「黄金聖闘士」編
第十三話 教皇の間
十二宮を駆け上がってきた魔鈴の足が、そこで止められた。吹雪のように舞い散る死の薔薇に、半分近く埋もれてしまった愛弟子の姿を目の当たりにして。
「星矢！」
呼びかけてみても、ピクリともしない星矢の体。彼を救い出すには、まず先に猛毒の薔薇の方を片付けなくてはならないと魔鈴は考えた。そうしないことには、自分も星矢には近付くことも出来ない。
「流星拳ー！」
星矢の体に、みっちりと仕込んだ必殺技。それが師・魔鈴の手によって繰り出される。星矢の体を覆う真紅の花弁と、その大元である花壇に咲いた薔薇の一切を吹き飛ばすために。
辺りから薔薇の花の欠片も見えなくなったことを確認すると、魔鈴は急いで星矢へと駆け寄った。体勢を仰向けに変えてやり、
「立つんだよ、星矢。お前まで死んでしまっては、十二宮という荒野をさすらう旅人はもう誰もいなくなってしまう」
動こうともしない星矢の口元に指を近付けると、僅かに湿った。星矢の命は、まだ完全には失われてはいない。どうにかして毒を取り除いてやれば、復活も夢ではない。
魔鈴は仮面を外すと、自らのそれを生気を失くしかけている星矢の唇にぴったりと合わせた。肺の中に残り蝕んでいる香気を吸い上げ、星矢の蘇生を願う。二人の唇の間から微かに呻く声が聞こえた気がして、魔鈴は星矢の様子を注視した。
「姉、さん……」
星矢のうわ言が、懐かしい響きとなって魔鈴の胸を衝く。やがて星矢の瞼が開かれると、魔鈴は再び仮面を付けて星矢に呼びかけた。
「星矢……気が付いたかい？」
「ねえさ……マ、魔鈴さん？」
無意識の中で鼻孔をくすぐってきた匂いから、星矢は姉の夢を見ていたようだ。幼い頃に離れ離れとなってしまった姉の夢を。現実に引き戻されて、目の前にいるのが師である魔鈴と分かる。
未だ全身には痺れが残っている。そんな自分の体よりも、星矢は目の前でうずくまる魔鈴の心配を優先した。聖衣で守られていない部分には、あちこちに擦り傷が見られる。呼吸を整える余裕も無いほどに衰弱しているのは、自分が食らった毒を肩代わりしたためだ。多分な申し訳なさを込めた星矢の揺れる瞳に見詰められて、魔鈴は手振りで叱咤した。
「魔鈴さん……」
今の状態の魔鈴を置いてゆくのは、酷であった。だが、星矢にも分かっている。今、成さねばならない本当の目的を。自分たちに勝利をもたらすものの意味を。魔宮薔薇の罠を不覚にも気付けずに、自分はどれだけの時間を無駄にしてしまったのだろう。火時計は、十一番目の灯が間も無く消滅しようとしている。あれだけ盛んだった仲間たちの小宇宙も、今では一つも残すことなく失せている。
自分が敵の罠に掛かってまどろんでいる間に、多くの仲間の命が失われた。星矢は、その仲間たちをあえて置き去りにして、ここまで来たのではなかったか。それが教皇の間まで辿り着くことなく息絶えたり、思い留まっているようでは彼らと同じ聖闘士などと名乗ることは許されない。彼らと血を分けた兄弟であることを、やめることに等しい。
「分かったよ、魔鈴さん。少しの間だけ、待っていてください」
星矢の双眸に、戦う男の闘志が蘇った。それを真正面から見据えて、魔鈴も頷いてみせる。
「星矢……気を付けるんだよ。教皇は……」
無理を押して話そうとする魔鈴に、星矢は微笑みながら首を横に振る。これから長かった戦いの決着をつける。その後で魔鈴を迎えに行く時まで、彼女には生きていてもらわなくてはいけないのだ。
後はもう、二人の間には一切の会話は無かった。気力を振り絞った小宇宙が、星矢の中で弾けると幾分は体が動く気がした。二本の脚を震わすことなく立たせて、決して魔鈴を振り返ることなく教皇の間へと続く石段を駆け上がっていく。
星矢が離れていくのと同時に、魔鈴は楽な姿勢を探して身をよじる。魔宮薔薇の毒素に蝕まれ始めた今、教皇の間までは手助けできそうにない。折角ここまで伝えに来たはずの情報さえ、断片的にも教えてやることが出来なかったのが心残りだ。小さくなる星矢の背を見送ると、魔鈴は横たわるようにして下界に目をやった。
