その日、エトワール・ヴィオスクールの和室では、それぞれ国籍の違う三人が集まっていた。
　慣れた手つきでお茶を点てているのは、和の雰囲気からは遠い金髪碧眼の少年。
　その少年――ノアが差し出した湯呑みを受け取った大柄の青年が、さも美味そうに中身を飲み干す。

「いいぞ、ノア！　お前も和の心を知ってるな！」
「サンキュー、椿。日本人の中でも和に精通したあなたに褒められるのは嬉しいよ」

　相好を崩した青年――椿からの素直な称賛に、ノアもまた正直な笑みを浮かべた。
　両者のやり取りを端で眺めながら、ゆっくりと湯呑みを傾けるのは中国出身の朝陽。
　街のカフェをよく巡っている朝陽にとっても、ノアが点てたお茶は格別の味わいだった。
　午後の授業も全て終わった後の和室。心を満たしてくれる至福の一杯。その場に流れる穏やかな空気そのままに、三人は談笑を続けていく。

「十夜が昔、茶道部だったって話はしたっけか？　アイツが淹れた茶も飲んでみてくれよ」

　自分のことのように椿が誇らしく語るのは、公私にわたる彼のパートナー十夜の話だ。
　ノアの手並みを称賛した椿が胸を張るからには、十夜の茶道も大したものなのだろう。ノアも朝陽も自然と目を細めた。

「なるほど。彼の淑やかな所作は、茶道を嗜んでいたところから来ているのかな？」
「十夜さんは、お茶についてすごく詳しいです。オレのことを、よくカフェに誘ってくれますけど、とても勉強になります」

　朝陽の瞳が輝き出す。その瞬間を椿は見逃さなかった。
　椿のように大柄で強面の相手には、どうしても委縮してしまうことのある朝陽だ。
　その朝陽が自分から話してくれたことに対して、椿も快活に笑って応えた。

「そいつはいい。俺じゃ、どうしても十夜がよく行くような店は似合わないからな……これからも、アイツの相手をしてくれよ？」
「あっ……えっと……はい。でも、オレが一緒じゃなくても、十夜さんには妹さんがいるから……」

　反射的に返事をするも、話し慣れない相手である椿の笑顔に、朝陽も少しばかり気後れする。
　つい目を逸らして、自信無さげな話し方になってしまう。いつもであれば、ここでノアがフォローに入るところだ。
　この日は、先に口を開いたのは椿の方だった。

「男同士、腹を割って話したい時だってあるだろう？　妹といっても双子だし、二十年も顔を合わせてきた相手だ。たまには可愛い後輩と茶ぐらいしてぇはずだ」

　見た目こそ厳ついものの、元来が面倒見の良いタイプだ。椿の諭すような言葉に、朝陽も気を許して微笑む。
　今回は自分の出番は無かったかと、ノアも安心したような少し寂しいような微笑みを見せる。
　そんな素顔はすぐに隠して、せっかく椿が切り出してくれた話題を広げていく。

「へぇ……十夜は双子だったんだね。ぜひ、妹の方とも会ってみたいね」
「あぁ、絶対に気に入ると思うぜ。十夜と揃って、俺の妹とも遊んでくれるイイ奴だからな」

　ノアの方へと向き直って話す椿の顔は、朝陽に向けていた時と寸分も違わない。
　それが後輩たちと語り合う時の椿の素顔だからなのか。それとも、話題が自分と最も親しい十夜のことだからなのか。
　そんなことには少しも注意が行くこともなく、朝陽はフッと浮かんだ疑問を口にした。

「椿さんにも……妹さんが？」
「いるようには見えねぇか？　まぁ、確かに親父が再婚して出来た義理の妹だからな。それまでは一人っ子だったしよ」

　朝陽に返答する椿は、口調も笑顔もごく自然なものだった。けれども、その内容を聞いた朝陽は思わず赤面してしまった。
　知らなかったとはいえ、椿の家庭の事情に踏み込んでしまった気がして、自分の不注意を恥じたようだ。
　苦笑を隠しながら、今度こそ自分の出番だとばかりにノアが代わりに口を開く。

