「黄金聖闘士」編
第十四話 Thanks to My Dear～託す者へ～
聖域を遥か八万由旬よりも彼方へと離れて旅する二つの小宇宙。その内の一つが、静かなる心の目でもって聖域の戦いの成り行きを見守っていた。
今、十二宮の全てが陥落して形勢は青銅聖闘士たちに傾いているように見える。それは即ち、青銅聖闘士が黄金聖闘士にも負けぬだけのセブンセンシズに目覚めたことを表している。それが何を意味するかと言えば、彼ら青銅聖闘士がそれだけの思いを小宇宙として発揮したということだ。その心に絶対的な正義に基づく信念と、その信念を貫き殉じようとする赤誠があって初めて成し得る奇跡を、バルゴの黄金聖闘士シャカは見続けていた。
「そして、一輝よ……こうして地上を離れつつある今なお、その闘志を少しも弱めようとしないフェニックスの聖闘士よ。私は、君の中にもセブンセンシズが根付くのを見た。いずれ私たち現役の黄金聖闘士の代わりに立つであろう未来を君に見出し、君の実力と覚悟とを見極めるために君の最後の攻撃を甘んじて受けた。見事だ……君になら、託してもよいだろう」
一輝に羽交い絞めにされたまま激しいスピードで上昇を続けながらも、シャカの小宇宙が一瞬の間に爆発的な燃焼を見せる。次の瞬間、シャカと一輝は処女宮の床の上に立っていた。
「今のは……シャカ、何をしたのだ？」
まるで自分の決死さえもが夢であったかのように、神に近いと呼ばれる男は自分もろとも宇宙の旅路から元の処女宮へと帰り着いてしまった。呆気にとられる一輝に、シャカはテレパシーで語り掛けてくる。
「一輝よ、君は私と刺し違えるつもりだった。その覚悟は、確かに本物だ。だが、その奥底には、やはり恐れも抱いている。それは己が死することに対する恐れではない。無常を悟る、このシャカと同様にな。君が恐れていることは、ただ一つ……過去の償いも出来ぬ内に死ぬことだ」
図星を突かれて、一輝はますます言葉を失った。この男の閉じた瞳に、全てを見透かされている。自分は、この男の白い手の中で試されていたに過ぎない。しかし、こうして十二宮へと帰してくれたということは、一輝への試しは終わったということか。
「君の心残りも、ペガサス一人を残すのみとなってしまった。さあ、一輝よ……今こそ、君自身の暗き過去を全て拭い去る時だ。教皇の間で戦うペガサスを助け、アテナ神殿へと向かうのだ」
一輝の心の中で、様々な感情が渦巻く。自分がシャカと戦っている間に、兄弟たちが倒れていったこと、事態が最終局面を迎えていたこと。それらを臨んで、一輝の心はやがて一つに定まった。
「君の聖衣は、私によって灰となった。だが、不死鳥は灰燼の中からこそ復活を遂げるのだ。八十八の星座の中で、唯一の自己修復機能を有するフェニックスの聖衣であれば、ムウの力を借りずとも蘇ることも出来よう……このシャカの黄金の血を用いれば」
足元に散らばる聖衣の灰を一握り掬い上げ、念じるようにしてシャカが小宇宙を高める。握った手の指先には、今も血が滲んでいる。それは一輝がシャカに負わせた傷だ。今、高まりゆくシャカの小宇宙に呼応して、彼の血液までもが黄金色に輝いている。
死して機能を失った聖衣を復活させる際には、聖闘士の血液が不可欠とされる。その復活に使用されるのが、この地上でたった十二人の聖闘士しか持たない黄金の血となれば、それが聖衣に如何なる作用をもたらすのか。その答えは、新たなる形と従来を上回る輝きに満ちたフェニックスの聖衣が、持ち主である一輝の身を包み込んだことで示された。
「シャカ、お前は何故ここまで俺を助けるのだ？ お前も言ったはず。教皇は紛れもない正義だと。だからこそ、教皇のために戦うと」
「同じことだ。君もまた、どこまでも純粋に正義を貫きたいと藻掻く少年。そんな君の側にアテナがおわすことも先刻承知となれば、行かせてやることも吝かではない」
そこまで聞くと、一輝も無言でシャカの前を去った。せっかく拾った命も、使い切る前に全てが終わってしまっては意味が無いと足を速めた。その小宇宙が宮を離れていく頃、シャカは心の中で呟いた。
