「黄金聖闘士」編
第十話 磨羯宮
人馬宮から休みなく石段を駆け上がってきた四人は、そのままの勢いに任せて次なる宮へと飛び込んでいく。即ち、第十番目に控える磨羯宮へと。
前方に立ちはだかるであろうカプリコーンの黄金聖闘士を蹴散らす勢いで突き進んでいく四人であったが、敵は一向に姿を現さない。訝しみながらもスピードを衰えさせることなく走っていくと、宮の出口が見えてきた。陽は完全に沈み、星空の明かりが目に映る。
無人の宮を抜け、大幅に時間を短縮できたと一同は足を更に速める。ただ一人、紫龍だけは違った。念のため、去り際に後方を確認しようと足を止めて振り返った。その瞳が、磨羯宮の屋根の上に立つ黄金色の人影を捉えた。
「みんな……跳べっ」
焦りにも似た紫龍の掛け声に、星矢たちは反射的に従っていた。瞬間、磨羯宮の屋根から轟音と共に衝撃波が襲い掛かってくる。その一陣の旋風は地を深く切り裂いて、紫龍と星矢たちを分断してしまった。
「紫龍ーッ」
取り残された紫龍に向かって、追いつくよう星矢が声を張る。だが、それをする訳にはいかない。
「駄目だ。今、俺が跳べば後ろから狙っている奴の拳が、今度は俺の背中を裂く。皆は先に進んでくれ。俺は……磨羯宮に残って戦う！」
視線は屋根の上へと警戒を向けてはいるが、星矢たちにも分かっていた。今の紫龍が、いかに決死の表情をしているか。人馬宮で誓いを交わした通り、例え一人になったとしても戦い抜く。それは単身でも教皇の間へ行き着く決意に留まらず、他の仲間を進ませるために一人で黄金聖闘士に立ち向かう勇気をも示しているのだ。
「分かった！ 必ず追いついてくるんだぞ！」
ここで紫龍を置いていくことは冷酷な選択にはならない。真に無情なのは、アテナを見捨てることなのだ。それは即ち、地上の平和を諦めることに繋がる。それを妨げるため、あえて紫龍はカプリコーンの足止めを買って出た。その決意を無にすることなく、星矢たち三人も先を急いでいった。
凛として自分を見上げてくる紫龍の態度が気に入ったのか、屋根の上のカプリコーンも感心したような笑みを浮かべる。そして軽くジャンプすると、紫龍と同じ高さに着地した。
「大した自信だな、小僧？ ここまで九つの宮を破ってきたのだ。俺も、過信と思って侮りはせんぞ」
山羊座の聖闘士だけあってか、聖衣のマスクには天へと向かって伸びる二本の大きな角が施されている。その奥にある顔の造りは一見して凶相だが、目元は涼しい。
「俺はドラゴン紫龍。相手をさせてもらうぞ」
「では、貴様がライブラの老師の弟子という訳か。俺の名はカプリコーンのシュラ。宮の中へと入れ。そこで料理してくれる」
紫龍に背を向け、シュラが先導する形で磨羯宮の中へと誘う。純白のマントを翻すシュラの背中に、紫龍は一片の隙も窺うことが出来ないでいた。
しんと静まり返った宮の中で、二人が向き合う。耳が痛むほどの静寂とは裏腹に、両者とも心の小宇宙は膨れ上がっていく。
「覚悟は、とうに出来ているだろう？ すぐに楽にしてやるぞ」
宣告を終えると同時にシュラの右腕が、ゆっくりと掲げられていく。ただそれだけの動作で、静かな磨羯宮に異様な音が響き渡る。その音に、紫龍は戦慄を覚えた。その呻くような音を奏でているものの正体について、自ずと予測できてしまったがために。
「これは……シュラの拳が、あまりに研ぎ澄まされているために、風が……風が哭いている!?」
「良い洞察力だ。その拳が、超光速で振り下ろされたらどうなるかな？」
まっすぐ頭上に掲げられたシュラの右腕。それが黄金聖衣の輝き以上に光を放って見える。黄金聖闘士でも有数の、光速を超越した必殺拳の前兆だ。
「これぞ聖剣……エクスカリバー！」
咄嗟に紫龍は、左腕に装着されていた盾で自らの体を防御していた。それはシュラの手刀による攻撃を見切っていたからではない。シュラが右腕を掲げた時点で、条件反射的に左腕が動いていたのだ。言わば盾への一撃は、シュラが故意にぶつけたものだ。
