「黄金聖闘士」編
第十五話 アテナ神殿
「星矢……立つのです、星矢。貴方の戦いは、まだ終わっていないはず。この戦いを乗り越え、生き別れとなったお姉さんを探し出すという、貴方にとって本当の戦いが……人生が待っているのですよ。さあ、目を開けて立ち上がって……もう一度、翼を広げるのです」
温かな小宇宙が、血まみれとなって倒れる星矢を優しく包み込んでいた。その小宇宙が、間も無く消えようとしている。それだけは、断じて食い止めなくてはならないという思いが、星矢を再び立ち上がらせていた。
「何のために立ち上がった、ペガサスよ？ もはやアテナの命は尽きる。この上は俺に立ち向かうより、むしろ詫びの言葉でも考えるのだな」
「ふざけるんじゃないぜ、ジェミニ……お前を倒して、アテナを救えるのは俺しか残されていないんだ。俺の兄弟たちが……多くの友が犠牲となり、俺を信じてアテナを託してくれたのだ。その思いに背いて邪悪に屈することなど出来やしない。例え地上の全てが邪悪に塗り変わろうとも、俺は……俺だけは正義を貫いてみせる！」
不屈の精神が、星矢の肉体を内側から黄金色に輝かせる。その小宇宙に呼ばれたのか、丸裸の星矢の下に一つの聖衣が降臨した。
「あれは……あの形は!?」
弓を携え、背中に翼を生やした黄金の聖衣。かつて勇者アイオロスが纏っていた、サジタリアスの黄金聖衣だ。それが一つ一つのパーツに分かれて、今こそ星矢の体に装着されていく。完全に聖衣と一体化し、太陽を彷彿させる小宇宙を発揮する星矢の立ち姿にサガも冷汗を禁じえない。
「今、分かった。お前たち青銅が……本来は黄金聖闘士にしか到達しえないセブンセンシズに目覚めることが出来た訳が。我ら現代の黄金聖闘士に代わり、未来においてはお前たちこそが……」
そう確信させるほどに、星矢はサジタリアスの黄金聖闘士に相応しい勇姿を体現していた。正しくサガが何度も見ていた勇者の姿と合致していた。その姿に、サガは在りし日の友を見た。あれは自分たちが、今の星矢と変わらぬ歳の頃だ。どこまでも純粋に無垢に正義だけを目指していた男の双眸までもが、星矢に宿っていた。
「やめろ……そんな目で見るな、アイオロス！」
声を荒らげ、必死に視線から逃れようと顔を覆って叫ぶ。結局、自分は最後まで勝つことが出来なかった。あれほど欲し、自分以外に相応しい者はいないと信じた教皇の地位を受け継いだ男に。己の中に芽生えた邪心に負けた自分と、命を懸けてまで正義の使命を貫き通した友。どちらが弱き者であるかは明白だ。だからこそ、眩しいほどに一途な瞳に見詰められることに耐えられなかった。自分の弱さが白日の下に晒されるような気がして。
もはや、この視線から逃れる方法は一つのみ。自分を否定しようとする瞳を、こちらから否定して消滅させるより他にない。如何にサジタリアスの加護があろうとも、星矢の肉体はボロボロに傷ついたままなのだ。右腕は折れ、右脚は切断されたまま。そう考えたところで目を疑う。なんと、星矢は今や両脚でしっかりと立っているのだ。左脚と同じく、生身の右脚が太腿から生えて聖衣に包まれている。
「切り落としてやったはずのペガサスの右脚が!? そうか、アイオリアめ……こうなることを予期して、ペガサスの右脚を治療した際に仕込んでおったか。だが、折れた右腕までは再生できまい。それでは俺を倒すための拳を振るうことはかなわぬぞ」
再び星矢の肉体を破壊し、今度は再生の余地さえ残さず完全に消滅させるつもりでサガが小宇宙を高める。それと呼び合うようにして、星矢もまた内側に小宇宙を燃焼させていた。邪悪の信念に基づいたサガの小宇宙とは正反対に、あくまで正義のためだけに黄金の小宇宙を燃やしていた。
「ジェミニよ……俺は、一人で戦っているんじゃない。俺一人の力では、ここまで来れなかった。
この身を包んでくれているサジタリアスの聖衣は……アイオロスの魂は、日本でも俺の危機を救ってくれた。
一度は身を散らしたはずの一輝が、こうして舞い戻ってくれた事で俺は……最後まで希望を捨てないことを教わった。