「聖域に……新たな旗が上がる……」
それはアイオリアを筆頭とした、反教皇派の決起の火であった。
長く苦しい戦いが続いた十二宮を繋ぐ石段。その最後の一段を踏みしめた星矢の眼前には、威容を極めた最後の砦がそびえ立つ。まるで無人と思えるほどの静けさに包まれた廊下を、星矢が駆ける靴音だけが響いている。やがて星矢は、巨大な扉の前で足を止めた。その奥から、黄金聖闘士にも匹敵する巨大な小宇宙を確かに感じる。
「来たぜ……教皇。こいつが、アンタに対する宣戦布告の一発だ」
その扉に向かって、星矢の右拳が唸りを上げる。無数の流星によって、分厚い扉は紙屑のように吹き飛ばされる。一歩、部屋の中へと星矢が足を踏み入れる。広い空間の中には余計な装飾は施されてはおらず、星矢の足元から真っ直ぐに絨毯が伸びている。それを目で追うと、奥側に備え付けられた背もたれの高い椅子が目に入る。
過去、幾多の教皇がアテナの地上代行者として座り続けてきた椅子に、今は僭主が座している。その偽りの法衣に身を包み、椅子に深く腰掛けた人物に向かって星矢は、部屋の入り口から大声を上げた。
「来てやったぜ、教皇！ 俺はペガサス星矢……アテナを守る、真の聖闘士だ」
奥にいる人物は、答えもせず動きを見せようともしない。ならばと星矢は接近していく。その過程で気が付いた。常に教皇の顔を覆っていた黄金の兜が、今は外されていることに。星矢は知るべくもなかったが、先に瞬の異次元を超えた攻撃によって黄金の兜は真っ二つに破壊されていたのだ。教皇の椅子と指呼の間にまで歩み寄ったところで、その眉目がはっきりと分かった。
対面した教皇のことを、星矢は若いと思った。想像していたよりも、ずっと年若なのだ。いかに聖闘士を構成するのが少年たちとはいえ、一軍団を統率する以上は壮年から熟年を想像していた。だが目の前の男は、まだ而立にも届いていない。あるいは二十代の後半であろうが、端正で気品溢れる顔立ちがいっそう若々しい青年の趣を見せていた。その美しい青年が、腰掛けたまま星矢に声を掛けてくる。
「青銅……それも聖衣を与えられて日も浅いお前たちが、十二宮を突破するなど誰が想像できたろう。その前代未聞の誉れ、しかと見届けたぞ」
威儀と尊厳とを醸し出す雰囲気も言葉も、全てが教皇を名乗るに相応しいと星矢は思った。この教皇を倒すためにギリシアまで来たはずなのに、思わず膝を屈して礼を尽くしたくなる心地であった。その感覚を、星矢は以前にも体験していた。今、自分が纏っている聖衣を教皇が手ずから授けてくれた時だ。あの時は、星矢も確かに教皇を正義と信じていた。即ち、今の教皇に抱いている不思議な感情は、アイオリアのように幻朧魔皇拳を受けたためでは決してないということだ。もしもそうであるなら、自分は日本にいる間もずっと洗脳状態であったはずなのだから。
「ふざけるなよ……」
教皇の物言いに対するよりも、星矢は自分の中で生まれた感情に対して悪態をついた。この男のためにアテナが危険に晒され、そして兄弟たちが命を落としたのを忘れたのかと叱りつけた。自分が命からがら、ここまで到達した目的を果たすことだけを考えようと努める。
「俺が聞きたいのは、そんな中身の無い言葉じゃない。どうすればアテナの左胸に突き刺さった黄金の矢を引き抜けるかだ。その黄金の矢を光の魔弓でもって撃ち込んだのがお前だ……易々と答えてくれるとは、俺だって思っていないぜ」
そう言いながら星矢は小宇宙を高めていく。己の全力をぶつけて教皇を倒し、力尽くでも教皇に矢を抜かせてやろうという考えだ。熱血を見せつける星矢とは反対に、教皇は表情を崩さず冷静に語り始める。
「聞くのだ、星矢……。光の魔弓は射たが最後、それを振るった者の力をもってしても矢を取り除くことは出来ぬ。それを可能に出来るのは、この教皇の間ではなく、その奥にあるのだ」
