「旅立ち」編
第四話
中国大陸の南東部に位置する廬山。五岳と並ぶこの名山こそ、
廬山は北に、かの黄河よりも長い全長を誇る長江を臨む。今から一万二千年もの昔、長江流域では既に稲作が開始されていたという。紫龍もまた自然に帰り、畑を耕すことに精を出している。
「今日もお疲れ様、紫龍。あっ、石が多いから足元には気を付けてね」
畑から帰る紫龍の手を、同じ年頃の少女が引く。彼女は春麗。紫龍を鍛えた老師が、赤子の時に拾って育てた孤児である。同じく父母の顔さえ知らぬ孤児という境遇であった紫龍は、知り合うなりたちまち春麗と仲良くなった。
「大丈夫だよ、春麗。歩き慣れた道さ」
「でも、紫龍はまだ両目が塞がっているのよ。転んで怪我するかと思ったら、心配だわ」
その気遣いは嬉しかったが、紫龍にとっては本当に問題の無い道のりであった。例え目は見えずとも、自然に溶け込み、音や気配を探ることで日常生活は難なく行える。今だって、自分を案じる春麗の挙動や仕草、表情の変化さえ読み取れていた。そして、自分たちの行く手に現れた人影にも。
「あっ、兄さん！」
春麗が兄と呼んだ相手の存在に、紫龍はもっと前から気付いていた。柴を背負った浅黒い肌の青年は、それに応えるかのように軽く微笑んでみせた。
「なんだ王虎、お前まで俺を見くびっているのか？」
「ぬかせ。わざわざ男を出迎える趣味などあるか」
二人は、わざと本心を出さないでふざけ合う。目の見えぬ紫龍を案じているのは、春麗一人ではない。この青年、王虎も同じであった。
十五年ほど前、老師は山の中で布一枚にくるめられた赤ん坊を拾った。その子に自分の名にちなんで王虎と名付けた。紫龍に先駆けて老師に直接師事した愛弟子であり、我が子同然に育てた養子でもある。血縁関係こそ無いが、その後に拾われた春麗とは兄妹のように育った。
紫龍と王虎は、兄弟弟子として並んで修行に臨んできた。そして老師は、ドラゴンの
「あの時、俺は自分の耳を疑った。老師が、養子である俺を蔑ろにしたのが信じられぬという意味ではなく……」
「分かっているさ、王虎。俺の倍以上も老師に習ってきた自分が、老師の期待に応えられなかったことが認め難かったんだろう？」
以来、王虎は老師や紫龍との関係を絶って廬山を出奔した。行方は杳として知れなかったが、何故か老師は紫龍に捜索を命じようとはしなかった。自分が手塩にかけて育てた闘士である。落伍したからといって見捨てたとは、とうてい思えない。
王虎という男が、己に欠けている物、紫龍に劣っている物を自力で見つけ悟れる男と信じていたからこそ、何も手を打たずにいたのだ。廬山を出た時よりも数段成長して帰還する息子の姿を、老師は誰よりも待ち望んでいた。
「そうとも知らずに俺は、闇雲に力だけを追い求めて魔道に……
「
「そしてお前は、全身の血を滾らせて俺を倒した。勝利のためじゃない……友情のために我が身を犠牲に出来るお前に倒されたことで、俺は理解した。俺が、お前との競争で敗けていた物……俺が、本当に老師から認めてもらいたかった物が何であったのか……。
純粋に正義のためだけに拳を振るうことの出来るお前に対する、老師の期待の眼差し……俺が欲しかったのは聖衣なんかじゃなく、ただそれだけだったんだ。それ故に、俺はお前に敗れたのだと今なら分かる。老師に褒めてもらうためだけに修行をしていた俺と、真の聖闘士を目指して頑張っていたお前との差がな」
つい先日の戦いが遥か昔の出来事であるかのように、かつての兄弟弟子たちは本心を打ち明けて笑い合った。それを見ているだけで、春麗も幸せであった。そんな穏やかな足取りで帰ろうとしている五老峰にて、切迫した事態が引き起こっているとも知らずに。