何か硬い物にヒビが入るような音がした。同時に紫龍は、足元が僅かにぐらつく感覚を味わった。シュラがエクスカリバーと称した手刀が、紫龍の盾や肉体をすり抜けるほどの衝撃波を生み出し、その衝撃だけで磨羯宮の床を切り裂いていたのだ。
十二宮を構成するブロックは、アテナ神殿へと近づくごとに堅固となる。白羊宮で、ムウはそう教えてくれた。一番目の白羊宮のブロックを簡単に粉砕してみせたムウにも、果たして十番目の宮をここまで力任せに破壊することが出来るであろうか。だが、そんなこと以上にシュラの攻撃の凄絶さを思い知る事実に紫龍は気が付いていた。
「馬鹿な!? これまで、あらゆる強敵からの攻撃に耐えてきた最強を誇る盾が！」
まるで薄紙一枚を裁断するかのごとく、真っ二つに切り裂かれてしまった。紫龍の左腕から半月状になった二つの鉄塊が落ち、床に乾いた音を響かせた。それは紫龍にとって、何事にも勝る衝撃であった。
「いや、流石だ。並の防具であれば、今の一撃でお前の腕も斬り落としていたはずだからな。だが、分かっただろう？ このシュラの前においては、いかなる聖衣も用を成さんということが」
己の左腕を見つめたまま動けないでいる紫龍に向かって、シュラの拳が再び一閃する。その一瞬で、今度はドラゴンの聖衣が八つ裂きにされる。たった一振りと思われたエクスカリバーは、何万分の一秒という時間の中で数えきれぬほど切り刻んできたのだ。
「この切れ味、速度……どれを取っても凌駕している。獅子宮の外にまで飛んできたアイオリアの光速拳より、ずっと」
全身を覆うプロテクターの悉くを失った紫龍は、圧倒的な威圧感を見せるカプリコーンの聖闘士を前にして意を決した。この男のエクスカリバーを掻い潜りながら戦うのは不可能だ。ならば積極的に打って出るしかない。
「今度は、こちらが披露してやる！ 廬山昇龍覇！」
渾身の小宇宙を右拳に集約して、シュラへと突進を繰り出す。それをシュラは余裕でかわしただけでなく、紫龍の手首を左手で掴むと力任せにねじ上げる。
「うぅ、まさか……」
紫龍が呻いたのは、手首を締め付けられた苦痛からではない。その手首から、おびただしい量の血が流れ出ている。触れただけで相手を切り裂ける拳は、何も右腕だけではなかった。
「ここまでは気付けなかったようだな。そうよ、俺のエクスカリバーは両腕両脚……全部で四振りあるのだ」
圧倒的な格の違いに、紫龍も堪らず恐怖を抱く。シュラが力を込めるごとに手首から血が失われていくのを感じ、微かに視界がぐらついた。一瞬だけ遠のきそうになった思考で、紫龍は考える。何故、完璧な体勢と威力で放った自己最大の拳が外れてしまったのかと。
「それにしても、こうも易々と俺の拳をかわすとは……」
「確かに、お前の技は青銅にしては完成されている。が、俺には通じぬ。この俺が修行したピレネー山脈は、極度の高所で酸素が薄い。その地であっても自在に飛び跳ねれる体術と呼吸法を身に付けた俺に、『完成された』程度の技は通用しないのだ」
先程より紫龍は、この密着した状態からシュラの隙を窺えないかと気を張っていた。しかしながらシュラが浮かべる余裕の表情そのままに、カプリコーンの黄金聖闘士からは全く動きに無駄が感じられない。紫龍が模索した戦法は、いずれも頭の中で完璧にシュラに回避されていた。
「さあ、敗北を悟って楽になれ！」
掴んでいた紫龍の手首を、グイと捻る。その勢いで紫龍は後方へと飛ばされ、受け身も取れないまま柱に激突する。起き上がらなければ……そう思っても、磨羯宮の石材の硬度に叩きつけられては全身が麻痺しても仕方ない。聖衣を失った今、その衝撃で命を落とさなかった事すら奇跡的なのだ。
足の指先に力を込め、背骨を震わせて立とうとする。意思に反して動かなかった身体が、なんとか自由を取り戻そうとしている。そこへ絶望を告げる使者が現れた。
「また……風が哭いた」
目の前に立つシュラの拳が、紫龍の背後の柱を難なく切り裂く。果たして腕一本でこれだけの芸当が出来る者が、黄金聖闘士の中から探しても他にいるだろうか。
「この男のエクスカリバーは、マッハ百万……いや、もっとだ！ 俺には、何も見切れない……」
