「黄金聖闘士」編
第十二話 双魚宮
「星矢、君に一つ謝らなくてはならないことがあるんだ」
十二宮も残すところ、あと一つ。ここまで十時間近くも休みなく走り続け、戦闘の連続であった。その最後の宮を、星矢は瞬と並んで通過するつもりでいた。それを叶えられないことに対して、瞬は謝罪を口にした。
「双魚宮で待ち受ける黄金聖闘士は、十二宮最後にして随一の
少女のような顔立ちでありながら、瞬は言い出したら聞かない意思の強さも持ち合わせている。それに、瞬が頑なになる理由については星矢も熟知していた。
「分かっているさ、瞬。この先にいるのは、お前の……」
「星矢……ごめんね。星矢を一人で教皇の間まで進ませることになるけど、僕も自分の戦いが終わったら迷わず後に続くよ」
そんな言葉を交し合う少年たち二人が目指す場所――双魚宮の門番、ピスケスのアフロディーテ。星矢たちは、思いもよらなかった。まさか、そのピスケスを不倶戴天の教皇が訪れているなどとは。
教皇の間へと続く、最後の石段。その方角から聞こえてきた声に対し、ピスケスは反射的に膝を折って頭を下げた。この黄金聖闘士もまた、アテナに対する以上に教皇への忠誠を誓う悪の片割れ。それは同時に、教皇にとっては頼もしい部下となるのだ。
「間も無く、ペガサスとアンドロメダの二人が現れよう。必ずや、お前の力で返り討ちにせよ。余は、お前を最も評価しているのだ。頼んだぞ、この十二宮を護る最後の番人よ」
「しかるべく。猊下の御宸憂も、これで晴れましょう。全て、このアフロディーテにお任せを」
正に聖旨を拝命する事に喜びを見出しているかの如く、ピスケスの黄金聖闘士は頭を垂れたままの姿勢で微笑を浮かべた。教皇がわざわざ双魚宮まで下りてきて、直に自分に言葉を掛けてくれた。そのことを実感することでピスケスは胸の内に熱い使命感を育て、そこまで迫っている戦いに備えていた。
教皇の気配が去っていく。それを察知しても、ピスケスのアフロディーテは暫くは姿勢を保っていた。それだけの忠誠心が、この男にはある。それがために、一つ見落としていた。今の教皇は、平素とは違う点が一つだけあった。それは、法衣と共に教皇の位を表す黄金の兜を被っていない点だ。常に教皇の素顔を隠してきたマスクに、こうまで接近していながらアフロディーテは気が付きもしなかった。
教皇の小宇宙が、無事に教皇の間までと辿り着いた。それと双魚宮に来訪があったのは、ほぼ同時であった。
双魚宮の入り口に立ち、用心深く中を窺う星矢と瞬。磨羯宮の時のように、不意討ちを食らうのだけはゴメンだった。床を金属の靴底が鳴らす音が、宮の奥から聞こえてくる。姿を現したピスケスの容姿に、二人はハッと息を飲んだ。
同じ白人でも、ガラス細工のようなカミュより一層際立った雪のように白い肌。それ自体が光を発しているかのような黄金色の髪の毛。一見して闘士というより文人と思えるのは、教皇の側仕えゆえか。
「こんな奴が、本当に戦えるのか……。いや、線の細さでいえば処女宮のシャカの方が、よっぽどだった。それでも、俺たちは瞬く間に奴にやられたんだったな」
「うん……それに、この人の実力は間違いないはずだよ。だって……だって、僕の師匠であるダイダロス先生を……」
恐れにも似た瞬の呟きを、アフロディーテは聞き漏らすことなく反応を示した。
「ケフェウスのダイダロスか？ 確かに、君の聖衣の形状はアンドロメダ……。とすれば、君は師の仇討ちをと考えている訳だ。ダイダロスを屠った、このピスケスのアフロディーテに挑もうというのだな？」
紅顔の瞬に似合った、いたいけではないかとアフロディーテも目を伏せて笑みを浮かべた。それを隙ありと見て、星矢が彼の脇をすり抜ける。
「どうした、ペガサス？ 君は仲間の手助けをしてやらぬのか？」
「悪いが、俺は瞬を信じているんでね。一足先に、教皇の野郎の所まで行ってくるのさ！」
教皇最大の近侍であるはずのアフロディーテは、何故かすんなりと星矢を見逃した。その動きを目で追うことすらせず、星矢を双魚宮の先へと通してやった。驚きのあまり、瞬は目線でアフロディーテに真意を尋ねる。