五老峰の大滝を間近で臨める幾つかの岩場の中で、一段と高くなっている小さな足場。そこが老師の定位置であった。昼も夜も、雨や日照りの日であろうとも、老師は変わる事無くそこに座していた。
「いつぞやと変わらぬお姿、変わらぬ姿勢とは頭が下がります」
「ここへ何の用だ、デスマスクよ？ いや、分かっておるわ。教皇の差し金じゃな」
自らの前に現れた人物に対し、老師は臆する事無く目的を言い当てる。その態度に感服しつつも、黄金聖衣を着た
「私ごときの名を覚えておいでとは……光栄ですよ、老師」
一度、形だけ深々と頭を下げたかと思うと、デスマスクの姿はその場から消え失せた。一瞬の時すら挟まず、デスマスクは老師の背後へと回り込む。老師が微動だにしないのは、デスマスクの動きが見切れなかったからではない。いざとなれば干戈を交える事になる相手の力量を正確に推し量るため、じっと様子を窺っているのだ。
「思えば老師に初めてお目に掛かったのは、修行を終えて初の任務……そうそう、シュラやアフロディーテと共に此方へ遣わされた時でしたなぁ。あれから十数年とは、正しく光陰矢の如し」
さして感慨も無さそうに語るデスマスクに対して、老師もまた興味を失ったかのような口調で応える。
「そのお前にワシの命を狙わせるとは、教皇の意向が変わるにしては短すぎる期間に思えるがのう」
「世人から忘れ去られた老人には、時の流れもそう感じられるのでしょう。ともかく教皇の命令は絶対。教皇が決定された以上、貴方は要職にある重臣などではないのです」
老師は忌々しい思いを出来うる限り抑え込んで、精一杯の皮肉を返した。
「ほう、あやつも偉くなったものじゃ。黄金聖闘士の罷免を独断で決定できるなどと……これは枢機卿連中を自分の意のままに出来る者たちにすげ替えたか、あるいは解散させたか」
「それは、私の与り知るところではありません。ただし、決定的な事実が二つある。教皇の命は絶対であるという事、そして……貴方の罪は明白だということですよ。独断であろうと民主主義であろうと、聖域に背き続けてきた貴方の罪は言い逃れが出来るものではなく、その罪を罰するための命令は正当性を帯びている。泣いて馬謖を斬るが如く、これは正当な上意討ちなのです」
老師の背後を取ったまま、デスマスクが拳を固める。老師は依然として動かない。迷いの無い殺気を込めたデスマスクの拳が振り下ろされんとした瞬間、帰宅を果たした王虎の地も割れんばかりの怒声が響いた。
「貴様、何者だ!? 我らの老師に何をする!?」
攻撃を止め、声のした方に視線を向けるデスマスク。自分が今立っている場所よりも低い岩場に、三人の若者たちの姿を認める。
「老師、貴方の弟子という訳ですかな？」
今にも飛び掛かってきそうな程に敵意を剥き出しにしている褐色の青年。そのすぐ後ろで怯えたように目を見開く少女。その少女を庇おうとする、目を閉じた長髪の少年。いずれも聖衣を身に付けていない点から、デスマスクは取るに足らぬ雑兵と判断した。
「俺は黄金聖闘士、
デスマスクとしては、恫喝の意図こそあれ挑発するつもりは少しも無かった。だが、王虎の更なる怒りを買うのに不足は無かった。
「おのれ下郎！ 我が師……いや、父から離れろ！」
地面を蹴って、瞬時にデスマスクとの距離を詰める王虎。その足が着地するより前に、右の拳をデスマスクの顔面へと見舞う。だが、その攻撃は空しく空を切るのみであった。続けざまに手刀や蹴りを繰り出すも、やはり手応えは皆無。恐るべきは、王虎の猛攻をかわしているデスマスクが全く不動のままでいることだ。
「何ということだ……相手の気配は、王虎の前から全く失せてはいない。幻影などではなく、キャンサーの実体は王虎の目の前にいるのだ。にも拘らず、王虎の拳は何一つ当たっていない」
暗闇の中にあっても、紫龍は状況を正確に捉えていた。驚愕と焦燥によって王虎が歯を食いしばり、汗を飛び散らせていることも。デスマスクが、それに対して嘲笑を浮かべていることも。