凍り付く汗に全身を見舞われながら、紫龍は再び劈くような風の声を聴いた。
磨羯宮を後にして、先を急ぐ星矢たち三人。石段に足を取られることなく、次なる宝瓶宮との距離をみるみる縮めていく。それを意識してか、氷河が足も止めずに険しい表情で口を開いた。
「瞬に星矢、宝瓶宮に着いたら二人は、脇目も振らずに先へと進むんだ。この先で待つアクエリアスの聖闘士とは、俺が闘う」
氷河の顔に視線が集まる。星矢たちは知っていた。宝瓶宮を守護するアクエリアスのカミュと、氷河との因縁を。何が何でも、その因縁に決着をつけたいと願う氷河の思いの深さを。
氷河の意思を汲み、星矢と瞬は無言で兄弟を送り出す覚悟を固める。その沈黙の愛を、氷河もまた感じていた。それが、より一層激しく闘志を燃やすことへと繋がっていく。
「そう、磨羯宮に一人残って死闘を演じている紫龍のように！」
先刻から、赤い飛沫が霧状になって飛び散っては磨羯宮の床を濡らした。その熱い血を流している紫龍は退くこともせず、呻き声すら上げずにエクスカリバーの猛攻に耐えていた。
腕と脚を駆使して、シュラの四本の剣が紫龍に襲い掛かる。全身に切り傷を負い、吹き出した血で真っ赤に染まる紫龍。それでも眼に宿る力は衰えず、足腰もしっかりとしていた。一見、追い込まれてボロボロの状態に思える。だが黄金聖闘士最強のエクスカリバーを以ってすれば、もっと早くに決着は着いているはずなのだ。
「こいつ……紙一重で俺のエクスカリバーをかわし、急所を外しているだと？」
「そうだ、シュラよ。余計な動きを取れば、お前にはたちまち隙を突かれることとなる。だからこそ、あえてギリギリのところで避けているのだ。攻撃が放たれる寸前に聞こえてくる、哭き声を頼りにしてな」
一度は盲目の人生を突きつけられた紫龍だからこそ、成し得た業というべきか。もしも磨羯宮に残ったのが他の三人であったのなら、ここで全滅していた可能性すらある。
流石のシュラも攻めあぐねて、攻撃の手を止めてしまう。
「だが、それだけで避け続けられるものではない。お前も、俺と同じセブンセンシズに目覚めているということか？ 十二宮という修羅場を潜り抜け、このシュラと相対するという土壇場の窮地が、青銅聖闘士のお前にセブンセンシズをもたらしたのか？」
そんなことは紫龍にも分からない。ただ無我夢中で渡り合おうとしただけだ。自分たちの死と引き換えに、必ずやアテナ沙織を目覚めさせると。そして地上に正義を取り戻させると。そうした誓いを果たすため、黄金聖闘士に沸き立つ小宇宙をぶつけてきたのだ。
目を凝らせば、紫龍の身体を濡らす血が薄っすらと輝いていた。セブンセンシズに到達したことで、紫龍の小宇宙は黄金聖闘士と同じ黄金色に輝いていた。その血だらけで己を見詰めてくる黄金の闘士の姿が、シュラの脳裏を貫いた。
「アイオロス様……」
無意識に呟いた声色は、妙に幼かった。その事実と、シュラが呼んだ名前に紫龍が気を取られた頃には、もうシュラは冷酷な狩人の表情を取り戻していた。
「エクスカリバーが通じぬというのなら、正攻法で潰すまでよ！」
手刀ではなく両手を握り固めるシュラ。咄嗟に身構える紫龍の足を払うと、バランスを崩してつんのめってきた顎を強烈な一撃で突き上げる。下顎から脳天にかけて稲妻が走り、堪らず紫龍も両目を瞑って悲鳴を上げた。
吹っ飛ばされ、受け身も取れずに紫龍が硬い床に背中を打つ。骨を痛めたかもしれない。しかし、それを理由に敵が待ってくれる道理は無い。痛覚など無いものと考えて、紫龍はすぐさま立ち上がる。肉体が負ったダメージとは裏腹に、その動作は機敏だ。
「その身のこなし、やはりセブンセンシズに目覚めているな。今のお前は、白銀聖闘士をも超えて黄金聖闘士に匹敵する亜光速の動きを身に付けている」
それでも常にセブンセンシズを操る真の黄金聖闘士には及ばないということか。紫龍を称賛するシュラの声は、背後から届いてきた。紫龍が起き上がるより早く、後方に回り込んでいたのだ。
