「黄金聖闘士」編
第四話 巨蟹宮
中国は五老峰、既に陽は没しかけた時刻。廬山の大滝の前には平生のように老師が、そして懇願するように春麗が居住まいを正していた。
「どうしても聞かぬか。ならば、しかと見るがいい」
老師が座したまま体の正面を飛沫舞う瀑布へと向ける。その念じに応じて、流れる滝の表面に映像が浮かび上がる。再三、春麗が冀っていた紫龍の姿だ。巨悪の潜む聖域へと赴いていった紫龍の安否が気になり、春麗は一分一秒も心休まる瞬間を持てずにいた。その紫龍が、まだ生きている。それだけで少女の顔は晴れ、胸に安心が広がっていった。
目の端で養女の様子を認めながら、それでも老師は苦い表情を保ち続けていた。青銅聖闘士たちが十二宮に挑んで、早三時間。ここまでは紫龍も命を落とすことなく済んでいた。それでも行く手に待ち受ける黄金聖闘士たちは、いずれも強敵揃いである。それらに果たして、どこまで渡り合うことが出来るのか。強敵の戦いの果てに紫龍が敗れ、無惨に命を絶たれる様を見た時、果たして春麗はどこまで耐えることが出来るであろうか。老師は悟られぬように、細く長く嘆息した。
時差のため、紫龍のいるギリシアは未だ真昼を少し過ぎた時間である。それでも、その身に心に迫る不安が針のように突き刺さるのを感じていた。
「星矢、氷河と瞬が後ろから追いついてくる気配は無いな？」
目の不自由な紫龍に代わって、星矢がちらりと後方を確認する。いつの間にか麓を随分と離れており、背後には通り過ぎた三つの宮の屋根が見える。しかしながら残してきた仲間の姿も小宇宙も、そこには認められない。
「ああ、まだ三番目の双児宮で俺たちの分も頑張ってくれてるんだろうな。だけど、二人ともきっと乗り越えて追いついてくれるさ」
紫龍が星矢に尋ねたのは、そんな希望的観測に基づくものではない。あくまで冷静に現実的に、全体を見通して紫龍は一つの決意を口にする。
「すまないが星矢、次の巨蟹宮は俺一人に任せてはくれないか？」
そうこう言っている間に、二人の前にその巨蟹宮が荘厳な姿を現し出した。その空気を肌で感じ取って、紫龍も異論は聞かぬとばかりに口早に告げる。
「時間が無いんだ。俺たちは後、九時間以内に教皇の間へと行かなくてはならない。十二宮の一つ一つに手間取っている暇は無いが、相手もただでは通してくれまい」
「だから巨蟹宮……キャンサーの黄金聖闘士に関しては、お前が相手をするという訳だな？」
紫龍は無言で頷くと、先導するかのように巨蟹宮へと乗り込んでいく。その決意に満ちた背中を追って星矢も未知の空間へと足を踏み入れていった。
勇んで入っていった両者の足は、自然と重くなっていった。仄暗く静寂に包まれた巨蟹宮の中は屍臭と瘴気とに満ち満ちて、これまでの宮と大きく異彩を放っていた。
「気を付けろ、星矢。今のところ気配は感じられないが、どこかにあの……聖闘士の名を汚す不届き者が潜んでいるはずだ」
それが旅立ちの際に紫龍から聞かされていたキャンサーの黄金聖闘士デスマスクを指していることに即座に気が付き、星矢も神経を尖らせて周囲を窺う。自分たちが苦戦した暗黒聖闘士の一人を雑作も無く片付けた上、実戦を重ねてきた紫龍でさえも赤子の如く扱われたと聞く。そんな男に不意打ちされては、たまらない。
ところが、予想に反して相手の小宇宙は巨蟹宮の奥側から届いてきた。五老峰にて、逃げも隠れもしないと言ったのは真実であったのか。紫龍の小宇宙が巨蟹宮を訪れたことを察知して、向こうから位置を知らせてきた。
「……行くぞ」
意を決して二人は巨蟹宮の奥へと進んでいく。星矢には辺りの闇が実際以上に暗く感じられ、紫龍は総身に粟立つのを自覚しながら心の内で闘争心を高めていった。
「来たか、小僧。俺が五老峰へ出向いてから時を置かずに現れるとは……兵は拙速を尊ぶとは言え、無謀なことよ」