「何故だ……何故、一発も当たらない！」
「よすのじゃ、王虎よ。デスマスクは……黄金聖闘士は、亜光速の動きを身に付けておるのじゃ」
愛弟子の徒労を、老師が制す。修行を完璧に終えた最下級の
「無駄を悟ったか、小僧？ 分かったら、大人しく下がっているのだ」
そう告げるや否や、デスマスクは伸ばした人差し指の先で、王虎の胸部を軽く押した。瞬間、王虎の身体は風を切って紫龍の足元にまで吹き飛ばされてしまった。
「王虎!?」
「兄さーん！」
春麗の悲痛な叫びが、滝の轟音さえ掻き消す。名を呼ばれた王虎はと言うと、己の意に反して立ち上がることも返事をすることも出来ずにいた。声を上げようとしても、代わりに口から飛び出るのは血反吐だけ。呼吸をするだけで、全身が砕け散ったかのような痛みが連続して走る。指一本で押されただけで、肋骨を折られてしまったのだ。
「なら、今度はこの龍星座の紫龍が相手だ！」
見えぬ目で息巻く紫龍を見下ろして、デスマスクはさも哀れだといった表情を浮かべた。
「よせよせ、小僧。貴様には見えなかったであろうが、黄金聖闘士と青銅連中とでは天と地の百倍は開きがあるのだ」
「それがどうした？ お前もまた、教皇の命で動く輩だろう？ 悪の化身である教皇に従う者は、例え黄金聖闘士であろうと邪悪に染まった暗黒聖闘士に過ぎん。その悪を倒すことこそ、我が使命！」
紫龍の物言いに対して、デスマスクは吐き捨てる思いで言い返す。
「燕雀安くんぞ鴻鵠の志を知らんや。極東でせせこましい戦いに明け暮れている青銅ごときが軽重を問うなどとは、おこがましいにも程があるぞ」
しかし紫龍には、悪の片割れの言葉に耳を貸すつもりは毫も無い。目は見えずとも心の眼で敵を見据え、体内に眠る戦いの
「王虎、お前!?」
見れば傷ついた王虎が、両脚で立って割り込んできた。左手で胸を押さえ、前屈みとなった姿はとても余力があるとは思えない。口からは血が零れ、霞んだ目で必死にデスマスクを捉えている。
その時、紫龍は気が付いた。王虎の左手は、何も負傷を庇っている訳ではないということに。胸の、ある一点を紫龍に指し示していることに。
「王虎、まさか……」
もはや頷くことさえ容易ではない。微かに睫毛を震わせることで、王虎は紫龍に応える。春麗は腰が砕けて座り込み、すがるような視線を向けることしか出来ない。故に、二人の間に交わされた声無き会話を察することは出来ない。デスマスクの側で、老師だけが弟子たちの意思を酌んで見守っている。
「手を下げろ、王虎。位置は既に分かっている。お前が俺に施してくれた、あの時にな」
王虎の正面に立った紫龍は、富士の風穴でのやり取りを思い出していた。そして王虎が指していた胸の一点目掛けて、真っすぐに拳を突く。まさか紫龍が王虎にトドメを刺すなど微塵も考えていなかった春麗は、両腕を伸ばして悲鳴を上げるところであった。だが次の瞬間、王虎の足取りに幾らか生気が戻ったのを見ると、大きく開けた口と瞳孔をゆっくりとすぼめる。
「流石だ、紫龍。物の見えぬ者とは思えぬ程、正確に俺の心央点を突いてくれた」
血止めの急所と呼ばれる心央点。そこに刺激を与えることで、出血が収まると同時に失われた体力もある程度取り戻すことが出来る。何を隠そう、富士の風穴での戦いの折、紫龍は相討ち覚悟で王虎に必殺技を放った。その反動によって開いた傷口からの出血を抑えるべく、他ならぬ王虎が紫龍の心央点を打ったのだ。戦いを終えた者同士の和解と、罪を悔いた者の改心の証に。
「デスマスクとやら、これで俺にも必殺の奥義を放つ力が戻った訳だ。老師は絶対に死なせん……。受けよ、我が奥義！ 烈風紫電拳！」