紫龍も急いで向き直らなくては、無防備な背中を晒し続けることとなって面白くない。ところが、空気の流れから感じられるシュラの体勢は攻撃に移る気配を見せない。巨大な小宇宙も戸惑っているようだ。状況を見極めんと、紫龍も動きを止めてシュラの出方を待ってみる。すると、驚いたような声が聞こえてきた。
「何だ、あの背中に浮かぶ紋様は？ タトゥー……ではない。小宇宙……大いなる龍神の小宇宙が視覚化しているのか!?」
紫龍の長い髪が、熱気によって揺れている。それによって顕になった背中には、見事な昇竜が描かれていた。シュラも、その現象自体に目を見開いたのではない。とある伝説を思い出し、目の前の青銅聖闘士がその伝説を体現したことに驚愕したのだ。
「そうだ。この紫龍の背を一匹の龍が猛々しく昇る時……それは、俺の小宇宙の絶頂を迎えたことを意味しているのだ」
その龍神の姿をはっきりと見せつけた後、紫龍はシュラを振り返って構えを取る。背中で吼える昇龍が、そのまま右腕に宿ったようだ。今、紫龍の小宇宙は正に最高峰にまで達し、最強の黄金聖闘士を討ち果たさんと燃焼している。
「今の俺の小宇宙は、デスマスクを倒した時以上に膨れ上がっている。行くぞ！ 廬山昇龍覇ーっ！」
紫龍の正拳が、五匹の巨大な龍を放つ。磨羯宮さえも震わす小宇宙を前にして、シュラも表情を変えた。それは困惑の表情ではなく、気を引き締めたことを表すものだ。頭上に掲げた右腕を、大きく旋回させて弧を描く。その軌跡に阻まれて、昇龍覇の勢いはシュラの肉体まで届かなかった。
思わず紫龍も息を呑む。これほどまでに小宇宙を高めようとも、なお黄金聖闘士を打倒するという壁の高さを思い知らされた。一方でシュラも、もはや口元に笑みを浮かべていられる余裕は無い。紫龍渾身の拳を防いだ右腕に痺れが走っている。
「見事だ、紫龍。よくぞ、このシュラの誇るエクスカリバーの一太刀を砕いてみせた。だが――」
シュラには、まだ左腕と両脚が残っている。その威力は、右腕が放つ一撃と何ら変わりはない。それだけに留まらず、更にシュラには揺るがぬ勝算があった。紫龍の決定的な弱点を、既に見破っているのだ。
「貴様自身には見えぬであろう。お前の小宇宙が最大限に燃焼したことの証とも言える、その
よもや紫龍は気付きもしないだろう。その背に描かれた龍の右拳が、正しく紫龍の心の臓の位置にあるということを。皮肉にも紫龍が小宇宙を燃焼させればさせるほどに、自らの急所を晒すこととなるのだ。
「そのマリオット盲点を教授せずにいた老師を恨み、今度こそ死ぬのだな」
シュラの姿が視界から消える。自慢の体術でもって跳躍し、光速の動きでもって紫龍の背後に旋回したのだ。過たず、紫龍の弱点を突くために。これ以上、紫龍の成長を許すことなく次の一撃で完璧に仕留めるために。
紫龍がシュラの動きと狙いに気が付いて振り返るよりも早く、シュラの左手の手刀が一撃を見舞っていた。紫龍の背に浮かんだ昇龍の右拳、即ち紫龍の心臓に。瞬間、紫龍の全身を巡る血液がマグマのように滾りだす。先に負っていた体中の切り傷から、勢いよく真紅の血が吹き零れていく。暴れ出した心臓が、血管を伝わって絶え間なく激痛を与えてくる。それすら紫龍が望んだ結果だということに、シュラはまだ気が付いていなかった。
「俺たちの命は、既に無いものと思っている。わざと心臓を曝け出し、シュラの隙を突く以外に術はない。いかにシュラといえど、相手を仕留めた瞬間には油断が生まれるはずだ」
ぐっと奥歯を噛み締めて心臓にまで達する痛みを堪えて、紫龍の身が舞う。床を蹴り、後方にいるシュラを越えて飛び上がる。さしもの体術を誇るシュラも、密着した状態で跳ばれては対応しきれない。紫龍の姿を目で追おうとした時には、背中から紫龍によって羽交い絞めにされていた。
「どうするつもりだ、紫龍!? この状態では、お前も昇龍覇を撃つことは出来まい」
「甘く見るな。この紫龍には、まだ……奥の手があるのだ」
その口振りからは、自信に溢れた響きは伝わってこなかった。しかしながら、シュラにも分かっていた。密着した状態で感じる紫龍の小宇宙が、異常なまでの熱量を帯びていることに。その龍神の熱気が、二人の体を包み込む。