奥に控えていたデスマスクが、低く凄みを利かせた声でせせら笑ってくる。その黄金の聖衣の輝きによって、巨蟹宮を支配する漆黒が和らいだようにも感じられる。だが、紫龍は知っていた。目の前にいる男が、最高位の黄金聖衣を許される資格を一片も持たない悪であると。
「今度の連れは、一応は青銅聖闘士の資格はあるようだな。だが、それで俺に勝てると踏んだのか？」
「言ってくれるぜ。何なら、俺一人で相手をしてやろうか？」
挑発を口にしながらデスマスクへと近付く星矢。本気なのか、とデスマスクも呆れながら星矢を見張る。
「……なんてな。お前の相手は、はじめっから紫龍に任せるつもりだったんだ」
デスマスクが手を伸ばせば届きそうな距離で、星矢は方向を転換する。敵から見て左側の方角へ折れると、一気に走り出した。デスマスクは、それを追うことも出来た。だが、止めにした。星矢とは反対方向に曲がった紫龍が、自分に向かって拳を繰り出そうとしているからだ。
「まあ、いいだろう。たかが青銅の小僧一人では、どのみち六人もの黄金聖闘士を最後まで相手にできるはずもない」
星矢を追うのは諦めた。その分、紫龍に対する容赦は微塵も無いと言わんばかりにデスマスクは眼光を鋭くさせる。
正直な話、紫龍には未だデスマスクを恐れる気持ちがあった。親友・王虎を一方的にねじ伏せた実力の記憶が、まだ完全に拭えていない。しかし、それを理由に立ち止まることなど聖闘士には許されない。まして紫龍は、邪悪に尾を振るデスマスクとは違い、アテナの側に立つ真の聖闘士なのだから。
「お前への恐怖を払拭するため、あえて俺は巨蟹宮に残ったのだ。今度こそ、お前を俺の拳で倒すためにな！ 食らえ、廬山龍飛翔！」
あの時と同じく、自ら最速の闘技でもって挑みかかる。その拳は、無情にも簡単にデスマスクの身をすり抜けてしまった。あまりの手応えの無さに、紫龍は愕然となる。
「バ、馬鹿なっ……五老峰では、少なくともかすめた俺の拳が……」
「ドラゴン……名は紫龍だったか？ 青い奴め。お前の拳など、五老峰で全て見切っておるわ。それでも士別れて三日なれば……と思ったが、くっくっく……」
目の見えない紫龍の耳には、デスマスクの嘲りが一際大きく聞こえた。紫龍の自信や矜持を萎縮させ、その身を強張らせるには十分すぎる程だ。
戦意と共に紫龍の小宇宙までもが半減する。それは防御力の低下をも意味している。それを見逃すことなく、デスマスクはとどめに掛かる。
「ここには、お前を助けてくれる黄金聖闘士などいやしない。さあ、あの世へと旅立ってもらおうか？」
途端、巨蟹宮の空気が冷え込んだ気がした。それは気温の低下によるものではない。デスマスクの小宇宙によって、巨蟹宮全体が霊界と繋がったことの証拠だ。
友を葬った技が来る。紫龍も瞬時に身構えるが、それが何の用を成そうか。無慈悲にして非情なる死神の魔手が紫龍の魂そのものを捕らえている以上、いかなる防御も通じはしない。
「さらばだ、永遠にな。積尸気冥界波！」
デスマスクの放った気はドラゴンの聖衣をすり抜け、紫龍の肉体をすり抜けて魂へと直接作用する。魂は肉体から分離し、巨蟹宮と繋がった穴を通って霊界へと連れ去られていく。この技から逃れる術は皆無。紫龍は聖衣も肉体も無傷のまま、表情だけを歪めて巨蟹宮の床に倒れこんだ。
「志半ばで斃れて無念の表情……これこそ俺を満足させてくれるコレクションよ。くく……ダバッ、ダバダ～」
嘲笑交じりのスキャットだけが、仄暗い宮の中に響く。天井に跳ね返されてこだまする悪の聖闘士の笑い声が、あたかも冥界から訪れた使者の無情な宣告であるかのように。