教皇の間の奥。そこに何があるのかは、星矢も話に聞いていた。教皇に意識を傾けつつ、その玉座の後ろをチラチラと覗いてみる。純白のカーテンによって遮られてはいるが、確かに風の動きを感じる。そのカーテンの向こう側を突き進んでいけば、きっとあるのだ。伝説のアテナ神殿が。
「アテナ神殿に、一体何があるっていうんだ？ あそこは、本来はアテナが留まる場所のはずだろう？」
それが目の前にいる男によって、十三年間も阻まれてきた。欺かれた多くの聖闘士たちが、無人のアテナ神殿を拝んできたのだ。それを意識して、ますます星矢は怒りを募らせる。それでも教皇の口振りは変わらない。
「アテナ神殿には、例えアテナが不在であっても偉大なる小宇宙が立ち込めて十二宮ならびに聖域全体を覆っているのだ。その小宇宙の出処こそ、大いなるアテナの巨像だ。聖域を見守るようにして、神話に登場する女神アテナを象った巨像が立っているのだ」
教皇が何を伝えたいのか。もしかしたら、沙織の命が尽きるのを待つまでの時間稼ぎかもしれない。その一方で、沙織を救う手立てのヒントが聞き出せるかもしれないと星矢は黙って耳を傾け続けた。
「太古の頃より、巨像の右手には勝利のニケが……そして、左手には正義の楯が握られている。この世の、どんな邪悪の毒牙からも身を守れる力を秘めた楯がな。その意味が分かるか？」
聖域に伝わる秘宝・光の魔弓であっても正義の楯を貫くことは出来ないという話であろうか。だが、現実は弓から放たれた矢という毒牙がアテナを襲った後なのだ。その状況下で、正義の楯がなお役に立つというのか。話が見えず、星矢も焦れて複雑な表情を浮かべる。
星矢のため、教皇は説明を補足する。どうしても星矢に動いてもらうために。星矢でなくては出来ぬ仕事を任せるために。その話は、遥かギリシア神話にまで遡った。
「アテナは、父ゼウスから誕生した際に全身を眩い衣で包んでいたと神話には記されている。その左手に携えられていた物こそが、あらゆる邪悪の攻撃をも退ける正義の楯なのだ。即ち、楯もまた神々にのみ着用を許された衣の一部。その表面から発せられる強大な小宇宙を浴びたとなれば、如何に黄金の矢に女神を倒すだけの威力があろうとも、たちまち消えてなくなるだろう」
星矢の心を衝撃が駆け抜けた。まさか沙織を死の淵へと追いやった張本人が、一戦を交える前に星矢が欲しかった情報を提示してくれるとは。それが真実であるなら素晴らしい。その一方で、やはり鵜呑みには出来ないと星矢は思い留まった。
「待てよ。だったら、どうしてアンタ自身がアテナ神殿へと行って楯を取ってこないんだ？ やっぱり騙そうとしているんじゃ……」
敗北を認めた振りをして、星矢の隙を突くつもりではないか。そう考えて星矢は訝しみの目を向けながら、闘志を抑えることなく教皇の前に立ち続ける。星矢が教皇の間に着くまで、時間は十分にあったはずなのだ。教皇自身が正義の楯を取りに行く時間は。先に楯を取ってきた上で星矢を待っていれば、もっと話は早いはずだ。
教皇から委細を聞かされようとも、玉座の前を動こうとしない星矢。それを如何にすれば促すことが出来るのかとばかりに、教皇の両目から涙が零れ落ちた。まさかの姿に、星矢も唖然とする。
「星矢よ、私にはどうしても楯を手に出来ぬ理由があるのだ。今は、それを詳しく述べているだけの時間は無い。頼む、星矢よ」
その涙の清らかさは、どうしたことか。星矢の疑いに胸を痛めたためではない。かと言って、先非を悔いたためとも思われない。この男の涙には、もっと深い理由があるように感じられて仕方がない。本当はアテナを救いたいのに、どうしてもそれをすることが出来ないもどかしさを抱えている。
