「黄金聖闘士」編
第十一話 宝瓶宮
時刻も遅くなってきた。星々の輝きも、一層明るさを増したようだ。その星空にも近い宝瓶宮の中で、アクエリアスの聖闘士は脳内に届くテレパシーを受け取っていた。
「カミュよ……今やムウ、アイオリア、アルデバランを始めとし多くの聖闘士が反教皇派に寝返っている。この俺も、信じたくなってきているのだ。城戸沙織こそが、本物のアテナであると。この期に及んで、君はまだ宝瓶宮を動かないつもりか？ あくまで、そこに陣取って迎え撃つつもりでいるのか？ 君の愛弟子……氷河のことを」
長年付き合ってきた友の情け深い忠告だ。全く性格の異なる両者であったが、カミュはこれまで彼の話を無下にあしらった試しは一度として無い。それを初めて、一方的にテレパシーを遮断した。それ以上聞いてしまっては、気持ちが揺れ動いてしまうからだ。
自分は宝瓶宮を守るアテナの聖闘士として、最後まで聖域に留まり続ける。それを侵そうというのであれば、手塩に掛けて育てた最愛の弟子であろうと葬り去ることを躊躇う訳にはいかない。アテナから黄金聖衣を授かった、この地上で無二のアクエリアスの聖闘士として。
「思えば私たちは、こうなる運命だったようだな。六年前のあの日……お前が私の許に預けられた瞬間から、私とお前とは今日この日に戦う運命を決定づけられていたのだ。来るがいい、氷河よ……これが、私がお前に施す最後の教えとなろう」
その男は、静かに待っていた。先を進まんと急いでいた星矢たちも、宝瓶宮の入り口が見えると同時に気が付いた。宮の前に立つアクエリアスの存在に。三人も自然と足を止め、石段の途中でその男を見上げる。
氷を操る聖闘士ながら、頭髪は炎のように赤く逆立っている。一方で肌の色は、儚げなほど白皙の美貌を浮かべている。彼の出身であるフランスが古代においてガリアと呼ばれていた時代に、彼の地を席捲したケルトの血が蘇った証拠だ。
「我が師カミュ……」
氷河が、彼の名前を呼ぶ。その声色は、しっかりとしていた。大恩ある師と拳を交えることに、些かの迷いも含まれてはいなかった。アクエリアスのカミュが待っていたのは十二宮を脅かす三人の青銅聖闘士ではなく、弟子の氷河ただ一人だったのだ。
突如として星矢と瞬の身体が、二人の意識とは無意識に持ち上がる。そして抗えない力によって引っ張られていき、カミュの横を通り過ぎて宝瓶宮の中へと押し込まれていった。カミュは依然として入口に立ったまま、氷河だけを見据えて星矢たちに背を向けている。二人は察した。今の現象は、黄金聖闘士カミュのサイコキネシスによるものであると。その気になれば宝瓶宮から麓の白羊宮まで一気に投げ落とすことも可能なほどのサイコキネシスで、わざと星矢と瞬を先へと通したのだ。
「行くんだ、瞬、星矢！ 宝瓶宮は俺に任せろ！」
ここに辿り着くまでの間も、確かにそう約束した。そのことについて、当の宝瓶宮の番人が協力してくれたことに少しばかり驚いただけだ。星矢たちも意思を固めて、次なる宮を目指していった。
「師よ……」
星矢と瞬の小宇宙が遠ざかっていくのを感じ取ると、氷河が静かにカミュへと話し掛ける。昔日の親しさを他所へと追いやり、戦闘に臨む者の覚悟を秘めて。
「先の天秤宮にて、俺は貴方によって倒されました。本来であれば、そのまま俺は戦いを離脱していたでしょう。貴方の思惑通りに……。貴方が、俺の身を案じて戦いから外そうとしてくれたことは、ミロから聞かされました。此度、俺はあえて師である貴方の意思に背きます。この氷河は、もう貴方の許を離れて一人で羽ばたいていけるのだということを証明するために。その証明は、今の俺の全力を貴方にぶつけることでしか示す術はありません」
氷河の瞳は、まっすぐとカミュを見詰めている。自身の覚悟を語る間、ずっとカミュの目を見続けていた。そこに揺るがぬものがあることを窺って、カミュも背を翻して弟子を招く。
「よかろう……中へと入るがよい。そこが、今度こそお前の墓となる」
カミュもまた、覚悟を決めていた。自分の手で氷河をクールに葬り去ろうという覚悟が、その心に根付いていた。