「不思議かね、アンドロメダ？ 私が直接手を下さずとも、彼は決して教皇の間へと行き着くことは出来ない。君も聖闘士なら、聞いたことがあろう……古より、数々の侵入者を拒み続けてきた
「伝説の……魔宮薔薇だって!?」
「そうだ。その花粉を僅かに吸っただけでも意識は遠のき、トゲから樹液を注入されれば即座に息絶える……文字通りの魔の薔薇。その魔宮薔薇が植えてあるのだよ。ここ双魚宮から教皇の間へと続く石段の脇に、無数とな。その猛毒を防ぐには、我々の黄金聖衣か教皇の法衣を纏うより他は無い。ペガサスごとき青銅聖衣では、ほんの数歩も進めば陶酔に襲われて死に至る」
瞬に恐れを抱かせる自らの説明に何か思い当ったことがあるのか、アフロディーテは一瞬だけ遠い目をした後に瞬を見詰め、薄く笑ってみせた。
「そういえば、君の師ダイダロスにも同じ死に方を味わわせてやったのだったな。聖域に楯突く愚かな反逆者たちには、似合いの末路だろう」
「違う。本当の反逆者は……幼いアテナを殺害しようとし、地上の支配をもくろんだ教皇こそ諸悪の根源なんだ」
「それがどうした？」
瞬は、耳を疑った。少しも悪びれた様子を見せず、教皇の悪事を当然だと言うようなアフロディーテの発言に、思わず沈黙してしまった。
「あの赤子、まだ生きていたとは驚きだが……。その小娘が、地上のために一体何をしてくれたというのだ？ 今日まで地上が邪悪に脅かされることもなく、安寧と静謐に包まれてこれたのも全ては教皇猊下の御心によるもの。その大いなる愛だけが、地上を邪悪から守れるのだ」
「そんな馬鹿な……。貴方はアテナの聖闘士……その中でも最上位に位置する黄金聖闘士でありながら、神の座を簒奪しようとする教皇の片棒を担ぐというのか？」
瞬の正論が、戯言にしか聞こえないのか。春風に何も感じぬ馬の如くに、アフロディーテは虚仮にしたような笑いを浮かべ続けている。
「君は私と討論しに来たのか？ 残念ながら、私にその気は無い。手早く済ませようじゃないか……君の師と同じく、一瞬で葬り去ってくれよう」
アフロディーテの小宇宙が燃焼を始める。咄嗟に瞬は、両手のチェーンで防御の陣形を敷く。アフロディーテを取り囲む小宇宙の渦が、美しい薔薇の花弁を思わせる真紅に変わっていくのを見ながら。
「先に説明した魔宮薔薇……私は、自分の小宇宙をその魔宮薔薇と同じに変えることが出来るのだ。即ち、この小宇宙を浴びてしまえばアンドロメダよ、君もダイダロスやペガサスと同様に全身の神経を麻痺させられ、精神を粉々に砕かれて死んでしまうのだ。外傷の一つも負わずしてな」
無情にして確実なる宣告。瞬も、ダイダロスから六年間の修行を終えた証として授かったアンドロメダのチェーンが持つ防御性能には、かなりの自信を抱いている。それでも、目に見えぬほど細かな花粉に模した小宇宙の全てを、見逃すことなく遮れるであろうか。その一粒でも吸ってしまえば、それは瞬の敗北を意味するのだ。師の仇を取るため、あえて一人で残った意味を無と化して。
「一縷の情けだ。君には、その美しい面立ちのまま逝かせてあげよう。死を告げる無数の薔薇に囲まれてな」
「せっかくだけれど、闘う男に似合うのは可憐な花じゃない。今日まで流してきた血と汗なんだって、僕の兄さんなら言うはずだ。その兄さんと誓ったんだ……生きて、この戦いを見届けるって」
アフロディーテの攻撃に備えて、瞬のチェーンが目まぐるしく回転を始める。瞬自身の身体を中心に、チェーンが巻き付くようにしながら回り続ける。蟻の這い出る隙もないほど鎖と鎖の間は密着し、その擦れ合った摩擦で電流にも似た衝撃を生み出している。
「このローリングディフェンスであれば、例え黄金聖闘士の技であっても防ぎ切れるはずだ」
「では、試してやろう。舞うがいい、真紅の小宇宙よ……ロイヤルデモンローズ！」
