「黄金聖闘士」編
第七話 天秤宮
「待て、アンドロメダ」
兄弟たちを置いて、一人先へ進もうと決心した瞬の背中に声が届く。親しんだものではないが、聞き覚えのある声だ。振り返ると、そこには金牛宮で出会ったタウラスの黄金聖闘士アルデバランの姿があった。
「今、ここで巨大な二つの小宇宙が弾けるのを感じた。一つは、確かにシャカの物に間違いない」
瞬の方へと歩み寄りながら、アルデバランは冷静に周囲を窺う。倒れているのは、数時間前に自らに挑んできた星矢と紫龍だ。もう一人いた氷河の姿は無く、その後に通って行った一輝もまた。そして何より、ここを護るはずのシャカがいない。アルデバランは、ただ一人残った瞬の細い体を驚きをもって眺め、喉の奥から唸った。
「むう……まさか、シャカをも退けるとはな」
「僕の力ではありません。兄さんが……一輝兄さんが、一人でシャカに挑み、相討ちとなって……」
最後の言葉は詰まった。そこにいかなる想いが込められているか、アルデバランも機敏に察知した。
「そうか……。あのフェニックスには、並々ならぬ闘志を感じた。だが、それだけでシャカと互角に渡り合えたとは到底思えん。フェニックスにそれだけの想いを……小宇宙を抱かせたのは、お前たちの存在があったからこそだろう」
アルデバランの視線は、いつしか瞬から外されて星矢と紫龍の死に顔へと移っていた。その死を悼み、哀れに思っている眼差しだ。そこには、二人を何とかして蘇らせてやりたいという願いさえ込められている。一人で取り残された瞬を不憫に思ったからではない。神にも近きバルゴのシャカを相手にしても、一歩も引かなかった一輝。その一輝の不屈の闘志を支えた、彼の兄弟たちの生が尽きるのを惜しんだ為だ。
星矢たちは、聖域に攻め込む者。アルデバランは、その聖域を守る者。真逆の立場にありながらも、アルデバランは星矢たちを助けてやりたかった。そこに理由を求めるのであれば、その回答は一つしか有り得ない。
「真なる小宇宙は、正義の名の下……我らがアテナの下にしか宿らない。その正義の闘士を、むざむざと死なせて何がタウラスの黄金聖闘士か」
一つの確固たる意志を抱いて、アルデバランはその場にしゃがみこんだ。星矢と紫龍の体を仰向けに直すと、瞬の見守る前で彼らの胸の上に左右の手を片方ずつ乗せる。たちまち星矢と紫龍の身体には、アルデバランの腕を通して温かく力強い小宇宙が流れ込んでいく。
「こ、これは……」
血の色を失くしていたはずの星矢たちの体に、生気が宿っていくのが瞬にも見て取れた。その反対に、術を施すアルデバランの巨大な小宇宙が減少してく事も。
「さあ、目覚めよ……天翔けるペガサスとドラゴンよ。このアルデバランの生命と引き替えにな」
その言葉の通りに、星矢と紫龍は瞼を開いて処女宮の天井を見上げる。開いた唇からは、生命力に満ちた息遣いが聞こえてくる。二人は蘇ったのだ。消滅したはずの星命点が、はっきりと輝いている。その星命点を復活させたのは、アルデバランの奇跡の小宇宙だ。
「アルデバラン……あんたは？」
気が付いた星矢は、それまでの状況の一切をすっ飛ばして口走った。自分たちをあれだけ苦しめたアルデバランの小宇宙が、半減していることに驚きを隠せずに。紫龍も同様であったが、星矢よりは冷静だ。すぐさま処女宮の様子を探ると、シャカが姿も小宇宙も消していることを確認する。
「察した通りだ。バルゴのシャカは、もうここにはいない。お前たちの仲間の一人であるフェニックスが片を付けた」
アルデバランの説明を受けて、星矢も紫龍も唖然となってしまう。瞬も涙ぐんで一輝の最期を思い浮かべていた。
血を分けた兄弟でありながら、数年ぶりに再会した一輝の目は憎しみで満ち溢れていた。その事に対する認識の誤りを、星矢は確かに一輝の口から聞いた。一度は拳を交えた一輝が、こうして自分たちの手助けに現れてくれていた。そして、在りし日のように微笑みを交し合う事も出来ずに死に別れた。