「……だが一輝よ、あの教皇には君らがいくら挑んでも太刀打ち出来まい。全ては正義の楯にかかっているのだ。君たちが勝利できるか否かは。それを果たせなければ、君は間違いなく死ぬ。そして……私は、君がそのことを躊躇わないことも知っている」
それを理解しているからこそ、一輝を十二宮へと帰し、聖衣を与え、教皇の間へと行かせてやったのだ。この十二宮の戦いをアテナの勝利でもって終わらせるために。
一輝は駆けた。処女宮などは、まだ五合目に過ぎない。事態は一刻の猶予も無く、それを好転し得る最後の鍵が己となった以上、無心で駆けるしかない。例え心臓が爆裂しようとも、自身の体など元より厭わず十二宮の石段を駆け上がり続けた。
その一輝も、人馬宮では一瞬とはいえ足を止めた事であろう。壁に刻まれた熱き思いに胸を打たれ、とうに涸れたと信じていた涙がこみ上げてきた事だろう。
それでも、感傷に浸っている時ではない。それから後は、例え行く手に誰が倒れていようとも立ち止まりはしなかった。例えそれが、最愛の弟であろうとも。処女宮という半ばで離脱した自分の代わりに、強大な黄金聖闘士と雄々しく戦い散っていった兄弟たちであろうとも。一度は憎み、拳を向けたことを深く謝罪したい相手であろうとも。一輝は決して足を止めなかった。
死闘の果てに傷を負い、倒れた三人の弟たち。それらに対して一輝は、抱き起すことも生死を確かめることもしなかった。振り返っている場合ではない。今、己が真になすべき事は弟たちの健闘を讃え、介抱してやることではない。例え、そうすることによって彼らの命を救うことが出来たとしても、何より彼ら自身がそれを望んではいないのだ。
自分が今、脇目も振らずに教皇の間へと急いでいるのは、全てはアテナのため。主たるアテナを救わんと、孤軍奮闘している星矢を助けんがため。それが叶わなければ、自分たち聖闘士がこの時代に生まれた意義がない。弟たちも命を投げ打った甲斐がない。だからこそ一輝は涙を飲み、心を鬼にして血まみれの弟たちの脇を無言で通り過ぎていった。
だが、彼らが残した心だけは確かに受け取った。一輝がこうして無傷で十二宮を動けるのも、全ては紫龍や氷河や瞬の命懸けの働きがあればこそ。それを無駄にしない事こそが、一輝が彼らに報い得る唯一の行いなのだ。
宇宙――悠久という言葉でも足りぬ、果てしなき大宇宙の誕生から終焉。それを思えば、人の一生など僅か瞬きにも満たぬ毫毛の念。その刹那の中で熱き血潮を分け合うことの出来た兄弟に報うべく、一輝は教皇の間へと駆けていった。
一輝が目指す教皇の間の中で、怨敵たる教皇の正体ジェミニは困惑し続けていた。やがて怒りを孕んだ戸惑いは、己の中に巣食う悲しみへと突き刺さる。それもまた、絶望的なまでに悲しみに根付いた鬱憤であった。
「サガよ……俺の中に眠る、もう一つの心よ。このギリシアの空の下に生まれておいて、忘れたとは言わさぬぞ。神話の時代において、ゼウスが三度も人類に滅亡をもたらしたという話を」
目の前で倒れる星矢は、聖衣を失って全身からおびただしい量の血を流し続けている。黄金の小宇宙によって輝く血の海に浮かぶ、ジェミニのもう一つの顔に向かってジェミニは吠えた。抗いがたき運命という名の波濤に、敢然と挑んで終止符を打つことを決めた自分を、どうして今なお認めず否定するのかと訴えるべく。
「そうだ……アテナごとき小娘に守れるものか！ この地上を……。天帝ゼウスをはじめ、海皇ポセイドンから、冥王ハーデスから！ それだけではない。ゼウスの子らアポロン、アルテミス……それら地上の席巻を狙うオリンポス十二神から我らが地上を！」
ジェミニの目に映っているのは、星矢だけでも自分の顔だけでもなかった。その目には、これから戦わなくてはならない真の敵の姿が映っている。まだ見ぬ強大な神々の姿が。