アフロディーテが放った花弁の渦が、吹雪のような勢いで瞬の姿を覆う。どんなにチェーンの防御力が優れていようとも、こうまで畳みかけられて果たして無事に済むのだろうか。少なくともアフロディーテだけは、自らの勝利を確信していた。
「もう、いいだろう。薔薇よ、治まれ」
アフロディーテの掛け声に応じて、あれほど猛烈に瞬を襲っていた真紅の小宇宙が、いっぺんに晴れていく。残された後には、相変わらずチェーンが回転を続けて瞬を守り続けていた。だが、アフロディーテは見抜いていた。そのチェーンは瞬の意思によるものではなく、チェーン自身が持つ防御本能によって動いているに過ぎないと。
やがてチェーンの動きが止まり、瞬の姿が顕となる。両膝を床に付けて苦悶の表情を浮かべる様は、明らかに無傷とは思えなかった。
「私の見立てでは……なるほど、流石は八十八の聖衣の中でも最高の防御力を持つと言われるアンドロメダのチェーンだ。私の想像以上に、君の身を護ってくれたようだが……それでも、残された君の命は決して長くはない。今は微かな倦怠感しか感じないであろうが、次第にその状態が心地よくなっていく。その時には君の五感は薄れ消滅し、戦う気力を失くして小宇宙までも消えるのだ」
もはやアフロディーテには、わざわざ拳を振るう必要さえ無いということか。遥か高みから瞬を見下ろして、死にゆく様を見届けようとしている。確かに、瞬は肉体的なダメージは全く負っていないのに、息が上がって手足の末端が痺れてきている。それでも容易く死を受け入れるほど、アンドロメダの聖闘士は弱くない。舌を噛んででも気力を振り絞り、屹然と立ち上がる。
「僕の人生……十三年で終わることになったとしても、弱虫のままじゃ終わらせない」
常に兄の陰に隠れて怯えていた幼少時代は、もうとっくの昔に過ぎ去った。過酷な修行を乗り越え、一人前の聖闘士の仲間入りを果たした以上は、たった一人であろうとも挫けずに戦い抜く。そんな思いから瞬は立ち上がり、両手でしっかりと鎖を握った。
「僕は、見かけだけじゃない。中身だって男だということを証明してみせる」
瞬の気合いが乗り移ったかのように、二本のチェーンも震え出す。その表面には、再び電流が走っているのだろう。今度は瞬が攻撃に移り、アフロディーテに一万ボルトものショックを与えるために。
「先生……今こそ、先生の無念を晴らします。行け、ネビュラチェーン！」
まっすぐにアフロディーテ目掛けて飛んでいくチェーン。それが直撃した瞬間、アフロディーテの身体が霧散して消えた。亜光速の動きで回避したのとも異なる。まるで、最初から目測を誤っていたようだ。
まさか、ロイヤルデモンローズの影響で既に瞬の目がかすんでいるのか。そうではなかった。アフロディーテの纏う真紅の小宇宙は、それ自体がアフロディーテにとって聖衣にも匹敵するもう一つの防御壁となっていたのだ。彼の姿は、花霞のように揺れて舞い踊る小宇宙の中に溶け込み、敵の視界から実際の位置を歪ませていたのだ。
「それでも、このチェーンには通じない。さあ、チェーンよ……その本能のままに敵を追尾するんだ。サンダーウェーブ！」
稲妻と化した瞬のチェーンが、鋭い勢いで花霞の中へと飛び込んでいく。確かな手ごたえを感じると、霧が晴れるようにしてアフロディーテの姿が浮かび出した。しかしながら、それは瞬の予想とは大きく異なっていた。
「何だって……僕のサンダーウェーブが、アフロディーテの指一本に阻まれている!?」
チェーンの先端が衝突したことは、感触から伝わってきた。それを、てっきりアフロディーテへのダメージと考えたのは尚早であった。青銅ごときの技など、アフロディーテほどの聖闘士であれば回避せずとも余裕で受け止められるということか。
更に驚愕すべきは、瞬が放ったチェーンが先端からボロボロと崩れていっていることだ。力を込めずとも、指先で触れているだけで破壊できるのか。神の怒りを鎮めるために用いられたアンドロメダの鎖を。
「教皇の間に最も近い双魚宮。血で穢しては猊下に対してあまりに恐れ多い。ゆえに君には陶酔の内に息絶えてもらいたかったが……」
