「旅立ち」編
第一話
先日に約した場所と時間に、アテナの
東京の城戸邸に聚合した
星矢がこの日、背に担いできた聖衣櫃も自身の所有ではなく、黄道十二星座の一つだ。中に収められている聖衣同様、聖衣櫃も夜空の下に輝いている。
「
星矢が地に下ろした黄金色の聖衣櫃に一瞥をくれ、その蓋の内から漂ってくる抑え切れない程の
その射手座と同様、この世に十二しか存在しない黄金聖衣を着込んだ
「後は、お前たち青銅聖闘士の始末だけという訳だな。アイオリア様、ここは私シリウスにお任せを」
アイオリアの傍らにいた白銀聖闘士が名乗りを上げる。この日、姿を現した聖闘士は全部で三人。すなわち星矢とアイオリア、そしてギリシアから新たに参じた
「下がれ、シリウス。我が兄アイオロスが持ち去った射手座の聖衣を取り戻す手柄、他の者に譲るつもりは無い」
それは無論、功名心に駆られての発言ではない。十三年間、誇り高き黄金聖闘士という地位にありながら逆賊の同胞という事実がため、アイオリアがどれほどの辛酸に耐えてきた事か。そのことは対峙する星矢にも、ひしひしと伝わってくる。しかし、シリウスの同情は星矢の比ではない。
「猊下、死を覚悟して進言させていただきます。このシリウス、猊下と同じく
アイオリアの前に進み出て、跪き、首を差し出した状態でシリウスはつらつらと語る。アイオリアにとっては耳の痛い事であろうとも、己に敬意を寄せる者の言葉を無下にする事は憚られた。
「聖衣は大いなるアテナからお借りした、言わば聖域全体の物。断じて猊下個人の私物ではございません。私めも正義を信じるアテナの聖闘士なれば、黄金聖衣を取り戻す戦闘に臨む資格は、猊下と等しくあるはず。猊下……貴方は、射手座の聖衣を自身の手で聖域に戻す事だけが、ご自身の汚名をそそぐ唯一の証と思っておられる。何ゆえ、お気づきにならないのですか？ アイオリア様は、紛う方なきアテナの剣。敬虔な精神を宿したアイオリア様を逆賊の弟などと詰る者は今や、聖域内ではアイオリア様お一人のみですぞ」
二人の聖闘士の間には、真剣な眼差しが行き交っていた。はたから見ている星矢にも、両者の間にある信義がありありと見えていた。
日本に赴いたアイオリアの下にシリウスが推参した時、アイオリアは自分に対する監視役だと考えた。だが、今になって思う。例え監視役であろうとも、それはシリウス自身が志願した事ではないかと。アイオリアに監視役を付けるという教皇の指図が絶対のものであるなら、せめてアイオリアを誰よりも尊敬している愛弟子シリウスが、それを負おうと考えての事ではないかと。
真実を語れば、シリウスの人選は黄金聖闘士・
「承諾した。やってみせるがよい」
真意と熱意を包み隠さずに明かすシリウスの心を、アイオリアは斟酌した。二歩ほど下がり、腕を組んで見守る姿勢を表す。シリウスは深々と頭を下げた後、星矢と向かい合って戦闘態勢に入る。その表情は、アイオリアに向き合った時とは真逆に研ぎ澄まされている。
シリウスの気迫に飲まれないよう、星矢も大きく息を吐いて構える。聖衣こそ身に付けてはいないものの、戦いの根源たる小宇宙は発火寸前な程に熱を上げる。それを感じ取り、シリウスも決して星矢を侮ることなく隙を窺う。
「目に見よペガサス。アイオリア様に師事して得られた、我が体術。その磨き上げられた秘技を！」
力を込めたシリウスの足が、地面を蹴る。瞬間、シリウスの体は巨犬座の聖衣ともども光と化した。速度にして、実にマッハ五十万。並大抵の白銀聖闘士では、一生を費やしても到達できない域であり、星矢には見切ることなど到底不可能であった。