「まさか、このまま自爆する気か？ 無駄を知るだけだぞ。俺が黄金聖衣を着ている限り、自爆してもお前のみが死ぬだけだ」
「いや、この技を使えば如何に黄金聖闘士であっても……その中でも並外れた体術の持ち主であるシュラであっても、道連れに出来る。これぞ俺が五老峰で身に付けた最後の奥義……我が老師から禁じられた、この紫龍が今生で繰り出す最後の技だ！」
二人を包み込む小宇宙が、いよいよ最高点に膨れ上がる。人知を超えた龍神の呼び声に、シュラも抵抗を忘れて目を見開いてしまう。後は紫龍が、意を決して小宇宙の全てを解き放つだけ。そこに至って、紫龍は不思議な声を聞いた。龍神を遥かに上回る規模でありながら、慈愛に満ち溢れた小宇宙の声を。
「サ、沙織さん……!?」
その声は、確かに沙織のものに聞こえた。白羊宮で眠り続け、皆の帰りを待っているはずの沙織の声だ。辺りを見渡そうとして、紫龍は止めた。今のは、決して肉声ではない。小宇宙を通じて、紫龍の胸に届いた声だ。
「紫龍、貴方が義のために自分の命を捨てられる人だというのは、私もよく知っています。けれど、私のために貴方の尊い命が失われることを、私は決して喜びません。紫龍、どうか思い直すのです」
「沙織さん……いや、アテナよ。貴方は、これから地上の邪悪を打ち払う大事な人。その役目を貴方が全うするための手助けを、ほんの少しでもすることが出来るのであれば、それで俺たちは本望なのです。まして俺のことを案じて、こうして苦しい息の下から言葉を掛けてもらえるなど……。アテナよ、貴方の願いに背くことを、どうかお許しを」
白羊宮で伏せる沙織に対し、最後の挨拶を済ませたい。その思いが紫龍の動きを止めている間、シュラも立ち尽くして待ってしまった。彼自身もまた、大いなる女神の小宇宙に威圧され、自ずと膝を屈したい気持ちに駆られてしまっていたからだ。シュラもまた、アテナに仕える聖闘士であるが故に。
「俺の心は定まった。これ以上、生き永らえることは能わず……見るがいい、シュラ！ 廬山亢龍覇！」
二人を包んだ龍神の小宇宙が、驚異の爆発力を見せつける。その勢いは紫龍の身体を瞬時に天空高くへと押し上げ、紫龍に抱えられる形でシュラまでもが。今や黄金聖闘士にも劣らぬセブンセンシズを会得した紫龍が放つ最後の技は、光速に限りなく近付くスピードでもって二人を夜空へと旅立たせていった。
中国・江西省は五老峰にて、春麗は目を覚ました。キャンサーのデスマスクによって滝壺へと落とされ、老師の手で助けられてから早、五時間。今まで眠りについていた布団の中から、不意に体を起こした。直前まで夢を見ていた感覚も無い。まるで、何かに呼び覚まされたようだ。この上なく不吉な、何かによって。
「シ……」
誰かの名前を呼ぼうとして、躊躇われた。春麗が真心を込めて呼びたい者の名前など限られている。それを口にするだけで、今の不安を消してくれるであろう人物の名前。何故だか、躊躇われた。まるで、体が凍えるほどの不安を与えているのが、その人であるような気がして。
「シ……リュ……」
無意識に、その白い頬を一筋の光が流れた。声を震わせ、指先が白くなるほど強く布団を握り締める。心の底から愛を感じていた相手の名前を、初めて言いたくない気分になっていた。その名を呼んでしまえば、二度と逢えなくなってしまう気がして。今、彼の名前を呼ぶという行為が、大好きな人との永遠の別れを指すような気がして。
春麗のいる家から、さほど遠くはない。既に中国は深更。その寒空の下に晒されながらも、ライブラの老師はいつも通り廬山の大瀑布の前で座していた。平素と異なるのは、その瞳が遥か西の空を昇っていく星を映していることだろう。その二つの眸から、光が零れるのを拭いもせずに見詰め続けている。
紫龍とシュラ。亢龍覇の勢いに押し上げられた二人の体は、留まることを知らず上昇を続けている。気温は低下し、酸素も薄くなる。じきに成層圏へと到達する勢いだ。いや、そのまま外気圏をも突き抜けて、宇宙空間にまで到達しても速度が衰える様子はない。
