「黄金聖闘士」編
第五話 獅子宮
夕空の下、大声で嘲る声が響く。
まだ修行中の身であった頃の星矢。今よりも幼い時分、故郷・日本から旅立ってギリシアで励んでいた頃のことだ。その傷だらけとなった星矢を見下ろすのは、同じく聖闘士の修行者である少年。しかしながら星矢より二つ年上であり、その体格は既に大人顔負けな程に鍛え上げられている。
「どうだ、星矢？ 今度こそ、お前には聖闘士になる資格など……聖衣を授かる権利など無いということが分かったか？ だったら、さっさと尻尾を巻いて日本へ帰るんだな」
ギリシアは聖闘士発祥の地。故にギリシア人の中には、聖衣を外国人に与えることを良しとしない排他的な者もいる。星矢を見下す、このカシオスもその一員だ。その自慢の体格と怪力でもって星矢を痛めつけては、聖域から追い出そうとする。
だが、星矢にも退けない理由がある。だからこそカシオスに敵わないことを認めつつも、落伍してギリシアから出ていくことは選択しない。項垂れることなく、自分より遥かに巨躯の男を見上げるのが精一杯の抵抗だ。その態度が癪に障ったのか、カシオスが再度、星矢を足蹴にする。後ろから声が掛からなければ、更に追い打ちを掛けていたことだろう。
「何をしている、カシオス？」
「あ……アイオリア様」
振り返り、その人物を確かめたカシオスは星矢にしたのとは、まるで正反対に頭を垂れた。現れたのは星矢やカシオスといった訓練生たちの監督を任された、黄金聖闘士のアイオリアだ。精悍なる男盛りの十八歳。カシオスでさえも、自分と同じギリシア人であり聖域随一の武勇を誇るアイオリアには心底敬意を抱いていた。
アイオリアは生傷だらけのまま起き上がり、血のにじんだ口元を拭う星矢を一瞥しただけで全てを悟ったようだ。日頃から、カシオスの排他的な言動は目に余ると思っていた。たしなめる機会だと、アイオリアは厳しい口調で話し始めた。
「カシオス……お前が侮り、下らないと思っているような者でもな、男であれば一生に一度の時というのは巡ってくるものだ。その一生に一度の日に気付く事無く、無為に過ごすような奴かどうかが分かるまで、俺なら蔑みはしない」
何も星矢だけを特別視して庇い立てる訳ではない。アイオリアから見れば、出生地に関係なく後輩は全て等しく可愛いのだ。全ての訓練生に、自分と並び立つ立派な聖闘士になってほしいと願っている。星矢とカシオスのどちらにも、正義を愛するアテナの剣を名乗れるだけの技量と心根を身に着けてほしい。そんな気持ちが込められた視線に見つめられ、急に恥ずかしさを覚えたカシオスはアイオリアの前を辞した。
後に残った星矢は、気落ちした表情を浮かべている。既に修行を始めて数年が経つ。未だに一人でカシオスに立ち向かえないでいる自分に憮然としていた。アイオリアは膝をつき、そんな星矢と同じ目線となって語り掛ける。
「星矢、故郷を遠く離れお前を知る者が誰もいない地で認めてもらうのは、お前自身の拳で成し遂げなくてはならない。この先も日本人だからと蔑まれたくないのであれば、己の力で強くなるのだ」
その言葉がどれほど重いか、星矢も無意識の内に感じ取っていた。星矢は知るべくもないが、このアイオリアもまた周囲の偏見の中で育ってきた男。そういった環境において、自分の力だけで周囲の評価を変えてきた闘士なのだ。
夕焼けに顔を照らされたまま、星矢は胸の高鳴りに興奮する。一人でも翼を広げて雄々しく飛び立つ己の姿を想像して。そう、目の前にいる誰よりも誉れ高き黄金聖闘士のように。
十二宮、五番目の宮――獅子宮に星矢は一人、先んじて到着した。
ここを護るのは、星矢もよく知る人物。レオのアイオリアだ。アイオリアは日本において沙織と面会し、彼女をアテナと認めて教皇に叛意を示した。即ち星矢たちにとって心強い味方なのだ。この獅子宮は妨害されることもなく、すんなり通過できるであろうと星矢は考えていた。
