「黄金聖闘士」編
第一話 白羊宮
「さっすが世界に誇るグラード財団保有のジェット機は速いな。正に銀河大陸横断ってところだぜ」
自らがギリシアから日本に帰国した際の移動時間と比較して、星矢が感嘆の声を上げる。彼は今、あの長く厳しい修行の地に再び降り立ったところだ。
ギリシア最大にして最古の都市――アテネ。神話の時代、この地はアッティカと呼ばれていた。その領有を巡って戦いの女神アテナと海皇ポセイドンとの争いが勃発。勝利を収めたアテナの名にちなんで、今なおアテネと呼ばれている。
「どうだい、沙織さん？ 何か感慨深いものでもあるかい？」
女神アテナの生まれ変わりとして生を受けた城戸沙織は、到着して以来ずっと周囲を眺め続けていた。彼らを乗せたジェット機が降りたのは、都市部から離れた場所だ。やけに開けており、人の生活感は見られない。舗装されていない地面はゴツゴツとしていて歩きづらく、風化が進んだ白いブロックが積まれている以外に建物の影も見られない。
そんなうら寂れた風景に、十四、五歳の少年少女の心を動かすものがあるだろうか。沙織の背中を見つめる星矢たち四人の少年は、神話から取り残されたかのような光景に目を配る沙織の反応を待った。
「星矢……ここは訓練地の外れではありませんか？ ちょうど、ここから東に少し歩いた場所に闘技場があったはずです」
振り返って、少しだけ微笑んで語り掛けてくる沙織の言葉を、星矢はハッとした表情で肯定する。
「そうだよ。俺は、その闘技場でカシオスという男を倒し、その実績を認められてペガサスの
おどけたように肩をすくめてみせる星矢に、穏やかな視線が集中する。言葉は少なかろうと、星矢が六年間に及ぶ修業期間の中で体験した耐えがたい思いは、皆に伝わっていた。星矢の側に立つ同年代の少年たち――紫龍、氷河、瞬もまた、それぞれの修行地で聖衣を手に入れるために苦しみ続けてきたのだから。
「それなら、私たちが目指す十二宮は……あちらですね」
一方の空を見つめ、沙織が一同を先導する。彼女の脳裏には、神話の時代より幾度となく歩んできた道のりが意識することなく浮かんでいた。この世に邪悪がはびこる時、地上の正義と平和を守らんがために現れるアテナの
「ねえ、星矢……十二宮って、どんな所なの？」
亜麻色の髪をした少年が、星矢の肩越しに尋ねてくる。視線だけを向けた星矢の双眸が、アンドロメダ瞬の大きな瞳を捉える。一行の中で、沙織を除けばギリシアに最も詳しいのは星矢だ。残りの二人、ドラゴン紫龍とキグナス氷河も自然と星矢の側に寄ってきた。
「よし、じゃあまずは
話している最中でも足を止めない。星矢の視線が、一瞬だけ前を歩く沙織に向けられた。
「最も肝心な場所……つまり俺たち聖闘士が仕えるアテナが住むとされるアテナ神殿だ。そのアテナ神殿に行くための道は、一つしかない。最強の名を冠した十二人の
「なるほど、黄道十二宮になぞらえてあるという訳か。しかし、俺たちが本当に倒すべき敵は黄金聖闘士ではない。黄金聖闘士を含め、俺たちを除く全ての聖闘士を操る邪悪の化身……教皇のはずだ」
紫龍の理知を感じさせる視線が星矢に注がれる。先に十二宮を目指すと口にしたのは沙織であるが、いかに年頃は大差ないとはいえアテナを問い詰める訳にはいかない。それを理解し、星矢も不満を漏らすことなく返答する。
「ああ、教皇の間っていうのが、ちょうど双魚宮とアテナ神殿との間にあるんだよ。教皇はアテナの補佐役……衆目に晒されるのが憚られるアテナと、他の聖闘士たちとの取りなしをする立場にあるからな」
「つまり、俺たちが倒そうとしている教皇の所まで行くためには、十二人の黄金聖闘士を倒して十二宮を突破しなくてはならないということだな」
話の決着を氷河が冷静に纏める。紫龍と瞬も、合点がいったという具合に頷いた。
「そういうこと。ただ、十二宮自体には俺も足を踏み入れたことはない。余程のことが無い限り、俺のような訓練生が近づいていい場所じゃないって聞かされてたからな」