「オレも一人っ子だよ。子供の頃は星夜がいたから、寂しいとは思わなかったけどね」

　ノアにしては珍しく、言ってから失敗したと口をつぐんだ。
　何の気なしに椿と自分の共通点を話したところまでは問題なかった。だが、その後の台詞に朝陽も椿も神妙な視線をノアへと送ってしまった。
　親友であった星夜と離れ離れになっていた期間がどれだけ長かったか。その長い期間に、どれだけの涙を流してきたことか。
　ノアと一つ屋根の下で暮らす朝陽は元より、星夜に懐かれている椿にも察するところがあった。
　口を閉ざしてしまった朝陽の代わりに会話を繋げようとしたのに、かえって場の雰囲気を重くしてしまったことにノアも気が付いた。
　咄嗟に取り繕うように笑って、朝陽へと話題を振り直す。

「えっと……確か朝陽の家は、兄弟がたくさんいたよね？」
「あ、はい。兄と姉と弟と妹が一人ずついます」
「兄弟姉妹が全部揃ってんのか……。どっかの空手キーパー以上だな」

　思わぬ大家族の構成に、椿が息を飲む。どうやら椿も朝陽も、意識はノアの過去から朝陽の兄弟のことへと移っていったようだ。
　二人にいらぬ気遣いをさせては申し訳ないところだった。ノアも安心した面持ちで茶を淹れ直す。
　ノアが点てた二杯目をすすりながら、椿はまた別の人物の話を思い出していた。

「そういや、このあいだラビが……」
「ラビさんが……どうかしましたか？」

　ロシア出身のラビは、ノアと朝陽にとって大事なバンド仲間だ。そして、それ以上の想いも朝陽はラビに対して抱いている。
　そんな大切な人の名前を耳ざとく聞きつけて、ほぼ反射的に椿に尋ねていた。

「あぁ、アイツの兄弟は姉と妹が一人ずつって言ってたな。女兄弟に挟まれて育ったせいか、時折、男の兄弟が欲しくなるとか言ってたっけか……」
「男の……兄弟？」

　呟いた朝陽の胸に不吉なものがよぎったのは気のせいだろうか。
　朝陽はこれまで、ラビが男の兄弟を欲しがっているという話を本人から直接聞いたことはなかった。
　その話を椿の口から聞かされたことで、どうして胸が騒ぐのだろうか。

「アイツの気持ちも分からなくはないが……俺の家は、また状況が特殊だしな。年の離れた妹が出来て、すっげぇ可愛く思ってるぜ」

　本当に妹を愛しているということが分かる椿の破顔も、それに応えるノアの微笑みも、朝陽には遠い世界のことになっていた。
　一人、唇を結んで思案の海を漂っていた。
　男の兄弟を求めるという、ラビの本心をあれこれと考えながら。

「ラビの奴も、別に兄弟仲が悪いって訳じゃないみたいなんだ。ただ、やっぱり男と女じゃ遊び方も違うし、俺も一人っ子だった時は兄貴や弟のいるダチが羨ましく思ってたしなぁ」

　そのラビも、今では賑やかで手のかかる男友達と一緒に暮らす身だ。
　半ば呆れつつメンバーをまとめるラビの姿を思い出しながら、ノアもおかしそうに笑う。

「ははっ。だとすると、レオンとリュカのケンカを仲裁するのも案外悪くないと思っているのかもね」
「いいや、そうとは限らねぇぞ。うちにも巽と葵がいるから分かるけど……もしかしたらラビの奴、やっぱり姉ちゃんや妹の方がいいと思い始めてたりしてな」

　ひとしきりからかったところで、大声で笑ってみせる。
　その椿の笑い声を、部屋の外から聞こえてきた声が静かに遮る。

「椿……人のいないところで噂話は良くないよ？」

　スッと和室の戸が開いて、新たな人物が顔を見せる。
　十七歳でありながら、背丈も貫禄も椿に負けないくらいのラビが立っていた。
　噂の当人が現れたところで、椿は動じもしない。
　ラビに諫められたことも素知らぬ顔で、更にからかうつもりのようだ。