電流を帯びた小宇宙が、王虎の右腕から飛び上がってデスマスクの心臓へと走る。その強烈な小宇宙を肌で感じ取り、紫龍は自分の背中が汗をかいているのに気付いた。この王虎の必殺技によって、実際に死の狭間へと送り込まれた紫龍には、その凄まじさが誰よりも分かっていた。
「いくら黄金聖闘士と言えども、これで決まりだ……いや、何!?」
ほぼ同時に、紫龍と王虎が声を上げる。王虎の放った烈風紫電拳は、直撃さえすれば人体へのダメージは計り知れない。だが、そもそも命中しなくては効果は得られない。デスマスクは今度は回避することさえせず、必殺の電流を防御した。
その防御にも、特に何かをしたような動きは見られない。烈風紫電拳は、ただ突っ立ているだけのデスマスクの眼前で、独りでに威力を衰えさせて消滅してしまった。傍から見れば、本当にそうとしか描写のしようがない。だが、実際に攻撃を繰り出した王虎には分かっていた。烈風紫電拳は、間違いなくデスマスクのより強大な小宇宙によって阻まれてしまったのだと。
紫龍も同じだ。その身に烈風紫電拳を受けた経験があるからこそ、デスマスクの実力に自然と悪寒が生じる。自分では、決して防御もままならなかった攻撃をいとも容易く防いでしまえる黄金聖闘士を前にして、一瞬でも絶望感を抱いてしまった。
「信じられない！ これが……これが、黄金聖闘士の実力なのか？ 白銀聖闘士とは、まるで比べものにならない！」
「愚かな奴よ。我らから見れば、白銀も青銅も変わらぬ。蛮触の争いにも満たぬ者同士の背比べよ。そして、俺はそんな木端の相手に時間を取りたくはない。ここいらで沈黙してもらうぞ……永遠にな」
不吉な予言を残し、デスマスクの姿が視界から消える。それと同時に巨大な小宇宙が背後に発生したのを感じ取り、紫龍と王虎は一斉に振り返る。いつの間にかデスマスクが自分たちの後ろに回り込み、不気味な笑みを浮かべていた。
「この蟹座のデスマスクが司る星座の中に、プレセペと呼ばれる散開星団があるのは知っているか？ 東洋占星術において、プレセペは積尸気……すなわち死体から浮かび上がった魂魄が辿っていく道筋だと言われている。その積尸気を自在に操れるからこそ、俺はキャンサーの黄金聖衣を纏っているのだ」
黄金色に輝く蟹座の聖衣の表面に、うっすらと灰色がかった燐気が渦巻き出す。それこそデスマスクがこの場に呼び寄せた、積尸気と繋がる穴に他ならない。流石の老師も顔色を変え、いざという時に備えて視線を凝らす。
「さあ、この穴を通ってあの世へ旅立て。積尸気冥界波！」
デスマスクの突き出した指先から、一条の光線が放たれる。限りなく光に近い速さで飛んでくる光線を避けれず、王虎は直撃を受けてしまう。その瞬間、王虎は視界が闇に閉ざされる感覚を味わった。ざわめく滝の音さえ、どんどんと遠ざかっていく。意識が失われていく感じに近いが、それよりも遥かに絶望的な予感が容赦なく襲い掛かる。
「何だ……どうした、王虎ー!?」
状況が掴めず、紫龍は隣にいるであろう友に精一杯の大声で呼びかける。だが、返事は来ない。積尸気冥界波は、王虎の肉体には全くダメージを与えていない。脳神経を破壊する類の技でもなければ、小宇宙に直接作用するものでもない。ただ相手の魂を、直接送り込むだけなのだ。静寂にして無情な冥府へと。
「いかん……」
短く呻いて、老師が掌から王虎に向かって光を放つ。その光に肉体を包まれた王虎であったが、既に魂を捕らえられていた弟子を救うこと能わず。王虎は、既にこの世の者ではなくなっていた。作り物の人形のように、王虎の身体が五老峰の大地に倒れ込む。
「王虎ーッ！」
紫龍の悲痛な叫びも虚しく、王虎の魂は黄泉の国へと飛び立った後。そこにあるのは、死後硬直を待つのみとなった遺体である。春麗はもはや声を上げることすら出来ず、肩を震わせながら意識を手放した。兄と慕っていた親しき人を目の前で失ったのだ。その悲しみから逃れるには、自らも現実世界から離れるよりなかった。
