「旅立ち」編
そして出陣の日
出発の準備は整った。
残る黄金聖闘士は八人。その内、今持っている情報と照らし合わせてみれば、立ちはだかる壁、命を狙ってくる敵として明白なのは三人だ。五老峰に現れた
一晩、それらについて意見を交わして対策を練った。相手は、これまで以上に強大な存在である。果たして今の自分たちの実力で渡り合い、勝利をもぎ取ることが出来るのであろうか。否、勝たなくてはならない。負ければ、その瞬間にアテナの身を教皇の前に晒させる事となる。聖域を牛耳る教皇にとって、沙織を闇に葬り自分の正当性を認めさせる事など造作もあるまい。その教皇に従う黄金聖闘士たちに、若き
「こんな時、
不意に瞬が、弱気とも取れる言葉をこぼす。意図しての発言ではあるまい。それは、他の者たちも一様に考えていた事なのだから。
「俺には、信じられなかったぜ。一輝が突然、俺たちの前に姿を現して、
「この世の地獄と謳われるデスクィーン島……。俺たちは、ほんの僅かでも救われたと思ったものだ。自分の修行地が、そのデスクィーン島でなかったことに」
紫龍の言葉に、星矢が肯んずる。
「ああ、その通りだぜ。一輝には気の毒だと思ったけど、俺たちは一輝なら必ずフェニックスの聖衣を持ち帰ってくれると信じていた」
多くの孤児たちが集められた環境にあって、一輝と瞬は数少ない兄弟の間柄であった。大人しく、顔立ちも女の子のような瞬は、常に周囲のからかいの的であった。それは、両親のいない寂しさや不安を紛らわすための手段であったのかもしれない。孤児院の大人たちの目には、そう映ったかもしれない。だからこそ、いじめっ子に対して強く注意する事が躊躇われたとしても不思議ではない。
だが子供たちの世界では、そういう訳にもいかない。例え、相手がいかなる心の不安を抱えていようとも、同年代の子供にからかわれて、それで良い気持ちのする人間がいるであろうか。相手の気持ちなど、考えている余裕はない。いじめられれば、それが憎くて悔しくて仕返ししてやりたくなる。瞬自身が、そういう状況に置かれても自分では決して反抗しない性格であった分、二歳年上の兄一輝がいじめっ子に向かっていくのであった。
「僕にとって、兄さんは強くて大きくて、とても温かな……絶対的な存在だった。兄さんと離れ離れになるのは辛かったし、それ以上に兄さんが酷い目に遭っているかもしれないという事が、堪らなく辛かった」
「それでも、信じていたさ。俺たちも、一輝が一人でも生きていけるほど強く、子供ながらに立派で誇り高い男だと知っていたからな」
「だから、余計にショックだったぜ。あの一輝が、まさか
日本に帰ってきた一輝は、昔、必死に守ろうとしていた瞬の命さえ奪おうとする程に性格が豹変してしまっていた。話でしか聞いた事のないデスクィーン島ではあるが、その話を聞いただけでも恐ろしい気分を味わう事ができる。聖闘士候補の孤児たちは、意地悪な大人からデスクィーン島の話を聞かされるだけで怯えながら夜を明かし、そこへ送り込まれない事を天に祈っていた。
一輝もまた、父や母を知らずに育った。それでも、彼には瞬という弟がいた。自分よりも小さな命を守らなくてはならないという責任があった。それがため、一輝は十歳に満たない程の幼少期から自立した人間に育った。全ては、愛する弟を守るため。自分を信じてくれている弟を、その小さな手で幸せにしてやるために。そんないじらしい心掛けも粉微塵にしてしまうほど、デスクィーン島の環境は地獄そのものであったのだろうか。
一輝は、何も語らぬまま再び姿を消した。射手座の聖衣を奪い返すべく、一輝が逃げ込んだ富士の風穴へと追いかけ、そこで一輝が配下としていた暗黒聖闘士たちを倒し、とうとう一輝を追い詰めた。その憎しみの
激戦の末に、射手座の聖衣の加護によって立ち上がった星矢が、仲間たちの小宇宙を集約して放った必殺拳によって打ち砕いてみせた。一輝の心に巣食う、漆黒のわだかまりを。一人ぼっちで苦しみ悩んでいた一輝の心の弱さを。それを見たくないからこそ、それが偽りの姿であることを知っていたからこそ、星矢は躍起になって一輝の心を晴らすことに努めた。そうして一輝は、憎しみに負けた己の弱さを認め、和解したのだ。自分の弟たちと。
「フッ、星矢よ……地獄の苦しみを味わってきたのは、何も俺一人ではなかった。お前も瞬も、紫龍や氷河も皆が等しく孤独の内に地獄を見てきたはずだったな。なのに、俺だけが過酷な環境に耐え切れず、自分の運命を呪い、魔道に落ちてしまった。何が弟を守る立派な兄だ……その弟たちの頑張りを棚に上げて、自分だけが不幸な面をしてしまった。