「俺たちは、その死を見届けることも出来なかったのか……」
「違うぞ、星矢。俺たちは、喜ぶべきじゃないのか？ あれほど人の変わってしまった一輝が、もう一度昔の一輝に戻って、俺たちの為に命まで懸けてくれたことを」
「そうだよ。散っていった瞬間、兄さんの小宇宙は確かに僕に告げていた。例え一人になったとしても、最後まで希望を捨てずに戦い抜くようにって。そして、アテナを救い出すようにって」
互いを支え合い、励まし合う青銅聖闘士たちに、アルデバランは自分たちの姿を重ねて見ていた。あれは、もう遠い日の過去。それぞれの修行地での訓練を終え、初めて聖域を訪れて晴れて黄金聖闘士に任命された日。同じ宿命の下に生まれた仲間たちと、初めて集った日。アテナの下で、地上の平和のために戦おうと誓い合った掛け替えのない日だ。
「俺もまた、お前たちの奉じる城戸沙織をアテナと認めたぞ。フェニックスは、見事にセブンセンシズに目覚めた。そのフェニックスと同じ熱さを抱いているお前たちが信じるのであれば、それが真なるアテナでなくて何だというのか」
強くはっきりとした意思が込められた口調と眼差しで、アテナへの忠誠を語るアルデバラン。悲しみに暮れていた星矢の表情にも、明るさが差した。これでまた一人、強力な仲間を得ることが出来たのだ。
「そういえば、どうしてアンタはここに？」
「なに、アイオリアが雑兵の遺体を抱えて獅子宮から下りてきたものだからな。少しばかり様子を見に来たまでよ」
静かに語るアルデバランの言葉の内、半分は照れ隠しであると瞬だけが見抜いた。アイオリアがカシオスを連れて下山した時間を考えてみよう。黄金聖闘士のスピードをもってすれば、アルデバランはもっと早くに処女宮に着いているはずではないか。恐らく、青銅聖闘士の小宇宙が全て消えたのを感じて金牛宮を飛び出してきたのであろう。
「お前たちの方こそ、キグナスはどうしたのだ？ 奴の小宇宙は、俺の隣の宮に飛び込んで以降、音沙汰なしだ。その双児宮にもキグナスの姿は見えなかったが……」
そのことに関して、一番うまく説明が出来るのは瞬だ。キグナス氷河がジェミニの技によって異次元世界へと飲み込まれてしまったこと、その後は十二宮の何処かへ落ちたであろうという憶測を、瞬は皆に話した。
「そういうことであれば、俺は今一度、下りて確認してこよう。何か見落としがあったやも知れぬし、どのみち元の金牛宮へと戻らねばならぬ身だからな。お前たちの今の実力であれば、この先へ行かせても乗り越えられるだろう。ただし、十番目の宮で控える男にだけは気をつけろよ。奴こそ、アイオリアやシャカと並ぶ実力者……光速を超えた拳を持つ最後の一人だからな」
そう言い残すと、アルデバランは星矢たちに広い背を向けて去っていった。その背中に頼もしさを感じつつ、星矢たち青銅聖闘士は次なる宮を目指してアルデバランとは逆方向へと進む。アルデバランの背の、その頼もしさとは裏腹に小さくなってしまった小宇宙を感じながら。
第七の宮・天秤宮に足を踏み入れた途端、三人は異変を感じ取った。
「どうなっているんだ？ 確かに、ずいぶんと高所まで上ってきたとはいえ……この寒さは異常だぞ」
「ねえ、紫龍？ 本来なら、この天秤宮を守護しているのは……」
「ああ、俺を指導してくれた老師が預かる宮だ。しかし、老師からは聞かされていないぞ。天秤宮の内部が、こんなにも冷気に満ちているなんていう話は」
冷気。天秤宮を包み込む凍える程の寒気。そのことを考えるにあたって、三人は咄嗟に一人の人物について思い描いた。自分たちがよく知るキグナス氷河。双児宮ではぐれてしまった氷河こそ、凍気を自在に操る氷の聖闘士であったではないか。
心当たりを得るや否や、三人は天秤宮を奥へと突き進んでいった。この天秤宮の中で、氷河は何者かと出会ったはず。老師ではない何者か――恐らく、それは黄金聖闘士の誰かであろう――と戦闘状態に突入し、天秤宮全体を凍らせるだけの技を放ったのであろう。であれば、今、氷河の小宇宙を微塵も感じられないのはどういう訳なのか。