「こういうのを英語じゃ……speak of the devilって言うんだったか、ノア？」

　イタズラっぽくノアにウィンクしながら、日本語で言うところの「噂をすれば」に当たる英語のことわざを尋ねる。
　直訳するなら「悪魔の話をすれば」と言ったところ。その物言いに、ラビが溜息をついた。

「まったく……椿の方から呼んでおいて、devilじゃないだろ」
「はははっ、そうだったな。ほら、ラビもこっち来て座れ。一緒にノアが淹れてくれた茶を飲もうぜ」

　この日の会は元々、ノアが椿に茶を振る舞うという約束が始まりであった。
　それを椿の計らいで、朝陽とラビにも声を掛けていたのだ。
　誘った本人として喜んで迎え入れようと、自分の隣の畳をバンバンと叩いて椿が促す。
　しかしラビは、それと同時に朝陽が席を詰めたことに気が付くと、椿には目もくれずに朝陽の隣であぐらをかきだした。

「ありがと、朝陽」
「い、いえ……」

　顔を寄せてニコリと笑いながら、ラビが朝陽に礼を言う。
　気恥ずかしそうに応えてはいるが、朝陽もラビが隣にいることが嬉しい様子だ。
　まるで二人だけの空間が出来上がったことに、椿が聞こえるようにして舌打ちをする。

「椿……ラビが構ってくれないからって、そんな風に拗ねるのは大人げないだろう？」

　ノアがたしなめるのを耳にして、むしろラビの方が椿に対して悪いと思い始めた。
　別段、椿を邪険にしたつもりはなかった。朝陽がラビを想うのと同じく、ラビにとっても朝陽が一番というだけだった。
　それでも頼る者の少ない異国において、椿は良くしてくれる先輩であり、ありがたい存在だ。
　今日の集まりにしても、椿が気を利かせて呼んでくれたのが始まりだ。無下に出来る相手ではない。
　ラビの作り笑いでない笑顔が、椿へと向けられる。

「それで、オレが来るまで何の話で盛り上がってたんだい？」
「みんなの兄弟に関する話さ。ラビの家は、華やかで羨ましいなって話してたんだよ」

　横から返事をするノアの言葉に、ラビも困ったような笑顔を浮かべる。

「あはは……よそからは、そう見えるのかな？　いや、兄弟が褒められるのは悪い気がしないよ。でも……」

　ラビも人並みに家族愛は持ち合わせているし、自慢の家族だと思っている。
　とはいえ、面と向かって羨ましがられるのも気恥ずかしいものだ。
　照れ隠しからはにかむラビの表情を見て、椿が先ほどの話題を持ち出す。

「何だ？　やっぱり女よりも男の兄弟の方が欲しかったのか？」
「うーん……自分が持っていないものに対する憧れという意味では、あるかもね」

　やや歯切れの悪い返事だが、「姉妹」だけでなく「兄弟」も欲しかったという思いは何となく伝わった。
　ラビの隣に座る朝陽が、再び胸に小さな痛みを覚えるのとは反対に、椿は乗り気な様子だ。
　サッと立ち上がるとラビの肩を掴んで立ち上がらせて、向かい合った状態でニッと笑いかける。

「よっし！　この俺が兄代わりになってやるぜ！　兄ちゃんでも兄貴でも、好きに呼んでみな？」
「えっ……じゃあ……ア、アニキ……」

　慣れない呼び方に笑顔をひきつらせるラビ。「おう！」と返事をして、椿がラビの頭をくしゃくしゃに撫で回す。
　両者の頭の下では、成り行きを見ていたノアが声を潜めて朝陽に耳打ちしていた。

「この二人だと、何だか任侠道の『アニキ』に聞こえるね……」

　思わず「はい」と返事しそうになるのを、かろうじて堪えながら朝陽がうつむく。
　朝陽の小動物のような仕種を見ている内に、ノアの中でピンと来るものがあった。
　自身も立ち上がると、ラビの肩に手を掛けて不吉な笑顔を浮かべてみせる。