危機を感じてジャンプする星矢であるが、全くもって間に合わない。どてっ腹にシリウスの伸ばした腕が、ミシミシという音を立ててめり込んでいく。そのままシリウスは星矢の背後に回り込むと、星矢の体の前で両手を掴み合わせる。胴体をきつく締め上げられて、星矢は悶え苦しむも悲鳴すら上げられない。更にシリウスは星矢の体を抱えた状態で空高く跳び上がり、最高点に達したところで体勢を翻す。身動きを封じられた星矢の頭部を地面に叩き付けるのが狙いだ。
「グレートマウンテンスマッシャー！」
やはり、聖衣も身に付けずに白銀聖闘士に挑んだのが間違いであったか。高速で落下しながら、星矢は観念しかけた。
完全に諦める直前、星矢の身体を強烈な光が包み込んだ。今までに体験した事の無いほど、強大な力と意思とが自分の内部に入り込んでくる錯覚に星矢が戸惑っている間に、シリウスは閃光と熱量に耐え切れず自分から星矢の束縛を解いてしまった。成り行きを見ていたアイオリアもまた、驚愕の表情を隠しきれずにいた。だが、この場においてアイオリアだけが星矢に何が起こったのかを正確に捉えていた。
「まさか、星矢の体に聖衣が……射手座の黄金聖衣が、自分の意思で星矢を選んだというのか？」
地に置かれた金色の聖衣櫃。それが独りでに開き、中から現れた黄金聖衣が今まさに大地に激突しようかという星矢へと飛んでいき、その体に装着し出したのだ。
「どうなっているんだ？ 俺の体に射手座の聖衣が!?」
星矢自身、自分に何が起こったのか理解が追いついていなかった。身体中に漲っていく強烈な小宇宙を押さえ込む事も出来ず、本能のままに解放した。
「馬鹿な……うわああっ」
「シリウス！」
太陽光のような星矢の小宇宙を真正面から浴びて、巨犬座の聖衣は一瞬で溶解し、シリウス自身の体も黒焦げになって地面に落下した。黄金聖闘士のアイオリアが忠告の声を上げる間も無く、星矢の身を包んだ黄金聖衣はシリウスを撃破していたのだ。
「すごいぞ、この聖衣は。まるで無尽蔵に、どんどんと力が湧いてくる実感だ」
地に降り立った星矢は、まだ半分ほど夢心地で自分の体を動かしてみた。今までに無いほど速く、軽く、力強く拳が舞う。馴れ親しんだ天馬星座の青銅聖衣より、遥かに身体を覆う面積が広く、防御面だけでなく表皮を覆う神気の感覚にさえも信頼がある。そして背には、大天使のそれを思わせる一対の翼。これさえあれば、大空はおろかミルキーウェイでさえも自由に飛び回れそうだ。
「聖衣に溺れるな。
新たな力に夢中になっていた星矢も、その声に意識を取り戻す。見ればアイオリアが背中のマントを外して、臨戦態勢に入っていた。放られた純白のマントは、ひらひらと舞った後に仰向けで倒れるシリウスの体に覆いかぶさる。当然のことながら、アイオリアが纏う獅子座の黄金聖衣もまた射手座に劣らぬ輝きと小宇宙とを放っている。
「心と体……肉体と小宇宙とを一体にしなければ、聖衣はその身を縛るプロテクターにすぎぬ。それは黄金聖衣とて例外ではない」
全く同じ言葉を師匠である魔鈴から言われた事を、星矢は思い出していた。あれは数ヶ月前、ギリシアでの修業を終えて教皇の手ずから青銅聖衣を拝領した時だった。あまりの嬉しさに浮かれ、欣喜していたところを魔鈴に見咎められたのだ。
聖衣の偉大なる輝きは、力を誇示するためのものではない。敵に畏怖を与えるのと同時に、正義を貫くための戒めなのだ。満天に煌く星座の如き聖衣を身に付けていれば、自然と衆目を集める。その時に正義にもとる行いをすれば、それは主たるアテナの名を貶す事に繋がる。聖衣は正義の小宇宙に反応して、はじめて本来の性能を発揮する。それと同時に聖衣の輝きは、聖闘士自身にも正義の自覚を根付かせるために必要な要素なのだ。
「我が兄アイオロスの意思なのか……この地上において、射手座に選ばれるべき聖闘士はただ一人の定め。お前が真に射手座の聖闘士に相応しいかどうか、今から確かめてやるぞ」
握り締めたアイオリアの右拳に光が集中していく。その熱量が最高点に達した時、獅子の牙が獲物に食い込む事を星矢は知っていた。