紫龍が一人で磨羯宮に留まってくれなければ……俺も、お前に挑む勇気は得られなかっただろう。
あんなにクールな氷河も、天蝎宮では熱い心を開いて……俺たちを兄弟と呼んで、共に生きたいと叫んでくれた。
その氷河を天秤宮で蘇らせたのが瞬だ。俺は、その決意に感動した……聖闘士の力が、人を救えるものだと確信させられた。
シャイナさんやカシオスが、自分の命を犠牲にしてまで俺を庇ってくれた。
教皇の間を前にして足踏みしている俺を……魔鈴さんが、背中を押してくれた。
そして、今にも消え入りそうな命を振り絞って……沙織さんが、常に俺たちの戦いを支えてくれていた。
俺たちの帰りを待ってくれているアテナが！」
仲間に対する熱き思いの丈を述べるごとに、星矢の小宇宙は限界を知らぬが如くに高まっていく。どこまでも果てしなく、無限の領域へと。
「みんなの希望が、俺一人に集約されたのだ。地上のため、アテナのため、そして友のためにも俺は負けられない！ 今こそ燃え上れ、俺の小宇宙よ！」
動かない右腕に代わって、星矢の左拳が燦々と輝き出す。生命とセブンセンシズの全てを込めた光速拳が放たれるのを予期して、サガも攻撃に移ろうとする。如何に星矢の小宇宙がアイオロスに匹敵するほどに高められようとも、先にギャラクシアンエクスプロージョンを撃てば勝てるとサガは踏んでいた。ところが星矢の拳の威力と速度は、サガの想像を遥かに上回った。
「アテナよ……アイオロスよ！ 俺に最後の奇跡を与えてくれ！ 今が邪悪を討つ時……ペガサス彗星拳ーっ！」
星矢が左手で放った渾身の拳。瞬間、サガは再びアイオロスの幻影を目撃した。今や幻となったサジタリアスの拳を見た。それに気を取られたためか、否、黄金聖闘士すらも超越した星矢の必殺拳をかわすことが出来ず、サガは真正面から彗星拳を食らった。
つい三か月前に十四歳となったばかりの星矢。その十四年間の生命の小宇宙が、彗星の軌跡となって邪悪へと突き刺さる。たまらずサガの身体は宙へと上昇していく。開け放たれた教皇の間の天井を越えて、遥か天空へとサガの身が上っていく。
「バカな……この俺がっ……青銅ごときガキに後れを……」
あれほど強大であったサガの気配と小宇宙が、次第に遠ざかっていく。それを感じ取ってか、サジタリアスの聖衣が自然と星矢の体から離れていった。それが戦いの終焉の合図などではない。星矢には未だ、勝利の喜びを噛み締める訳にはいかない理由がある。
「楯を……正義の楯を、沙織さんの方角へかざすまでは……」
全身に苦痛が走る。骨の髄にまで激痛が蝕んでいる。それを意に介している暇など無いのだ。この身が何だというのか。地上にとって真に重要なのは、アテナの生存なのだ。教皇の間を後にし、星矢は最後の石段を上っていく。間も無く星矢の前に、神話のアテナを象った巨像が現れた。
「ペガサス……させぬぞ！」
天空へと舞い上がっていたサガにも、その姿が見えた。激しく上昇を続けながらも、その瞳は地上へと向けられていた。火時計の最後の灯は、今にも消えようとしている。だが、まだ微かに輝いている。それが完全に消失するまでは、自身に勝利は無い。そして自身の敗北を決定付けるアテナの楯に、星矢が近付こうとしている。
「勝利を掴むのは、貴様らではない。地上を守るのは、アテナではない！ アナザーディメンション！」
サガの体が、次元を超える。宇宙に向かって上昇していたサガの体が瞬時に消えてアテナ神殿へと舞い降りる。星矢の背中は、既にアテナ神像の足元に辿り着いていた。
星矢の手元に、未だ楯は無い。では、正義の楯は今どこにある。アテナの巨像の左手に携えられたままなのか。サガの目線が、それを追う。見上げた先にあったのは、慈しみ深きアテナの双眼であった。
「ア、アテナ……」
その瞳に吸い込まれ、サガは思わず呟いて足を止めてしまった。彼の心の闇も哀傷も見抜いているかのような視線に戸惑い、身動きを封じられてしまった。常に自己に問い続け、その身を縛り続けてきた罪の全てを許そうとしている視線に釘付けになってしまった。海よりも深き愛までも分かってくれている視線に。