人智を上回る能力を有した聖闘士といえど、人間であることに変わりはない。神の目からすれば矮小でしかない人間が、姿さえ見せぬ神々に挑戦する。そんな押しつぶされそうな重圧に、孤独の内に耐えてきたのだ。それも全ては、己一個を超えた思いのため。聖域を掌握するという野心も、全てはその先を見据えた上でのことだった。
そんな自分の孤独な戦いも理解せず、協力も出来ないようであれば排除するしかない。例え同じ聖闘士であろうと、例え自分と同じ顔をしていようと。ジェミニの両手の小宇宙が、星矢の体を血の海ごと消滅させんばかりに膨れ上がっていく。その小宇宙の一端が光速の勢いで飛んでいった先は、意外にも教皇の間の入り口であった。
「俺が、接近するお前の小宇宙に気が付いていないとでも思ったか……フェニックスよ」
ジェミニの小宇宙によって崩れた瓦礫の向こう側から、その瓦礫を押しのけるようにして別の小宇宙が炸裂する。現れたのは、真新しい聖衣で全身を輝かせる一輝だ。処女宮から全力で駆け上がってきた割に、呼吸の一つも乱してはいない。これから星矢と沙織を救うため、今度は自分がジェミニに挑むのだ。そんな時に肉体に音を上げさせる訳にはいかなかった。
「双児宮での借りもある。お前のことは、この手で八つ裂きにしてやらねば治まらぬと思っていたところだ。ここに来る途上で貴様も見たであろう青銅聖闘士どもと同じく、俺の目的を阻んだ報いを受けてもらうぞ」
一瞬だけ目を伏せた一輝は、自嘲気味な笑みを口元にだけ浮かべてジェミニへの闘志を燃やす。
「弟たちに別れなど告げてはこなかったさ。何故なら俺もまた、ここで死ぬ身。あいつらとは、すぐに地獄で会えるのだからな。だが、俺たちだけで満喫するには広すぎる……貴様も案内してやるぜ！」
「ほざけ。お前には、地獄以上の苦しみを味わわせてくれる。このアナザーディメンションをな！」
一輝がジェミニに向かって突進するより早く、ジェミニの術が一輝を覆った。異次元の彼方へと葬り去る秘技は、一輝ほどの強力な小宇宙の持ち主さえも抗う術なく地上から姿を消してしまう。
一輝が教皇の間から消滅したことを見届けて、たわいないとばかりにジェミニが笑う。完全なる勝利を確信したジェミニであったが、どこからか強大な小宇宙の接近を感じて周囲を窺う。自らが切り開き、そして閉じたはずの異次元への扉が大きな口を開いて一輝を吐き出したのだ。
「フェニックス……貴様!?」
今度は、ムウの助けではない。一輝は、間違いなく自分の力で教皇の間へと帰還したのだ。
「俺の不死鳥の翼は伊達じゃない。例え、如何なる空間からでも黄泉の果てからであっても帰ってこれるのだ。貴様という邪悪が、地上にのさばっている限りな！」
異次元から飛び出し、床へと着地するまで待ってはいない。空中で小宇宙の勢いを高め、その両掌に爆発的な威力を込める。目の前に立つ巨悪を討ち滅ぼし、自分が犯した過ちを清算するために。
「羽ばたけ、炎の翼……鳳翼天翔！」
その紅蓮の輝きが、渦を巻いてジェミニを貫く。空中からの襲撃を終えて着地すると、間髪を容れずに熱き小宇宙の第二撃を畳みかける。撃ち出す一輝さえも汗をかく程の熱気。それを全身に浴びながら、ジェミニは一歩も退くことなく薄ら笑いを浮かべていた。
「これで終わりか？ 瀕死のペガサスの拳の方が、まだ俺をダウンさせられたぞ」
余裕の表情でもって、圧倒的な力の差を示して一輝を見下すジェミニ。それでも一輝は闘志を少しも緩めはしない。まだ攻撃手段が残されているのに、それを試す前に諦めることなど決してしない。
「今ので全てと思うのは、楽観が過ぎるぜ。俺には、まだもう一つの拳が残されているのだ」
鳳翼天翔と並ぶフェニックスの秘拳。一輝の自信に、ジェミニも見当がついた。
「そうだったな。お前は相手の肉体より、むしろ精神を破壊する方に長けた鳳凰幻魔拳の使い手。だが……相手の頭脳を支配する術を熟知した、幻朧魔皇拳の使い手である俺には通じぬぞ。そして、それは逆もまた然り……」
黄金聖闘士をも操る幻朧魔皇拳も、一輝には通用しない。これは両者ともに決定打を欠いた千日手の状態か。そうなると、時間の許されていない一輝の方が不利となる。冷汗を悟られぬよう何とかジェミニの隙を窺う一輝の瞳に、不敵な笑みが映りこんだ。