宝瓶宮の中央で、二人は向かい合って小宇宙を高め合う。集中された精神は、周囲の空気をも凍り付かせる勢いだ。凍気を意のままに操る闘士が二人もいれば、その地はたちまち凍土と化す。
「師よ、これが今の俺の全て……行きます！」
仁王立ちで自分と向かい合うカミュに、まずは自分から仕掛ける。この一撃でもって、師弟の関係に終止符を打つつもりで。
「ダイヤモンドダストーッ」
氷河の拳が繰り出した冷気の衝撃が、カミュ目掛けて飛んでいく。過たずカミュを襲うはずであった凍気は、その一切が掻き消されてしまった。氷河の数倍も凍気を操ることに熟知したカミュの、その静かなる小宇宙によって。
「どうした、氷河？ かつてシベリアでお前に授けた技は今ので全てか？」
ならばと、氷河は自己最大の凍気をぶつける意思を固めた。この氷の嵐に全てを賭けて、今度こそ師を超えてみせると息巻いた。
「ホーロドニー……」
氷河の必殺技は、カミュへと放つ前に遮断された。技を繰り出すより早く、カミュの念動力が氷河の体を後方へと突き飛ばしたからだ。何故、師は自分の技を受けてもくれないのか。氷河は、すぐに勘付いた。
「未熟者め。今の技は、先のダイヤモンドダストよりも劣っていたぞ。私によって自慢の技を封じ込まれたことによる動揺が、そのまま小宇宙にまで影響を与えたのだ。そのことに気付きもせず、また心の制御も出来ぬようで何が氷の聖闘士か」
未だクールではない。カミュは、そう氷河に言い放った。それに対して氷河は胸の痛みを覚えつつも、どこか従えない気持ちになっていた。ここへは師との決着をつけるためにやってきた。だが、それはカミュの命を奪うことと一致するであろうか。そう、氷河は大恩ある師に向けて本気の拳を振るうことを、無意識の内に躊躇っていた。そして、そんな心の弱さをカミュは敏感に察知していた。
「敵に対してはクールになれと何遍も言い聞かせたはずだぞ。この期に及んで、まだお前は過去を引きずるのか？ そんな情念にまみれ、揺れ動いた心で氷の小宇宙を生み出せると思っているのか？ 戦いに身を投じ、明け暮れる聖闘士となった以上は人並みの心など捨ててしまえ」
師匠が弟子に施す指導というには、余りに厳し過ぎる物言い。だが、それも聖闘士としては、当然の精神だ。まして常にクールであることを心掛けるべき氷の闘士ならば。師の言うことは理解できる。それと同時に、氷河はどうしても逆らいたい気持ちになっていた。このまま師の言うなりでは、いつまで経っても師を超えられないような気がして。
「い、いやだ……」
「何だと？」
真正面から師に楯突く氷河。思わずカミュも聞き返してしまう。全ての技を封じられて、なお氷河の闘志は衰えてはいない。氷の精神とは程遠く、どこまでも熱く滾っていく。
「俺は忘れない……マーマの愛も、アイザックの心も。俺によって未来を奪われた、誇り高きバベルとカペラのことも。そして……そして、貴方への想いも決して捨て去りはしない」
カミュの言う通り、クールに敵を倒すことだけを考えようと、氷河自身も何度も自分に言い聞かせてきた。また、そうなるよう努力を続けてきた。それでも、どうにもならないこともある。
氷河は、熱き血潮を宿した兄弟たちと長きに亘って共に歩んできた。その歴史と記憶が、どうしても氷河の頭から離れていかない。今の氷河を形成しているのは、師カミュの教えであると同時に、同じくらい兄弟への想いが強いのだ。それを忘れてしまっては、氷河の小宇宙は半減する。それを手放すことは、氷河の生き様の全てを否定することに繋がる。
「今、分かった……俺が本当に貴方を超えたいと願うのであれば、貴方の真似をしているばかりでは追いつけない。今こそ悟った……俺は、クールになど到底なれない。ならば、俺はどこまでも熱く燃えてみせる……その想いの強さで、貴方の凍気を上回ればよいのだ」
カミュは刮目した。あれほど乱れていた氷河の小宇宙が、今や宝瓶宮を覆い尽くすほどにまで膨れ上がっていく。その小宇宙は整然と燃え上り、少しの動揺も見せてはいない。いつまでも師を超えることが出来ず、また師の言いつけを守れないでいる氷河の心の迷いが、完全に吹っ切れた証拠だ。氷河は今、正しく師から離れ、自分なりの生き方をカミュに示そうとしている。