「受けろ……ライトニングボルト！」
光り輝くアイオリアの右拳が巨大化して星矢に迫る。刹那にも満たない程の一瞬で距離を詰めて襲い掛かる百獣の王の爪牙を、星矢は正確に見定めたのか。正面から向かってきたライトニングボルトをまともに受ける事無く、星矢の身は背中の翼を広げて大空へと逃れていた。その結果に、当の星矢でさえ感嘆する。
「お、俺の体が……ヤバイと思った瞬間には、もうライトニングボルトを避けていた!? この力なら、黄金聖闘士のアイオリア相手にだって通じるかもしれない」
今度は星矢が攻勢に移る番だ。空中に静止したまま、眼下のアイオリア目掛けて流星拳をぶつける。一瞬、目を見開くもアイオリアは星矢の放った鮮黄の流星群を回避できず、その身に浴びて倒れる。
「やったぞ！ 信じられない。本当に俺が、あのアイオリアを……」
若干七歳の頃から続けてきた血のにじむような特訓は、具体的に目指す物が無ければ心理的にも持たない。星矢にとっては、獅子座のアイオリアが正にその存在であった。
東洋人である自分を認めてくれる数少ない理解者であり、その強さと公平さは幼心に純粋に尊敬を抱けるものがあった。その目標と掲げたアイオリアが、黄金聖衣の力を借りてとはいえ自分の拳で倒せる日が来ようとは。
ゆっくりと地に降りて、アイオリアの安否を確かめるべく近づく。期せずして干戈を交える事にはなったものの、憎い敵ではない。戦いが終われば、再び在りし日と同じく旧交を温めたいのだ。
「アイオリア？」
「……この程度なのか、星矢？」
倒れたままの状態で、アイオリアが口をきく。そうかと思った瞬間、その姿が消えてなくなった。黄金聖衣の加護が無ければ、星矢には何が起こったか分からなかったであろう。加護を得ていても、かろうじて目で追うのが精一杯であったのだ。急いで後ろを振り返ると、アイオリアが外傷も無く平然と立っていた。
「お前の力を……その聖衣を着るに値するかどうか、わざと攻撃を受けてやったが……その程度とはな」
星矢が放った攻撃は、並の青銅聖闘士が一生を修行に捧げても到達できる威力ではない。曲がりなりにも、黄金聖闘士級の小宇宙を繰り出したのだ。それが致命傷にならないどころか、薄皮一枚を傷つけることすら叶わなかった。それが強がりの類でない事は、アイオリアの纏う陽光の小宇宙が衰えるどころか一層高まりゆくのを見れば分かる。
いかに黄金聖衣を手に入れようとも、星矢自身はあくまで青銅聖闘士のまま。正真正銘の黄金聖闘士であるアイオリアとの、絶対的な差を突き付けられた星矢。黄道に位置する射手座の聖衣に包まれながら、星矢の両足は小刻みに震え出す。
「お前は先ほどのライトニングボルトを躱せたと考えているようだが、あれは手加減して放った亜光速の拳。我が全力のライトニングボルトは、マッハ百万……光の速度すら超えるのだ。これだけの拳を撃てるのは、黄金聖闘士の中から探しても今の聖域において他に二人しかいない。その現代最高峰の拳に耐えられるか？」
獅子の眼光に睨まれ、星矢の身は意思とは無関係に竦む。アイオリアの右拳に蓄積されていく小宇宙の絶対量は、先の一撃とは立ち並ぶ事が出来ないほど甚大に凌駕している。射手座の聖衣はおろか、その気になれば地上の全てを焼き尽くさんばかりの小宇宙だ。
そんな強大な力を前にしては、敵前逃亡こそ、しくはなし。にも拘らず星矢がその場を動けないでいたのは、消極的な戦法を嫌うゆえではない。度を超えた恐怖と絶望から、思考は停止し、筋肉は委縮してしまっているのだ。そこへ救いの声が届く。
「お待ちなさい、獅子座のアイオリア」
その柔らかな女性の声によって、星矢の金縛りが解ける。アイオリアも言われるがまま、右拳の小宇宙を鎮めて声のした方に注意を向ける。そこにいたのは、まだ妙齢と言うにも早すぎる一人の少女。しかしながら彫刻のように美しい顔立ちは看視を逃れられず、齢に似つかわしくない凛乎とした佇まいには溜息が漏れてしまう。その手に黄金の杖を携えて現れた少女こそ、グラード財団総帥を名乗る城戸沙織であった。
