「旅立ち」編
第三話 アンドロメダ星座の
さてドラゴン
「ジュネさん!? どうしたっていうんです!?」
数か月ぶりに再会したその少女は、顔を合わせるや否や瞬に拳を振るってきた。彼女の名前は、ジュネ。瞬と同じく、アンドロメダ島で同じ師の下で訓練を重ねてきた一人だ。
「おだまり、瞬。お前には、どうしても倒れてもらうよ！」
女子聖闘士のご多分に漏れず、ジュネは素顔を仮面で隠している。故に、いかなる感情が込められているのかも分からなければ、目線から拳の軌道を予測する事も出来ない。だが、その拳には覇気が足りないと瞬には感じられていた。殺気も無ければ、鋭さも欠いている。それは数多の死線を生き抜いてきた瞬には、もはやジュネの拳は驚異ではないという意味ではない。
「ジュネさん、貴方は本気じゃない。貴方は本心では、僕に死んでほしくないと思っているはずだ」
顔面に向かって飛び交ってくる拳を巧みに躱しながら、瞬は冷静にジュネの心を言い当てる。一瞬、彼女が攻撃の手を止めたのは、瞬の読みが正しかった何よりの証拠であろう。それでも、ジュネは胸の内に秘めた想いを譲る事は出来なかった。
「黙るんだよ！ 黙って……大人しく、やられておくれよ！」
「ジュネさんこそ、やめてください。僕は女の人に手を上げるなんて、卑劣な真似はしたくない。貴方の拳には迷いがある。そんな拳では、僕を倒すことはおろか傷一つだって……」
ジュネにも分かっていた。自分の心に巣食う迷いと、その原因を。そしてアンドロメダの聖闘士に選ばれた瞬と、落第した自分との力量の差を。それでも瞬を引き留める必要があった。そのため、ジュネは戒めを破る決断をした。
「ジュネさん、それは！」
瞬への攻撃を中止したジュネは、その手を自らの仮面へと伸ばした。そして、躊躇う事無く顔から白亜の仮面を外す。聖闘士の女子に課せられた仮面――そこに込められた禁忌を知っている瞬は、反射的に両の瞼を強く閉じた。
ジュネの狙いは、瞬の視覚を奪う事であったのか。例え両目を塞がれようと、訓練を積んだ聖闘士であれば気配や
「ジュネさん……何のつもりですか？」
「目を開けて、瞬。これが……私の覚悟の表れなんだからさ」
長い間があった。無言の内に、戸惑いと躊躇いが幾度も瞬の内心を駆け巡っていく。やがて決心したように、瞬は大きく頷いて、ゆっくりと瞼を持ち上げる。
目の前には、初めて見るジュネの素顔があった。長い事、一緒にアンドロメダ島で暮らした間柄でありながら、掟によって瞬は一度もジュネの顔を見たことが無い。仮に目撃した場合は、それが過失であろうとも言い逃れすら許されずに殺されても仕方がない。それ程、厳しい掟が聖闘士の女子には付きまとっている。
「ジュネさん、どうして僕なんかに？」
不思議な気分であった。相手はよく知った人物であるはずなのに、その顔に見覚えは全くない。彫りの深い褐色の顔は、まだ男女の情を解さない瞬の目から見ても美しかった。だからこそ、余計に自分の知るジュネとは別人に感じられた。姉が弟にするように、修行で傷ついた自分を庇い続けてきたジュネとは。
「分からないの？ 私はね……お前に死んでほしくないんだよ。ダイダロス先生のように」
消え入りそうなか細い声ではあったものの、それは正しく仮面越しに聞き続けてきたジュネの声であった。それを確かめる事が出来ても、瞬は安堵することが出来なかった。親しんだジュネの声で、信じがたい内容を聞かされたために。
「ダイダロス先生!? それは、どういう事ですか!? まさか、あの先生が……」
死んだ、などとは間違っても口にしたくない。しかし瞳を潤ませ、唇を小刻みに震わせるジュネの様子を見ていると、瞬の心の不安も次第に大きくなっていく。瞬やジュネ、他にも多くの弟子たちを抱え、それらを分け隔てなく鍛え、育て上げてきたダイダロス。瞬にとっては、故郷を遠く離れたアンドロメダ島において、何にも勝って心強い存在であった。