この果てなき旅路には、黄金聖闘士のシュラさえも驚嘆するところがある。考えてみれば、紫龍にこの奥義を伝授したのも黄金聖闘士。それも生ける伝説として名高い五老峰の老師、ライブラの童虎なのだ。エクスカリバーの使い手であるシュラをも脅かすには十分だ。
「貴様、この俺をどこまで連れていくつもりなのだ!?」
「亢龍……即ち敵と共に極点にまで昇りつめ、そこから一気に落下する技。本来は大気圏再突入に持ち込むのだが、万全を期すのなら……このまま、宇宙の果てまでも上昇を続けるのみ！」
どれだけ考えてみても、シュラには分からなかった。紫龍が自分と心中する気でいるのは分かる。しかしながら、何のためにそこまで命を懸けるのかが理解できないでいた。紫龍のような少年には、これから何十年もの人生が待っている。何故、それら一切を捨てる覚悟を持てるのか。
「俺一人を倒すために……お前は、その勝利を味わうことも出来ぬのだぞ。それなのに、何のために……」
「この戦いが始まった時から……いや、俺が老師からドラゴンの聖闘士としての資格を賜った時から、既に覚悟は出来ていた。老師から何度も聞かせていただいた、アテナの神話……その大いなる愛が、幾度も地上を邪悪から救ってきたという伝説を。この紫龍も、不幸な生い立ちを天から与えられた身であったが、世の中にはもっと様々なことで悩み苦しむ無辜の人々がいる。アテナの至上の愛は、そうした人々に安息と平和をもたらすことが出来る。俺たちのように親の顔さえ知らぬ不幸な子供たちにも、安らぎと希望を与えてくれる。そんなアテナのために死ねるのであれば、俺の人生も決して無駄ではない。俺自身の手で、同じような運命の子供たちを救えるのだから。そして、俺たちは真のアテナが自分たちの側に居てくれていることを知っている。この十二宮の戦いの後、復活したアテナの御手によって平和へと導かれる世界が、もう俺の目には映っているのだ」
今生で見る限りの物事は、全て見尽くした。己に出来ることの全てを果たし終えた。その虚心坦懐の胸の内を、紫龍は曝け出す。汚れなき少年が述べる一寸の赤心に、シュラもたじろいでいた。
「それを確信しているから……それだけで満足だというのか？ そうだ……それこそ、正に聖闘士としてあるべき姿……決して、見返りなど求めぬ。例えアテナの誄歌であろうとも……」
「全てはアテナのため。そして、そのアテナを俺たちに託してくれたアイオロスの魂に報いるためだ」
「アイオロス……偉大なる黄金聖闘士……お、俺は……」
サジタリアスのアイオロス。その名が、シュラの胸を深く衝いた。そしてアテナへの忠誠の誓いが、閉じ込められていた記憶へと届いた。
シュラは思い出した。自身もまた、この紫龍と同じように正義を愛し地上を守るアテナの聖闘士であったことを。そして蘇ってくる。自身が敬愛し、追い求めていた偉大なる聖闘士の顔が。名前しか聞いたことのない紫龍よりも、シュラはずっと深く焦がれていたのだ。無二の勇者と名高き、あのアイオロスのことを。
十三年前の夜だった。シュラは、疾風のように磨羯宮を過ぎ去っていく影を見つけた。その影の正体を見極め、恐れを抱きながらもシュラの行動は早かった。すぐさま影とは反対方向へと走り出し、教皇の間へと辿り着く。そこで教皇から、今しがた反逆者が出現し逃亡した旨を聞かされ、その反逆者の討伐を命じられた。当の反逆者の名に、耳を疑いながら。
シュラが反逆者に追いついたのは、アテネ郊外の岩場だった。アテネ市民や観光客だけでなく、聖域の住民さえも滅多に近付かぬ荒野。そこを物音一つ立てず、されど神速でもって駆け抜ける人影をシュラが背後から呼び止めた。
「お待ちください！」
反逆者に掛けるとは思えぬほど、シュラの言葉は丁重だった。それを無視することが憚られて、逃亡者も足を止める。いつでも走り出せるよう、決してシュラを振り返りはしなかったが、耳を傾けてくれていることはシュラにも分かった。
「何故……アテナに背かれたのです？ 俺は、貴方を聖域の中で最も尊敬していましたのに……アイオロス様」