「沙織お嬢さん!? どうして、ここに？」
星矢が呼んだ名前から、アイオリアも彼女の正体に勘付いた。同時に、その美しさを認めずにはいられなかった。少年たちを、かどわかして自分を女神だと信じ込ませるには十分な容姿だと。
「君が、城戸沙織か。恐れ多くも我らが主の名を騙った大罪、聖域の教皇が是非とも問い質したく連行せよとの仰せである。大人しく縛につく事を勧めよう」
「よろしいでしょう。私の側にも、教皇に尋ねたい事があります。ですが、その前に……貴方にも聞かせたい話があります。他でもない、貴方の兄アイオロスの話を」
戸惑いと苛立ちとがアイオリアを襲った。十三年前に姿を消し、今なお小宇宙さえ感じられないアイオロスは死んだものと考えてきた。そんな過去の人物について、小娘に何が語れるものかと。それと同時に、どんなに些細な事であれ兄について知りたいという思いもあった。
アイオロスが聖域を去った日、アイオリアはまだ七歳に過ぎなかった。誰よりも強く威厳に満ちた父親のような存在であった兄。その兄に、幼いながらも立派な聖闘士になることを夢見ていたアイオリアが憧憬の眼差しを向けていなかったとは思えない。いつまでも偉大な兄の側で、その偉勲を見ていたかった。それが叶わぬのなら、射手座のアイオロスの神話を人づてに聞きたいと願っていたものだ。
「我が兄……アイオロスの話だと？」
その思惑を悟られまいとしながら、アイオリアは沙織の話を促した。
「十三年前、私は現代のアテナとなるべく聖域のアテナ神殿に生れ落ちました。それから間もなく、まだ赤ん坊の内に聖域から連れ出されたのです。貴方の兄アイオロスの手によって、射手座の聖衣と共に。聖域にてアテナの命を奪おうとする邪悪の手から守るために。その邪悪こそ、聖域を治める教皇その人なのです」
「何を馬鹿げた事を……」
期待したような話が沙織の口から出て来た訳でもなく、その上、侮辱極まる物言いをされては遮らずにはいられない。アイオリアが沙織に向かって一歩進みだしたところで、それを制するかのように沙織の全身から小宇宙が発揮される。その余りに大きく、全てを包み込む安らぎに満ちた小宇宙を目の当たりにして、アイオリアは踏み出した一歩を引っ込めてしまった。
「何だというのだ、この小宇宙は……。まさか、彼女は本物の……」
アテナなのか、という言葉を飲み込んで必死に否定しようと努める。その一方で、決して偽者には持ち得ない小宇宙を前にして気持ちが揺らいでしまう。誰よりも敬虔な聖闘士であるからこそ、女神アテナはアテナ神殿におわすというセントラルドグマに逆らって考える事が、アイオリアには困難であった。
「聞きなさい、アイオリア。私の話は、まだ終わっていません。教皇は悪意を持って、アテナが赤ん坊の内に害しようと試みました。その危機に現れ、アテナを救った聖闘士こそ射手座のアイオロスなのです。アイオロスは教皇の企みに気付いたものの孤立無援はいかんともしがたく、かろうじてアテナを連れ出すことに成功したのです。教皇も、すかさず手を打ってきました。追手に名うての黄金聖闘士を差し向けてきたのです。アイオロスは奮闘するも、幼子を庇いながらでは実力を発揮することは出来ず重傷を負ってしまいました。そこへグラード財団の城戸光政が現れ、彼にアテナと黄金聖衣を託して天へと帰ったのです」
沙織の壮大な小宇宙に押され、アイオリアは異論をはさむ事も出来ずに聞き入ってしまった。その話には説得力がある一方で、にわかには信じがたかった。それを鵜呑みにすれば、自分が今日まで信じてきた聖域と教皇の全てを否定する事に繋がるからだ。兄を失って以来、突き進んできた自分の十三年という月日を。