アンドロメダ島とは、西インド洋に浮かぶ不毛なる孤島である。昼は灼熱の太陽に晒されて焦熱地獄と化し、夜は正反対に氷点下の世界へと変貌を遂げる。そんな草木も生えず、動物も棲みつかない過酷な環境下にあって、ダイダロスは二つの
「ダイダロス先生の実力は、その人望と比例するかのように立派で、それだけで十分尊敬に値する人だった。その先生が、どうして？」
「そうよ。先生の力は、お前も知っての通り。けれど相手が
黄金聖闘士――その名を聞いて、瞬も思わず慄いた。先の戦闘において瞬は、白銀聖闘士のアルゴルにアンドロメダの聖衣を造作も無く真っ二つに切り裂さかれた。ダイダロスの鍛え抜かれた力は、その白銀聖闘士の長であるアルゴルに勝るとも劣らないと評判であった。そんなケフェウスの聖闘士を相手取るのであれば、黄金聖闘士が乗り出してくるのも道理。それにしても黄金聖闘士の手並みとは、ダイダロスが打つ手無く屠られる程だとは。より身近でダイダロスに付き従い、その能力の高さを信頼してきた瞬であるからこそ、余計にまだ見ぬ黄金聖闘士に恐怖した。
「
ジュネの発する言葉の意味が、瞬にはよく理解できなかった。言っているジュネ自身にも、正確なところは分からないのだ。何しろ黄金聖闘士たちは、亜光速の動きを体得している。白銀以下の者たちでは、おいそれと視認する事も叶わない。聖衣を破壊されて地に伏したダイダロスは、外傷も見られないのに白目を向いて泡を吹き、痙攣を数度繰り返すと一言も発さずに息を引き取った。
「あんなに恐ろしい男がいたなんて……。聖闘士という言葉で、一括りにするもんじゃない。黄金聖闘士は、正しくアテナの代わりに裁きを行う……そう、神の代行者なのよ」
その地獄の現場を直に見てきたジュネは、泣きそうになるのを堪えて顔を歪ませている。話を聞いているだけの瞬も、同様に恐怖で動転していたが、ジュネの最後の台詞だけは聞きとがめた。
「ジュネさん、貴方が黄金聖闘士の実力を目の当たりにしたように、僕もジュネさんが知らない情報を掴んでます。それは、僕はアテナを知っているという事だ。僕はアテナを、この日本で見つけました。それと同時に、今聖域を手中に収めているのはアテナではなく、アテナの名を利用する邪悪の化身であるという事実を突き止めたんです。その邪悪こそ、自分の意にそぐわない聖闘士に対して、次々と聖闘士をけしかける……」
「教皇猊下だって言うの!?」
「そう。黄金聖闘士に先生を殺させたのは、断じてアテナではない。全ては、教皇の邪悪な意思によるものです」
瞬の表情からは、怯えたものが消え失せていた。アテナのために、という強い思いが瞳に闘志を浮かび上がらせていた。それを確認して、ジュネは一層顔をしかませる。眉根に深いしわを寄せ、目からは大粒の涙をこぼす。
「やっぱり……お前は、聖域と戦うつもりなのね。聖域と教皇猊下を、アテナに背く敵と看做し、これを討ち取るために出向いていくつもりね？」
ジュネの両手が、瞬の服に掴みかかる。爪が皮膚に食い込むほど強く握り締め、顔を瞬の胸に埋めてくる。瞬は戸惑い、ジュネの背中を抱く事さえ忘れてしまった。泣きじゃくりながら、ジュネは思いの丈をぶつけ続ける。
「だからよ……。そうだと思ったから、私がお前の所まで来たのよ。お前が、間違った事のために聖域に反逆するはずがないって信じていたから……。虫も殺せないような顔をして、それでいて言い出したら聞かない性格だって知っていたから……。だから、お前が聖域に乗り込む前に足止めしようとしたんだよ。例え、お前を……愛するお前を私の手で傷つける事になろうと」
ここに至って、ようやく瞬はジュネが素顔を晒した理由を理解した。アテナから課せられた掟を破ってまで仮面を外したのは、天にも背くだけの覚悟を示した訳ではない。一人の女としての気持ちを伝えるためだ。思い焦がれる相手を、何が何でも引き止めるために。
激しく上下するジュネの背中を見つめながら、瞬は彼女の細い肩を優しく抱いた。ジュネの気持ちに応えるためではない。これ程までに自分を想ってくれている人に対し、残酷な宣言をすることになる。その時にジュネに襲い掛かるショックを、少しでも和らげるためだ。