その間にも星矢の手は、正義の楯へと伸ばされていた。これが星矢の手に渡り、倒れる沙織へと向けられればサガの野望は潰える。我に返ったサガは、楯ごと星矢のボロボロの体もアテナの巨像も吹き飛ばすべく、両手に小宇宙を集約させる。
「これで……何もかも終わりだ！ ギャラクシアンエクスプロージョン！」
「アテナよ、俺に最後の力を……貴方を救わせたまえー」
星矢とサガの間を光が行き交う。サガの放った星々をも砕く閃光は、星矢に到達する前に消滅した。全ては正義の楯から発せられた偉大な光によるものだ。その光がサガの身を貫き、通り越して聖域全体を夜明けの如く照らす。闇夜の中、僅かな灯火をたたえていた火時計すらも明るく照らす。その最後の火が消え去る瞬間を、夜空に映し出した。
楯の光が届くのと、火時計が十二時間の経過を知らせるのを共に見ていたのはムウ一人であった。平生は心穏やかなムウも、この時ばかりは焦りで震える瞳で、時計と沙織とを交互に見比べた。
時計の灯は、本当に消えてしまったのか。それとも自分の見間違いか。沙織の左胸からは、確かに黄金の矢は失せている。それは果たして楯の加護によるものなのか、完全に沙織の心臓に埋まってしまった為なのか。やがて沙織の側で経過を見守っていた貴鬼が、顔を綻ばせてムウを見上げる。
「ム、ムウ様！ アテナは……生きています！」
その言葉に、ようやくムウも冷静さを取り戻した。落ち着いて沙織の様子を探ってみれば、白い肌には血色が蘇り、弱くない息遣いも聞こえてくる。近づいて脈を取っている内に、長い睫毛を震わせてとうとう沙織は目覚めた。
「お気づきですか？ お体に障りますゆえ、未だしばらくはご安静に願います」
優しく声を掛けてくるムウに、沙織は薄っすらと微笑んだ。長らく眠り続け、ムウの顔を見るのもこれが初めてであるはずなのに、その微笑は全てを理解しているように見えた。
「心配をかけたようですね。此度のことだけではありません。十三年間、自分の責務を放棄していた私をよく信じてくださいました」
自分をねぎらってくれる言葉は、正しくアテナの物。真の女神でなくては出てこない言葉であった。脈を取っていた沙織の手を離し、ムウは頭を下げたまま一歩退いて床に手を着いた。
「ムウごときに勿体なきお言葉。直に拝する無礼をご容赦願います」
その慇懃な師の様に、貴鬼も慌てて倣ってムウの隣で跪く。沙織はゆっくりと上体を起こすと、二人に顔を上げるよう告げる。そして、不意に現れた黄金の小宇宙へと視線を向けた。
「サガ……ですね？」
現れた気配に、ムウも直ちに反応を示す。見れば金牛宮へと続く石段の側に、アナザーディメンションで次元を超えてきたサガの姿があった。星矢との死闘を終えたばかりであるためか、その姿はひどくやつれて見えた。上半身は聖衣を脱ぎ捨て半裸となっており、肩で息をしている。
すぐさま貴鬼が前に出て、沙織の身をサガから隠そうとする。いかに両腕を広げようとも、わずか八歳の幼児の体では限界がある。それでも、いたいけな聖闘士の卵は巨悪に対して一歩も退こうとはしない。そんな貴鬼を、何故かムウも沙織も目の前のサガから遠ざけようとは思わなかった。
手傷を負い、疲労に満ちているとはいえ、その表情は澄んでいた。紛れもなくそれは、ムウが幼い時分より見上げ続けていた汚れなきジェミニの聖闘士の貌であった。内に潜む邪悪から解き放たれた、サガ本来の人格が表出していることを感じ取ったからこそ、ムウも沙織も一片の脅威を感じることなくサガと対していた。
「このサガ、こんな事が言えた身ではございませぬが……貴方のご成長とご帰還、心より言祝ぎたく。つきましては……」
サガの声の、何と安らぎに満ちていることか。その小鳥のさえずりにも似た響きに、ムウはすっかり心を許していた。貴鬼も敵愾心を失くし、両腕を下ろしていた。ゆえに次にサガが起こした行動を、ただ見守ることしか出来なかった。
「サガ!?」