そんな星矢を待ち受けていたアイオリアの視線は冷たかった。下の者を厳しく指導する時も、常にその奥側に優しさを含ませていたのに。日本に刺客として赴いてきた時にも、決して相手を卑下する気持ちを瞳に浮かべてはいなかった。そのアイオリアの物とは思えない程、冷酷な色を帯びていた。
「アイオリア……どうしたんだ？ 通してくれ。今はアテナを救うため、一刻を争うんだ」
「そうか。なら尚の事、お前を通す訳にはいかんな。偉大なる教皇猊下の名の下に……ペガサス星矢、貴様を葬ってくれる」
「何だって!? 何を言ってるんだ、アイオリア！ 教皇は幼いアテナを殺害しようと企み、その罪をアンタの兄アイオロスに着せた極悪人。そして日本において全てを知ったアンタは、沙織さんをアテナと認めて忠誠を誓ったじゃないか」
アイオリアの変心が、その意図が分からない。だからこそ星矢は、一言一言に思いを乗せて語った。そんな星矢を、アイオリアは鼻で笑う。
星矢は、こうも考えた。アイオリアには何かしらの考えがあって、それで教皇に寝返った振りをしているのではないかと。しかし、アイオリアの目付きや態度は、演技とは思えない程、記憶の中の本人とはかけ離れていた。それに演技とはいえ、誇り高きアイオリアが悪を賛美するなど決して考えられないことだ。
戸惑い、迷っている星矢の頭にアイオリアの手が素早く伸ばされる。髪の毛をグイと引っ張ると、自分と同じ目線にまで持ち上げる。
「貴様ごときガキが、教皇猊下にお目通りできると思うなよ？ そして、この私を倒せるなどという思い上がりもな」
悪態を付くと、アイオリアはゴミでも放るかのようにして星矢を投げ飛ばす。かろうじて受け身を取りながらも、思いも掛けない物言いに対して半ば呆然としてしまった。まるで信じられないといった目付きでアイオリアを見上げ、返されてくる嘲りの視線に再度驚愕してしまう。
「ち、違う……俺の知るアイオリアとは、断じて相手を軽んじたりする男ではない。目の前にいるのは……だ、誰なんだ？」
見掛けはアイオリアそっくりでありながら、内面は全くの別人。しかしながら、内側から滾らせている小宇宙の厚みもまたアイオリアが持ち合わせている物と同様。とすれば、やはりこれは本物のアイオリアなのだ。聖域でも随一と称えられる屈強さを誇った男なのだ。そのアイオリアが、なぜ裏切ったのか――。咄嗟に星矢は、諸悪の根源である教皇の仕業を考えた。
十二宮を越えた先にある教皇の間にて、教皇は駆け上がってくる青銅聖闘士たちの小宇宙を感じ取っていた。その先頭を行く者の足取りが止まっていることをも、的確に掴み取っていた。
「ペガサスめ、今頃は獅子宮に着いた頃であろうか。だが、その奇跡の進軍もこれまでよ。獅子宮で待ち受けるアイオリアは、お前の知るかつての男とは別人……異なる人格に支配されている故な」
教皇は一人、玉座に深く腰掛けて低い笑い声を漏らした。さも満足な様子を作り出している要因は、アイオリアのアテナに対する逆心に他ならない。その事について委細を承知し満足しているということは、アイオリアの変わり身に教皇自身が関わっていることを意味していた。
「いかに余の力が完璧に近づきつつあるとはいえ、アイオリア程の闘士に術を施せるかどうかは賭けであった。賭けに勝ったのは、余だ。伝説の魔拳、ついに完成するに至ったぞ」
仕掛けた相手の頭脳に作用を与え、脳神経を直接操って支配下に置く魔拳――幻朧魔皇拳。
それを食らったが為にアイオリアは、教皇の命令を忠実に聞く尖兵となってしまった。そればかりか、かつて抱いていた誇り高き信条までも奪われ、今や新しき人格を植え付けられるに至ったのだ。催眠状態と呼ぶには、余りに無慈悲で残忍な所業を受けたアイオリアを救う手立てはあるのであろうか。
それを知るのは術を仕掛けた教皇本人のみであり、教皇が自らの意思でアイオリアを解き放つことなど望むべくもない。そしてアイオリアが操られている事、それが教皇の仕業であることを知っているのも教皇一人なのだ。