「ラビは面倒見もいいし、やっぱり年下の兄弟がいる方が似合うよ。オレじゃあ、そうは見えないかもしれないけど……朝陽？」
「えっ？　は、はい……」

　声を掛けられた朝陽が顔を上げると、見下ろす三人の視線と目が合った。
　ただでさえ見つめられるのが苦手な朝陽が、立ち上がった三人の男から見下ろされては堪らない。
　すぐさま畳へと視線を落としてしまい、赤くなった顔を隠す。
　もう少し堂々と出来るようになってくれれば、ノアもラビも安心できるところ。
　それと同時に朝陽らしい愛らしさも感じて、ノアがイタズラを思いついたように優しい声を上げる。

「ふふっ。朝陽はラビより一回りも小さくて可愛いし、甘やかしてあげたい弟って感じだよね」

　その場にいる全員が、ノアが朝陽に何を求めているのかを察した。
　椿が兄役をやった次は、朝陽にラビの弟役を演じさせるつもりだ。
　襲い掛かる緊張から動けないでいる朝陽に、ノアが有無を言わせぬ笑顔で促す。

「ほら朝陽、立ってラビお兄ちゃんと向き合ってごらん？」

　おどけた口調に、ラビまでもが緊張してくる。
　耳まで真っ赤になりながら、言われるままゆっくりと立ち上がる朝陽。ラビは、その動きをジッと待った。
　二人の体が触れるか触れないか、微妙な距離を保ちつつ、朝陽が遠慮がちに口を開く。

「あの……お、おにぃ…………『お兄ちゃん』」

　小さな声で、これが精一杯といった感じでラビを呼ぶ。上目づかいと尖らせた口が、やけに可愛く思えてくる。
　嬉しいのか恥ずかしいのか、自分自身でもよく分からない感情を持て余して、ラビが力いっぱい朝陽の体を抱きしめる。

「あははっ！　よーし、お兄ちゃんが付いてるぞ！」

　ギュッと抱き寄せて、小さな背中をポンポンと叩いてやる。
　息苦しさからか、ラビの腕の中で朝陽がもぞもぞと動く。
　少し力を緩めてやると、体を密着させたラビにだけ聞こえるぐらいの小声で朝陽が訴え出した。

「あ、あの……ラビさん、は……弟に、こういうこと……するんですか？」

　ガツンと殴られたような衝撃が、ラビの頭に走った。
　思わず朝陽の身を手放してしまい、呆然とした目で見つめてしまう。
　先ほどから朝陽の胸を巣食っていた暗い気持ちが表情にまで現れ、言葉として口に出てくる。

「オレは、本当に哥哥(お兄ちゃん)がいるからかもしれませんが……ラビさんとは、兄弟ではなく……そ、その……」

　いつもと変わらぬラビの温もり。そこに何故か感じる不安。揺れ動きそうになる気持ち。
　自分とラビとの関係を意識しつつも、ラビの中には別の意識もあるのではないかと考えてしまう。
　ラビと結ばれるまでの間、朝陽はずっとラビと恋人同士になれることを夢見ていた。
　そのラビは、もしかして朝陽のことを弟として見ていたのだろうか。弟と思いながら、朝陽のことを抱いていたのだろうか。
　そんな不安から口ごもる朝陽の背中に、ラビがそっと手を回す。

「……分かってるよ。ゴメンな、朝陽。朝陽はオレの弟じゃなくて……大事な恋人だもんな」

　疑いようもない声が、朝陽の心へと沁みこんでいく。
　朝陽がラビを想うのと少しも変わらぬ愛情を、朝陽も自然と感じ取っていた。
　先ほどの戯れとは異なり、優しく、しっかりと朝陽を包み込むラビの腕からもそれは分かった。
　もう朝陽の中に暗い気持ちは残っていない。だからこそ、はっきりとラビに答えることが出来る。

「……はい！」

　朝陽の方からも腕を伸ばし、愛する人の体をぎゅっと抱きしめる。
　偽りの無い想いを届けるために。深く一途な想いを肌で感じるために。
　互いを愛おしむように抱きしめ合うラビと朝陽。
　脇で見つめるノアと椿の視線も、二人を心から祝福しているようだ。
　その視線が、やがて冷やかしの色を帯びていく頃、二人の背筋を冷たい汗が流れていった。

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