ここはどこであろう。巨蟹宮よりも、さらに光が届かぬ世界。八方から呻きを上げる声が、いくつも重なって聞こえてくる。気が付いた紫龍は、はじめに自分の姿の異変に気付いた。ドラゴンの聖衣どころか一糸まとわぬ裸体。そう、ここにあるのは紫龍の肉体ではない。巨蟹宮に横たわる肉体を遠く離れて運ばれてきた、紫龍の霊魂なのだ。裸体といえど寒気は感じない。盲目であったはずなのに、目の前のうすら寂しい光景も認められる。そういった事実から、紫龍も自分の状態に合点がいった。
ここにいるのは、紫龍だけではない。同じく全裸の魂が、おぼつかない足取りながらも一点を目指して一様に歩き続けている。亡者とも呼ぶべき魂たちは、緩やかな上り坂を登っていき、その頂上で姿を消していく。紫龍は悟った。この坂道こそが世に聞こえし黄泉平坂。頂にある大穴は、ハーデスが治める冥界への入り口。そこに落ち込んだ魂は永遠に冥界に閉じ込められる定めでありながら、生前の意識を失った亡者は自ら望んでいるかのように黄泉平坂を進み続ける。
その中にあって、紫龍だけは唯一、黄泉平坂の宿命を逃れていた。他の霊魂のように足を進めさせることもなく、じっと坂の上を見つめている。その紫龍の魂を守護している温かな気配が、紫龍を冥界ではなく現世へと続く道へと誘ってくれる。
巨蟹宮で勝利を確信していたデスマスクは、異変に気が付いた。魂を抜かれて死したと思っていた紫龍の指が動いた。そして、ゆっくりとではあるが起き上がろうとしている。肉体の奥底からは、ドラゴンの小宇宙以外にもう一つ、神々しいまでに偉大な小宇宙を感じられる。デスマスクは、すぐに勘付いた。
「そうか、アテナも今は黄泉平坂を彷徨う亡者の一味。それに助けられたというわけか……幸運よのう」
アテナに反目する教皇の一味であるデスマスクもまた、アテナが聖域を長らく離れており、今日になって帰還したことを知っている身。そして教皇の手によって、生死の狭間を漂っていることさえも知っている。だからこそ紫龍が黄泉平坂から生還した理由にも気付けた。
「だが、それが貴様の勝機とはならん。いかにアテナといえど、黄泉平坂から直接この巨蟹宮にまで助力は出来まいて」
紫龍の動きが、まだ鈍い内にデスマスクは追い打ちをかける。再び積尸気を呼び出すと、紫龍の魂を再度投げ込む。先と異なるのは、デスマスク自身も自らの魂を肉体と切り離して積尸気へと飛び込んでいったことだ。
紫龍の意識は、半ば混乱していた。一瞬の間に、死後と生前の世界とを行き来した紫龍は、自分が今いる世界を見定めるのに時間を要した。目の前の光景は、亡者で溢れる黄泉平坂。ただし此度は、最初から大穴の広がる頂上付近に飛ばされたようだ。その背後に、巨大で邪悪な小宇宙が接近する。
「デスマスク!? すると、ここは巨蟹宮……いや、やはり黄泉平坂なのか？」
「俺が己の魂さえも自在に出来るとは思わなんだか？ 魂だけではない。俺の偉大なるサイコキネシスを用いれば……」
キャンサーの黄金聖衣が、積尸気を通って出現する。丸裸の紫龍と異なり、デスマスクの魂は生身の時と同様に黄金聖衣を纏っている。
「そしてアテナも……神とはいえ、死にゆく状態では貴様を元の世界へと帰すのが関の山であろう。俺はアテナの邪魔立てが入る前に、貴様の魂魄を消滅させてやるために俺自身も積尸気を渡ってきたのだ」
魂そのものに傷が付けば、どうなるのか。恐らくは二度と元の肉体へと戻れないどころか、完全に消滅して生まれ変わることさえ望めまい。絶対的な力量の差を改めて思い返した紫龍は、とうとう自身にも最期の時が訪れたのかと思い至った。その光景を客観的に見つめている二つの視線に気づくこともなく。
五老峰、廬山の大滝の前において老師と春麗とは成り行きを見守り続けていた。老師の念写は黄泉平坂の状況まで映し出し、それを前にして春麗は怯えながらも祈りをささげていた。ただただ愛する紫龍の無事を願う一心で。