「ですが、今は余程のことが起こっているのでは？」
それまで沈黙していた沙織が、星矢たちに背中を向けたままの状態で口を開く。本来はアテナを支え、聖闘士を指揮して邪悪を討ち滅ぼす役目にある教皇が、恐れ多くも野心に駆られてアテナから権力を奪い取ったのだ。しかも多くの聖闘士たちは、その事実に気付いてもいない。未だに悪の教皇が発する言葉を、アテナの代弁であると信じているのだ。
その教皇を糺し、沙織をアテナ神殿へと返す。星矢たちが十二宮の敷居を跨ぐには、十分な理由であった。
「聞くならく、このギリシア共和国は十年ほど前までは軍部が政権を握り、独裁を敷いていたそうです。それも市民の力によって反対の声が高まり、ついに武力による政治は崩壊を迎えました。外国に亡命していた首相（後に大統領）も帰国され、政治は安定に入ったのです。聖域もまたギリシアの一部となれば、必ずや僭主と話をつけねばなりません」
右手に黄金の杖を携えて、一歩一歩と踏みしめて歩く沙織の後姿は、しなやかで優美な事この上ない。それでいて、オリンポスの王ゼウスから生まれた女神の威厳も備えている。このアテナの化身を前にしては、謀略と暴力とで聖域の権力を奪い取った教皇とて膝を屈するより他はあるまい。
さはいえ、胸の中から不安が綺麗さっぱりと失せた訳ではない。沙織と星矢たち青銅聖闘士が教皇の間に辿り着く前に、何かしらの妨害をしてくるであろう事は十分に予想がつく。もし、その不安を更に拭ってくれる要素があるとすれば、それはあの二人に違いがなかった。星矢が修行地の聖域において、心の底から尊敬し信頼していた二人の存在が先程から星矢の頭を駆け巡っていた。
「魔鈴さん……それにアイオリアは、どうしたんだろうか？ 聖域の内情を探るためと言って俺たちに先駆けたのに、一向に何の連絡もよこさないなんて」
星矢を直接指導し、鍛え上げた女聖闘士――鷲座の魔鈴。そして、聖域内の訓練を統括していた黄金聖闘士――
沙織も自身の出陣の件は、魔鈴とアイオリアの働きを信用していないかのような性急さを示しはしないかと気を揉んだ。一方で、信頼のおける彼らから報せの一つもないということは、彼らも危うい立場に追い込まれているのではないかという予測も立った。ギリシアに到着してもなお、魔鈴たちと合流を果たせないことを心苦しく感じながら、変わらぬ信頼を寄せていた。
「それは確かに残念なことです。私がもう少し辛抱強ければ、きっと彼らが教皇にとって不利となる材料を見つけてくれたでしょう。そうすれば、世論を味方に付けて教皇側とも話し合いで平和的に解決できたかもしれない。アテナと教皇の正閏を問うのは、何も力ずくとは限らないのですから。
彼らを名誉ある現代のカリアス（ペルシア帝国との和睦交渉に当たり、五十年に亘る戦争を終結に導いた古代ギリシアの政治家）として名を刻ませることが出来なかったのは、私の不徳に他ありません。ですが、こうして現に聖域にまで来た以上は、星矢……貴方たちが、何よりも頼りです」
他ならぬアテナからの信頼を示す言葉。その重みを心に染み込ませ、少年たちは力強く頷いた。その両肩に世界の明暗がかかっているという重責は、確かに感じられる。だが、それすら重荷とならぬ程に少年たちの心は晴れていた。自分たちの意思で認め、仕えているアテナからの信頼は、それほど彼らの芯を強くさせていた。
一歩、また一歩と十二宮に近づくごとに彼らの胸は高鳴り、闘志は漲っていく。自分たち青銅聖闘士より遥か上位に立つ黄金聖闘士との戦いを前にしての緊張と、何が何でもアテナを守り切るという使命感とが四人の小さな身体を震わせていた。
やがて砂利に足を取られそうな坂道を登り切ると、一気に視界が開けた。目の前の光景に一同、息を呑んで佇んだ。彼らはついに、アテナ神殿のふもとである十二宮の入り口に到着したのだ。