「俺を支えているのは、貴方への想い。俺が目指した我が師カミュに近づこうとする想いなのだ！」
その想いを小宇宙という形で視覚化して、限界にまで高まった小宇宙を凍気に変換する。ここにきて最高点に達した氷河の凍気は、カミュの予測すら上回って師に降り掛かる。
今度は、カミュも自ら凍気を作り出して対抗した。向かってくる氷河の凍気に対して、自分の掌底から放った凍気の波をぶつけたのだ。拮抗する両者の氷の小宇宙は、宝瓶宮の中の気温を零下二百度以下にまで下げて死の世界へと変える。もはや、この二人の間に入り込める者など存在しない。それどころか宝瓶宮に一歩でも踏み込んだ瞬間に、血液の全てが凍結して死に至るであろう。氷の闘技を身に付けたカミュと氷河以外は。
「想いの力が、その強さが氷河の小宇宙を高めているのか……。氷の聖闘士の小宇宙は、如何なる状況にあっても静かに揺るぎのない心にのみ宿ると思っていたが、お前はその歴史を塗り替えようとしている……このカミュですら、辿り着けなかった境地へと」
ところが、その奇跡も長続きしなかった。氷河とカミュとの中間でぶつかり合い、等しい力で押し合っていたはずの凍気が、次第に氷河の方へと迫っていくことにカミュは気が付いた。その凍気の行き先を目で追うと、いつの間にか氷河が意識を失くしていた。両の脚で立ち、カミュに向かって凍気を放ちながらも意識だけは手放していた。
かつて白銀聖闘士のバベルが、その炎の小宇宙でもって氷河の凍気を打ち破った時。小宇宙に生命の全てを注ぎ込んだ結果、バベルの命は潰えた。此度は氷河が、そのバベルと同じ結果を辿ろうとしている。その結末に、カミュは慄いた。
「氷河！」
思わず叫んで弟子の名前を呼ぶ。それに対しても氷河は無反応だ。もうカミュが放った冷気が、すぐそこまで迫っているというのに。カミュを凌ぐだけの凍気を撃たんと気力を振り絞ったがために氷河の小宇宙は弱まり、今や完全に意識は途絶えていた。この上、カミュの冷気を浴びては一たまりもあるまい。
「氷河ー！」
再びカミュの声が木霊する。それは意識を失ったはずの氷河の耳にも届いていた。いや、それは遠い記憶。氷河は夢の中で、東シベリアでの修業時代を思い出していた。まだ修行を初めて日が浅い時分だ。先輩とはいえ年下のアイザックに早く追いつこうと、猛吹雪の中での特訓に励んでいた。しかし幼い肉体は極度の低温には耐えられず、訓練の途中で氷河は倒れて意識を失くしてまった。その時、氷河を助け起こして必死に名前を呼ぶ声を聞いた。今、宝瓶宮の中に響いているのと同じ声だ。
こうして師から独り立ちしようとしている瞬間まで、師は自分を案じてくれている。それを夢の中で意識する。それが、弱まっていた氷河の小宇宙を再び熱くさせた。あくまで師に対する思いが、氷河の小宇宙を激しく燃焼させていた。
「氷河……こ、これは!?」
カミュは驚いて目を見開く。自分が放った凍気は、正面から氷河へとぶつかった。彼の身を守るキグナスの青銅聖衣が、一瞬で結晶と化して砕け散ったことからしても間違いない。にも拘わらず、氷河自身は心臓の鼓動を止めず、体温も正常に保っている。今の氷河には、聖衣による防御も必要なかった。カミュが先程、氷河の凍気を掻き消してみせたように、氷河も自身の小宇宙を張り巡らせてカミュの凍気を防いでいたのだ。
未だ氷河は目覚めない。それでも小宇宙は無意識の中で盛んになっていき、はち切れそうな勢いで膨張していく。それを支えているのは、今やカミュに対する思いだけに留まらなかった。兄弟に報いるためだけでもない。夢の中で氷河は、女神の声をも聞いていた。
「氷河、このまま眠りについてはいけません。さあ、目を開いて。そして、もう一度立ち向かうのです。貴方が夢描いた闘士へと」
その博愛の声と小宇宙とに導かれ、氷河がカッと瞼をこじ開ける。二つの碧眼には、強い意志が込められている。アテナが自分の戦いを見守ってくれているという、確固たる自信によるものだ。氷河の周囲に漂う慈愛の小宇宙に、カミュも震え出してしまう。先般、ミロが告げてくれた言葉が今になって身に沁みてくる。
しかしながら、カミュは十二宮を守護する黄金聖闘士。一度、これと決めたからには道を変える訳にはいかない。あくまで弟子を敵と看做して、冷酷に突き放す。