静かに語り出すアフロディーテの周囲を漂う小宇宙が、先程までの真紅から一変していることに瞬も気が付いた。よく観察してみれば、チェーンを砕いたアフロディーテの指先が黒く変色している。否、指先に黒く染まった小宇宙が集中されているのだ。
嫌な予感を覚えて、咄嗟に瞬がチェーンを引く。破壊されたのが先端だけで済んでいる内に引き寄せて、再びローリングディフェンスの結界を張る。ところが、アフロディーテから飛んできた小宇宙の刃は無情にもチェーンを切り裂いていき、ただの金属の粉末へと変えてしまった。
「ピラニアンローズ。この漆黒の小宇宙の渦に巻き込まれては、何者も助かる術を持たない。君の聖衣も、肉も、骨も、血液の一滴さえも残さず砕いてみせよう」
その言葉通り、アフロディーテが放った小宇宙の花弁は瞬の周りを飛び交い、旋回しながら聖衣を切り刻んでいく。その切れ味に瞬が怯んでいる隙に、瞬の体はすっかり漆黒の幕に覆われてしまっていた。
視界の全てがまっ黒に包まれ、瞬も己の死を覚悟した。このピラニアンローズの切れ味であれば、確かにアフロディーテが予告した通りの結末が待ち受けているであろう。間も無く、瞬の肉体は地上から完全に消え失せる。無念ながらも、それを受け入れるより術は無い。
頃合いを見て、アフロディーテが黒い旋風を静める。そこには、人が存在していた形跡など微塵も残ってはいないはずであった。驚きを込めて、アフロディーテの目が瞬の姿を捉える。
「信じられぬ……アンドロメダよ、何をした!?」
ピラニアンローズに聖衣も肉体も全てを食い破られたはずの瞬に向かって、驚愕したアフロディーテの声が飛ぶ。当の瞬は、ぐったりとして動かず返答も出来ない様子だ。アンドロメダの聖衣は影も形も無くしていたが、生身の肉体に目立った外傷は見当たらない。両膝を突いたまま気を失っている瞬の周囲には、黄金聖闘士であるアフロディーテの猛攻にも耐えうるだけの強大な小宇宙が漂っていた。
「黄金の小宇宙だというのか……違う、出処はアンドロメダの体からではない。もっと遠く……あれは、処女宮から伸びているのか？」
遠隔視で瞬の周りの小宇宙を辿っていってみれば、そこは今となっては無人の処女宮だった。一輝がシャカと共に消滅した後、主を失ったバルゴの聖衣のマスクだけが取り残されていた。瞬の命を守った小宇宙は、そのバルゴのマスクから発せられていた。
目を疑うような現象を受け入れられず、アフロディーテは遠隔視を続けて処女宮の中を隈なく見渡した。あるいはシャカが帰還して、バルゴの聖衣を操っているかもしれない。ムウたち、教皇と反目する他の黄金聖闘士の可能性もある。だが、そんな捜索で得られる成果は無かった。
「どういうことだ!? 処女宮は無人のまま……ということは、バルゴの聖衣の意思によるものなのか？ そんな奇跡が、どうして起こる？ バルゴの聖衣が小宇宙を放って助けるなど、持ち主であるシャカが相手ならともかく……ま、まさか!?」
残る可能性から某かの確証を得たアフロディーテは、殊更に信じられないといった目線を瞬へと投げ掛ける。まさか目の前にいる子供が、神にも近き実力者のシャカと同じく乙女座の黄金聖闘士となる資格を有しているのかと。
簡単には止まぬ驚きをもって見詰めるアフロディーテの瞳の中で、瞬を守っていた黄金の小宇宙が次第に消えていくのが映った。長い睫毛を震わせて、瞬も意識を取り戻そうとしていた。
「まさか、バルゴの聖衣に残っていた小宇宙に助けられるとは……そこまでは計算外であったが、それがどうなるというのだ？ 君自身の五感が薄れ、もはや戦える状態でないことに変わりはないのだぞ」
それは事実であった。いや、事実であるはずだった。アフロディーテと闘って、ここまで抵抗を続けた敵は今までいなかったのだから。今や黄金の小宇宙は気配を消して、アフロディーテの眼前にいるのは力を無くした子供に過ぎなかった。その事実を覆すほど、この期に及んで瞬の小宇宙は一層の高まりを見せ出した。