「ここが……十二宮か？」
「ええ。ようやく帰ってきました……十三年ぶりに」
沙織の口調にも、どこかしら感慨深いものが含まれていた。それは単に里帰りの喜びだけではあるまい。本来の主たる自分の不在によって、どれだけの人心が悩まされ、どれだけの人命が犠牲となったことだろう。それを思えば、帰郷の感動に耽るよりも深い申し訳なさが沙織の心に満ちていった。
「静かだな……」
「ああ、教皇や側近の連中以外は滅多に近づかない聖域中の聖域と呼ばれるだけあるぜ」
「それだけじゃない。アテナ市街と聖域の入り口とを隔てていた物の何百倍もの結界が張り巡らされているかのような、冷厳な神秘性を感じる」
「瞬の言う通りだ。千古不易……俺の見えない目にも、神話の時代から連綿と続く神々の業がありありと浮かんでくる」
初めて訪れる地を臨んで、青銅聖闘士たちが口々に感想を述べる。坂道を上がった所から、頂まで続く十二宮の石段は始まっている。その石段も、周囲を固める敷石も、立派な柱の数々も、いずれも材質は不明ながら輝く白色の表面からは、これが人の手によるものではないことを雄弁に語られた。正しく神話の主人公である神自身が、自分たちが宿るべき場所を地上に設けるために造った神殿なのだ。用いられた材料だけでなく、あまりに完璧すぎる造形からもそれは窺い知ることが出来る。
「さあ、私たちは観光に来たのではないのです。目指す教皇の間までは、この長い石段を踏破しなくてはならないのですよ」
沙織が促してくれなければ、きっと星矢たちはいつまでも石段に足を掛けないまま呆けていたであろう。慌てて我に返ると、アテナを一人で行かせてはならないと気を取り直して進み出す。石段を十段も上った所から振り返っていた沙織も、それを認めて前方に向き直る。瞬間、その心臓が大きく弾んだ。
「あ、貴方は!?」
あまりに予想外で、あまりに突然すぎた。ほんの一秒前までは、そこには人の気配などまるで無かった。沙織の前方、石段をわずかに上った所に彼は立っていた。否、石段の上に立つ足はおろか胴体すら半分しか見えてはいない。ねじれた空間の向こう側から、その人物は頭部と片腕だけを覗かせていた。
「貴方は……まさか！」
鬼気迫った沙織の声に、後ろの一同は一斉に首を上げる。空中に開いた一メートル程の裂け目――不可思議な現象であるが、こうとしか表現できない――の奥は、十二宮の石段とは違う風景を映し出しているようにも見える。確かなことが言えないのは、その裂け目から這い出るようにして人間の半身が飛び出て遮っているからだ。
その人物は、法衣を纏い黄金の兜を被っている。兜が目深であることと蜃気楼のように空間が揺らいで見えるため、人相までは窺えない。それでも星矢には、その人物が誰であるのか見当が付いていた。兜と法衣は、その人物の身分を示す何よりの証拠である。
「間違いない……いつも、遠くから眺めていた……あの日、俺にペガサスの聖衣を授けてくれた……。あいつが教皇だ！」
てっきり十二人の黄金聖闘士が護る十二宮を突破した先の教皇の間で待ち受けているとばかり考えていた教皇が、自分から出向いて十二宮のふもとに姿を現すとは思いもしなかった。それにも増して、いつ、どうやって出現したのかも分からない状況に沙織も星矢たちも立ち尽くして判断が遅れた。教皇の手に凶器が握られていることを認めながら。
「死ね……城戸沙織よ！」
威圧するような低い声と共に、教皇が握った獲物が光る。瞬間、それが本物の光と化して真っすぐに沙織へと飛んでいく。衝撃のためか、沙織の細い身体は背後に向かって頭から倒れていく。
「沙織さーん！」
急いで星矢たちが駆け寄って沙織の身を支えたことで、なんとか落下だけは阻止できた。それでも四人は、総毛立って肝を冷やす。沙織の雪の様に白い左胸に、黄金色の矢が突き刺さっていたからだ。出血こそ無いが矢は半分以上も食い込んで、沙織も意識を手放している。