「どうか……どうか紫龍をお守り下さい。父なるゼウスよ……大いなるアテナよ」
純粋にして一途なる少女の想いが、世界の理さえも乗り越える。春麗の声が、黄泉平坂にいる紫龍にも聞こえたような気がした。それに戸惑い、紫龍は意識を眼前のデスマスクから逸らしてしまう。あまりの恐怖と絶望から、無意識に春麗を求めてしまったがゆえの幻聴かと。しかし生身の肉体ならいざ知らず、今の自分は霊魂の存在ではなかったか。
戸惑い無防備の状態の紫龍を前にして、何故かデスマスクも攻撃を躊躇っていた。明らかに自分の集中を妨げ、邪魔しようとしてくる意思を感じるからだ。アテナではない。別の意識を感じる。
「な、何だ……俺の両肩にのしかかってくる……俺の頭を押さえつける、この異様な気は……」
頭の上に、大きな手がある。それによって押え込まれている。そんな感覚を味わい、デスマスクは頭上にある気配の正体を見極めんと顔を上げてみる。疑似的に空間が繋がっているのか、上空にはおぼろげながらも五老峰で祈りを捧げ続ける春麗の姿が浮かんで見える。その近くで座る老師の姿も。
「おのれ、貴方の仕業か……てぇい！」
怒声と共に発せられるデスマスクのサイコキネシスが、頭上に広がる廬山へと向かっていく。それをも空間を飛び越えていったのは、糾える縄の如しと言ったところか。デスマスクの念動波は過たず春麗の身を直撃すると、その体を操って滝壺へと叩き付けた。
「春麗ーっ！」
紫龍の叫びが轟くと同時に、上空の念写も消えてしまう。春麗の異変がため、老師が術を解いた為だ。頭上を見上げ、がら空きとなった紫龍の喉元をデスマスクが強力な握力で掴む。
「騒ぐな、小僧。どうせ貴様も間もなく、冥界へと落とされる運命なのだ」
「デス……マスク……」
紫龍が呻く。その呻きは、喉を締め付けられているからではない。実体を伴わない魂には、元より声帯など存在しないのだから。紫龍の呻きの正体は、どうしようもない怒りのためだ。目の前で自分が最も大切に思っている存在を、無残に弄ばれたことによる激昂だ。これまで感じたことのないような怒りが、紫龍の小宇宙を爆発させる。
「な、何だ……この熱量は？ とても掴んでいられん！」
デスマスクが掴んでいるのは、紫龍の魂そのものだ。それに触れるということは、小宇宙に直に触っているのと同じこと。煮えたぎる灼熱の小宇宙が聖衣を通してデスマスク自身にも伝わり、あまりの熱さから思わず手を離してしまう。
自由を取り戻した紫龍は、小宇宙を更に高めていく。紫龍自身でも驚く程、強大な小宇宙が満ち満ちていく。目の前に立つ憎き敵を打ち倒すために。
「デスマスクよ！ お前が犯した最大の過ち……それはドラゴンの逆鱗に触れたことだ！」
「韓非子……『説難篇』か……」
デスマスクは悟った。自分が葬った春麗こそ、紫龍と敵対するにあたって触れてはならない禁忌であったと。覆水不返、デスマスクは自らの手で相手の小宇宙を燃えさせてしまったのだ。その怒りの全小宇宙がデスマスクを見舞う。
「廬山昇龍覇ー！」
怒髪を屹立させた龍神が、キャンサーの聖衣に突き刺さる。その衝撃は天を裂き、大地を割ったに違いない。違いないはずなのに、まともに食らったデスマスクは平然として笑みさえ浮かべている。
「いい夢は見られたか？ まさか青銅の分際で、黄金聖衣を砕けるなどと本気で考えたか？ お前の技は全て見切っていると教えてやったろうが」
紫龍もたまらず怯む。そこへ襲い掛かってきたのは、デスマスクの念動力だ。紫龍の身はデスマスクの意のままとばかりに宙を浮き、猛スピードで背後の大穴へと飛ばされてしまう。
「うわああーっ」
そこへ落ちて冥界の住人となってしまっては、いかにアテナの加護があろうと二度と現世へは戻れない。絶望と無念の咆哮を上げながらも、為す術無く紫龍は真っ逆さまに落下していく。