「真のアテナである私も、最近になるまで忘れていました。しかし先日、私自身が小宇宙を解き放つ事で記憶が復活したのです。この十三年の事のみならず、神話の中で幾度も転生を繰り返してきた戦いの女神としての記憶が。教皇側も、十三年間はアテナの小宇宙が感じられない事に安堵したことでしょう。そのアテナが生きて成長した事を示す小宇宙は、僭主教皇にとっては自身の足元を崩すことになりかねない。黄金聖闘士まで派遣することを決めた要因には、そうした裏があったのです」
沙織の話は、そこで終わった。アイオリアは、すぐには反応を示すことが出来ないで黙り込んでいた。その両者の間に、星矢が割って入る。まるで沙織の盾になるかのようにして、アイオリアの前に立ちはだかった。
つい数十秒前まで、あれほど恐れていた相手であるアイオリアを前にして、星矢は一歩も退かないといった視線を投げ掛けている。その心境の変化は、どこを起点としているのであろうか。アテナが駆けつけてくれたという事で、自信を取り戻したのであろうか。はたまた守るべきアテナが側にいる事で、力を振り絞る事が出来たのであろうか。恐らくは後者であろう。自分一人の命の問題だけでは、限界というのは想像よりも早く訪れる。地上の平和を守る使命を帯びた聖闘士にとって、誰かのために行う戦いは、その小さな体に無限の可能性を与えてくれるのだ。
「何のつもりだ、星矢？」
「俺なんかの口から聞かなきゃ、分からないってのか？ 黄金聖闘士……獅子座のアイオリアと言われるアンタが。今の沙織さんの話を聞いて、それでも教皇に味方する気が残っているって言うのか？」
答えに詰まりながらも、アイオリアの心の中はなお揺れていた。沙織をアテナと認めたい一方で、どうしても聖域に背く勇気を得られないでいた。だが、アイオリアが真に男の強さと優しさを兼ね備えた黄金聖闘士である事を知っている星矢には、紛れもない確信があった。最後にはアイオリアも必ずや理解を示し、自分たちの側に来てくれるであろう確信を。
「男ってのは、いかなる星の下に生まれつこうと、胸にデッカイ宇宙を抱いて歩いていける奴のことだ。アンタが教えてくれたことだろう？ そうすることで、一生の内に又とない今日という日を見誤ることなく、命を燃やし尽くすことが出来る。その大事な日に気付けないまま一生を終えるなんて、この地上に男として生まれてきておいて一番もったいない事だって」
「お前は、その大事な日を見つけたというのか？」
「アンタの事だ……アンタは今日という日を、自分を欺き続けてきた聖域との訣別の日にするんだ。十三年前、アンタの兄だったアイオロスが、そうしたように」
何を小賢しい事をと苛ついたのは一瞬だ。何故かアイオリアは、自分でも不思議な程すんなりと星矢の言葉を受け入れていた。あるいは、それも城戸沙織がアテナであることの証明か。知恵を司り、勝利をもたらすアテナの加護が星矢の弁を助けているのだろうか。
それ以上にアイオリアは、目の前で輝く射手座の聖衣に兄アイオロスの姿を見ていた。最後に見たアイオロスの年齢は、ちょうど今の星矢と同じぐらいだ。だからと言って星矢とアイオロスを重ねている訳ではない。星矢の纏う射手座の黄金聖衣から迸る小宇宙に、アイオリアは追い求めていた兄の安らぎを感じていたのだ。そこにアイオロスの遺志が残されている気がして。
出来ることならアイオリアも、兄が真のアテナを護って世を去ったのだと考えたい。兄の正体は反逆者とは程遠い勇者であると。そんな思考を巡らせた事は、数限りなくある。その度に否定を繰り返してきたのだ。それは兄を卑劣な逆賊と蔑んでいるためでは決してない。そういった考えは、自分の背負った十字架の重さを軽くするための偽善的な甘えであると考え、あえて茨の道を選択しているのだ。