「バ、バカなっ！」
「そんな……沙織お嬢さ……」
数秒前まで、あれほどアテナを守り切ると気持ちを昂らせていたのに、現にアテナに危機が迫れば見ていることしか出来なかった。聖域に着いて早々、自分たちの戦いは敗北という形で終焉を迎えてしまった。がっくりと項垂れる星矢たちの耳に、コツコツと石段を下りてくる足音が聞こえてくる。
「教皇！」
惨劇を引き起こした張本人が近づいてくると思い込み、星矢は喉が焼ける程の怒声を上げる。しかし、そこにいたのは全くの別人であった。
「声を荒らげてはなりません。アテナの御身に障ります」
いつしか教皇の姿も、空間の裂け目も消えてなくなっていた。代わりに姿を見せたのは、輝く黄金聖衣を身に付けた青年だ。歳の頃は二十歳前後、若いという印象より先に美しいという形容が思い浮かぶ美丈夫だ。線の細さは頑強な聖衣に覆われているが、その顔付きや口調から生来の物腰の柔らかさは伝わってくる。同時に、この人は敵ではないという確信も。
「今の声……それに、この
目が見えないながら、紫龍が相手の名前を言い当てる。知己であるムウは、短い言葉でそれを肯定する。冷静になって観察してみれば、確かに聖衣の首の付け根から肩口にかけて目立つ意匠は、雄羊の湾曲した角を連想させる。間違いなく、十二宮の一番目――白羊宮の守護者であるアリエスのムウ本人だ。
ムウは日頃、インドと中国の国境にあるジャミールに居を定めている。紫龍は、そのジャミールを訪問した経験から互いに見知っていた。だが、他の者たちも無縁とは言えない。殊に星矢などは、ムウに救われたのは一度や二度ではない。
「そうか、アンタが地上でただ一人と言われる聖衣の修復者……ムウ。アンタがペガサスの聖衣を直してくれたおかげで、俺は
星矢としては、是非とも直接顔を合わせて感謝の気持ちを伝えたいと思い続けてきた。しかしながら今の彼らには、そうした余裕など一片たりとも持つことは出来なかった。
「見てくれ、ムウ。沙織さん……アテナが、教皇の奴に……」
「ええ、私も気配に気が付いて白羊宮を飛び出してきたのですが……間一髪、取り逃してしまいました。その黄金の矢は、聖域に伝わる秘宝の一つ、光の魔弓から放たれた物。無駄です。力任せに引き抜こうとしても、出来るものではありません」
その言葉の通り、沙織の心臓に突き立てられた矢は星矢がいくら掴もうと努力しても、空しく手をすり抜けてしまう。目には見えるが、実体は存在していないのだ。
「その矢は、例えるなら遅行性の毒のようなもの。時と共に肉体に吸い込まれ、矢の全体が埋もれた時に相手を死に至らしめる。外傷も残らず、あたかも心臓麻痺を起こしたかのように」
ムウの口調は淡々としていたが、語られる内容は恐怖に満ちていた。気が気でない青銅聖闘士たちは、死という単語を聞くだけで自身の心臓も止まりそうであった。
「逆に言えば、アテナも直ちに命を落とすような状況という訳ではないのです。とりあえずアテナを白羊宮へと運び、お休みいただくとしましょう。君たちも、そこで深呼吸をする必要がありますね」
ムウに指摘されて、一同は土気色の顔を互いに見回す。そうだ。アテナの危機にこそ、自分たちが落ち着かなくてはならない。どうやらムウは、黄金の矢という猛毒に対する解決策も持っているようだ。星矢たちはムウの言葉に従い、まずは一番目の白羊宮を目指した。
「私の見立てでは、黄金の矢が完全にアテナのお命を奪うまで十二時間は掛かるでしょう。見なさい、あの火時計を。今、私が点火しました」
白羊宮に着き、沙織を平らな寝台に寝かせた。その胸を射られて以来、目を閉じたままで星矢の声にも全く反応を示さないが、呼吸だけは安定している。それからムウは、白羊宮の屋根を支える柱の隙間から外を指差した。その方角には巨大な塔が立ち、頂の壁には十二分割された円が彫られている。ムウの説明が無くとも、それが時計であるというのは自明だ。ただし時刻を示す針は無く、代わりに円の外周を取り囲むようにして十二個の青白い炎が灯されている。