「ごめんなさい、ジュネさん。僕は、自分で一度決めた事を途中で投げ出すような弱虫には、絶対になりたくないんだ。それが、離れ離れになってしまった兄さんとの約束なのだから」
アンドロメダ島に着いて以来、瞬は兄である
瞬の決意は、立派と呼べるものであった。ジュネの中には、それを褒め称えてやりたい気持ちも存在していた。だからこそ、最終的には瞬を止める事が出来ずに見送る事になるであろう未来に、悔し涙を堪えきれなかった。
「泣かないで……。例え相手が黄金聖闘士であろうと、僕はむざむざとやられるつもりはない。だって、僕には心強い仲間が……兄弟がいるのだもの。ジュネさんも、その内の一人だと思っている」
「私が……お前の？」
顔を上げるジュネの瞳からは、まだ流れ落ちるものがあった。瞬はそれを、優しく拭い取って微笑みかける。
「ジュネさんが想ってくれているように、僕だってジュネさんが大切だ。だから、僕が聖域から帰るまで、僕の帰りを待っていてほしい。先生を亡くして悲しみに暮れているジュネさんを、これ以上失意に沈めたくはない。ジュネさんの涙を、これ以上は見たくない。そう考えれば、僕は生きてジュネさんの所へ帰れそうな気がするんです」
「本当に？ 瞬、本当に……」
これから死地に赴くとは思えない程、安らぎに満ちた瞬の微笑を見て、やっとジュネも安心したようだ。僅かに目尻を下げ、瞬に倣って笑おうとする。二人の間を漂っていたわだかまりは解れ、二つの心が一つに重なろうとしていた。そこへ嘲笑混じりの声が飛んでくる。
「いい気なもんだな、瞬よ？」
「今生の最期の楽しみ、邪魔させてもらうぜ」
聞こえてきた二つの声に、瞬もジュネも聞き覚えがあった。気が付けば二人の左右の道に一人ずつ、見知った少年たちが立ちはだかっている。
「君たちは……レダにスピカだな。無事にアンドロメダ島から逃れてきたのか？」
少年たちもまた、アンドロメダ島でダイダロスに師事した聖闘士の卵だ。だが彼らの言葉や声色からは、一片の親しみも感じられない。内面から伝わってくる小宇宙も、悪意と攻撃性とに溢れている。
ジュネは二人にまで素顔を見られまいと、サッと仮面を着ける。彼らの敵意を訝しんだ瞬は、ジュネを背中に隠して二人に交互に視線を配る。
「ああ、俺たちは命の危険を冒してまで聖域に刃向うような馬鹿じゃない」
レダが口唇を上げながらにじり寄ると、それに呼応してスピカも距離を詰めてくる。
「聖域に恭順したいのは山々だが、何しろ俺たちはアンドロメダ島の出身だ。お前や先生のとばっちりで、そうそう信用してもらえない。だからな、瞬……お前の首を手土産にしてやるぜ」
下卑た含み笑いを見せて迫ってくるレダとスピカ。二人の悪意と、師からの離反は明白だ。瞬も表情を険しくさせる。
「その聖域によって、ダイダロス先生は命を奪われたんだ。ダイダロス先生が、一方的な決定で討たれなくてはならないような人かどうか、君たちだって分かっているだろう？」
「それがどうした？ ダイダロスなぞ時代の趨勢も読めず、権力者に楯突いた愚か者よ。だがな、俺たちは賢く生きるぜ。賢く頭を働かせてジュネの後を付け、こうして瞬を見つける事が出来たんだ。聖域に背く瞬も……その瞬を庇おうとするジュネも、二人纏めて教皇猊下の前に引っ立ててやる」
瞬の顔付きが一層、厳しくなる。反射的に背後のジュネに手を伸ばし、彼らの魔手から守り通そうという意志を示す。
「ジュネさんは関係ない！ 教皇が欲しているのは、このアンドロメダ星座の瞬の首だけのはずだ。君たちもダイダロス先生に教えを乞うた誇りがまだ残っているのなら、女性を狙うなんて卑怯者の手段は慎むんだ！」
「黙れ！ 聖闘士として仮面を着けた以上、そいつは女でも何でもない！」
瞬たちと二人の刺客との間は、まだ二メートルばかり距離があった。だが、そこはもうレダたちの間合いだ。二人は息を合わせたかのように得物を取り出すと、ちょうど両者から見て中間地点にいる瞬に狙いを定めた。