「仁・智・勇において比類なきアイオリアが、完全に余の配下となったのだ。思えばデスマスクは智と勇には優れていたが仁に乏しく、シュラは仁と勇はあれど智に劣り、アフロディーテは仁と智なら他に勝るものの勇に欠けていた。とうとう余は、完全無欠の駒を手に入れたのだ」
「アイオリア、目を覚ませ！ アンタはきっと、教皇の悪巧みの餌食にされてしまったんだ！」
「愚か者めが。私、レオのアイオリアは自らの意思で教皇猊下に仕え、その悲願を達成する助けとなっているのだ。命乞いなら、もう少しマシな台詞を選ぶのだな」
まるで聞く耳を持たないアイオリア。彼を正気に戻すには、強引ではあるが一発ぶん殴ってやるぐらいの覚悟を持たなくてはならない。そう意気込んで星矢は歯を食いしばってアイオリアの隙を窺う。そんな意図が読めたのか、アイオリアが星矢を愚弄するような笑いを上げる。
「たわけた事を考えたものよ。貴様ごとき青臭いガキに、私の拳が見切れると思うのか？ そうら！」
アイオリアの肩先で、何かが光った。それを星矢が認識するより早く、星矢はペガサスの聖衣を吹き飛ばされていた。星矢自身の体には触れないよう手加減をして、見事に両肩と両膝のパーツだけを弾き飛ばされたのだ。
ダメージはおろか、肉体には何の衝撃さえ掛かってはいない。サイコキネシスかとも疑った。日本で相対した時、その尋常ならざる念動力も見せつけられたのだから。だが、金牛宮のアルデバランがそうであったように、黄金聖闘士の限りなく光速に近い拳によって弾かれたのであれば説明はつく。
「今のは、まさか……アイオリアの……」
その正体を星矢が言い当てる間も無く、獅子の爪牙は襲い掛かってくる。いや、今はまだ撫でつけて弄んでいるに過ぎない。ペガサスの聖衣は次々とパーツを宙に舞わせ、とうとう星矢は身ぐるみ剥がれてしまう。その間、星矢の目には小さな光の点滅しか目に映らない。拳を放つためにアイオリアが構えを取る姿さえ、見て取ることが出来なかった。
「これが私の力だ。音速止まりのお前の流星拳は、どんなに足掻こうとも一秒間に千発も繰り出せまい。だが……このアイオリアの本気の拳は、マッハ百万。一秒間に放てる数は、億の桁にまでいくのだぞ。名付けて、ライトニングプラズマ」
歴然たる力量の差。アイオリアの説明が誇張でない事は、まざまざと見せつけられた光速拳によって実感できる。かつて敵対した白銀聖闘士のアステリオンは、マッハ一万の動きを持っていた。そのアステリオンにさえ、星矢は手も足も出なかったのだ。黄金聖闘士の中でも稀有な技量を有するアイオリアに抗する術など、果たして見つかるのであろうか。
「遊びは、ここまでだ。お前の後を追って、この獅子宮に近づいてくる者の小宇宙を四つ感じる。いかに雑魚といえど、束になられては面倒だ」
「……四人？」
そんな暇は無いとはいえ、星矢は首を傾げた。数が合わない、と言いたげだ。だが、そんな質問に答えてくれるような優しさを、今のアイオリアは持ち合わせてはいない。冷酷な微笑を浮かべると、顎で星矢に指図をする。
「さっさと聖衣を拾って身につけろ。お前を完膚なきまでに叩き潰すには、聖衣ごと砕いてやったほうが効果的だからな」
余裕ではない。絶望を示す予告だ。数分後、いや数秒後の自分の姿を無意識に予期しながら、星矢は言われるがまま震える指先で聖衣を拾い集める。惨めな程、血塗れとなって横たわる自らの姿をよぎらせながら。
話は、少し前に遡る。星矢たちが一番目の白羊宮を発った、ほんの少し後だ。聖闘士の訓練生たちの宿舎。その石造りの一室で、カシオスが巨体の背を丸めてベッドに付き添っていた。
「シャイナさん……」
ベッドに横たわるのは、カシオスを数年掛かりで指導し育ててきた女聖闘士のシャイナだ。蛇遣い座の聖闘士として、教皇が放った刺客の一人として日本へと向かい、そして手負いで帰ってきたシャイナだ。