まだ少年の面影を残しながら、聖闘士としての使命感からシュラはアイオロスに迫る。それに対し、アイオロスは沈黙を守り続けた。聖闘士たるもの、言葉よりも行動によって己の信念を示すべきだという考えの下。
目の前には、夜の暗闇を照らす射手座の聖衣櫃。それを背負う雄大な背中に、どれほどの想いを注いできたことか。そんな自分の問い掛けに対して答えを返してくれないということに、シュラは苛立ちを込めて拳を振るった。
亜光速の拳圧は、アイオロスの脇を僅かにかすめただけであった。最初から直撃などしないと見抜いていたアイオロスは、微動だにせずそれを見送る。今、自分の両腕の中には幼いアテナが眠っている。戦闘に入ることは出来なかった。
「次は当てます。どうか、このまま十二宮へと戻りアテナに謝罪を……」
震える声で警告してくるシュラに対し、アイオロスは相変わらず答えようとしない。そればかりか、前へと向かって歩き出す。聖域には戻らない、という意思を伝えるかの如く。
「ならば……貴方は俺の敵です！」
背後から襲い掛かる拳を、アイオロスは抵抗もせずに受けた。ただ、その腕の中の希望だけは守らんと両腕をしっかりと固めた。無防備の頭や脚からは、今の攻撃で傷を負ったのか血が流れ出した。それでも構わず、アイオロスは歩みを止めない。
次第に遠くなっていく背に向けて、シュラは拳を繰り出し続ける。その度に心は揺れ、小宇宙は縮こまっていく。自分の手でアイオロスを仕留めることに、シュラは心を乱していたのだ。そのことに対してのみ、アイオロスは口をきいた。
「シュラよ、聖闘士が敵を前にして迷うとは何事だ」
それが、シュラが今生で聞いたアイオロスの最後の言葉となった。目標と掲げてきた男から受けた、最後の教えとなった。
「では……コン・セ・ペルミソ！」
シュラの心に鬼が宿った。その小宇宙はアイオロスの予測を超え、彼の脳裏に恐れを植え付けた。彼自身の死に様が、その脳内には映り出されていた。
自分の命は厭わない。だが、それによってアテナまで脅かされることだけは絶対に避けなくてはならない。死を予期したアイオロスは、シュラの攻撃が迫る一瞬の間にアテナと聖衣櫃とをテレポーテイションさせた。シュラを振り切り、すぐに迎えに行ける距離へと。それと同時に、アイオロスの身は黄金の剣によって貫かれていた。
「超光速の拳……完成させたか、シュラよ……」
衝撃によって吹き飛ばされたアイオロスは、幸運にもシュラの視界から消えて逃げおおせた。そればかりか、自分が瞬間移動させたアテナと聖衣櫃の側にまで来ていた。致命傷を負った中で、それだけが幸いであった。
しかし、追手であったシュラの不幸はここから始まったと言える。アイオロスの死体が見つからなかったことからシュラがわざと見逃したという噂まで流れ、逆賊の弟と蔑まれたアイオリア同様に肩身の狭い思いを強いられる。シュラ自身は、アイオロスへの罪悪感に苛まれているというのに。
だが、それをも真の不幸に比べれば些末なこと。生前は聖闘士の鑑とまで謳われたアイオロスの名を、その後は称賛するどころか無暗に口に出すことさえ憚られる存在に仕立て上げてしまったことに対する罪滅ぼしから、シュラは教皇に面会を求めた。誅殺の仔細を報告するためという名目から教皇の間へと通されたシュラは、反対にアイオロスが反逆者たる証拠の提示を願った。それをシュラが自分に対して疑念を抱いていると考えた教皇は、伝説の魔拳をシュラに施したのであった。
こうしてシュラは、アイオロスを目指していたことを忘れ、その理想は高潔な勇者ではなく邪悪への追従とすり替えられてしまった。アテナよりも教皇を主と看做すなど、聖闘士としてあるまじき思考までも植え込まれてしまったのだ。そのままであればアイオロスの後を継ぐだけの心技体を身に付けられたはずが、心だけが邪悪に塗りつぶされてしまった。
十三年前、当時はまだ幻朧魔皇拳も未完成であった。長い時間によって術の効力が薄まっていたということもあろう。だが、それ以上に紫龍の誠実な熱き思いに打たれたからこそ、洗脳は解けて記憶と信念とがシュラの頭と心に戻っていた。