「その鎖は……アンドロメダ島から持ち出してきたのか!?」
ダイダロスは弟子たちを指導するに当たって、長いチェーンを自在に操るための技術を施してきた。それは勿論、アンドロメダ聖衣に付属している
「そうともよ！ アンドロメダの星の下に生まれた瞬……お前を葬るには、これが一番ふさわしいと思ってな！」
「聖衣でないとはいえ、鋼鉄製の頑丈な鎖だ。勢いをつけて放てば、お前の小さな頭蓋骨ぐらい簡単に砕くだけの威力はあるぞ！」
ぶんぶんと鎖を振り回して、それを一斉に瞬に向かって投げつける。瞬はジュネの体を抱き寄せながら、回避するために上空へと跳び上がる。瞬から見て右側から飛んできたレダの鎖はかわした。しかし、左側から襲い掛かるスピカの鎖が瞬の足首に絡まり、思い切り引っ張られて瞬は地面に激突してしまう。
「うわぁーっ」
瞬が悲鳴を上げたのは、左足を捕らえられたからでも激突によるダメージからでもない。バランスを崩した拍子に、抱えていたジュネの身体を放してしまったからだ。すかさずレダの放った鎖がジュネの首に巻き付く。頸動脈を圧迫されて呻くジュネに手を伸ばそうとする瞬ではあるが、同時にスピカが鎖を手繰り寄せて二人を引き離そうとする。
「やめろ！ やめるんだ、レダー！」
瞬の表情に焦りが浮かび、叫び声に恐怖が加わるごとにレダの嗜虐心は高まっていく。鎖をジュネの細い首に巻き付けたまま、グイと強く引っ張ってジュネの体を宙へと舞わせる。途中で鎖を解き、ジュネの身は空中で一回転した後に地へと真っ逆さまに落ちていく。
「ジュネーッ！」
瞬の必死の呼びかけも空しく、ジュネは肩を強打して倒れてしまった。致命傷ではないであろうが、起き上がる事はおろか身動きすら出来ない程したたかに体を打ったらしい。
「安心しろ、瞬。お前もすぐに楽にしてやるぜ」
「あの世でジュネと、ラブシーンの続きを演じるんだな」
素早くレダが、改めて瞬に鎖を飛ばしてくる。顔面に向かって飛んでくる鎖を、ジュネのように首に巻き付かれる前に瞬は、右手をかざして防御する。レダの鎖が瞬の手首に食い込むと、この瞬間を待っていたとばかりにレダとスピカが旋回を始めた。二人して時計回りに、瞬を軸にして回転していく。レダとスピカがそれぞれ持っている鎖は、瞬の胴体に巻きついていって次第に短くなっていく。とうとう瞬の体全体を腕も脚も含めて鎖で覆い、それぞれの先端部分を繋ぎ合わせて瞬の動きを完全に封じてしまった。
「無様な姿だな、瞬。正しくエチオピアのアンドロメダ王女そのままだ」
かつてエチオピアにて、あらゆる女神にも増して美しい王女アンドロメダがいた。その輝かんばかりの美貌を、彼女の生母はさぞ喧伝した事であろう。それこそ海のニンフもアンドロメダの前では塵芥も同然であるなどと。その結果、海皇ポセイドンの烈火のような怒りを買って、西インド洋はメッシーナ海峡の数千倍も荒れ狂う大時化に見舞われた。
アンドロメダの父王ケフェウスは、神託によって時化を止める手立てを知った。それはポセイドンによって放たれた、時化を引き起こしている化け鯨に、生贄を差し出すというものだ。水害も一大事だが、化け鯨に食われるのも恐ろしい。誰もが尻込みする生贄の役を、買って出たのが他ならぬアンドロメダ王女であった。
「アンドロメダ王女は、水害に困る人々を救うため、また母親の驕りを諌めるため、自らを犠牲にして生贄になったのさ。瞬よ、お前も聖域の……教皇猊下の怒りを鎮める生贄となるのだ！」
「それがアンドロメダ星座に生まれついた、己の運命と知れ！」
鉄の鎖でがんじがらめとなり蛭子も同然となった瞬を、レダとスピカは寄ってたかって足蹴にする。このまま瞬は、抵抗も出来ずに敗けてしまうのであろうか。否、勝利の女神は瞬を見離してはいない。
自分たちの作戦に酔い、力を過信して自惚れ、こうして勝利を誤認した者たちには到底気づきもしないであろう。瞬の肉体は少しもダメージを負ってはおらず、その上、打ち据えられる度に小宇宙が跳ね上がっていく事に。