あの日、アイオリアに抱えられて聖域に戻って以来、シャイナは目を覚まさなかった。アイオリアが言うには、治療は施したものの、かなりの深手。ダメージが完治して目を覚ますには日数を要するとの事。尊敬し信頼するアイオリアの弁を信じ、今日までカシオスは寄り添ってシャイナを看病し続けてきた。これまで自分を育成してくれた恩に報いるため。いや、これから恩を返していくためにも、こんなところで死なれないためにだ。
「脈は……正常。熱も……ここ数日、落ち着いてきてる。もう暫くでしょう。俺は、貴方が目を覚ますまで、こうして待っています。貴方の命を守ってみせます」
医療の知識など無い身でありながら、カシオスは懸命に看護を続けてきた。掟によってシャイナの顔には仮面が被せられている。いくら非常時とはいえ、それを剥ぐ事だけは躊躇われた。自分はそこに踏み込む資格など無い人間なのだと、カシオスは自らに言い聞かせて戒めていた。
それがため、汗を拭ってやる事も、顔色を診る事も、経口で投薬する事も出来ずにいた。その事がシャイナの回復を遅らせているとは分かっていても、カシオスにとって何よりも神聖なシャイナの素顔に触れる事だけはしないでいた。
経過を見守りながら、カシオスはずっと不思議でもあった。女だてらにシャイナは戦闘の手練れ。カシオスをしごく時にも容赦は無く、白銀聖闘士の名に相応しい果敢な戦いぶりで知られていた。そのシャイナが、何故ここまでのダメージを負ったのか。あるいはアイオリアから託された際に説明を受けていたかもしれない。だが、あの時は気が動転していた為に会話を覚えてはいない。ただ、シャイナが星矢たち青銅聖闘士の討伐を命じられていた事、アイオリアもその後、同じ任務に発った事だけは聞かされていた。
「星矢……星矢っ……」
無意識ながらシャイナはこうして時折、苦しんでは同じ名を呼び続ける。その名を彼女の口から聞かされる度に、カシオスは苛立ちを覚えた。いっそ耳に指を突っ込んで、鼓膜を突き破りたかった。激しい嫉妬の情念が、カシオスの胸を引き裂いた。
「そうなのですね？ 全ては、星矢が……」
星矢を討伐しに行き、手負いで帰還した事実。今も、うなされながら呼び続ける星矢の名。そして、その星矢たちが十二宮を進んでいる事も耳にした。
シャイナが胸を掻き毟りながら放り出した毛布を、丁寧に掛け直してやる。それを終えるとカシオスは、決心した目付きで宿舎を後にした。嫉妬の想いを上回る程、恨みを宿らせた瞳で十二宮を見つめながら。
再び、獅子宮。ペガサスの聖衣を装着し終えた星矢が、小刻みに震える己の脚を平手で叩いている。そんな星矢に対し、アイオリアは冷酷に満ちた嘲りの眼差しを止めようとはしない。
「殺される準備は整ったようだな。では、改めて見舞ってやるぞ……私のライトニングプラズマをな」
「その前に、アンタを倒してみせる！ ペガサス流星拳！」
敵に対する恐怖は、先手を打つ事で克服する。そうやって星矢は、強敵との戦いを生き抜いてきたのだ。それがレオの黄金聖闘士にまで通じるかどうか、やってみなくてはわからないが、やらないという選択肢はありえない。
流星拳の閃光は、アイオリアの予測を上回った。その手数は千発を遥かに超えている。しかしながら、その内の一発もレオの聖衣にまでは届かなかった。
「な、何だ……今のは!?」
星矢が目撃したのは、幾条もの光の筋だ。それがアイオリアの体の前を行き交い、壁となって流星拳を阻む。その光の筋こそが、ライトニングプラズマの正体である。
「思い上がるなよ。今のは、お前の流星拳に合わせて速度を落としてやったまで。だから、お前にも光の線が見切れたのだ。だが……」
今度のは、本気で放ったライトニングプラズマ。その軌道など、片鱗も見せずに無数の光速拳は星矢の脇をすり抜けると、背後に立つ柱の何本かを塵にした。