「だがな、フェニックス！ 俺の全容は幻朧魔皇拳やアナザーディメンションだけに留まらぬ。それらも俺の全力から見れば、ほんの一端よ。食らえ、我が小宇宙の拳を！」
怒号のような
「例え貴様の拳が俺を上回っていようとも、俺のフェニックスの聖衣を簡単に砕くことは出来ぬぞ。その前に、今度こそ俺の焔の拳で……ジェミニよ、引導を渡してくれる！」
「小癪な……いいだろう、次の一撃こそ本当に貴様の最期……そしてアテナの最期と知れ！」
互いの全力の小宇宙が、教皇の間を駆け抜ける。セブンセンシズに到達した者同士の、神の領域にも踏み込んだ攻撃的小宇宙が異常な熱量を巻き起こす。その両者の脇で倒れる星矢は、相変わらずピクリともしない。動かないまでも、その体内と心に根付いた小宇宙はまだ完全に消えてはいなかった。
一輝を見送った後、処女宮で元の通り座を組んだシャカの頭脳が一つのテレパシーを受け取った。懐かしい友の声だ。それでいて、いつでも側にいた安らぎを感じられる。アリエスのムウから発せられたテレパシーだ。
「シャカ、君にしては随分と帰還が遅かったようですね」
穏やかに話しかけてくる声に、シャカも自然と笑みがこぼれる。俗世から超然とした者同士、語り掛け方は心得ていた。
「何だ、私の小宇宙が十二宮を離れたというのに、あまり心配してくれなかったようだな」
「君ほどの男が、何を言う。バルゴのシャカであれば、例え宇宙の果てへ放り出されようと一瞬で地上へと舞い戻れよう。その事を知らぬ黄金聖闘士など、この十二宮には居ませんよ」
冗談めかした挨拶はそこまでとし、ムウも口調を変える。そして、テレパシーをシャカのみならず生き残った聖域の黄金聖闘士全員へと飛ばした。
「アイオリア、ミロ、アルデバラン……私は、今こそ貴方たちに全ての真実を話しましょう。即ち、今度の戦いを招いた張本人……その悪行の全容について」
それまで、アテナを側で守護していながらも、どこか身を引いていたムウが積極的に真相を打ち明けようとする。それを聞く黄金聖闘士たちも、意識を集中させて次の言葉を待った。ムウとは自身が納得するまでは無暗に行動を起こす人間ではないが、確信を得た情報に間違いなど決して無いからだ。
「君たちも知っての通り、私アリエスのムウの師は先代アリエスを担ったシオンでした。シオンは、前聖戦を終えた後に聖域を治める教皇の位に就いた。しかし、君たちが最近まで接してた教皇とシオンとは別人……真の教皇シオンは、十三年前に殺害されていたのです。今、教皇の間で星矢たちが戦っている相手によって」
ムウの声を聞く四人に、緊張が走る。最強の闘士として武名を欲しいままにしたアリエスのシオン。そのシオンを倒した者とは、一体誰なのか。ムウの目には、はっきりと見えていた。十三年もの間、
「デスマスクやアフロディーテですら、教皇をシオンだと考えて仕えていました。その男は、狡猾にして怜悧。類まれなる頭脳を宿し、才長けた話術を駆使して士を操る者。その能力を平和と正義のために用いれば、至上の名君として立って、私たちも追随したことでしょう。ですが、彼はその才を悪行に費やしてしまった。シオンの後継者として相応しき才能を」
十三年前、まだアイオロスが存命であった頃だ。ムウが、ジャミールへと出奔する前の時代だ。その時から五老峰に居たライブラの老師を除けば、実に十一人もの黄金聖闘士が十二宮に揃っていた時代。しかしながら、その多くは未だ幼く聖闘士になったばかりであった。
そんな頑是なき黄金聖闘士たちの中で、年長者が二人だけ存在した。仁・智・勇において申し分なく、誰からも尊敬されていたサジタリアスのアイオロスの他に、もう一人いたのだ。アイオロスと同年代で、アイオロス以上に期待と尊敬を集めていた黄金聖闘士が。
ムウの口からは、そんな誉れ高い聖闘士とは無関係と思われる邪悪の化身に関する説明が続いた。