教皇を絶対的な悪と信じ、それを打倒するために十二宮を乗り越えてきた星矢も、彼の涙に心を打たれた。それは同時に、彼の言葉を真実と捉えたことをも意味している。教皇の言う通り、アテナ神殿の楯を沙織のいる方向へとかざせば、それで全ての解決となる。ここに来るまでに散っていった魂たちの働きも報われる。星矢は、かつてと同じく教皇を信じた。
教皇の前を辞してアテナ神殿へ向かおうとした星矢の足が、ふと止められた。何故か教皇が表情を歪めている。涙を流したこととは、別の理由で苦しんでいるように見える。声を掛けようとした星矢を、教皇は濁りの無い瞳で無用と訴える。
「今は、私のことよりもアテナの御身だ……お前がアテナを救った後、私も全てを打ち明けよう……だから、早く……」
言葉の終わりは小声になっていった。火時計が残り一時間を切ったこととは、また別の事情により教皇は切羽詰まっていた。その気迫に押されて、星矢も玉座を越えていった。そしてアテナ神殿へと続く通路が控えているであろうカーテンに手を掛けたところで、後ろから呼び止められた。
「待、て……」
その声色に、思わず星矢はゾッとした。地の底から轟いてくる亡者の声よりも恐ろしい響きに聞こえた。何事かと振り返ろうとするより早く、星矢の身は衝撃によって頭上へと吹き飛ばされていた。
「く、くそっ」
悪態をつきながら、何とか受け身を取る。教皇を向き直ると、玉座を立ち上がって不敵な笑みを浮かべていた。
「楯までも貴様たちに渡してなるものか。十三年前にアイオロスによって持ち去られたニケ……即ち黄金の杖を今こそ余が奪い返すのだ。どちらも聖域を統べる余の手元にあることこそが、正しき姿なのだ」
先程まで星矢に涙さえ見せた男とは思えぬほど、教皇の貌には悪意が窺える。こっちが本当の性格を表した素顔なのだろう。この男は、ここまで演技が出来るのか。だからこそ、これまでも多くの聖闘士が騙されてきたのか。息を飲むと同時に、星矢は臨戦態勢を整える。
「とうとう本性を現したな……邪悪の権化、シオン！」
「シオン？ くくっ……誰だ、それは？」
星矢の思考が、一瞬だけ停止した。とぼけているのか、それとも星矢の考えが的を外していたのか。演技と呼ぶには過剰なほど、あまりに性格の異なる教皇が二人、星矢の前に現れた印象だ。
「どういうことだ？ お前は、さっきまで居た教皇とは別人だとでも言うのか？」
「教皇？ そうだ、余は教皇……この地上においては教皇も神も、存在していいのは余のみなのだ」
それは、説明としては不十分だった。教皇の正体について、星矢は何一つ理解に辿り着く材料を得られなかった。ただ、教皇がアテナを明確に否定した。それだけで、星矢にとって敵対する理由は十分と言えた。
「いいだろう……お前にだったら、本気で拳を撃ち込める。食らえ、ペガサス流星拳！」
ここまで戦い走り抜けてきた疲れを感じさせない星々の弾丸が、星矢の右腕から放たれる。しかし流星拳の衝撃を正面から受け止めて、教皇は微動だにしない。ただ、その身に纏う法衣が消し飛んだだけだ。鍛え抜かれた、彫刻のように美しい裸体が顕になるも、そこには流星拳のダメージは微塵も感じられない。にも拘らず、教皇は短く呻いて頭を抱え出した。
「何だ……どうしたんだ？」
まるで手応えの無かった流星拳の感触とは裏腹に、教皇が苦しみ出している。またしても不意討ちの一撃が飛んでくるかもしれない。苦悶の様子も、そのための演技かもしれないと星矢は様子を見ることを選んだ。
教皇は右手で髪の毛を掻きむしりながら、左手を高々と掲げ出した。そこに攻撃的な小宇宙は感じられない。依然として様子を窺う星矢の目が、教皇の口元がもごもごと動くのに気が付いた。
「聖衣よ……我がジェ……の黄金聖衣よ」
よくは聞き取れなかったが、「聖衣」という聞きなれた単語だけは分かった。教皇職が十二人の黄金聖闘士の中から選出されるという話も聞いている。自分が、かつて着ていた聖衣を装備して戦うつもりなのか。教皇の呼び掛けに応じて、彼の頭上の空間に穴が開いた。白羊宮でも見た、教皇の操る異次元空間の出入り口が開いたのだ。