見えない。が、確かに実在する攻撃。見えない、見切れないという残酷な事実が恐怖となって星矢の全身を覆う。何故、自分たちはこんなにも実力の違う者たちを相手にしてしまったのか。そんな後悔の念を抱く暇さえ、敵は与えてはくれない。アイオリアは始めの位置から一歩も動く事なく、星矢を更に死の淵へと追い詰めていく。
「さあ、今度はお前の聖衣と肉体がバラバラになる番だ」
アイオリアの右腕から閃光が放たれる。星矢は、またしても光の筋はおろかアイオリアの構えさえ見切ることが出来なかった。その光速の拳は一瞬にして星矢を取り囲むと、星矢の前後左右の床を切り裂いた。進路も退路も阻まれて、星矢は上空へと逃れる。背中にペガサスの翼をはためかせて、頭上へと飛び上がった。だが、広げた翼さえもライトニングプラズマの光線はズタズタに引き裂いてしまう。
「う、うわぁっ」
背中の翼を粉々にされて、星矢は真っ逆さまに落ちないようバランスを取るのに必死となる。その無防備の右脚に向かって、獅子の追撃は止まない。
「ライトニングボルトー！」
アイオリアの拳がヒットするやいなや、星矢の右脚を覆っていた聖衣は一瞬で粉塵どころか光と化す。撃ち込まれた光速の衝撃は、それだけに留まらない。骨は炭となって砕け、肉は飛び散って血液を蒸発させる。
「ぁ……っ～～～」
もはや星矢には、叫び声さえ上げられない。右脚を粉砕された苦痛は想像を絶し、全身から血のような汗が噴き出す。体中が芯から凍えていくのに、右脚の断面だけが焼けるように熱い。
「か、敵わない……。強すぎる……」
星矢は、今になって悟る。日本でのアイオリアや金牛宮のアルデバランが、どれだけ手加減してくれていたのか。しかし、それを理解したところで遅すぎる。うずくまる星矢を冷酷に見下ろす悪鬼の眼光を前に、星矢はただ死を待つことしか出来ないのだ。
星矢がアイオリアによって追い詰められている獅子宮に、仲間たちもようやく到着した。紫龍と瞬は石段を並んで駆け上りながら、両目に映る獅子宮の入り口を目指した。
「よし、突っ込むぞ、瞬！」
先程から、星矢の小宇宙が弱まっていくのを感じていたのだ。二の足を踏むことなく、両者は宮へと突撃する覚悟でいた。その覚悟を、体ごと吹っ飛ばす衝撃が宮の内側から飛んできた。
「な、何だ今のは……」
「入り口まで飛んでくる、この衝撃……黄金聖闘士の小宇宙に間違いない」
その小宇宙には、明確な殺意が込められていた。星矢から、レオのアイオリアは味方だと聞かされていたはずなのに。石段からの落下をなんとか免れた二人は、足場を確かめるようにして立ち上がる。その背後に、いつの間にか巨躯のギリシア人が立っていた。
「何者だ、お前は？ 教皇の差し金か？」
「今の拳……アイオリア様の業か」
紫龍の問い掛けなど耳に入らないかのごとく、男は獅子宮を見上げて呟いている。そして、覚悟を決めて足を踏み出す。聖衣も身に着けていない癖に、無茶はするなと紫龍が男の肩を掴む。
「待て！ 獅子宮の中には殺気を宿した黄金聖闘士が待ち受けている。死にに行く気か？」
「邪魔をするな。このカシオス、何が何でも星矢を……」
言い終わらない内に、光の瞬きが獅子宮から発せられる。先の衝撃波が来るかと、紫龍と瞬とが咄嗟に身構える。その隙をついてカシオスは、宮の中へと単身駆けていった。
意気込んで乗り込んでいったカシオスは、その奥まで辿り着いたところで息を呑んで立ち尽くしてしまった。鮮血淋漓と横たわり、痙攣する星矢の姿に恐怖した。己も、アイオリアの手に掛かって同様になる事に対する恐怖ではない。星矢を亡くした時、一番悲しむことになるのは誰なのか。それを瞬時に想像してしまい、その人が悲しみに暮れて涙するのを想像してしまい、カシオスは絶句した。
「う……う、うおおおぉっ」