しかし、非情なる敵は一縷の憐みも表さない。再び亜光速の動きで王虎の側に近づくと、物を扱うかのようにして滝壺へと遺体を蹴落とした。その所業に怒りの視線が注がれようとも構わず、デスマスクは王虎の他愛の無さを嘲る。
「所詮は青銅にも成り損ねた雑兵。当然の末路よな。そして老師……貴方の力をもってしても弟子を救うことは出来なかった。くっくっく……本当に老いてしまわれましたなぁ？ 黄金聖闘士の一人、
これで邪魔者は消えた。老師の力量も見極めた。後は本来の仕事を速やかに終えるのみ。そう考えていたデスマスクの行く手に、紫龍が敢然と立ちはだかる。
「せっかく俺の力を教えてやったというのに……まだやる気か、小僧？」
「当たり前だ！ 相手がどんなに強大であろうとも、正義を守り抜くためには俺たち聖闘士に退く事は許されん。こういう時こそ、勇気を振り絞るのだ！」
「馬鹿め。それを匹夫の勇と言うのだ」
余程の自信からか、デスマスクは両腕を広げてみせて紫龍の攻撃を待ち受ける。その様子を感じ取りながら、紫龍は攻略法を考えていた。この相手に、生半可な技は通用しない。そればかりか、亜光速で動かれては命中させることすらままならない。
ここはまず、老師から学んだ最速の技を打ち込んで敵の足を止め、すかさず最大の必殺技、廬山昇龍覇でトドメを刺す戦法に賭けた。
「行くぞ、デスマスク！ 廬山龍飛翔！」
紫龍の全身を、龍神の小宇宙が覆う。その状態で自身の体を弾頭に見立てて、デスマスクへと突進を繰り出す。実戦を重ねたことで、紫龍の小宇宙は老師からドラゴンの聖衣を授かった当時より、格段に上昇している。今の自分なら、亜光速に近づくことも出来るはずだと踏んでいた。
「そんな……俺の最速の拳までも、余裕で躱すとは……」
しかし、無情にも紫龍の拳はデスマスクの肉体を捉えることは出来なかった。それに反し、デスマスクは苦い表情を見せる。黄金聖衣の背から、純白のマントが外れて宙を舞っている。躱したと思っていた廬山龍飛翔が、聖衣をかすめていたのだ。そのことが、黄金聖闘士のプライドを傷つけた。
「おのれ……聖衣も身に付けず、両目も閉ざされたガキだと思えば……。許せん！」
デスマスクの意識が眉間へと集中していく。今度は、積尸気を操るのではない。この男には、まだまだ攻撃手段が残されている。
「小僧、蟹座のアルファ星アクベンスの名の意味を教えてやる。それはアラビア語で『蟹の爪』という意味を持つのだ。それにちなんで貴様は、化け蟹の巨大なハサミで五体を引き千切られる苦しみを味わうがいい」
視界の利かない紫龍は、残った神経を研ぎ澄ましてデスマスクの攻撃の正体を掴もうとする。今のところ、敵本体に目立った動きは無い。小宇宙こそ漲ってはいるが、それを直接ぶつけてくる気配も無い。ただ何故か、先ほどから地面が揺れて左右から異様な音が迫ってきている。
「いかん。紫龍の奴、完全にアクベンスに捕らわれてしまっておる」
自分の身に何が迫っているのか。把握した時には遅かった。紫龍は何と、隆起した岩に左右から挟まれて身動きを封じられてしまっていた。これがデスマスクの能力の一つ、サイコキネシスである。その卓越した念動力によって、大地さえも自在に操作してしまえるのだ。
「今の紫龍では目視が出来ず、サイコキネシスであるため小宇宙のように動きを感じ取れず、例え地面が隆起する音は聞こえようとも常軌を逸した現象のため、気配や聴覚を頼りに予測することも出来なかった。全て計算ずくとはデスマスク……恐るべき男になったものよ」