「愚か者め。そのまま目を閉じていれば、間違いなく楽になれたのだぞ。再び生者の世界に戻ってきたところで、これ以上お前に何が出来るというのだ？ この師に、何が通じるというのだ？」
「俺の後ろには……アテナがいる。勝利の女神が、俺の凍気を支えてくれているのだ。その愛に報いようとする誓いが、俺に最後まで力を与えてくれる……貴方を倒す最後の一瞬まで！」
カミュは、心の中で念じた。口から出る言葉とは、明らかに矛盾した思いの丈を。
――そうだ。小宇宙の全てを凍気に変えて解き放て。このアクエリアスのカミュが育てた男が、己の力で師を超えていけることを証明するのだ。
二人の生み出した凍気が、再び正面からぶつかる。その氷の暴風は、堅固なる宝瓶宮の壁や柱をも悉く凍り付かせた。
「氷河……なるほど、確かに先程以上に小宇宙は強くなったようだな……」
ここにきて、初めてカミュが奥歯を噛んだ。己も全力で応じなければ、氷河には勝てないと踏んだ。絶対零度でしか凍らないはずの黄金聖衣が、霜で真っ白になっている。それは氷河がセブンセンシズに目覚め、カミュと同じレベルにまで到達したことを示している。絶対零度の使い手である、水と氷の魔術師と同じにまで。
このまま等しい力で凍気をぶつけていては、例え三日三晩続けていても勝敗は決しない。両者は、同じタイミングでそれを悟って互いに凍気を引かせた。こうなっては、互いに互いが持つ最大の技をぶつける他は無い。その最大の技に、自身が持てる小宇宙と凍気の全てを乗せて。
「これが私とお前……氷の師弟の最後となろう。その幕引きには、この技こそが相応しい」
カミュが両手を組んで、それを高々と掲げる。カミュが東シベリアで編み出した、凍気を無限大の威力で撃ち込む究極の奥義――オーロラエクスキューションだ。
「私には、このオーロラエクスキューションがある。絶対零度に至らなかったお前では、最後まで極めることの出来なかった技だ。お前の小宇宙が如何に私の位にまで高まろうと、それを発揮する技に差があってはどうにもなるまい。その身に受け、自らの敗北を刻むのだ」
師から突きつけられる最後の宣告。それを前にして、氷河は少しも退く気配を見せない。その心身には、今や師を超えていけるだけの力が宿っていると確信しているからこそ。
「確かに、今までの俺では絶対零度もオーロラエクスキューションも夢のまた夢だった。だが、今は違う。俺はこの十二宮の戦いを通じ、小宇宙の神髄であるセブンセンシズを手に入れた。その今の俺は、貴方にも匹敵する絶対零度をも身に付けているのだ。そうだ、今の俺になら……出来るはずだ！」
氷河の構えが、鏡に映したかのようにカミュの体勢をなぞる。両手を頭上で組み合わせる姿勢は、完璧にオーロラエクスキューションの構えを見せていた。
「そんな真似事が通用するものか。私のオーロラエクスキューションは、不断の訓練と幾度の歴戦によって培われてきたのだ。それを易々と再現できると思うのか」
「だが、やらなくてはならない。この技以外に、貴方を倒せる技を俺は知らない。だからこそ、俺はオーロラエクスキューションで奇跡を起こす」
その姿勢も凍気も、カミュの目から見ても完璧に思えた。決死の窮地に臨んで得られたセブンセンシズが、氷河にアクエリアスの黄金聖闘士としての力を与えていた。
「今こそ、俺は貴方に俺の全てを見せつける。貴方によって授けられた力が、絶対零度の域にまで高められたことの証を。そのため……この氷河の命を全て注ぎ込む！ 星矢よ、瞬よ……冥界で待っているぞ」
己の命は捨てた。カミュを倒すことに全てを捧げた。アテナを救うことは、他の兄弟に任せた。兄弟である星矢と瞬への信頼が、氷河の命をカミュ一人へと集中させていた。
「いいだろう、氷河……これが私たちの最後だ！ 砕け散れ……オーロラエクスキューション！」
「俺のセブンセンシズよ、今こそ絶対零度となって輝け……オーロラエクスキューション！」
二人の小宇宙を映し出した金波銀波が飛び交う。二人が放った奥義の威力は、全くの互角でしのぎを削っている。それだけの想いを氷河は小宇宙に込めている。それだけの想いを自分に向けてくれているのだと、カミュは息を飲んだ。