まるでロイヤルデモンローズの効果で強く押し込められていた瞬の小宇宙が、反発して一気に爆発したかのようだ。思わず後ずさりそうになるアフロディーテの眼前で、瞬が片膝を付いた姿勢を取って顔を上げる。
「アフロディーテ……僕のチェーンも聖衣も、貴方の小宇宙によって失われてしまった。だけど、僕はここで戦いを止める訳にはいかないんだ。不本意だったけど、仕方がない……今こそ、僕自身の拳の封印を解く」
跪いた瞬の足元から、突風が舞い上がった。何が起こったか正確に見極めようと、アフロディーテも両目を見開いて瞬の動きに注視する。失われたはずの瞬の小宇宙が、今では空気を伝わってアフロディーテの肌に突き刺さってくるのを感じる。バルゴの黄金聖闘士にも匹敵するだけの小宇宙を身に感じて、アフロディーテの背を汗が流れていった。
「何があるというのだ!? 五感も薄れ、小宇宙も封じられ、聖衣さえも失くした小僧の細腕に……このアフロディーテを脅かすほどの何かがあるというのか!?」
次々と起こるはずのない奇跡を目の当たりに見て、アフロディーテも恐怖を意識し出した。恐怖という感情は、次なる攻撃に対する備えとなる。一切の油断も思い込みも無しに、アフロディーテは瞬の一挙手一投足に目を配る。その細身の体から湧き出てくる小宇宙の色を見逃すことなく。
「今度は、間違いない。間違いなく、アンドロメダ自身から黄金の小宇宙が迸っている。バルゴの聖衣に助けられたことによる副作用なのか？ そうではない……この男、自らの力だけでセブンセンシズに目覚めている。先の黄金聖衣の加護も、この男には無用のことだった。五感を絶たれて意識さえも失った時、アンドロメダの中で眠る第七感が刺激されて躍動したのだ……つまり、黄金聖衣から発せられていたと思われた小宇宙も、実はアンドロメダの仕業。アンドロメダが作り出した、バルゴの小宇宙だったのだ」
黄金聖闘士の域にまで到達した瞬の小宇宙。瞬は知っていた。処女宮において、今の自分と同じくセブンセンシズに目覚めた一輝が、強大な黄金聖闘士であるシャカを倒したことを。ただし、自らの命と引き換えにして。
その兄と最後に交わした約束が、処女宮を出てからずっと瞬の心の糧となっていた。如何にセブンセンシズを得られようとも、ロイヤルデモンローズの毒に侵されて死にゆく今の状況下でも。
「人間にとって、一番大事なことは何か。それは約束を守るということだ。処女宮で僕は、兄さんと誓った。この十二宮の戦いを生き抜き、生きて地上へ帰ると。でも、どうやら果たせそうにはない……。僕は、人間として一番大切なことを……一番大切な人との約束を守れそうにない。だから、その誓いを阻んだ貴方に対して、この拳を使わせてもらう。貴方に対する恨みからではない……貴方によって葬られたダイダロス先生との、もう一つの約束だけは、せめて！」
瞬の純粋な双眸が、アフロディーテを捉える。毒で目がかすみ、歪んだ視点は相手の小宇宙を感じることで補う。常に自分の中で、自分の小宇宙を支えてきてくれた約束を果たすために。
「僕も兄さんのように、最後まで戦い続けるんだ。行くぞ、アフロディーテ……ネビュラストリーム！」
片膝を付いた状態から腕だけを伸ばして小宇宙を発揮する瞬。その小宇宙は、双魚宮の中に大きな空気の渦を巻き起こしていく。風の流れは、すぐさまアフロディーテの肉体に影響を及ぼしていった。
「何だ……？ 意識が……朦朧とする？ 一体、私は何をされたのだ!?」
気流の変化は、アフロディーテの周りにだけ空気の断層を生み出していた。アフロディーテの肉体の周辺は、瞬が作った気流によって真空状態となっていたのだ。即ち、アフロディーテの周囲は他より気圧が下がった状態となる。急激な気圧の低下が、アフロディーテの肉体にも劇的な変化を及ぼす。例え黄金聖衣で身を守っていようとも避けられない変化が。
「おかしい……足に力が入らない。頭もクラクラする……。こ、呼吸が……苦しい」
黄金聖闘士アフロディーテも、向かい合う瞬と同じく床に膝を付いてしまう。たかが青銅聖闘士と侮っていた子供に、こうまで不覚を取ったことに苛立ち、目を血走らせた。