「氷河！」
三人が三人とも、同時に叫んだ。天秤宮の真ん中で、意識を失って倒れる氷河の姿を目の当たりにして。
床に仰向けとなって倒れる氷河には、目立った外傷は無い。にも拘らず、氷河の肉体は死に瀕していた。氷の聖闘士と謳われた男が、あろうことか全身を凍りつかせて倒れているのだ。
「氷河……ねえ、目を開けてよ、氷河！」
「やめろ、瞬……今の氷河の身体は完全に凍っている。無理に揺り動かせば、バラバラに砕け散ってしまうぞ」
「しかし、俺には信じられないぜ。氷河が防御もままならぬまま、こうして凍り付いちまうなんて……」
氷河が纏うキグナスの聖衣は、永久氷壁の中で幾星霜も眠りについていた逸物だ。氷河自身もまた、シベリアの極寒地で幾年も修行を重ねてきた男。おいそれと冷気に参るはずがないのだ。考えられるとすれば、氷河が相手取ったのは氷河以上の凍気を有した闘士。そんな人物は、世界広しといえど一人しか思い浮かばない。
「氷河を鍛えたという師匠……」
「水瓶座を司るアクエリアスの黄金聖闘士……カミュ、か」
日本を発つにあたって、氷河から話には聞いていた。水と氷を意のままに操る静かなる聖闘士。つい先日、十代に別れを告げたばかりの若人。しかしながら、黄金聖闘士となって早十年を越す熟練でもある。その小宇宙も凍気も、弟子である氷河とは比べ物にならない程の大きさであると、他ならぬ氷河の口から聞かされたのを三人は思い出していた。
そのカミュであれば、氷河を完膚なきまでに凍り付かせる業も可能であろう。否、アクエリアスのカミュをおいて他には考えられない。そのカミュが、わざわざ教皇の間に近い自分の宮から天秤宮まで下りてきて氷河を始末したのだ。氷河がジェミニのアナザーディメンションに掛けられ、双児宮から天秤宮へ飛ばされたことを察知して。
「噂通りの実力ってことか。そのカミュとやらの凍気は」
「ああ。氷河でさえ、このざまなのだ。俺たちは、より慎重に掛からなければならないぞ」
やや非情ではあるが、星矢も紫龍も変わり果てた兄弟の姿を案じるより、これから出会う敵の脅威に対して気を配っていた。氷河は、身をもってアクエリアスの恐ろしさを伝えてくれた。その情報を無駄にせず、自分たちが見事アクエリアスを攻略する事こそが氷河への弔いになると信じて。氷河に覆いかぶさるようにしていた瞬だけが、別の考えを抱いていた。
「でも、待って……。氷河の小宇宙は、完全には消えてはいないよ」
その一言に、星矢たちもハッとなった。瞬の頭越しに氷河の顔を覗き込んでみる。呼吸音らしきものは聞こえない。睫毛の先まで霜が降り、顔色は蒼白で死人そのものだ。氷河の胸に手を置いている瞬だけが気付いていた。
「間違いないよ……氷河の心臓は、微かにだけど、確かにまだ動いている。師を相手に、一度は敗北したかもしれない。けれど氷河の肉体や魂は、完全に諦めた訳じゃないんだ。懸命に生きようとし、もう一度、カミュに挑もうと頑張っているんだ」
「しかし、俺たちには時間が無いんだぜ。氷河のことは心配だ。生き返る可能性があるっていうんなら、それに賭けたい。けれど、その間に火時計の灯が全て消えてしまっては……沙織さんの命が尽きてしまっては、元も子も無いんだ」
今は大局を見据え、優先すべき事柄を見定める時だ。恐らく、氷河もそれを望んでいるはず。言葉では分かっていながら、瞬には兄弟を見捨てることも出来なかった。ついさっき、目の前で何の抵抗も出来ないまま兄の死を見送ったばかりだからこそ。
「それでも……僕は氷河を信じている。氷河は決して、このまま終わるような男じゃない。この十二宮の戦いにおいて、氷河が果たすべき使命があるはずなんだ。その為にも、僕は……」
星矢たちの知る瞬とは、こんなにも自分の意見をはっきりと述べる少年ではなかった。いつでも一輝の背に隠れ、じっと成り行きを見守ることしか出来ない、か細い子供だった。それが氷河の意思を尊重し、その為に強く懇願する程になろうとは。