逸早く行動を起こしたのは、沙織だった。呆気に取られる貴鬼の脇を抜け、崩れようとするサガの身を優しく抱いた。サガの残された全ての小宇宙を集めた右拳が、顕となった自身の胸を貫き、されるがまま沙織に抱き止められていた。
「サガ……なりません。貴方も自身の邪心を捨て去ったのなら、聖闘士としてこれからも生きるべきです」
サガが自分で付けた傷は、一目で致命傷だと分かるほど深かった。血を吐き続ける唇を小刻みに震わせながら、辛うじて沙織を見上げるサガ。霞んだ目にも、その慈愛の表情は窺えた。先ほど、アテナ神殿で己を見つめてきた神像と瓜二つの瞳がそこにはあった。
「いえ、アテナ……私は自分の邪心には勝てませんでした。そして、貴方にも……。あれほど軽んじた貴方に……正義の楯の光によって、もう一人の私は洗い流されたのです」
言葉は弱々しく、今にも途絶えそうであった。それでも伝えなくてはならない。この世から去る前に、これだけは残しておきたい言葉があった。閉じかけた目をもう一度だけ開けて、サガは沙織を見上げる。
「貴方に申し開きをすることなど、一切ございません。ただ、私も……このサガも地上を守りたかったのです。アテナ……例え貴方に背くことになろうとも、私の手で地上を……」
サガが邪心を抱いたのは、全ては主たるアテナを信じることが出来なかったためだ。まだ赤子であったアテナに地上を委ねる勇気を持てなかったためだ。だからこそ最後に信じたかった。沙織に託したかった。自分が愛し、守ろうとした地上を。稀代の逆賊として歴史に悪名を刻んでまで守り通そうとした、美しき地上を。
闇の中に溶け込み始めたサガの耳に、近付いてくる足音が聞こえる。その正体に気が付き、サガは最後の力を振り絞った。
「ムウよ、私は……」
「サガ、私は貴方を許しはしない。教皇の位を正当に受け継ぎ、来たるべき聖戦の時に私たちを率いてくれるであろう期待を裏切った貴方を、私たちは許すわけにはいきません。もはや、貴方を許せるのは神だけなのだ。長き苦しみから解かれ、楽園で眠るのです」
師父たる教皇と並んで己が目指した男を見送る。それに際してムウは、彼の顔を最後に目に焼き付けておきたかった。だが、いくら目を凝らそうとも瞳の奥から溢れ出す雫が、ムウとサガの間に隔たりを作り続けていった。
ムウには見えないであろうが、サガは笑っていた。最後の最後に、本当に救われた心地になって、ジェミニのサガは微笑んだ。過ちを犯そうとも自分の心の中に残っていた善心を信じ、許しがたい罪も始めから無かったかの如く泣いてくれる者が、アテナの他に一人でもいてくれる。その事に安堵して、サガの魂は冥界へと旅立っていった。
「これは……？」
サガの命が尽きるのと同時に、沙織は自身の胸に温かな何かが芽生えているのに気が付いた。それは、サガが自分の命と引き換えに残し、沙織に託していった命の灯火だ。自分の策略によって沙織から奪ってしまった五つの命を、せめて現世に返そうというサガの願いの表れだ。
その願いに応じて、女神の祈りが天を駆け抜ける。一つは磨羯宮に、一つは宝瓶宮に、一つは双魚宮に、一つは宇宙の果てに。そして今一つは、アテナ神殿にて横たわる少年の体へと行き着いて、大いなる愛で傷ついた全身を包み込む。自分のために命を賭してくれたことを労わり、感謝し、今はただ安らぎの中で眠るよう促した。
サガが案じた真なる地上の危機――邪悪の神々との聖戦は、すぐそこにまで迫っている。その時には、再び聖闘士たちの力が必要となる。その時まで、せめて少年たちには一時の休息を与えたかった。
この世に聖闘士として生を受けて、もうじき二十一年。ムウは、ひたすら思い描いていた女神の姿を目の当たりとしていた。自身をも脅かした巨悪の罪を赦し、地上の全てを慈愛で包み込むかのように祈る姿に、ムウはアテナの神話を実感していた。この何にも増して愛深き女神がいる限り、地上は決して邪悪の手には落ちまい。そういった確信を胸に、アリエスの聖闘士は涙を拭った。
聖闘士星矢のトップページへ戻る