「今、貴方の肉体は内側から破壊されつつある。僕のネビュラストリームが作り出した真空によって。このまま行けば、貴方の命も僕と同じく、あと僅かだ」
形勢は互角となった。瞬の肉体は毒素に蝕まれ、じきに力尽きる。その瞬が攻撃を止めない限り、アフロディーテも身動きを取ることが出来ないまま命果てるのだ。アフロディーテより先に瞬が倒れるか、何とかしてアフロディーテが瞬にとどめを刺さない限り、アフロディーテにも勝機は無い。
「約束、か……」
アフロディーテが何事か呟いたのが、瞬にも聞こえた。意識がはっきりとしないことによる独り言とも思えたが、その口調には強い意思が込められていた。全身を小刻みに震わせながらも、青銅ごときの技には決して屈しないとばかりにアフロディーテは真正面から瞬を睨み付ける。
「君の考えには、同調してやろう。だが、それは決して君の誓いとやらを果たさせてやるという意味ではない。このアフロディーテにも、裏切ることの出来ない誓いがある。それを君のような小僧に妨げられる訳にはいかぬからな」
ネビュラストリームによって動きを制限されようとも、自らに敗北が近付いているなど少しも考えはしない。あくまで戦い抜く所存だ。自らが誇りとする信念に基づいて、アフロディーテは凛として瞬を見据えてきた。
その眼差しは、とても悪とは思えないほど澄んでいた。口にした言葉からも、誠実さが窺えた。師の仇とは言い条、瞬とて出来ることなら同じ聖闘士を手に掛けたくはない。アフロディーテに対する寛容が瞬の心の中で広がり出す。ずっと考えていた戦い以外の解決方法が、この男になら通じるのではないかと思えてきた。
そんな瞬の考えとは正反対に、あくまでアフロディーテは瞬と敵対するつもりだ。右腕をブルブルと震わせながら、肩よりも少しだけ上に持ってくる。軽く握った拳が、小宇宙の光によって輝き出す。
「腹立たしいことに、君が巻き起こした技によって私も身動きが取れぬようだ。辛うじて腕一本を動かせるのみ、か……。それで十分なのだよ。このアフロディーテにはな」
拳の中から生まれた輝きは、やがて一本の太い針のような形に変わる。アフロディーテの小宇宙によって作り出された、最後の薔薇。その一撃にアフロディーテは余程の自信があるのか、追い詰められながらも口の端を上げてみせる。決して強がりなどではなく、確信によってもたらされる笑みだ。
黄金聖闘士が最後まで温存していた最後の技。正真正銘の奥の手が、瞬の目の前で繰り広げられようとしていた。一見して、そこまでの脅威を秘めているとは思えない針に、瞬も戸惑いの表情を浮かべる。
「この小宇宙のトゲが君の胸に突き刺されば、どうなると思う？ 急激な圧力を掛けられた心臓からは、火山の噴火のように激しく血が噴き出す。全身の血を失い、君は冷たい骸と化すのだ。君の真空とやらが私の意識を奪うより、ずっと早くな」
それによって瞬を倒し、アフロディーテがネビュラストリームの呪縛から解き放たれるのであれば、それは彼の勝ちだ。星矢も既に魔宮薔薇の海で息絶えたものと考え、教皇側の勝利をアフロディーテは確信していた。
「私にこの技を使わせたのは、ここまで抵抗を止めなかった君の罪だ。なるべくなら猊下の御前を血で穢し、宸襟を悩まし奉ることは避けたかったのだがな」
忠義から来る信念。それを曲げてでも、教皇に勝利をもたらそうとする。アフロディーテは本気だ。追い詰められたことで、諦めて降伏するような素振りは見せない。教皇に対する忠誠心が、アフロディーテの小宇宙を支えていた。まるで、瞬たちが沙織をアテナと信じているのと同じように。
そこまでの忠誠を捧げる教皇のため、もはやアフロディーテは手元で光る最後の小宇宙を投げつけることに一切の躊躇いを持たない。しかしながら、視点の焦点が僅かにブレている。掲げた右腕も震えている。これでは照準を合わせられないのか、一筋の汗をかきながらアフロディーテは機を狙う。