今だから言うが……俺は昔、お前たちのことを心の中で侮り続けてきた。与えられた環境に満足している甘ったれだとな。それに引き替え、俺はこの歳で弟の瞬の保護者にもなったなどと誇っていた。そうした勘違いが、余計に周りをガキだらけに見せていた。実際はどうだ？ こうしてそれぞれの修行地から戻ってみれば、俺だけが皆の成長から取り残された一番の弱虫だったぜ。
なあ、星矢よ……こんな俺でも、お前たちは必死になって昔の俺に戻そうとしてくれた。実力では決して敵わない俺に向かって、何度でも挑んできた。それは、俺を倒そうなどという憎しみの心からではなく……そうでないからこそ、最後には俺の拳を上回った。フッ、考えてみれば始めから俺には勝ち目など無かったのさ。一人ぼっちの俺では、お前たちの兄弟愛に勝つ事など出来るはずがなかったな。
今こそ言おう、我が弟……星矢よ」
和解の瞬間、一輝は自分たちの出生の秘密を明らかにした。それこそが一輝だけが修行地で掴んだ事実であり、それこそが一輝を豹変させた真実に他ならない。グラード財団によって集められ、聖衣を日本に持ち帰るべく世界各地へと送り込まれた孤児たち。それらが全て、グラード財団の総帥であった城戸光政の血を引く兄弟であるという事実。
「だからこそ一輝は、自分の体に流れる血を嫌悪し、この上なく憎悪したんだと思う。この世で最も嫌い、憎んでいる城戸光政が自分の父親だという話をデスクィーン島の師匠に聞かされたんだ。みなし児だった過去さえ霞むほど、運命を決定した神を罵った事だろう。その上、全ての元凶である光政の爺さんは一輝の手の届かない所――少なくとも天国ではないだろう――へと旅立っちまった。一輝は失ってしまった復讐の相手を、光政の血を継ぐ全ての子供たちへと向けたんだ」
「それでも、最後は兄さんも皆を許してくれたんだよね？ これで、また元通りになれるって信じていたのに……」
「一輝の奴は、そのまま富士の地底へと飲み込まれていった」
「ああ。俺たちや王虎は、ムウによって何とか助けてもらったが……」
一輝の結末については、誰も語ろうとはしない。その死を認めたくない以上に、その生還を信じているからだ。きっといつの日か、両の脚で兄弟たちの前に帰還する日があると信じている。兄弟が揃って心から笑い合える日の到来を、誰しもが疑いもしない。
「さあ皆、ジェット機の準備も整いました。善は急げです。ギリシアへと向かいましょう」
会議の場に沙織が顔を出して、星矢たちの出発を促す。ギリシアまでは、グラード財団が保有する当代最速の飛行機で移動する予定だ。その飛行機のスピードをもってしても、到着には丸一日近くを要する。相談の続きは、その飛行機の中でしろという事だ。
出発の前に今一度、瞬はジュネの部屋に立ち寄って別れを済ませ、他の者は自分たちの聖衣櫃を背負って星空の下にいた。聖衣は無機質なプロテクターでは決してなく、生命さえ損なわれなければ日を置けば自然と傷を修復する。彼らの青銅聖衣も、戦いによる破損はあらかた直り、何とか装着することは出来そうに見えた。
「俺はもう一つ、この射手座の聖衣も運んでいくぜ。なにしろ一輝やアイオリアと対峙した時も俺を守ってくれた、いわば守り神だからな」
背に担いだペガサスの聖衣櫃の上に黄金色の箱を重ねて、星矢が頭上を見上げる。冬の空には、ひときわ目立つオリオン座の三つ星と大三角が変わらぬ輝きを見せている。この満天の星のどこかに、人間それぞれが持つ自分だけの星座が浮かんでいる。星矢たちは、自然と自分たちの守護星座を探し始めた。
ふと星矢の脳裏に、今日までの日々が去来する。血と泥にまみれた記憶も、愛に溢れた思い出も全てが蘇ってくる。
「ギリシアでの修業や、日本に帰ってきてからの戦いで傷を負い、正直に言って嫌になる事もたくさんだ。そんな日こそ、姉さんに会いたいと強く願った。あの温かで優しい腕に抱かれて眠りたいって、そう何度も願い続けてきた。
だけど、そんな戦いで傷つく事……辛い思いだけが聖闘士の全てじゃないんだ。傷ついたままなんかじゃない。どんなに傷つこうとも、どんなに辛い目に遭おうとも、どんなに過酷な運命に生まれつこうとも……俺は天を自由に翔けるペガサスのように生きてやる。傷の一つ一つを勲章に出来るよう、雄々しく生きてやると自分の星に誓ったんだ」
夜空を見上げて宣言する星矢の想いに応じるように、他の聖闘士も一斉に頷く。戦いの女神アテナの化身である沙織の目に、彼らの未来はどう映っているのであろうか。出来れば、彼らが無事に勝利を収めている姿を目撃したい。そのために自分が、いかにして少年たちを導けるか。その細い両肩に掛かる運命と責務の重さを感じつつ、現代のアテナは聖闘士たちを先導して飛行機のタラップを踏んだ。
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