「時計の火は、全部で十二。一時間が経つごとに、一つずつ火が消えていきます。つまり、あの火時計の火が全て消える時……それは、我々がアテナを永遠に失う時と同義と思いなさい。そして君たちは、十二時間以内にアテナを黄金の矢の脅威から救い奉るのです」
「しかし、どうやって……」
「貴方ほどのサイコキネシスの使い手でも、黄金の矢を抜く術は無いと言われた。俺たち青銅聖闘士に、一体が何が出来ると言うのです？」
少年たちの問い掛けを受け、ムウは次なる宮へと続く石段を見上げて話を続ける。
「光の魔弓は、黄金聖闘士たちの間でも伝承しか聞かされていない秘宝。しかしながら、それを行使した教皇ならば委細を熟知しているはず。その魔力を打ち消す術さえも」
「つまり、俺たちは十二時間以内に十二宮を越え、教皇の間から教皇を引きずり出してくればいいんだな？」
「その通りです。その間、アテナの御身はアリエスのムウが守護します。君たちは後顧の憂い無く十二宮を進むのです」
そこまで聞いて、待てよという思いが一同の胸に去来した。目の前にいる人物は、卓越したサイコキネシスの使い手であり、かつて自分たちを地底から地上までテレポーテイションで容易く運んでくれたではないかと。
「ムウ、貴方の力を借りれば、教皇の間まで一瞬で辿り着けるのではないですか？」
「それは不可能です」
間髪入れずにムウが否定する。まるで、その質問を予期していたかのように。
「大いなる古の時代にアテナが張った十重二十重の結界により、十二宮内でのテレポーテイションは不可能なのです。酷であっても、己の足で踏破しなくてはなりません」
途端に十二時間以内という時間制限が重く圧し掛かってくる。音速を上回る聖闘士の足を以ってすれば、どんなに高い山であろうと半日以内の往復は可能であろう。問題は、それぞれの関所を守る黄金聖闘士たちだ。足止めを食うとして、それぞれに一時間以上も掛かることはあってはならない。
耳を貸す青銅聖闘士たちの視線の行き先は、それぞれであった。ある者は静かに燃ゆる時計の火を見詰め、ある者は横たわる沙織に目を配り、ある者は前方に延びる石段を見据えていた。いずれの拳も、決意の固さを表すかのように握り締められている。
「よし！ そうと決まれば、いつまでも白羊宮に留まっている法は無いぜ」
「ちょっと待ちなよ、星矢！」
意気揚々と声を上げる星矢であったが、不意に後ろから呼び止められて不機嫌そうに振り向く。その過程で、違和感を覚えていた。自分の名を呼んだ声が、仲間たちのものにしては幼すぎることに。
「なんだ、貴鬼。どうして、ここに？」
声の主は、星矢の半分くらいの年齢しかなさそうな男の子だ。それでも年上の星矢を気安く呼び止められる程、既に見知った間柄である。
「なんだってことはないだろう？ オイラは、これでもムウ様の一番弟子。アッペンデックスの貴鬼だ。ムウ様と一緒にジャミールから飛んできたに決まってるじゃないか」
言われてみれば星矢がこの子と出会ったのは、ムウが修復した聖衣を貴鬼が日本にまで届けてくれた時だ。星矢が初めてギリシアに来た時分と変わらない年齢の貴鬼が、既に戦闘訓練を受けているのかは分からない。それでも偉大な黄金聖闘士の弟子であるという矜持と、聖衣の修復技術を継承するという熱意は備わっているようだ。
「オイラの目から見たって、星矢たちの聖衣はヒドい有様だよ。そんなんじゃ、この先にいる黄金聖闘士に簡単に壊されちまうよ」
「その子の言う通りです。私が君たちを待ち受けていたのは、君たちの聖衣を修復するためでもあるのですから」
事実、星矢たちの青銅聖衣の中で無傷の物は一つも無かった。
「貴鬼、すぐに準備をするように。その間に君たちに教えておくことが、もうひとつあります」