半ば覚悟した紫龍の魂を抱えるものがある。一向に落下しないことを不思議に思った紫龍は、自分の背後に別の魂の気配を感じていた。霊魂となった自分を支えられる存在があるとすれば、その者もまた。
「しっかりしろ、紫龍！ お前まで、奴にやられてしまうのか？ この俺と同じように……」
何度となく聞いた声。それが紫龍に、その者の正体を教えてくれた。
「お、王虎か!? まさか……」
先日、五老峰において、やはり積尸気冥界波を受けた朋友、王虎。その魂は、とっくに黄泉平坂を越えて冥王ハーデスの膝元へと落ちたかと思われていた。それが、未だここに留まっていたとは。
「あの時、老師が……死にゆく俺の魂に術を施してくれたのだ。おかげで俺は未だ冥界に落ちることもなく、亡者として彷徨うこともなく、こうしてお前の危機を救うべく待ち構えることが出来た」
思いも掛けない王虎の姿に驚いたのは、何も紫龍ばかりではない。デスマスクもまた、口を大きく開けて驚愕している。その間に王虎は紫龍を穴の内側である崖へと運び、自身は毅然としてデスマスクを睨み付ける。それに応じて、デスマスクも烈火の怒りを覚えた。
とうに黄泉平坂へと運ばれた王虎の魂が、まだこうして漂っている。その事実が、デスマスクの自尊を大いに傷つけた。最強の聖衣を纏い、正義の大義名分を背に掲げる己が手に掛ける相手は、いずれも命を奪われたところで文句も言えぬ輩であるはずだった。己は、みっともなく現世にしがみついている者たちを冥府へと誘う、死の番人という特別な地位を天から授けられた男である。その自分に屠られたことを否定するかの如く、この黄泉平坂に留まっている王虎の姿にデスマスクは激怒した。
「貴様～～！ 貴様ら亡者どもは、俺にとって強さの証だ……俺が正しいという証拠なのだ！ 地上に生きる資格も無い弱者どもの分際で、俺の始末に歯向かおうと言うのか～？」
目を血走らせて、十本の指の爪を立てながらデスマスクが歩み寄ってくる。紫龍はこれを迎え撃たんと、懸命に崖をよじ登る。だが、デスマスクの視線は途中で脇道へと逸れていった。
「貴様らもか!? 俺の手であの世へと送られたことが、そんなに不服なのか!?」
デスマスクの腕が素早く伸ばされると、その先にいた亡者の首根っこを掴まえる。王虎と異なり、既に冥界の住人となりつつある亡者の視点は合っておらず、自分の身に何が起きているのかも分からないかのように低く呻くのみだ。その様子が、一層デスマスクを刺激した。
「何だ、その面は!? 貴様らなど、どうせ生きていても無為に命を持て余すことしか出来なかった外道だろう？ 俺によって冥界に送られたことを感謝すべきなのだ！ それを……それを、この亡者風情がっ」
相手の首を掴まえたまま、デスマスクは右手に力を込める。ミシミシという音が聞こえてくるかのような凄惨な光景に耐え切れず、紫龍が声を上げようとした寸前、デスマスクは腕の中の亡者を解放した。正確に言えば、力任せに放り投げたのだ。その亡者は紫龍の頭を越え、王虎の背中を越えて黄泉平坂の大穴へと真っ逆さまに落ちていく。それを目で追っていた紫龍が更に怒りを燃やしてデスマスクを見据えると、奴は次から次へと亡者を掴まえては穴の底へと叩き落していた。
「どうだ、思い知ったか！ お前たちなど、どんなに反抗しようとも俺には敵わぬのだ。初めから大人しく、俺の裁断を受け入れて死んでいればよいのだー！」
「やめろーッ！ デスマスク！」
両脇に亡者を抱えて歯を剥きだす様は、正に羅刹そのもの。聖闘士とは、およそ思えないほど醜い姿だ。
「これ以上、死者に鞭打つ真似は許さん！ 正義の名にかけて、必ずや貴様を討ち滅ぼす」
「正義だと？ 世の中の道理も分からん小僧っ子が、俺に何を説こうというのだ!?」