今なら分かる。あの時、アイオロスも本当はシュラを連れていきたかったのだ。説得して味方に引き入れ、共にアテナを守護したいと考えていた。それを、あえて邪悪が渦巻く十二宮へと帰した。それは、真にシュラを信頼していたからこそ。アテナではなく、いずれアテナが還御するまで聖域を悪の手から守らせるために。十三年間、その信義に背いてきたことをシュラは悟った。己が幼い時分より憧れ、追い続けてきたアイオロスの心を分かろうともしなかった。この十三年間、シュラが裏切り続けてきたのはアテナでも聖域でもなく、理想と掲げたアイオロスだったのだ。
時を越え、シュラは磨羯宮にて再びアイオロスと
「小宇宙が絶頂を迎えた時、五老峰の老師の背にも猛虎の紋が浮かんだと聞く。紫龍よ……お前こそ、次代のライブラの聖闘士に違いない」
それだけの闘士が、自分のような邪悪のために地上から姿を消そうとしている。魔拳から自由となったシュラは、自身もまた果てようという瞬間にそのことを意識していた。そんなシュラの胸騒ぎとは正反対に、紫龍は穏やかだ。
「星矢、瞬、氷河……お前たちなら、必ずやり遂げてくれると信じている。信じているからこそ、俺はシュラと共に果てる覚悟を持てたのだ。一輝と一緒に、冥界で祈っているぞ」
間もなく訪れようとしている死を迎え入れんとする紫龍の言葉に、むしろシュラが焦燥した。何とかして、それを食い止めんと力を振り絞る。
「まだだ！」
シュラの両腕が、羽交い絞めにしている紫龍の戒めを解き放つ。亢龍覇の動作までも遮られ、両者の体は一瞬だけ静止した後に巨大な力の影響を受け始める。引力という、母の袂へ引き戻そうとする大いなる力だ。
自分が命を捨ててまで放った奥義を外されて、紫龍も驚く。しかしながら、それだけでシュラの逆転とはならないことも分かっている。
「このままでは、二人とも落下時の摩擦熱で身を焼かれて死ぬだけだぞ。亢龍覇を破ったことにはならない」
「いや、お前は死なない。死なせはせん！」
決死の覚悟を表情に浮かべるシュラ。それは、既に自分の命など度外視している。今、シュラにとって大事なことは紫龍を生かすこと。地上へと無事に生還させること。それを成功させることに、シュラは全ての意識を注いでいた。
「我がカプリコーンの聖衣よ……我が身から離れ、この素晴らしき男を護りたまえ！」
シュラが腹の底から叫んだ言葉の通り、輝ける黄金聖衣のパーツが次々とシュラの体から外れては紫龍の裸体に嵌められていく。全ての部位が装着されると、自身の全力でもってシュラは紫龍の体を蹴り付けた。アテナが待つ地上へと送り返すために。
紫龍を蹴った衝撃で、シュラの体は再び上昇を始める。やがて、その肉体は宇宙空間へと飛び出して慣性に従うまま地上から離れていくのだろう。完全に塵と化し、大宇宙に飲み込まれる瞬間まで。
「シュラーッ」
瞬時に遠のいていくシュラの表情は、静かに笑っていた。アテナに背き続けてきた人生を、最後に返済することが出来たという満足感が窺えた。高速で落下していく紫龍の体は、シュラが託してくれたカプリコーンの黄金聖衣によって摩擦熱から守られている。それは同時に、シュラの確実なる死をも意味していた。
落下を続け、紫龍の体は十二宮へと戻ってきた。その目に、一瞬だけ火時計が映る。十番目の灯が消え失せる。紫龍には、それがシュラの命が燃え尽きたように感じられた。
黄金聖衣の硬度と落下の加速によって、紫龍の身は磨羯宮の屋根を貫いて床へと到達した。如何に聖衣の加護があろうと、亢龍覇に小宇宙の全てを注いでいた紫龍は衝突のダメージに呻き声を上げる。天井に開いた穴から覗く星空を、瞼をどうにかして開けて微かに見上げる。
「シュラ……」
たった今、心を通わせた敵。たった今、永遠の別れを告げた友の名を呼んだのを最後に、紫龍も意識を失った。
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