「教皇を騙る者の手口は、皆も知ったでしょう。シュラやアイオリアなど、真の正義を信じる聖闘士には幻朧魔皇拳で意思を捻じ伏せる。右顧左眄を地で行くデスマスクは利で誘う。感じ入りやすく優しすぎるアフロディーテには、あえて本心を吐露して味方に引き入れる。その人となりを見極め、それに応じて手段を変えてくる業も見事。ですが、そこにこそ教皇を名乗る者の正体を暴く手掛かりがあるのです」
「つまり、その男は……現職の黄金聖闘士たち一人一人の性質をよく知る者……」
「そんな奴は、同じ黄金聖闘士の中にいるとしか考えられんではないか」
「しかしながら、生き残った黄金聖闘士は、老師を除けばここにいる者たちで全て……。いや、まさか」
四人が四人とも、同時に頭に思い描いた。十三年前、突如として行方をくらました男の名前を。アイオロスと並んで次期教皇を嘱望されていた黄金聖闘士のことを。
以前に教皇を騙る者の正体について話し合った時には、おくびにも出さなかった名前。その人は、闘士としての力もさることながら、あまりに清い心を宿していた。その姿を聖域の中で認められたのは、まだアテナが降臨する前の頃だ。アテナという柱を擁さない聖域の為に、ゼウスが地上に遣わしたとしか思えない善男子。それゆえに、初めから考えの内に入ってはいなかった。アテナを害し奉り、教皇の位を簒奪し、地上を悪で支配しようと企む寇盗の正体などとは。
「サガ……だというのか」
それは、誰の呟きであったか。全員が、同時に口にしていた。あまりの驚きに、それ以上は言葉が出てこなかった。先んじて情報を得ていたムウだけが、幾分は冷静に話を続ける。
「私は、そう断定しました。あの天使のように心清らかなサガが何故、非道極まる行為に手を染めてしまったか……それは、こうです。サガは、そのあまりに強大すぎる小宇宙と異次元を操る能力ゆえに気づいてしまったのです。地上を脅かそうとする抗いがたい存在に」
その脅威から地上を守るのが聖闘士の務め。その聖闘士たちを統率するのが、他ならぬ教皇。そんな話を、ムウは何度も聞かせてもらった。真の教皇シオンに養育されたムウにとっては、師父が称えられるのを聞くことが幼心にも誇らしく、何度もサガにせがんだものだった。
そして、いつしかサガは気が付いた。地上を狙う脅威の魔手が、いつでも容易く地上を奪える距離にまで近づいていることを。かつては最強と呼ばれたシオンの力も、年老いた体には十分に残されてはいない。そして、全聖闘士の拠り所であるアテナは……
「サガ……私には、まだ一つだけ分からない。貴方に決心させた理由は分かるのだが、そのために何故……貴方は心までも捨ててしまえる？」
自問するムウの呟きは、それを聞く四人の心にも不安を与える。いつの間にか、全員が教皇の間へと体を向けていた。シャカまでもが沈痛な面持ちで戦いの行く末を探り、ムウの更なる答えを待ち続けた。
教皇の間にて、熾烈な戦闘は続く。ジェミニの光速拳が、フェニックスの聖衣を破壊する。その度に聖衣は復元され、一輝は次なるジェミニの拳に備える。攻撃を終えた瞬間にも隙を見せぬジェミニを相手に、一輝は防戦一方ながらも奮闘し続けていた。
度重なる聖衣の復活に小宇宙を使い、肩で息をする一輝。その視線が、一瞬ではあるがジェミニを越していった。その一瞬をジェミニは見逃さない。
「そうか、フェニックス……どこまでも小賢しい奴よ。貴様、元より俺を倒すつもりなど無いな。ペガサスが立ち上がることに賭け、それまでの時間を稼ぐ腹積もりであったか」
ジェミニの視線が、星矢へと向けられる。瞬間、一輝は身を踊り出していた。未だ倒れる星矢の下へと駆け寄って、ジェミニに背を向けてでも必死に庇おうとした。両腕を広げたまま、星矢に聞こえるよう、しゃがみこむ。
「星矢……お前たちのような男を弟に持って、俺は幸福だったぞ。こんなにも熱き者たちと、同じ青春を過ごし、同じ血潮を分け合えたのだ」
一度は過ちを犯した自分は、その誇らしい兄弟に拳を向けた。そのことを星矢が気に病んでいるかもしれない。そう思ったからこそ、せめて一言だけでも残したかった。この世を去る前に、自分の口で弟を褒めてやりたかった。