瞬が自分の成長を、一番見せたい相手は一輝であろう。その一輝を永遠に失った今、瞬は自らの覚悟を誰に示したら良い？ 星矢と紫龍も、無言で瞬に応えた。その機微を悟り、瞬は慈しみ深く、それでいて意志の強い眼差しでもって二人を見上げた。
「ごめん……僕も氷河も、必ず追いつくから。二人は、先に行ってほしい。僕には、まだ死ねない理由がある。氷河だって同じだ。そして僕たちには、もっと優先させるべき使命もある。今は、その使命を二人に任せたい」
この中では最年少である瞬が、まるで弟を諭すような口ぶりで星矢たちを促す。それだけの懸命さが、瞬の言葉には現れていた。瞬の想いを受け止め、氷河の命を信じて、星矢たちも肯んじる。
「分かった。必ず、氷河と一緒に次の天蝎宮まで来るんだぞ」
「信じているぞ、瞬」
星矢と紫龍、それぞれの掌が瞬の細い肩に力強く乗せられる。自分たちは氷河に何もしてやれないが、助けてやりたいという想いは瞬と変わらない。そんな気持ちが、瞬にも伝わった。
瞬たちを置いて走り去り、この天秤宮を抜けようとする星矢たちを見送ると、瞬は自らの小宇宙を高めた。戦闘時のような高め方ではない。先程、アルデバランが星矢たちに施した起死回生の術のように、温情に満ちた小宇宙だ。自身を犠牲にして地上を救おうとしたアンドロメダ王女の神話そのままに、瞬は温かな小宇宙を蓄えた。
「氷河……今の君の体は、ガラスのように脆くなっている。体温を戻させようと強くさすっては、逆に肉体を粉々にしてしまう恐れがある。だから、僕のこの小宇宙を君に与えるよ。そして、君の体の内側から氷を溶かすんだ。僕の力だけじゃない……君自身の生命力によって」
瞬の願い。それは、自己犠牲の思いによってのみ果たせられるものではない。瞬は今、決して自らの命を引き替えにして氷河を救おうとしているのではない。氷河を含め、星矢や紫龍たちと手を取り合って沙織の下へ帰還するために氷河を助けようとしているのだ。その想いは、どこまでも瞬の小宇宙を温かくする。大地の恵みを彷彿させる程に、慈愛に満ち満ちた愛の小宇宙でもって、氷河の肉体は蘇りつつあった。
既に六つの灯を失った火時計を瞳に宿しながら、レオのアイオリアが白羊宮へとやってきた。聖域の中を巡り、反教皇派を募っている最中、どうしても立ち寄りたかった。それは何も、白羊宮で横たわるアテナを案じるばかりではない。そこを守護するアリエスの黄金聖闘士に確かめたい事柄があったからだ。
「俺は、シオンを討つ。その事で、お前に断りを入れに来た訳ではないが……耳に入れておくのが筋だと思ったからな」
平素、他の聖闘士に対してしている口調とは、やや異なる。厳しい中にも親しさが含まれている。十数年ぶりの再会ではあるが、アイオリアにとってムウとはそれだけ気の置けない間柄という訳だ。
「君の決意は、承知しています。また、理解も出来ます。兄君の事を思えば、当然でしょう。ですが……シオンを討つ事は、君には出来ない。それは、この地上にいる誰にも不可能な事なのです」
声を荒らげようとしたアイオリアの言葉は、別の方角から飛んできた怒声に掻き消された。
「どういうことだ、ムウ？ 説明しろ」
二人が振り返ると、タウラスのアルデバランもまた白羊宮を訪れたところであった。一拍おいて、ムウは二人に対して口を開く。
「誤解を与えたのであれば、謝ります。私は別に、君たちの実力を過小評価しているつもりはありません。ただ、あまり過剰な行動は控えた方が良いでしょう。上に立つ者として、不動の精神を忘れる事無く」
アイオリアたちは、悠長な弁に対して尚も言い返したかった。だが、それはムウから窘められた事に反する。感情のまま発言する事は、確かに最上位の聖闘士として下々に示しが付かない。