ムウの指図を受けて、貴鬼が目まぐるしく動き出す。ムウは白羊宮の一角に四人を連れ出すと、隅に積まれたブロックの一つを持ち上げて見せた。大きさは通常の建築に用いられる煉瓦と大差ない。しかし、その輝きを見れば十二宮の素材と同じ物であることが分かる。
「破壊の根本は、原子を砕くこと。君たちに、これを砕くことが出来ますか？」
ムウが手にしたのは、小さなブロックだ。大地さえ割ると言われる聖闘士にとって、造作もないことではないのか。いかに最下級の青銅聖闘士とはいえ、侮られたものだと星矢が息巻く。
「ようし！ それじゃあ、俺が砕いてみせるぜ」
ムウからブロックを受け取ると、その重さを量るようにして一、二度手の中でもてあそぶ。見た目の輝きを除いて、変哲は見受けられない。星矢は空いた方の手で拳を固めると、力一杯にブロックを叩いた。
「いっ……てぇ！」
星矢だけではなく、他の青銅聖闘士も全員が目を見開いた。ムウだけが、皮が破れて血を噴き出す星矢の拳を冷静に見つめていた。それほどの衝撃を加えても、ブロックは砕けるどころかヒビさえ入ってもいない。
「このブロックの強度は、一つでオリハルコンの百倍はあります。当然、積み重ねれば耐久性も増していき、アテナ神殿の守りを固める十二宮にふさわしい堅固さを見せてくれます。外敵からアテナを守護する以上、ブロック一つを砕くだけでも相当の膂力を要するのです。例えるなら、指先だけでエベレストを吹き飛ばすほどの力が」
その例えが決して誇張ではないということ。そして、十二宮を守護する黄金聖闘士にはそれだけの力があるということを、星矢たちはまざまざと見せつけられる事となる。星矢からブロックを受け取ったムウは、それを宙へと放り投げると落下に合わせて人差し指で軽く突いてみせた。その一撃で、ブロックは細かな砂と化して床に散らばった。
「更に、十二宮の耐久性はアテナ神殿に近づくほど、より堅牢になっていきます。この白羊宮の次にある金牛宮となれば、私でも今のように指一本では砕けないでしょう。ですが、本質を誤ってはいけません。いかに優れた硬度を持っていようとも、構成しているのはあくまで原子なのです。そして聖闘士には、原子を砕くための小宇宙を燃焼させる術がある」
小宇宙。その言葉に、どれだけ救われてきた事であろうか。辛い修行や苦しい戦闘の最中、体力の限界を感じて諦めかけた事は数えきれない。その度に聖闘士たちは、自身の小宇宙を燃やして困難を乗り越えてきたのだ。
「いいですか？ 私は何も、君たちを怖気づかせようとしているのではないのです。ただ、君たちがこれから挑む黄金聖闘士を、今までの戦闘と同じ次元で考えないよう忠告をしているのです」
星矢の手を取りながら、ムウが話を続ける。ムウの掌から発せられる小宇宙は、たった今ブロックを粉微塵にしたのとは正反対の温もりで、星矢の怪我を治療する。
「黄金聖闘士の実力は、確かに白銀以下と比べて甚大です。しかしながら、その根源はやはり小宇宙なのです。小宇宙さえ高められれば、青銅聖闘士であっても黄金聖闘士と渡り合う可能性は十分にあります」
「その方法とは？」
「それは人から教えられるものではなく、戦いの中で見つけ出す……言わば境地のようなもの。口で言って実現できるのであれば、君たちの師がとっくに教授しているでしょう。私が教えられるのは、小宇宙の正体についてだけです。それを念頭に置き、戦いに身を投じ、己自身で小宇宙の真髄を見つけるのです」
「では、小宇宙の正体とは？」
「知っての通り、人間には視覚、味覚、聴覚、嗅覚、触覚の五感、意識を司る第六感というものが備わっています。そして小宇宙を司る働き……第七感。君たちが行ってきた聖闘士の修行というのは、この第七感を鍛え、手足とするためのもの。そして、小宇宙を極めた先に存在する境地……そこにあるのが、セブンセンシズ」
聞き慣れない言葉に、星矢たちは呆然として言葉を失ってしまう。しかし、何かとてつもなく重大な話を聞かされたという直感だけは働いていた。