「道理を知らんのは、貴様のほうだ。聖闘士としての力を授かり、輝かしい聖衣を預かる身でありながら、なぜ正義のため……アテナのために力を使わない？ なぜ教皇が悪と知りつつ加担する？ お前のように常に強者の側に立ち、弱者をなぶるような奴は聖闘士として……否、人間としてクズだ！」
「黙れ黙れ～。俺にとっては力こそが全て。今の時代で最も力を持つ教皇に与する事こそが最善なのだ。強きに靡いて何が悪い？ 例え法に背き、神の名を汚す行いだとしても、それが強者の為すことであれば全て正当化される。そして、それこそがキャンサーのデスマスクのオメルタなのだ」
これ以上は、どれだけ討論を繰り返そうと無意味。互いに互いを相容れぬ存在と看做した紫龍とデスマスクは、目の前の敵を倒すために小宇宙を滾らせる。
「今度こそ、お前の五体をバラバラに引き千切ってくれるぞ～。アクベンス！」
地が唸る。咄嗟に紫龍は、跳び上がって回避する。予想通り、紫龍が立っていた場所は左右からの隆起した大地に挟まれる寸前であった。空中に身を躍らせたまま、紫龍もデスマスクに向かって小宇宙の弾丸を放つ。
「馬鹿め！ 何度やろうと、俺に黄金聖衣がある限り……何ぃ!?」
デスマスクが思わず驚愕の声を上げたのも無理は無い。絶対の防御力でもって自らを守ってくれると信じて疑わなかったキャンサーの聖衣。それが本人の意思を離れて、勝手にデスマスクの身から外れたからだ。
いかに黄金聖闘士と言えど、聖衣を身に付けない裸の状態では生身の人間と防御面において大差ない。動揺はあったが、亜光速の動きで紫龍の拳は回避する。しかし、自分の身に起きた出来事には理解も納得も出来ようはずがない。
「何故だ……何故、持ち主である俺を拒むのだ？ この地上において、キャンサーの黄金聖闘士とはデスマスクをおいて他に無いはずだ！ なのに、何故……」
「その理由が分からぬのも、この世において貴様だけだ。黄金聖衣とは、聖闘士の頂点に立つ誇り高き黄金聖闘士にのみ許された至高の聖衣。貴様の卑劣外道な行いと考えを目の当たりにし、キャンサーの聖衣は貴様をもはや黄金聖闘士と認めなくなったのだ」
宙を漂う黄金聖衣を呆けたように見上げていたデスマスクに、果たして紫龍の言葉が耳に届いていたであろうか。少なくとも紫龍には、次の瞬間には狂人のように笑い出すデスマスクに届いたとは思えなかった。
「フハハハ！ 聖衣の奴め、俺が青銅ごときに手こずるものだから……。くっくっく、お前も俺と同じように強者を見定めているのか？ ならば見せてくれる。黄金聖闘士の俺は、聖衣など無くともガキ一匹やすやすと仕留められるという事を」
両者互いに聖衣を失った状態。となれば決め手となるのは互いの小宇宙のみ。それは結局、紫龍にとって大きな不利であった。
「くっくっく、小宇宙の大小を比べれば青銅ごときが俺に敵うはずあるまい。それのみか、今や俺は貴様のあらゆる技の全てを見切っているのだ。さあ、ドラゴン！ どれでも貴様の得意な技を撃ってこい！」
自分は、その紫龍の技を打ち砕き、紫龍を絶望の淵に陥れた後で葬ってくれる。そんな嘲りがデスマスクの挑発には含まれていた。
「ならば後悔するがいい。この紫龍、渾身の拳を受けてな」
魂の全てを怒りに変えて、悪に対する怒りに変えて昇龍の小宇宙が滾る。それは大きな隙にも見えた。今の紫龍は、デスマスクに負けまいと小宇宙を燃やすことに必死になっている。この隙を突いて襲い掛かれば、一気に片が付く。卑怯を好むデスマスクは、先に思い浮かんだ案よりもこちらを選んだ。
「馬鹿め！ 今の内に首を掻き切ってくれるぞ！」
飛び上がったデスマスクが、紫龍の頭上へと迫る。そんなことは意に介さず、紫龍は熱き小宇宙を燃やし続けていた。
「燃え盛れ……我が龍神の小宇宙よ。限界を超えて……天へと昇れ！」