そして気付いた。アクエリアスの黄金聖闘士である自分と、完璧なまでに互角の実力を有した男が現れた事に気がついた。瞬間、カミュの心は定まった。
「地上を守るため……その使命を帯びたアクエリアスの聖闘士として、私は死ねないと考えた。だが、私は見つけたぞ。私に代わって正義を全うし、アテナに傅いて地上を守ってくれるアクエリアスの聖闘士が私の目の前にいる。……私の役目は終わった」
知らぬ事とはいえ、己は邪悪に与してアテナに弓引いた身。そんな自分に、果たしてこの先もアテナの御前にひれ伏す資格があろうか。アクエリアスの名にふさわしき実力と心を兼ね備えた闘士が現れた以上、後身に譲る事にどうして躊躇いを持てよう。この地上に、アクエリアスの聖闘士は二人もいらないのだ。
カミュの決心に呼応して、その身から黄金聖衣が外れていく。聖衣は、水瓶を掲げるガニュメデスを象ったオブジェへと姿を変えて氷河の目の前へと移動する。カミュの放った凍気のほとんどは、アクエリアスの聖衣に阻まれて氷河へは届かない。一方、生身のカミュは絶対零度の波涛を全身に浴び、心臓の鼓動さえも凍てついていた。
宝瓶宮は、静寂を取り戻していた。冷凍の世界を動ける物質は無く、完璧なまでに停止した空間の中で氷河一人が熱い命を宿していた。その氷河の前面で、カミュが立ったまま往生している。その全身を隅々まで凍り付かせて。
「カミュ……」
変わり果てた師の姿を認めると、自身の肉体も限界でありながら氷河は一歩一歩とカミュに近付いていく。もはや、その心に闘志は宿ってはおらず、今はただ懐かしい温もりを偲んで師に近寄っていった。
「聖闘士が持つ二つの拳は、過去を振り返って流した涙を拭うためにあるんじゃない。クールに敵を倒すためにある。けど、それだけじゃないということも、俺は知っている。俺の掛け替えなき兄弟が身をもって教えてくれた」
天秤宮で凍え切った氷河の肉体を、瞬が自らを犠牲にして温めてくれた。それを思い出した氷河は、今度は同じことを自分がカミュにしてやる番だと考えていた。冷え切った氷の柱と化したカミュの背に腕を回すと、まるで氷河の方がカミュの体温を求めているかのように縋り出した。
「貴方は……死なない。俺たちの戦いは、終わったのです。一緒に……手を取り合って……帰りましょう。いつかの日のように……故郷、シベリアへと……そこで、マーマとアイザックを……弔いましょう。貴方と……二人で……」
その願いが叶うより早く、氷河の体力が底をついた。物言わぬカミュにもたれかかったまま、氷河の鼓動も凍り付いていた。やがて重力に従って、氷河の体は床へとずり落ちていく。
完全に意識も小宇宙も失った氷河の魂は、冥界へと続く扉を見据えていた。その扉に手を掛けているカミュの魂が、去り際に最後の言葉を掛けてくる。
「氷河……私はな、あと一歩のところで心を捨てることが出来なかった。天秤宮において、私はお前をクールに葬ったつもりでいた。聖域から命じられた指令に背いたお前を、私情を挟むことなく自らの手で……。だが、そこにも心が潜んでいた。お前は、私にとって最後の弟子……その弟子が他の黄金聖闘士に倒されるのであれば、いっそ私の手で葬ってやりたいという気持ちがあった。それはお前を思いやってのこと以上に、私自身のためだったのだ。私もまた、私情でお前を葬ろうとしていた。そんな私の幕引きをお前にしてもらいたくて、私は生死を賭けた戦いの中にあっても無意識にお前を導いてしまった。お前を聖闘士として生かしてやりたいという気持ち以上に、私が人として死ねるために。氷河よ、お前がいてくれたおかげで、私は人として大事な心を捨て去ることなく逝けるのだ……」
天蝎宮の壁に空しく拳を突き立てて、ミロは泣いていた。あの悲しき師弟がどうなるか、分かっていながら氷河を進ませたことに涙した。そこには後悔の類は、微塵も存在しない。全ては運命だと割り切っている。
それでも、泣かずにはいられない孤独な夜であった。
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