「黄金聖闘士が自身の持つ小宇宙を最大限に活かし、あらゆる物質の原子を破壊することが出来るのも、全てはセブンセンシズに到達し、かつそれを自在に操れるからなのです。黄金と白銀以下の力量の差は、セブンセンシズに目覚めているか否かが全て。聖衣の違い以上に、小宇宙の差が勝敗を分けるのです」
セブンセンシズ。その名を聞くことすら、青銅聖闘士にとっては初めてであった。だが、自分たちの師を恨むことなど出来まい。星矢や瞬の師は、自身らもセブンセンシズに目覚めていない白銀聖闘士だ。紫龍や氷河の師は黄金聖闘士であるが、ムウの言う通り小宇宙の真髄は人から教わるものでないとすれば、彼らの師が話してくれなかった訳も頷けよう。現に青銅聖闘士たちは、どんなに死線を潜り抜けようともセブンセンシズに達することはおろか、小宇宙を高めた先にある境地にすら気づいてはいなかったのだから。
「そのセブンセンシズに近づくよう、第七感を働かせて小宇宙を高めろ。つまり、アンタはそう言いたい訳か？ いや、その答えは俺たち一人一人が見つけなくっちゃならないんだな」
「そうです。ですが、その聖衣ではセブンセンシズに到達する前に倒されてしまうでしょう。修復の準備も整ったようですし、聖衣を脱いでください」
優雅に微笑むムウに催促され、星矢たちはドギマギしながら装備を外した。命を失った聖衣に関しては、いかにムウの力を以ってしても修復は叶わない。星矢たちの青銅聖衣は、幸いにして生命を保っていた。
ムウの神業が、光を放って青銅聖衣に施される。その姿に見惚れてしまい、危うく星矢たちは時間を忘れるところであった。気が急いて火時計を見ると、最初の火が心許ない。
これ以上の足止めに不安を覚えてムウを振り返ると、ちょうど最後の一体を修復し終えたところであった。
「完了です。さあ、装着しなさい」
その言葉に反応を示したのは、星矢たちだけではない。聖衣自身が意識を持ったかのように、それぞれの持ち主の身体を包んでいく。その感触は、この上ない頼もしさを与えてくれる。ムウは、単に破損個所を直してくれただけではない。以前にも増して硬度を高め、聖闘士の小宇宙に反応して力を倍増するよう強化してくれたのだ。
「ありがとう、ムウ。聖衣の事だけじゃない。セブンセンシズといい、俺たちに指南してくれた数々……決して無駄にはしない」
力強い視線を浴びて、ムウも深く頷く。それを合図にして、四人は白羊宮の先にある石段を駆け上がっていった。
「頑張れよー、みんなー！」
貴鬼の声援が、こだまする。その背後では、ムウがアテナの寝台に近づいて跪いていた。無駄と分かっていても、黄金の矢の進行を食い止めようと小宇宙を漲らせる。攻撃に転じれば、白羊宮などたちまち全壊させてしまう黄金聖闘士のセブンセンシズ。その力を以ってしても主を救うことの出来ぬ状況に、ムウは珍しく顔をしかめて歯噛みした。いかに脱俗した青年であろうとも、差し迫る危機を前にして気もそぞろとなる。星矢たちを送り出す時は年長者らしく振舞い、彼らに迷いを与えないよう努めてはいたが、心は常に騒いでいた。
「アテナの結界が張られた十二宮では、テレポーテイションを用いての移動は出来ない。もし、宮を飛び越えて瞬間的に移動する方法があるとすれば……アナザーディメンション」
教皇の間にいると思われた教皇が、小宇宙の移動も感じさせずに白羊宮に現れた。そして、同じようにして瞬時に姿を消した。それを可能とする術には、異次元空間を渡る方法が思い浮かぶ。アテナの結界が張られた場所とは、別次元の世界を移動する技。果たしてムウの記憶にある教皇は、その技を扱えたであろうか。
先程の教皇は、やはり……そこまで至った思考が、火時計の一つ目の火の消失で中断させられた。
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