デスマスクの魔手が、紫龍の頭に届く。その寸前、紫龍もまた拳を頭上へと掲げていた。いつものように右腕だけの攻撃ではない。左右両方、二つの拳を見舞っていた。
「こ、これは……二匹の龍が、俺を!?」
「冥界の奥底まで……吹き飛べ、デスマスク！ 廬山昇龍覇！」
いかに黄金聖闘士であろうとも、聖衣も無しに至近距離からこれを浴びては堪らない。正に天へと上る勢いの小宇宙に押し込まれ、デスマスクの身は宙へと舞う。
「うあああっ……」
必死に受け身を取ろうと足掻くが、いつまで経っても地にぶつからない。そこでデスマスクは悟った。自分の身は今、黄泉平坂に落ちようとしているのだと。死後の冥界へと続く、あの暗黒の穴の底へ落ちようとしていることに気が付いた。
「ふ、ふざけるな！ 死者の番人である俺が、亡者と同じになるだと！」
遠ざかっていく穴の淵に、なんとか手を伸ばそうとする。かろうじて爪の先が引っ掛かり、笑みをこぼしたところで後ろから羽交い絞めにされた。
「王虎！」
紫龍の叫びが、黄泉平坂の大穴に響く。デスマスクによって、ここまで導かれた王虎の霊魂がデスマスクを捕らえている。そして、そのまま紫龍に向かって微笑を浮かべると、怨敵を道連れにして冥界へと落ちていった。
「あ～～～……」
羅刹の断末魔が深い底へと引きずり込まれるのを聞いている内に、紫龍の魂は再びアテナによって現世へと戻っていった。
次に紫龍の目が覚めたのは、自分を呼ぶ兄弟の声によってだ。
「紫龍……紫龍！」
「シ、瞬か……。奴は？ デスマスクは、どうなった？」
霞む目を凝らして、間違いなくそこにいる亜麻色の髪の少年に問いかける。
「巨蟹宮の黄金聖闘士なら、そこに倒れている。もう心臓も止まっているみたいだ。紫龍が、やったんだね？」
その言葉を聞いて、ようやく紫龍は自らの勝利と生還を確信した。ゆっくりと起き上がると、自分の両目でも実際に確かめる。半裸の状態で横たわるデスマスクの遺骸と、その上で静止するキャンサーの聖衣とを。
「逸早く教皇の悪事に気づきながら、その教皇に犬馬の労を取る悪党だ。己の聖衣に見放されても文句は言えまい。キャンサーの由来となった化け蟹カルキノスでさえ、お前の百倍は義を知っていた」
蟹を模した黄金聖衣の眩さを見ながら、紫龍はそう述懐する。そこで、あることに気が付く。気が付いた途端、驚きの余りに瞬を振り返る。
「瞬！ お、俺は……俺の目が！」
「え……紫龍、もしかして？」
両目に視力が戻っている。巨蟹宮の仄暗さも、瞬の穏やかな顔も、何もかもが視覚として捉えられている。
「その通りじゃ、紫龍よ」
その時、頭の中に老師の声が響いた。声だけでなく老師が飛ばしてきた遠隔視によって、五老峰の様子までもが窺える。
「お前の魂が黄金聖闘士を下す程にまで小宇宙を高めたことが、肉体にまで奇跡を宿らせたのじゃ。これも皆、お前を想う春麗の祈り、そして王虎の友情の賜物であろう」
「老師、春麗は……」
「安心せい。この通り滝壺から救い出し、蘇生の小宇宙を与えておる。なに、まだ目を覚ましてはおらぬが少し休めば元通りの春麗じゃよ」
デスマスクを成敗した。自分の目が開いた。春麗も無事だった。一度に多くの感動が襲い、紫龍は久しぶりに瞼を開いて涙を流していた。
「さあ、もう行け。お前たちに立ち止まっている暇など無いはず。春麗の心配がいらぬとなれば、ただただアテナのためだけに進むのじゃ」
老師の言葉に、紫龍のみならず瞬も肯んじた。先はまだ長く、時間は待ってはくれない。星矢が先に乗り込んだ獅子宮が待ち受ける石段を、二人は駆け上がっていった。
その時、すでに星矢が血の海に沈んでいることなど露知らず。
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