瞬も慌て出した。アフロディーテは、瞬の命を一撃で奪える最後の手を持っている。そして、瞬もまた。その奥の手を互いにすぐさま出せないとなれば、先に力尽きるのはどちらになるのか。瞬の方が、黄金聖闘士のアフロディーテよりも正確に見極めていた。
「待ってくれ！ これ以上続ければ、ネビュラストリームは貴方の命を奪うほどに激しさを増すこととなる」
「何を躊躇っている？ 君もそれが目的で、この双魚宮まで来たはずだろう。君の師、ダイダロスの仇を討つためにな」
それは事実であるが、正しい表現ではない。瞬には、初めから憎しみで人を討つ気など無かった。まして、自分と同じ聖闘士を手に掛けるなど。そんな自分の思いを瞬は訴える。誤解を解きたいという気持ち以上に、アフロディーテの悔悛を願って。
「貴方だって、アテナから力と黄金聖衣を授けられた聖闘士だ。だから、僕も本気で戦って殺すつもりはない。僕が今、欲しいと望むのは貴方の命ではなく……ダイダロス先生に対する謝罪の言葉だ。それをダイダロス先生の魂に捧げるために。そして、貴方もこれまでの罪から改心し、真の聖闘士らしく教皇シオンと戦ってほしいんだ」
瞬の心からの説得。それが、かえってアフロディーテの怒りを買ってしまう。心底、敵意と憎悪を込めて睨み付けてくるアフロディーテの視線に、瞬も総毛立つ。その怒りに任せて、アフロディーテが声を荒らげる。
「どんな人間であろうと畏怖し従ってしまうもの……それは力だ。城戸沙織がよしんばアテナだとして、シオン様を凌ぐ力を持っているとでもいうのか!? いや、例えそうだとしても私は猊下の臣……今日まで聖域を離れ、己の使命に背いてきた小娘に下るつもりは断じてない」
何がアフロディーテを、こうも頑なにしているのか。アフロディーテの言葉には、確かに正義がある。その思いを何故、邪悪のために捧げてしまうのか。何故、主たるアテナをそんなにまで蔑むのか。
それまで震えていたアフロディーテの指が、ピタリと止まる。狙いは定まったようだ。瞬には、もう猶予は残されていない。これが最後の説得と、瞬は思いの丈を口にする。
「分からない、どうしても……。貴方は、先生の仇だ。それなのに、どうしても貴方が悪の味方をするような人には思えない。暴力が似合いそうもない人なのに、どうして教皇に信頼を寄せるんだ」
無垢な少年の純粋な気持ちが、ようやくアフロディーテにも届いたのか。照準を定めながらも、アフロディーテは最後の攻撃に出るのを少しばかり遅らせた。そこに、ピスケスのアフロディーテが本来持つ優しさが見え隠れする。その優しさ故に聖闘士としての本分から離れ、教皇を邪悪と知りながら支えていこうと決めた想いが言葉に現れる。
「あの方は……孤独なのだ。誰一人として、その御心を理解できる者をお持ちでない。私ただ一人を除いてな。だからこそ、私は小娘なんぞに尻尾を振る坊やに負ける訳にはいかないのだ！」
瞬にも、分かった気がする。何故、アフロディーテが頑なになるのか。その根本である彼の性格にも気が付き、本当に最後の説得を試みる。
「アフロディーテ！ 僕の話を聞いてくれ！ 貴方だって本当は、戦いなんてしたくないはず。平和な解決方法を望んでいるんじゃ……」
「黙れ！ 時間稼ぎのお喋りなど、もう終わりにしろ！」
切羽詰まった叫びに、瞬の声も掻き消される。もう、互いに体力の限界がきている。それを互いに理解していた。
「そうだ……君の命も、これで尽きる。戯言の続きは、地獄に落ちてから一人でするのだな！ 食らえ、ブラッディローズ！」
「やるしかないのか……なら、僕も躊躇いは捨てた！ 僕の最後の小宇宙を解き放つ！ ネビュラストーム！」
猛烈な爆発を起こした瞬の小宇宙が、その掌から発射される。爆風は、地上の全てを天へと吹き飛ばすかの如くアフロディーテへと向かっていった。その中心を通って、瞬へと逆走する一筋の光がある。瞬には、その光が一輪の薔薇に見えた。もしも本物の薔薇であれば、ネビュラストームの勢いに押されて瞬の体には届かなかったであろう。瞬間的に光速の域にまで速度を上げたアフロディーテ最後の小宇宙。その小宇宙が姿を変えた薔薇のトゲが、過たず瞬の左胸に突き刺さった。