思うように声が出てこない喉を震わせて、言葉の代わりにカシオスは咆哮する。うつ伏せに倒れる星矢。それに止めを刺しに来たはずなのに、その脇を通って一心にアイオリアへと向かっていく。よもやの行いに、アイオリアも虚を突かれて肩を掴まれるのを許してしまう。
「何のつもりだ、カシオス？ お前ごとき雑兵が黄金聖闘士の前に立ちはだかるなど、無礼の極みだぞ」
てっきり仲間が駆けつけてくれたのかと思っていた星矢も、倒れ伏せながらカシオスの姿に目を見開いた。彼が、あれほど誇りに思い、願っていたペガサスの聖衣。それを手に入れた自分を助けてくれるなど、想像の範疇を越えていた。
聖衣の争奪戦は、正式かつ公平なものであった。とは言えども、ギリシア人として聖闘士の神話を聞いて育ってきたカシオスの感情を鑑みれば、星矢にだって理解はできる。余所者の星矢に敗れ、輝かしい聖衣を日本へと持ち出されてしまった。カシオスにとって星矢は、恨みこそすれ命を助ける義理など無いはずなのに。
「失せろ、カシオス。お前なぞ、相手にする時間も惜しい小物」
「どきません！ いつかアイオリア様がおっしゃった一生に一度の日……俺もずっと、それを探していた。今日が、その日なのです！」
「なら、その今日限りの命を抱いて死ね！」
瞬間、カシオスの胸から背にかけて大きな風穴が開いた。そこから肉片や血液など飛び散りはしない。全ては細かな光の粒となって噴出され、カシオスは物言う間もなく仰向けとなって倒れる。
「カ……カシオス～……」
目の前で凶行を見せつけられて、星矢も目を見開いた。両者とも、知らぬ間柄ではない。よく見知った人物同士なのだ。親しかった人物に、競い合った相手を殺されたのだ。怒りとも悲しみともつかない思いが、星矢の胸の奥を衝く。それと同時に、星矢は片足だけで立ち上がると、先程のカシオスにも引けを取らない程に喉の底から雄叫びを上げる。
「うああーっ！ アイオリアーッ！」
一瞬ではあるが、アイオリアの意識は止まっていた。そう、肉体の動作に留まらず、思考の一切を停滞させていた。それが星矢の叫びを聞いて意識を取り戻した。未だ洗脳下にある意識を。
「アイオリア！ これ以上、お前をっ」
「何のつもりだ、星矢？ 貴様ごときの戒めも解けぬ私だと思うのか？」
アイオリアが自失している間に、星矢はアイオリアの背後に回り込んでいた。そして羽交い絞めにする。アイオリアとの体格差では、すぐに振り払われてしまうであろう。それを防がんと、星矢は死にもの狂いで藻掻きしがみつく。
「もう、たくさんだ！ これ以上、俺の目の前でアンタの手を汚させはしない！ 俺の心を踏みつけさせはしない！ 俺の全力をもって……全魂を賭けて、アンタを元通りのアイオリアに戻す。俺の憧れだったアイオリアに戻してみせるんだ！」
決死の覚悟で叫び続ける星矢の言葉も、今のアイオリアに届きはしない。意味を解そうという努力すらせず、ただただ鬱陶しいとしか感じられない。そろそろ本気で振り解いてやろうと力を込めたところで、視線を獅子宮の入り口方面へと向けた。そちら側から、星矢の名を呼ぶ二つの声がしたからだ。
「お前の仲間の青銅どもか……面倒な！」
死に瀕したカシオスと手負いの星矢だけなら、何も問題は無い。だが、その星矢が背中で暴れて引き剥がすのに手こずっている。この無防備な状態を、更に二名の闘士に晒すことになっては万が一という事もある。
「いつまでも貴様一人に構ってはいられぬ。今すぐ私の背中から剥ぎ取って、カシオスの後を追わせてやるぞ」
「いやだ！ アンタを正気に戻すまでは……俺は絶対にアンタを放さない！」
「この上、何が出来るというのだ？ 貴様ごとき片足の無力なガキに……」
「カシオスは、己の命さえも投げ出したのだ。翼をもがれようと……脚を失おうとも……俺は羽ばたいてみせる！」
最後の咆哮と共に、残された星矢の左足が床を力強く蹴った。その勢いは、星矢の背中に小宇宙の翼を与えた。瞬間的にではあるものの、浮かび上がるスピードは確かに光速へと近づいていた。その自らの負傷も厭わない命懸けの戦法に、星矢は残された己の全てを託していた。