そろそろトドメを刺そうとレダとスピカが手を伸ばした時、瞬の自由を奪っているはずの鎖が異常な熱を持っている事に気が付いた。何事かと二人が跳び退くと、ミシミシという音を立てて鎖に細かな亀裂が走っていく。
「そんな馬鹿な……瞬の細腕で、鋼鉄の鎖を引き裂くつもりなのか!?」
レダたちにとっては残念な報せだが、その予想は正しかった。鎖を熱しているものの正体は、瞬の小宇宙だ。悪に走って汚れ切ったレダたちとは異なる、純粋なる正義の小宇宙。それは瞬の思いが清高であればある程、正義のために行使しようという意思が強ければ強いほど、どんどんと高まって膂力以上の力を見せる。
「レダ……スピカ……。僕は自分の宿命から逃げたりはしない。だが、その宿命とは君たちに討たれる事じゃない。この手で地上の平和と、愛する人たちを守り抜く事だ！」
鎖の亀裂が大きくなる。まずは手足から、そして胴体に巻き付いた部分までも粉々になって飛び散る。自由を取り戻した瞬は、素早く起き上がるとレダの頭上を飛び越えて、ジュネの下へと駆け寄った。自分の身体の具合を確かめる事より、目の前の敵を倒す事よりも先に、瞬は愛する人を気遣う事の出来る人間だ。ジュネを楽な姿勢で寝かし直すと、二人に向き直って眼光を光らせる。
「アンドロメダ王女の神話の高説は、受け取らせてもらう。だけど、それは釈迦に説法というものだ。アンドロメダ王女の話は知っている君たちも、アンドロメダ聖衣を手に入れるための試練は知らないようだからね」
「試練だと？」
瞬の小宇宙と、闘志に満ちた表情に圧倒されて、二人はたじろぐ。そのアンドロメダの聖衣を現在、瞬が身に付けていないがために油断していたが、それ以上に二人は聖衣について何も知らなかった。自分たちが数年にわたって修行してきたアンドロメダ島の秘密についても、自分たちが目指していたアンドロメダの聖衣についても何の知識も有していなかった。
「アンドロメダ島最大の試練――サクリファイス。その名の通り、神話に登場するアンドロメダ王女と同じく、自らを犠牲にしなければならない。命を落とす確率の高い犠牲……かつて多くの修行者が挑み、その命を散らしていった、正に犠牲の歴史。それゆえにアンドロメダ王女の父であるケフェウスの星座を継いだ者によって、密かに受け継がれてきた秘伝の試練。君たちは、アンドロメダ島の一角にある入り江のことすら知らないだろう。僕自身、サクリファイスを志願するまで知らなかったのだから」
瞬の話が飲み込めず、レダもスピカも呆然として口を開く。その頭の中では、修行地アンドロメダ島の地理が再生されていた。だが瞬の言う通り、訓練に使われたような入り江などダイダロスからは教わっていない。
「その入り江を象徴するものは三つ。一つは、アンドロメダ聖衣が納められたパンドラボックス。一つは、飲み込まれたら五体を引き千切られそうな渦潮。最後の一つは、その渦潮に隣接している大岩。サクリファイスとは、星雲鎖によって犠牲者の体を大岩に縛りつけ、渦潮に身を差し出させる試練なのさ。当然、星雲鎖と精神を一致させ、自分の物にして解かなければ、渦潮に飲まれて命を落とすことになる。それが出来ない者に、アンドロメダの聖衣を纏う資格は無いからだ」
後は聞くまでもない。瞬は見事にサクリファイスを乗り越え、星雲鎖を手なずけたのだ。それがため、ただの鉄の鎖による束縛を外すなど造作もないという事ではない。自分の命の危機にも慌てる事無く、眠っていた小宇宙を爆発させる術を、瞬はサクリファイスを通して身に付けた。先ほどのレダとスピカによる拘束を解いたのも、その応用という訳だ。
「だが……だからといって、お前の不利に変わりはないぜ！」
「そうだ！ お前は聖衣を着ていない。つまりは星雲鎖も持っていない。素手の状態での二対一じゃ、お前に勝ち目なんか……」
怯えと焦りに襲われながらも、レダたちは強がり続ける。その態度にではなく、吐いた台詞の内容に瞬は激怒した。平生、争いや諍いを嫌って波風を立たせぬよう気を配っている心優しい少年が、頭に血が上る事を覚えた。