「向こう側から光が……あれは、聖衣の輝きか!?」
異次元世界の旅を終えて現れたのは、黄金色に輝く一つの聖衣だ。それを呼び寄せたということは、教皇が聖衣を身に付けるために他ならない。星矢の前に現れた聖衣こそ、教皇の守護星座を物語っていた。
「あ、あれは……あの黄金聖衣の形状はジェミニ!? それでは……双児宮が無人だったのは……」
本来、その宮を護るべきジェミニの聖闘士が常に教皇の間にいたからだ。それを悟ると同時に、星矢は目の前の男の正体について見当を見失った。
「教皇シオンは、元はアリエスの黄金聖闘士だと聞いていた。それでは、こいつは本当にシオンではないというのか……。な、何者なんだ……」
いかにアテナが不在であろうとも、聖域は不可侵。その聖域の、まして中枢に何者が侵入していたのか。双子座を司るジェミニの黄金聖闘士に関しては、長らく不在としか星矢も知識を持っていなかった。
呆気にとられる星矢の前で、教皇もまた不思議そうに見上げていた。自分で召喚したはずの、ジェミニの黄金聖衣を。
「何だ、この聖衣は……。そうか、余を守護する黄金聖闘士だな。さあ、出会え！ ジェミニの聖闘士よ！」
その台詞は、異次元空間から更に黄金聖闘士の登場を星矢に予感させた。だが、実際には聖衣は教皇の身に納まっていった。完全に武装を終えると、それまで苦しんでいた様子もどこかへと失せて、教皇は邪悪な笑みを浮かべて星矢と向き合った。
「そうだ……俺はジェミニ……地上最強の力を誇る、ジェミニの黄金聖闘士だ」
どこか違う。そんな印象を星矢は抱いていた。向き合えば邪悪さしか感じられないのは同じなのに、それでも聖衣を纏う前までの教皇とは何かが違っているように感じられた。星矢が確信も納得も得られぬ内に、ジェミニを名乗った教皇の小宇宙が襲い掛かる。
「さあ、ペガサスよ……十二宮を突破してきた褒美に我が秘技で葬ってくれよう。アナザーディメンション！」
途端、星矢の背後に亜空間への入り口が広がった。地球が持つものとは異なる引力によって、星矢はたちまち別次元へと飲み込まれていってしまった。自分の身に何が起こったのかも気付かず、叫び声を上げる暇さえ与えられずに。
「もう逃れる術は無い。未来永劫、異次元を彷徨い続けるのだ」
その確信に満ちたジェミニの発言が、目の前で打ち破られる。どうした訳か、星矢の肉体が異次元の断裂から飛び出してきたのだ。流石にジェミニも吃驚してしまい、一瞬だけ動きを止める。その目で、床へと倒れる星矢を見据えながら。
絶対の自信を持つアナザーディメンションが破れた。その事実に驚愕を受けながらも、ジェミニは冷静に目の前で起こった現象を分析していた。
「ペガサスの力や意思によるものではない。今、ペガサスの肉体が異次元の入り口へと放り込まれる寸前で、奴は帰還を果たしたのだ。これはサイコキネシス……となれば、ムウの仕業か」
さしものジェミニも、サイコキネシスの勝負とあってはムウには歯が立たない。そこに辿り着いてなお、不可解な点も残った。
「しかし、何ゆえ今になってムウの奴、直接手助けなど……。そうか、俺が白羊宮へと赴いた時にアナザーディメンションを見切っていたのか。こればかりはアテナの結界すら作用しない秘技とあって、ムウの奴……あの一瞬の出来事を懸命に記憶していたか。流石は真の教皇の手解きを受けた麒麟児め」
ここまで到達したのが青銅聖闘士ではなくムウであったらと想像すると、ジェミニにも戦慄がよぎる。しかし、それも一瞬のこと。すぐに不敵な笑みを浮かべて足元の星矢を見下ろす。
「だがムウよ、サイコキネシスでは俺を殺せぬぞ。アテナの結界によってテレポーテイションが封じられている以上、この教皇の間へ急ごうにも間に合うまい。自分たちが護るべきアテナによる足枷という訳だ。そして、白羊宮から小宇宙を打ち込もうとも……お前の力では、せいぜい破壊できるのは宝瓶宮までだろう。この教皇の間の外壁を砕くには至らぬ」