射手座の黄金聖衣に込められたアイオロスの魂。その背後に立つ城戸沙織をアテナと認めるという事は、自分が選び続けてきた苦行の一切が無駄であったという残酷な宣告に他ならない。
――だが、それを認めるという事もまた、自ら苦難に飛び込む試練なのかもしれない。アテナに背く者が生み出した幻想に浸かるという甘えから脱却し、自分が積み上げてきた全てを捨て去るというのも勇気の一つなのかもしれない。この娘が、正真正銘のアテナであるなら、だ。
星矢と沙織を見つめるアイオリアの瞳は、どこまでも澄んでいた。邪悪に染まった聖域を正義と信じていようとも、彼自身は純粋にアテナに従う聖闘士であった。その内側から発揮される小宇宙は、澱みが無いからこそ雄々しく、無限を思わせるほど高まっていく。つい先ほど、星矢を怯えさせた黄金の小宇宙だ。
「星矢、お前の言いたい事は分かった。だが、男というのは言葉で人を従わせるよりも、行動や信念で手本を示すものだ。お前の信念が正しいと思うのなら、それを小宇宙として表してみろ。この私の小宇宙よりも高められるのであれば、それこそが何よりの証となる。お前たちが正しいという証……その娘が、お前に勝利をもたらすアテナだという証にな」
その誘いに星矢は無言で頷く。二人の間に言葉は不要であった。思いは全て心に秘め、その心を爆発させて小宇宙を燃やすのみ。天を衝く程に燃え盛る二つの小宇宙を、沙織は誰よりも近くで見守った。
燃えろ、高まれ、と星矢は念じ続けた。面前のアイオリアが放つ巨大な小宇宙に臆する気持ちは、とうに消え失せていた。今はただ純粋に、自身の小宇宙を高揚させる事しか頭にない。今の星矢にとって戦うべき敵とは、眼前に立つアイオリアではなく己の内面、己の限界であった。
――残念だ、星矢よ。
しかし、星矢がどこまで小宇宙を燃焼させようとも、アイオリアの域には届かなかった。どんなに手を伸ばしても届かない現実の壁。黄金と青銅の決定的な実力差。その事実をアイオリアは冷静に受け止めた。
これ以上は時間の無駄かと、アイオリアが星矢に向かって右拳を差し伸ばす。遥か上空にまで立ち上った黄金の小宇宙の全てを拳に乗せて、とどめのライトニングボルトを放つつもりだ。星矢がそれを悟った瞬間、射手座の聖衣が更なる輝きを見せ出す。
「まだ足掻くつもりか？ 死に際を悟るのだ、星矢」
アイオリアの忠告になど、まるで耳を貸さずに星矢は小宇宙を高め続ける。いや、星矢自身にも不思議で仕方がなかった。何故こんなにも、自分の体から限界以上の小宇宙が湧き立つのか。それが星矢の体や心から発揮されているのではなく、射手座の黄金聖衣そのものから湧き起っている事に二人が気が付くのに、時間は掛からなかった。沙織の右手の杖もまた目映い光を放ち、その光に呼応して射手座の小宇宙がアイオリアのそれに迫る勢いで上昇していく。
「アイオロス兄さん……」
思わず呟いてしまう程、その小宇宙はアイオリアにとって懐かしいものであった。忘れようにも忘れられない温かさと雄大さを兼ね備えていた。その懐旧の念によってか、星矢の小宇宙が高まれば高まる程にアイオリアの小宇宙は次第に静まっていった。
「もうよい、星矢よ。いや……我が兄、アイオロスよ」
その言葉を待っていたかのように、星矢の頭上の小宇宙が一気に射手座の聖衣へと収まっていく。今やアイオリアの周囲には闘志の痕跡すら無く、星矢には元より闘争の意思は無い。世界は元の静かな宵に戻っていた。
「アテナの手の中でしか本来の力を見せる事のないニケが、射手座の黄金聖衣に力を与えた。それが兄の魂を現世へと蘇らせたのだ。それを目の当たりにしてまで、なおアテナに楯突くほど不敬なアイオリアではない」
静かに語り終えると、アイオリアはその場に跪いて深々と頭を下げた。主たるアテナに。そして最も身近な肉親でありながら、十三年間にわたって疑いの目を向けてきた相手に。