「僕は、戦いで人を傷つける事は好まない。だが、君たち二人に対してだけは別だ！ 正義を全うしたダイダロス先生を嘲り、自分が生き延びるために強い者に媚び、徒手空拳が信条であるアテナとの誓いさえ蔑ろにする君たちには、制裁の拳を躊躇う訳にはいかない！」
途端に、瞬の足元から烈風が立ち上る。それはまるで、瞬とジュネを守るかのように竜巻の壁を作り、その外側の世界には容赦のない暴風を巻き起こした。
「うわああぁっ……」
レダとスピカは、二人して突風に身を襲われる。情けない悲鳴を上げながら、遥か上空へと突き上げられて、たちまち見えなくなってしまった。瞬の義憤が、体内の血潮を迸らせんばかりに燃え盛った時、その小宇宙は星雲鎖を用いた時以上の奇跡を見せるのだ。
師とアテナに背いた二人を、瞬は自らの手で葬った。その心は晴れない。正義を断行したという誇りも無ければ、圧倒的な力量を見せつけたという自慢も無い。かつては共に励み、友と信じていた者たちの醜い心変わりを見せつけられ、その友と呼んだ者たちに拳を振るう虚しさだけが瞬の心を支配していた。
そんな虚ろな感傷に浸って歩みを止めるようでは、一輝に笑われてしまう。他の兄弟たちとも、並んで歩く事が出来なくなる。そんな思いから、瞬はすぐにジュネを抱えて城戸邸へと引き返していった。
「ジュネさん……。心配しないで。ジュネさんが次に目を覚ました時も、僕は側にいるよ。だってジュネさんには、もう帰れる場所が無いのだから。故郷を追われるようにしてアンドロメダ島にやってきたジュネさんには、そのアンドロメダ島が無くなってしまったら……」
修行地アンドロメダ島は、聖域の手に落ちた。自分たちを導いてくれていた、頼りがいのある師も世を去った。友だと思っていた仲間たちとも、道はバラバラに分かたれた。この世でジュネが行きつける安息の場所は、もはや瞬の腕の中以外には無い。その瞬も、これから敵の懐へと飛び込む定めにある。ならばせめて、ジュネを心底安心させてから旅立ちたかった。目覚めた時に見知らぬ場所で一人ぼっちでいる事になるジュネの淋しさを想像して、瞬は小さな胸を痛めてジュネを労わる事を選んだ。
遠くない場所で、強烈な二つの小宇宙がせめぎ合っているのが分かる。その両方を包み込むかのような、温かく母性に満ちた小宇宙も。それぞれ刺客として送り込まれた黄金聖闘士に対する、
瞬のいない内に、別の戦いが起こっていた。瞬は、守るべきアテナが敵と向かい合っている状況に気付きもしなかった。その間、無様にも敵によって動きを封じられ、犠牲者を出すという失態を演じてしまっていた。
「悔しいな……。僕はこうして、星矢と一緒に沙織お嬢さんを守る事さえ出来やしない。だけど、その代り……ジュネさんだけは、きっと助けてみせる」
三つの巨大な小宇宙が漸減するのを感じ取り、瞬は戦いの終わりと仲間たちの無事を確信した。自分は今宵、何の手助けも出来ずにかつての兄弟弟子に足止めされていた。それを恥じ、総括する事でアンドロメダ星座の聖闘士は一段と大きく成長する事が出来る。彼が目指した、雄々しきフェニックスのように。今は亡きケフェウスのように。
その時、自分の側には頼もしい事この上ない味方がいる事であろう。共に聖域に巣食う邪悪を打ち倒し、アテナを本来あるべき場に還す役目を遂げる時。そこには、かけがえのない真の兄弟の姿がある事を瞬は信じていた。
「レダ、スピカ……。僕はね、君たちとだって手を取り合って信念を全うする事が出来ると考えていた。残念だよ……僕さえ、もっと心を開いて君たちに向き合っていれば……。ダイダロス先生ばかりを見続けて、口を開けば一輝兄さんの話ばかりしていた自分を叱ってやりたいよ。君たちも、仲間入りしてくれる事を願っていた……熱き思いを共有して生まれてきた、あの素晴らしきバディたちの仲間に」
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