左右から腰の部分を圧迫されて、紫龍は血を吐く思いで呻く。その悲鳴が廬山中に響くほど小宇宙を高めようと、力一杯に岩石を叩こうとも、一向に紫龍の身を縛るサイコキネシスから逃れることは出来なかった。その力は、どんどんと強まって紫龍の体に食い込んでいく。宣告の通り、紫龍の体を切断するまでアクベンスは解除されない。そんな状況下、紫龍の脳裏に諦観がよぎり、デスマスクが得意の真っ只中にいた時、異変は起きた。
「な、何だと!? 俺のアクベンスが……解かれていく？」
あれほど紫龍を痛めつけていた左右の岩石が独りでに離れ、地面の隆起が収まっていく。紫龍のことを容赦なく攻めていたデスマスクが、自分で技を止めるはずがない。かといって、デスマスクのサイコキネシスに逆らえる者など瞬時には思い浮かばなかった。デスマスクは、サイコキネシスに関してだけ言えば、例え教皇であろうとも自分より上の使い手はいないと自負していたからだ。
「まさか貴方の仕業か、老師？」
慌てて見上げるデスマスクであったが、老師の視線が紫龍とは別の方向へ向けられているのを確認して、自らも老師の視線を追う。そこには、自分が身に付けているのと同じく金色に光る黄金聖衣を纏った男が立っていた。一瞬、デスマスクは誰が自分の邪魔をしたのか分からなかった。だが、その人物が着ている聖衣の形状から想像力を働かせる。
「その聖衣は、
デスマスクの記憶の中にいるムウは、十数年前に見た最後の姿から止まっていた。まだ聖闘士になったばかりの、少女のような顔をした子供の姿から。そのムウが大人となり、凛として黄金聖衣を纏っている。身長も自分と変わらないくらいにまで伸び、顔付きも一廉の闘士の趣を見せている。
「いかにも。その紫龍は、私もまんざら知らぬ仲ではない。むざむざと死なせるのは惜しいと思い、こうしてジャミールから急ぎ駆けつけた次第です」
ジャミールのムウといえば、地上で唯一残った聖衣の修復者として有名だ。もっとも正確な所在を知る者は少なく、半ば伝説と化していた。紫龍は老師からムウの居場所を聞かされ、ジャミールまで会いに行ったことがある。恐らくは以前から、老師とムウは結託して水面下で聖域と反目していたのであろう。
「さあ、デスマスク。このアリエスのムウが老師の側に加わったとしても、まだ貴方に与えられた任務を遂行する気がありますか？」
それは挑発なのか、それとも威嚇なのか。真意がどうであれ、もはやデスマスクに戦意は無かった。この十数年間、デスマスクは一度たりともムウとは会っていない。その間に、いかなる成長を遂げたのか。あの闘争心の欠片も見せずにいた痩躯の子供が、絶大な自信を誇る自分のサイコキネシスを破ったのだ。他にいかなる技を秘めているのかも見定めぬ内は、黄金聖闘士を二名を相手取るのは得策ではないと判断した。
「いいだろう、ムウ。老師も含めて貴様らの命、次に会う時まで預けておくぞ」
捨て台詞を吐くと、デスマスクは身を翻して五老峰の大瀑布の中へと身を躍らせる。まだ怒りの収まらぬ紫龍は、逃すまいと声を荒らげる。
「待て、デスマスク！ まだ勝負は……」
「ドラゴンの紫龍と言ったな？ せっかくムウに拾われた命だ。僅かな間とはいえ、大事にした方がいいぞ。俺の方は、逃げも隠れもせぬ。恨みを晴らしたければ、いつでも聖域の巨蟹宮を訪ねるがいい」
全くもってデスマスクの言う通りなのだ。今の紫龍の実力では、黄金聖闘士には到底歯が立たない。水に溶け込みながら薄れゆくキャンサーの嘲笑を、歯噛みにしながら耳にするしかないのだ。
「ダバダッ、ダバダッ、ダバダバ～」
更なる挑発のためか、軽快にスキャットを口ずさみながらデスマスクの姿は水しぶきの中へと消えていった。その気配も小宇宙も完全に廬山から失せるのを確認すると、ムウは老師の前に跪いて見解を述べる。
「老師、差し出がましい真似をしてしまいました。その埋め合わせとして、私が掴んだ情報をお耳に入れさせてください。私がジャミールにて東京の様子を遠隔視したところ……どうやらアテナが、日本の青銅聖闘士たちを率いて聖域へと遠征へ向かわれることを決めた模様です」