「ペガサスローリングクラッシュ！」
アイオリアを抱え込んだままの星矢の身体は、天井すれすれでトンボを切る。頭から真っ逆さまに落下すれば、先に硬い獅子宮の床へと頭を打ちつけるのは長身のアイオリアの方だ。次の瞬間、地も割れんばかりの轟音が獅子宮全体へと響き渡った。
その音を頼りに、紫龍と瞬も星矢たちの下へと駆けつけてきた。そこには倒れ込む三人の人影があった。その中で、真っ先に起き上がったのは黄金聖衣を纏った男だ。反射的に、紫龍と瞬は身構える。ところが男の視線は、二人にではなく足元の星矢へと優しさと申し訳なさを込めて送られた。
「星矢よ……お前の覚悟、確かに受け取ったぞ」
「ア、アイオリア……やっと、目を覚ましてくれたんだな？」
自分を見下ろす温かな瞳も、掛けてくれる言葉に含まれる響きも全てが星矢のよく知るアイオリアのものだ。その事に心から安堵する一方で、不思議でもあった。
「俺の今の攻撃……アンタほどの聖闘士が、受け身も取れないとは思えない。まさか、アンタの洗脳は……」
星矢の最後の攻撃の前に解けていたのではないか。星矢は、そう推察していた。操られていた事も含め、星矢を足止めし、カシオスを手に掛けた事に対する罪滅ぼしをしたのではないかと。
魔拳の洗脳を解く術。標的を戦闘マシーンと化す術となれば、それが解除されるのは標的の前で人が死んだ時に他ならない。しかし、アイオリアの場合は違う。彼に本来の己を取り戻させたのは、その目に映った自分自身だ。アイオリアになりたいと願った少年たちの心なのだ。その心が、かつての自分の姿となってアイオリアの網膜に映り、脳へと達していった。それがアイオリアの頭脳を解き放ったのだ。
アイオリアの右手に込められた黄金の小宇宙が、星矢の失われた右脚へと照射される。それは、かつてシャイナの背の傷をも塞いだ再生の力だ。残念ながら聖衣の復元までは叶わないながらも、星矢の右脚は元通りとなって太腿から伸びている。
その右脚が機能し出すと、星矢は真っ先にカシオスの所へと駆けていく。自分にしてくれたように、ポッカリと開いたカシオスの胸にも治癒の光をと懇願したかった。だが、それが不可能なのは誰の目にも明らかだ。心臓は吹き飛ばされ、僅かに残った小宇宙によって繋ぎ止められた生命が、瞼と唇とを微かに震わせる程度にしかカシオスの肉体は動いていない。
「死ぬな、カシオス！ お前は、これからもシャイナさんをっ……」
涙のために明瞭でない声で星矢は叫ぶ。それだけの生命力が戻っているのなら、星矢の身は安泰であろう。カシオスがこの世を去るにあたっての不安は消えた。そうなれば、末期の瞬間に瞳に焼き付けておきたい人物は別にいる。それは憎き星矢でもなければ、思慕深きシャイナでもない。男として死ぬ以上、男としての道を示してくれた人物を仰ぎ見たいとカシオスは願った。
「アイオリア、さま……俺は……あ、あなたに……」
認めてもらえたか――。そんな願いが、絶え絶えの息の下から聞こえてくるようだ。もはや何ら力も残されていない手を取った黄金の獅子の両目が、水滴のために揺れて見える。
「このアイオリア、地上に生を受けて七千五百日、未だカシオスを超えるほど義と愛に命を捧げた熱き男を知らぬ」
最後の最後で、一番欲しい言葉をもらえた。数年来、ずっと待ち続けてきた言葉が己の耳に入った。そんな満足感から、カシオスは笑って目を閉じた。周囲の四人は、ただただ沈痛な面持ちで見送る。これからは天上に輝く星の一つとなって、見守ってくれと。お前が命を賭して守ろうとした、深き愛を。
一人の勇者の命が尽きると同時に、火時計の五番目の灯も消え失せた。
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