「不肖ながら、獅子座のアイオリアは貴方様を唯一のアテナとして臣従する所存。どうか、聖域打倒の末席を汚すお許しを頂戴いたしたく」
「顔を上げてください、アイオリア。貴方の兄アイオロスの事を思えば、受け入れ難い話であったのは当然。よくぞ理解してくれました」
そこでアイオリアは、いっそう頭を垂れる。黄金聖闘士という心強い味方を得たという確信が湧き、星矢も顔を綻ばせた。
「アンタが一緒に戦ってくれるのなら、聖域だろうと教皇だろうと本当に倒せそうだぜ。俺もついに射手座の聖闘士に選ばれたみたいだしな」
そんな星矢の発言に反するかのように、その身を守っていたはずの射手座の聖衣が、装着時と同様に独りでに分解して星矢の体から離れていってしまった。
「なんだ、どうしたっていうんだ？」
バラバラとなった聖衣のパーツは、一度夜空へ舞い上がったかと思うと浮遊したままの状態で合体し、元通り聖衣櫃の中へと納まった。開いたままの蓋の上から星矢が覗くと、そこには文武に優れた半馬神ケイローンを模した黄金聖衣が、物も言わずに据えられていた。
「星矢、何も射手座の聖衣は……アイオロスは、お前を後継者と認め選んだ訳ではない。ただアテナを守護するため、お前の肉体を借りただけという訳だ」
黄金聖衣の真の所持者であるアイオリアは、全てを見透かして告げる。星矢も半ば憮然とはしつつも、現状の自分の力量と照らし合わせて納得した。それに何より、沙織を守り通すという本懐が叶っただけで満足であった。
「青銅聖闘士であるお前が一時的にでも黄金聖衣を纏う事が出来たのも、全てはニケの恩恵があればこそ。思えば
星矢が振り返って沙織の手元を確認しようとすると、沙織もまた懐かしむような表情で自分の手の中の杖を見入っていた。
「この杖も、十三年前にアイオロスが私や射手座の聖衣と一緒に運び出したもの。アイオロスは追われる身でありながらも、私や私の側に集まった聖闘士たちが生き延びられるよう万全を期してくれていたのですね」
アイオリアは、心の中で沙織の鋭敏さに感謝した。しかしながら、阿諛追従の徒に成り下がるつもりは毛頭無い。
「アテナ……先ほどのご要望に背き奉る無礼、平にご容赦を。このままアテナを聖域へとお連れし、聖域の邪悪を即刻糾弾するのも一つの手段とは存じますが、ここは今しばらく日本にてお控えあそばし、まずはこのアイオリアめにお任せいただきたく」
アイオリアの進言に、沙織も星矢も目を見張る。だが、そこには沙織に対する疑いや最上位の聖闘士としての慢心も見出せない。真に沙織の身を案じての上申であるからこそ、沙織も何も言わずに続けさせた。
「例えアテナの御手にニケがあろうとも、聖域では依然として七名の黄金聖闘士を始めとする者どもがアテナの首を狙っております。ここは僭越ながら、私めが先に聖域の内情を探り、改めてアテナの還御を願う所存」
「分かりました、アイオリア。貴方に一任します。けれど、無理をしてはなりません。それだけは約束してください」
「勿体なき仰せ……されど、心得まして。では……」
別れを済ませると、アイオリアは頭を下げたままの姿勢で横たわるシリウスの脇にまで下がり、そのままシリウスの遺体ともども音も無く姿を消した。
後に残った星矢と沙織も、心は早くも聖域へと向けられていた。決戦の日は近い。沙織も今や完全にアテナとしての自覚と小宇宙に目覚め、聖域の教皇も存在を突き止めて警戒している。しかしアイオリアの危惧した通り、急いては事を仕損じる恐れあり。
何も沙織の脇を固めるのは、星矢ばかりではない。同じ血を分けて地上に生まれ、それぞれの星に導かれて聖闘士となった兄弟がいる。聖域へ乗り込むのは、その兄弟たちと示し合わせてからだ。
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