「お前を生きたままアテナ神殿へと向かわせてやること……それが、俺の今生での最後の仕事。それこそが、この地上に初めてフェニックスの聖闘士が誕生した真の意味なのだ！」
思いの丈を告げ終えると、座ったままの姿勢で再びジェミニと向き合う。大地が呻きを上げる程、真っ赤に燃やした小宇宙を滾らせて。
「もはや思い残すこともあるまい。そうれ、ペガサスともども塵となれ！」
「星矢の命だけは取らせん！ 鳳翼天翔！」
一輝、最後の拳。全身全霊を懸けた灼熱の拳が、自身と星矢の前に巨大な壁を作り出す。不死鳥が、その両翼を広げたかのような小宇宙の壁。そこへ向かってジェミニの放った漆黒の稲妻が襲い掛かる。最強を自負するフェニックスの小宇宙も、その圧倒的なまでの破壊力の前では用をなさない。ジェミニの拳は、鳳翼天翔の壁を粉砕して一輝自身へと降りかかる。だが、それも本懐。自分の後ろに倒れる星矢さえ守りきる事が出来るのであればと、一輝は小宇宙を振り絞って耐えた。
「例え、この命が燃え尽きようとも……星矢だけは、やらせん！ 俺の命と引き替えにしてもだ！ 瞬、氷河、紫龍……俺も、お前たちの待つ所へ！」
「いいだろう……貴様ごとき虫けらと、この偉大なる俺との決定的な実力差を見せつけてくれる。これぞ、最強のジェミニが誇る究極の小宇宙……銀河よ、泣き叫べ！」
幾条もの閃光が、唸りを上げる。その一つ一つが、正に星どころか銀河さえも引き千切るほどの威力を見せる。ジェミニが放った大爆発が、一輝のみならず教皇の間全体に降り注いだ。
「ギャラクシアンエクスプロージョン！」
その圧倒的な破壊力は、留まるところを知らない。天空まで昇り上がり、地底にまで轟く巨大な稲光が、教皇の間を貫く。天井は一瞬にして蒸発し、高く聳える壁も上部から半分が紙屑のように吹き飛ばされた。その有様に聖域中が怯え、黄金聖闘士たちでさえも慄く。
「バカなっ!? 堅固なる教皇の間を破壊するには、恒星を吹き飛ばす程の威力でも足りぬはず。それをっ……」
「これだけの芸当が出来るのは、銀河広しと言えど、あの神の化身と呼ばれた……」
「やはり、そうか……ジェミニのサガ！」
地上最強を否定できぬ甚大なる小宇宙。それを有した者の正体も、もはや否定できない。どんなに信じられない事であろうとも、目を背けることは出来なかった。
黄金聖闘士たちの魂の悲痛を小宇宙で聞いたのか、ジェミニの嘲った笑い声が夜空に響く。
「ようやく俺の正体に気が付いたか……間抜けな黄金聖闘士どもめ！ 貴様らは俺を相当に信用していたようだからな……くくっ、その疑いの目を俺から逸らし、シオンの振りをして貴様らを操ることほど楽なことは無かったぞ」
その声は、聖域の全域へと届いていった。とうとう己の正体を暴露したジェミニのサガ。悪辣とした宣言が、聖域にいる者全ての耳に届いていた。
黄金聖闘士たちも、その声を耳にする以上に小宇宙の昂りから確信した。これは、正しくサガの仕業だと。サガ以外には考えられない所業だと。その一方で、やはり解せない。その慈悲深さは神のなせる業とまで称えられたサガとは、およそ思えぬ没義道ではないか。
「うろたえているようだな？ お前たちには、後で言い聞かせてやる。これからも俺の手足となって働いてもらわねばならぬからな。その前に、まずは貴様だ……フェニックス！」
サガの目の前では、一輝が立ち続けていた。それは、一輝の闘志だけによるものではない。一輝自身、半ば呆然としていた。あれほどの威力を見せたサガの技を受けて、まだ自分の命があることに。
「なまじ痛めつけては、また生還される恐れもある。だから、今の攻撃は貴様の聖衣を消滅させるのみに留めてやったのよ。これで、厄介な不死鳥の翼も無くなったな」
粉塵どころか煙と化した聖衣に、僅かでも修復能力が生きていようか。完全に生身を曝け出した一輝に、サガの拳が追い打ちを仕掛ける。肉体ではなく、一輝の小宇宙そのものに働き掛ける拳が。
