラビが朝陽に顔を寄せていく。
その眩い光に魅せられて、朝陽もゆっくりと目を閉じる。
月に恋する夜來香。
ラビの温かな唇が、朝陽の小さな紅い花唇に口づける。
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