老師も、ある程度の予測はついていたのかムウの報告に驚いた様子もなく、ただ深く頷いた。そして紫龍に向かって、戦いの労をねぎらうより先に命令を下す。師としてではない。最上位の黄金聖闘士としてだ。
「聞いたな、紫龍よ。お前もアテナの正体を知る一人なら、今すぐお前の知るアテナの所へ向かうのじゃ。お前の兄弟たちに後れを取る前にな」
師の仰せとあって、紫龍は急いで跪いて肯んずる。然はいえ、気がかりなことも多かった。
「のう、紫龍……天から己に課せられた運命を見誤ってはならぬ。今のお前がすべきことは、王虎を弔うことでも春麗を気遣うことでもない。こうした不幸な結末を地上全体に蔓延らせようとしている、聖域の邪悪……すなわち教皇を討つことじゃ。
ワシもまた、お前や王虎が歩む運命を阻む権利は無いとして、心を鬼にして敢えて成り行きを見届けた。王虎は死に、お前は生き延びた。その命、何のために使うのが正しいか悟れぬとは言わさぬ」
力強く諭され、紫龍の表情から戸惑いが失せた。死地へと向かう戦士の顔となり、紫龍は決意の小宇宙を師へと示す。
滝壺から、静かに王虎の遺体が浮かび上がってくる。それが誰の仕業によるものか、目は見えずとも今の紫龍には察しが付いた。その目的もまた推察することが出来、紫龍は深々と頭を下げる。
「ありがとう、ムウ。俺に代わり、どうか友の墓標を廬山の大地に立ててほしい」
「彼の救出に間に合わなかったのは、私の不徳でした。しかし、その勇敢な姿はしかと見届けた。安心なさい。丁重に弔うことを約束しましょう」
ムウの心配りには、老師も視線の端で感謝を伝えた。我が子同然に育て、将来を期待した弟子が本懐を遂げる事無く世を去ったのだ。老師もまた胸が引き裂かれる思いであったろう。今は、それを堪えて戦わなくてはならない時である。もう一人の弟子を戦場へと送り込まなくてはならないのに、自分が悲しみに暮れて弱さを見せてはならない。それがために弟子の戦意を損なわせて、返り討ちに遭うような事態は決して引き起こしてはならない。
そういった心境を全て理解したからこそ、紫龍もまた応えなくてはならないという気持ちを起こしていた。未だ気を失って倒れる春麗を残してでも、ドラゴンの名を持つ聖闘士は旅立たなくてはならなかった。志を共にする仲間との合流を果たし、諸悪の根源たる教皇を打ち倒す。今は、そのことだけを念頭に置くべきだと紫龍は自分に言い聞かせた。
「では、これより日本へと参ります」
一礼を済ませて立ち上がる紫龍に、老師が「うむ」と応える。その脇に立つムウも、穏やかな微笑をたたえて紫龍を後押しする。
「何も臆することはありません。君の前途には、闇ばかりが待ち受けている訳ではない。例え光が見えずとも、その暗闇へと共に突き進んでくれる仲間が君にはいる。私も及ばずながら、君たちの手助けをしましょう」
その申し出に対し、紫龍の代わりに老師が確かめた。
「ムウよ、そなたが聖域まで出向いてくれるというのか？」
「ええ。アテナの安全も考えれば、最前線で彼らを導く役目を担う黄金聖闘士が必要と存じます。ですが、老師には五老峰から離れられぬ事情がありましょう。となれば、ここは僭越ながらアリエスのムウが」
その微笑みに、偽りは感じられなかった。確かな信頼と安心感があった。紫龍と王虎が全く敵わなかったデスマスクをも退けたムウが、はっきりと協力の意思を示してくれた。それだけで紫龍には、どれだけ支えとなったろう。聖域を相手に最後まで戦い抜く自信と勇気が自分の中で根付くのを、紫龍は確かに感じていた。
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