「俺は、シャカと同じ轍は踏まん。貴様の六感……即ち意識のみを封じて、肉体も小宇宙も動かせんようにしてやる。そして――」
防御もままならず、立ったまま意識を失った一輝。そこへ繰り出されるサガの攻撃は、あの異次元への追放だ。
「身動き出来ぬまま、貴様を最も深く暗き墓穴へと送り込んでやる。もう二度と蘇れぬよう、宇宙の果ての、その外側へとだ！ アナザーディメンション！」
一輝が亜空間に飲み込まれる。そして、一瞬の間に太陽系を遠く離れた所へと飛ばされてしまう。帰還のための翼を失った以上、抗う術を一輝は持たない。サガも、一輝が彷徨っているであろう星瞬く夜空を見上げて声高らかに笑った。
「終わった……完全に俺の勝利だ。アテナを担ぐ青銅聖闘士が全滅した以上、アテナ神殿の楯が奪われることもなくなった。間も無くアテナ自身にも死が訪れ、名実ともに俺の天下となるのだ……。さて、ムウよ……お前の話の続きを聞かせてもらおうか？ 俺によって囚われた、あの男にも聞かせてやれ。お前たちが心底から憧れていたとかいう、ジェミニのサガにもな」
サガの物言いに、それを聞く者たちの思考が止まった。まるで神の化身と呼ばれたサガと、教皇を殺害した邪悪のサガとが別人であると思わせる発言だからだ。他の者が困惑する中、ムウだけが想像を働かせていた。長年に亘る謎が解きほぐされていくのが、手に取るように分かった。
「今……やっと分かりました。サガは、真の教皇であるシオンを殺害し、その地位を奪い取った。それはサガであってサガそのものではなく、彼の心の奥底に根付いた悪の心。それだけが、本来の清らかな性格……いえ、人格から乖離してしまったのです。その乖離した人格だけが表面に現れ、サガの肉体を操ったとすれば一体どうなるか……。強大な小宇宙はそのままに、暴虐の徒と化したサガを止められる者など、例え教皇であっても……。そうして妨げとなる者たちを排除した後、自らの野望を実現するための行動に移り出たのです。即ち、アテナを害し奉った上で、自らが大地の神に成り代わろうと……」
言葉が口から出るごとに、どんどんと確信を得ていく。俄かには信じ難かったが、これ以外に考えられる推理が無いとすれば、それは真実に違いないのだ。
「ムウ……それでは、ムウよ……サガの心の中には、二つの人格があるとでも？ 相手の本質を見極めることの出来る私でさえ、全く気が付かなかった」
「二つの人格とは、具体的にはどういうことなのだ？ サガは、善の心を捨てて悪道に走ったのではなく、その両方の心を宿しているとでも？」
仲間たちの当然の疑問が、ムウに矢継ぎ早に投げ掛けられる。ムウのテレパシーは、まるで自分自身に言い聞かせるような響きで説明を続ける。
「サガ本来の人格は、あくまで私たちがよく知る正義の男。例え悪の人格によって意識の奥へ追いやられたとしても、それは一時的なものでしょう。普段のサガの肉体は、サガ自身のものだったはずです」
ムウの瞳に、悲しみが宿る。在りし日、あれほどサガを慕い敬っていたことを思い出していた。彼の胸の内に潜む悲劇を語らなければならないことが、ムウの胸を痛いほどに締め付けた。
「あの聡明なサガのこと……もう一人の自分によって教皇を失った聖域を混乱に陥らせないためには、全てを知る唯一の人間である自分が教皇の振りをするしかないと考えたはずです。それが、自分が仕出かしたことに対する罪滅ぼしとも考えたでしょう。ですが、あの心清らかなサガのこと……そんな欺瞞に満ちた行いを自分で許せる訳がない。しかしアテナを失った聖域に、これ以上の混乱を招く訳にもいかない。そういった矛盾した二つの強い意思が、再びサガの心に亀裂を入れたのです」
「我々が普段から見てきた正義の教皇、か」
「だが、それとて欺瞞……所詮は演技であろう」
「偽りの演技とは、また異なります。教皇を演じていた人格は、自らをシオン……あるいはシオンの後継者と考え、思い込んでいたでしょう。都合の良いように作り出された記憶だけを有し、かつてサガが見てきた教皇シオンの言動をそのまま再現した人格。恐らく、その人格は自分以外の人格の存在には気付いてもいなかった。だからこそ、十三年間もの長きに亘って教皇であり続けられたのです。他の聖闘士たちも、自分にさえも違和感を与えることなく」