ようやく星矢が立ち上がりつつある。命を救われたのが夢でないことの確信を得るために、何度も頭を振っている。その様子はジェミニにとっては、手の中の芋虫にも満たないほど小さく見えていた。
「我らの邪魔をする者がいないと分かれば、少しぐらい遊んでやろう」
黄金の聖衣に覆われた腕を星矢へと伸ばすジェミニ。その指先に僅かばかりの力が込められると、瞬間に強烈な小宇宙が星矢の右脚へ向かって放たれた。
「う、ぐわぁぁっ！」
そこはアイオリアによって聖衣を砕かれ、剥き出しとなった星矢にとっては一番の弱点。その場所を狙われては一たまりも無い。真紅の津波が星矢の顔面にまで浴びせ掛かる。膝から下の感覚を失った星矢の右脚からは大量の血が流れ出し、肉体的にも精神的にも言いようのない衝撃が星矢を襲う。
「全身の血を失って死ぬか、それとも直ちに心臓を貫かれて楽になりたいか……どっちを選ぶ？ なぁ、ペガサスよ」
「ぐ……っ……」
声にならない声が食いしばった星矢の歯の間から漏れ聞こえる。ジェミニの問いに答える余裕も無ければ、恐らくは耳にも届いてはいないだろう。少しでも気を抜けば、痛みに耐える星矢の防衛本能が意識を失わせているところだ。そう、自分の一人の命であるなら、ここまでは耐えられない。
「俺は……俺はッ」
片足だけで立ち続け、全身を濡らす汗に凍え、霞んでいく両目で必死に前を見据える。そこにいるであろう怨敵に向かって、闘志が少しも揺らいでいないことを示すために。
「俺は……最後の最後まで……決して……諦める訳には……いかないのだ！」
低下していく体力と引き換えに、心の内側は熱量を増していく。自分をここまで行かせるために星となって散っていった兄弟たち。自分を信じて待ち続けている幾人もの友。そして何よりジェミニによって脅かされているアテナの命を救うため、星矢には諦めるという選択肢は許されていなかった。
「ここで……ここで必ず、お前を倒す！ ペガサス流星拳……」
聖衣の翼も無く、この片足では移動もままならない。全てを己の両腕に懸けて、精一杯の抵抗を試みる。しかし悲しいかな、肝心の肉体が精神に追いついていかない。
「のろい」
亜光速の動きを身に付けたジェミニにとって、その流星はちらちらと舞い降りる埃と大差ない。少しも余裕を崩さず、嘲笑を交えながら星矢の攻撃を眺めている。そうした見下す態度のためであろうか、ジェミニは気付けずにいた。血を失って星矢の残された左の膝が折れ曲がっていくごとに、前へ伸ばすだけでも苦痛を感じて星矢の右腕が下がっていくごとに、内なる小宇宙がどんどんと燃え上っていく事実に。
「俺だけが……何も果たせずに……死んでたまるか。みんな……みんな、アテナのために……この俺を信じて、雄々しく命を散らしていったのだ……。その想いに応えるためにも……今こそ……今こそ……今こそ目覚めよ、俺のセブンセンシズよ！」
気迫。ここまで来ては、その二文字しかない。芯から燃やす程の星矢の気迫が、その不屈の魂が奇跡に届く時が来たのだ。ジェミニは、自身に降り注ぐ流星群の速度が次第に上がっていき、次第に輝きを増していくのに気が付いた。余裕を捨てて警戒を心掛ける一瞬前に、とうとう星矢が黄金聖闘士の領域に足を踏み入れる。
「ペガサスの拳が……こ、光速の域に!? うおっ！」
星矢の放った流星の一粒が、ジェミニの眉間を捉える。その衝撃によってジェミニはバランスを崩し、後頭部をしたたかに打つほど仰け反った。しかし、それも一瞬のこと。セブンセンシズの先達であるジェミニは、すぐさま上体を起こして星矢と向き合う。
「紛れもない、黄金の小宇宙……今、ペガサスを覆っているのは神々に最も近き黄金聖闘士のセブンセンシズ！」