自分の攻撃が瞬に命中したことを、アフロディーテは見届けることが出来なかった。教皇への忠誠を貫き、侵入者を退けたことを確信する前に、彼は敗北感に打ちのめされていた。ネビュラストームの暴風によるダメージに、弱り切った肉体は少しも耐えることが出来なかった。
「私には……死ねぬ訳があるのだ。猊下のおわす、教皇の間……。その最後の守りは、私でなくては……。猊下が、唯一……宸念をお洩らしくだされたのは、私……その想いに背く、わけには……」
自分の主は、アテナではなく教皇。その思いを最後の瞬間まで抱いたまま、ピスケスの黄金聖闘士は全身の血管を破裂させて死んだ。彼の纏う黄金聖衣が如何に防御力に優れていようとも、急激な気圧の変化で異常をきたしていた肉体が嵐の直撃を受けたのだ。生前の寛雅な様など微塵も残さぬ醜い屍が、変わらぬ輝きを見せる聖衣に包まれていた。
アフロディーテを倒した瞬にも、勝利を味わう余裕は無かった。ブラッディローズのトゲは、瞬の心臓深くに食い込んでいた。強い圧力を掛けられて、拳大の心臓もたまらず悲鳴を上げる。その悲鳴は、双魚宮の天井付近まで届くほどの出血を見せた。自らの血を浴びた瞬は、全身を真っ赤に染め上げて仰向けになる。彼が倒れた位置を中心にして血液は広がっていき、大輪の赤い薔薇が咲いていった。
血が失われていくと同時に、瞬の意識も遠のいていく。先に受けたロイヤルデモンローズによって五感が薄らいでいた瞬には、痛みも苦しみも感じられなかった。真に安らいだ表情で、ぽつりと呟く。
「黄金聖闘士が相手でも、一歩も退くことなく一人で……やれた。僕は、もう弱虫じゃないって……分かってもらえるよね、兄さん？」
ただ死を待つのみとなった瞬の肉体に、少しだけ活力が蘇ったような実感が訪れた。これが死の間際の感覚というものなのかと考える瞬の耳に、沙織の声が届いてきた。
「瞬……瞬、貴方は誓ったはずではないのですか？ 必ず生きて帰ってくると。貴方は、この戦いの生き証人とならなくてはならないのです」
星矢たち兄弟の中では最年少となる瞬の、その短い生涯が尽きようとしている。それを必死に呼び止めようと、沙織も小宇宙の声を張る。出来ることなら自分の小宇宙を与え、それを瞬の命に転換してやりたい。それが出来ない以上、なんとか瞬自身に生きる気力を持たせてやりたかった。
そんな沙織の必死さとは裏腹に、瞬はあくまで安らぎの表情を浮かべていた。主であるアテナに不安を与えたくはないといういじらしさが、瞬の唇を震わせて声に出る。
「沙織さん、僕の事よりも星矢を助けてあげて……魔宮薔薇の罠へと飛び込んでいった、星矢を……。僕なら大丈夫です。少し休めば、すぐに立ち上がれますから」
瞬が拒否したためか、その周囲から女神の小宇宙が離れていった。途端に瞬は、身体に重力を感じて瞼を閉じる。沙織に見せた強がりも、今では失せていた。アテナを心配させまいと張っていた虚勢は消えて、自らの死を受け入れようという思いだけが残った。
「みんな……冥界で、また会おう……」
アイオロスの遺書の前で青銅聖闘士が誓いを交し合ってから、まだ一時間しか経っていない。その僅かな間に、三人もの若き命が失われていった。残す最後の青銅聖闘士、星矢にしても同じだ。彼は今、双魚宮と目指す教皇の間の狭間にある石段で倒れている。それを救える仲間は、既に全滅してしまった。
星矢を、そしてアテナを救出し得る最後の希望を背負って、一人の聖闘士が十二宮の石段を駆け上がっていく。この長い十二宮の中で、生きて移動している小宇宙は自分だけ。それを感じつつ、傷ついた体に鞭打ってイーグルの魔鈴は駆け続けた。果たして間に合うかどうか、疲労以上に心臓を跳ね上がらせる不安と戦いながら、魔鈴は前進を目指していた。
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