自分の推理は終わった。後は、サガ自身の口から回答を聞くだけだ。沈黙したムウの代わりに、教皇の間から邪悪な声が飛んでくる。
「その通りだ……サガの葛藤が、俺という新たな人格を生み出した。自分が果たしたくても果たせぬ行いを、俺にやらせるためにな。だが、俺はサガを恨んでなどいない。むしろ枷でしか無かった。あいつが俺に押し付けた役目は、俺にとっても望んだことだったのに、あいつは俺を自分の意識の奥底へと閉じ込めようとした。だから、逆に俺がサガを檻の中へ閉じ込めてやったのよ。あいつは俺を生み出した、俺よりも優位に立つ人格だけに何度も檻から抜け出してくれたが……アテナの死を悟って、ようやく大人しくなりそうだ。いずれ、俺の中から完全に消してやろう……教皇シオンのように。あの無能な老いぼれも、俺が殺してやったのだ。あいつは、俺ではなくアイオロスなんぞに教皇職を譲ろうとしたからな。だから殺したのよ……この俺が聖域を束ねるために。シオンよりもアイオロスよりも……アテナよりも地上の支配者として相応しい俺がな」
一切を告白した途端、サガの邪悪な波動が頂から十二宮を駆け下りる。それは一気に聖域どころかギリシア全域を巡り、地上の全てに弥漫する勢いだ。
黒一色の悪の小宇宙が広がっていく。それはアテナの敗北を聖域中に悟らせた。沙織の看病を続ける貴鬼の目には、もう黄金の矢が矢羽を微かに光らせているほどにしか映っていない。そして、それを止めるために正義の楯を求めたとしても、その前に立ちはだかるサガを倒せる者が存在しないのだ。生き残った黄金聖闘士たちが駆けつけようとも、そこまでの時間は残されていない。
「脆弱な神は滅んだ。我らの不安を余所に、呼んでも応えなかったアテナは俺が倒したのだ。黄金聖闘士を始めとする聖域の聖闘士たちよ、これ以降に地上を支配するのは俺だ！ アテナではなく、俺の下で戦うのだ！ 地上の侵略を狙う……邪悪の神々とな。そうだ、これより我らの本当の戦いが始まる。我らが生きる美しき地上を、悪しき神々から守り抜く真の聖戦が」
勝利の確信から、自身の野望の全容をサガが語る。そこには、私欲など一欠片も無かった。自分が生まれた大地を、無辜の善男善女が生活する世界を守らんとする願いが込められていた。
だからといって、そのために何をしても正当化される訳ではない。如何なる正義に基づいた目的であろうとも、それを果たすために悪行が許されてはならない。アテナの聖闘士とは、女神の愛を地上へと広める者なのだ。その愛に支えられた正義の信念だけが、地上を本当の意味で邪悪から守れるのだ。
サガの思考を、真っ向から否定する声が聞こえた。それは思いの外、近くから聞こえてきた。もう、教皇の間に立つのは己のみ。そう思っていたはずのサガも、まさかという面持ちで視線を移した。先刻、葬り去ったはずの少年が倒れていた場所へと。今や輝かんばかりの小宇宙が燃え滾っている出処へと。
「バカなっ……ペガサスが、再び立ち上がるだと？ 消えかかっていたはずの小宇宙まで、再び膨れ上がっている。それに、何だ……？ ペガサスの聖衣は、跡形も無く消し飛ばしてやったはず。それが……」
この土壇場の窮地で立ち上がった星矢。サガのギャラクシアンエクスプロージョンが教皇の間を吹き飛ばす威力を秘めていようとも、一輝が全霊を傾けて守り抜いた成果だ。星矢までも飛ばされるには至らなかった。
そして、サガは我が目を疑っていた。星矢が立ち上がったこと以上に、その黄金の小宇宙が蘇っていくこと以上に、星矢の身を覆う聖衣の眩さに息を飲んでいた。
「ち、違う……。あれは……あの形状は、忘れもしない……。ま、まさか!? ペガサスの体に……!?」
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