いつしか星矢の肌からは汗が引いていた。出血も治まり、右脚の断面から伸びた黄金色の小宇宙が、まるで義肢の働きをするようにして体を支えている。星矢が深く呼吸をするたびに周囲の空気が揺れ、そのたびに金色の星々を舞わせている。ペガサスの青銅聖衣に映り込んだ小宇宙が、あたかも星矢の聖衣を黄金聖闘士のそれであるかのように見せていた。
「まだ終わっちゃいないぜ……俺の生命も、攻撃もな！」
星矢の体は、一段と軽くなっていた。それを自覚すると、自然と活力も取り戻したようだ。そうした作用は、闘志を更に高めてくれる。高まった闘志が、小宇宙をより一層、黄金聖闘士へと近付かせてくれる。
「攻撃だと？ マグレが何度も通じると思うな。貴様ごとき餓鬼など、例えセブンセンシズに目覚めようと……」
ジェミニが両掌に小宇宙を集中させる。その手の中で輝きが弾けると、瞬間にペガサスの聖衣が粉微塵になって吹き飛んだ。
「俺の敵ではないということだ！」
聖衣に守られたおかげか、これもジェミニの力の一端に過ぎないためか、星矢の肉体にまではダメージは及んでいない。聖衣を比べては、元より不利なのは承知。となれば、例え裸にされようとも条件に変わりは無い。星矢は少しも狼狽えることなく、黄金の天馬星座を描く。
「ペガサス流星拳ー！」
「くどい！」
ジェミニの広げた右手が、流星拳の猛攻を阻む。それだけに留まらない。光の条と化した流星の一つ一つが、反対に星矢に向かって飛んでいく。ジェミニの力によって跳ね返された小宇宙が、発生源である星矢の右拳へと一斉に襲い掛かったのだ。
「ぐっ……」
今や黄金聖闘士にも匹敵する星矢のパワーが、聖衣を付けていない腕に及ぼすダメージが軽いはずがない。たちまち骨は砕けて、衝撃によって後方へと飛ばされかける。片足で何とか堪えるものの、注意はジェミニから逸らされてしまった。次なる攻撃は、かわせない。
「うわああぁ……」
唐突に足元から吹き出す旋風に、星矢の身体が激しい勢いで上昇する。大宇宙に散らばる幾万の銀河を固めた硬度を持つとされる教皇の間。その天井に全身を叩きつけられ、そのまま力無く落下する。脆くも潰れる卵の殻の如く、星矢の頭蓋骨は床に落ちた衝撃によって醜い音を立てて、辺りを血みどろにした。
「文字通りの半死半生……だが、その黄金の小宇宙が完全に途絶えるまでは、俺は容赦はせんぞ」
ピクリとも動かなくなった星矢を見下ろしながら、ジェミニが最後のトドメを刺さんと近付いてくる。ジェミニの言う通り、星矢の身を覆う小宇宙の光は、弱まりこそすれ消えてはいない。それが無ければ、星矢の無残な姿など死体と区別が付かない。
非情にもジェミニは、血に濡れて赤黒く染まった星矢の髪を掴むと、更に床へと押し付ける。体重を掛けて、硬い床石とで星矢の小さな頭を挟み込む。この地獄の万力に掛けられようとも、星矢はまるで意識を失って身動きを見せない。ジェミニもまた、自分が犯そうとしている惨劇に一片の罪の意識も感じることなく遂行している。今日まで、この男が仕出かしてきた悪行を考えれば、頑是ない子供の命を弄ぶことなど何とも思わぬのであろう。その悪の化身であるはずのジェミニの手が、ふいに星矢の頭から離された。
「馬鹿な……」
その目は、驚いたように見開かれている。視線は倒れる星矢に向けられているようでいて、そうではない。注がれる先は、真っ赤な血の海だ。黄金の小宇宙に照らされて鏡面と化した血の海に映った、己自身の顔に驚愕していた。
その顔は、見る者全てが息を呑む程に美しかった。一点の陰も曇りもなく、傷の付かぬ玉の如くに高貴であった。その顔が、言いようのない憂いをたたえて泣いている。思わずジェミニは自分の顔に手を当ててしまう。それは、自分が涙など流していないことを確認するためか、それとも泣きながら自分を見つめてくる目から逃れるためか。
「何故だ……何故、お前は泣くのだ？ 何故、未だに躊躇う？ 何故、未だ俺の支配を受け入れぬ？ 何故だ……サガよ！」
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