それでは、この局面においてムウはいかなる算段をするのか。問われる前に、ムウの方から話を切り出した。消えゆく火時計の灯りではなく、より遠くに、より高くそびえる丘を見つめながら。
「我らがアテナは未だ御不予ながら、五人の青銅聖闘士たちも着実に近付いていっています。アテナに危害を加えた……教皇の待つ処へと。私たちは、それを希望の光と信じて待ちましょう」
アイオリアもアルデバランも、心中は複雑であった。さして驚くこともなかったが、それでも掛ける言葉を探しあぐねた。ムウが、きっぱりと教皇に反目していることに対し、半ば意外でもあったのだ。教皇シオンの秘蔵っ子として名高いムウだからこそ。
「それは、つまり……いざとなれば、お前も教皇の間へと乗り込む覚悟があると捉えてよいのだな？」
打算なくアイオリアが尋ねる。よもやムウが、教皇の尖兵として星矢たちを騙し、あえて敵の懐へ送り出したとは思えない。ムウは今、敢然と教皇に敵対している。そのことに迷いが無いことをアイオリアは確かめたかった。
「ええ。私には、君たちより幾分かは敵の本性が見えていますので。ですが、先程も言った通り軽率な行動に出るつもりはありません。また、君たちにも自制していただきたく。それは何も、星矢たちに全てを押し付けるという意味ではなく……」
「他に、何か狙いが？」
同年代であるアイオリアとアルデバランは、幼少の頃からムウが如何に利発であったか鮮明に覚えている。だからこそ、久しぶりに十二宮へと戻ってきたムウの知恵を拝借したいと願っているのだ。
「私は、君たちよりは教皇の間に潜む者の素性を掴んでいます。けれど、未だ確実な事は言えません。不確実な発言で、多くの聖闘士たちを惑わす事など黄金聖闘士にあるまじき失態。ですので、君たちにも少し考えてもらいたいのです。仮定として……もしも、シオンがこの世の住人でないとしたら……」
ムウの口調は、決して悪ふざけの類とは思われなかった。そして、仮定としても恐れ多い内容であった。ここにいるのは、聖闘士の最上級である黄金聖闘士のみ。ムウの弟子である貴鬼も、沙織に付き添って離れている。いわば幹部のみによる寡頭の密議。アイオリアも、言葉を改めて発言に臨む。
「教皇……シオン猊下といえば、かなりのご高齢。いつ、世を去っても不思議ではないと、不敬ながら考えた節はある」
「俺も同意見だ。決して望んでいた訳ではないが、その時に対する備えを忘れてはならないと考えていた」
「では……その備えは、遅すぎたようです。教皇シオンは、既に逝去した身。それも、君たちが考える老衰などではなく……」
含みのある物言いに、聞き入る二人も息を呑んだ。よもや思いもよらない考えであるが、ムウは以前から目星を付けていたと見える。何度となく自問し、ムウなりに調査を続けてきたのであろう。余りに事が大きすぎる割に、ムウは冷静に落ち着いた口調を改めないでいる。
「そう……悪意ある者に命を奪われ、その玉座をも奪われるに至った。そうしてシオンに成り代わった現在の教皇は、何年もの間、幾人もの前途ある聖闘士をたぶらかし、邪悪の一味に引き入れてきた」
「何者なんだ、そいつは？」
ムウの肩を揺さぶらん勢いで、アイオリアが尋ねてくる。その瞳には、隠し切れない憤りが込められている。それも仕方あるまい。間違いなくアイオリアの兄アイオロスは、ムウが語る偽の教皇によって殺害されたのだ。そして、アイオリアは兄の仇の言葉を正義と刷り込まれてきたのだ。その上、仇の正体を見誤って別人に敵意を向けていたとあっては、正しくムウの言う失態に他ならない。
アイオリアの真剣な眼差しを正面から見返して、ムウは静かに語る。アイオリア程はっきりと感情を表している訳ではないものの、その語気は僅かに強まったようにも聞こえる。
「シオンといえば、かつては聖域において無敵の強さを誇ったと言われる屈強の闘士。私たちが知るのは、その全盛期を随分と過ぎてからですが、それでも八十八の聖闘士の頂点に君臨するに相応しいお方でした。もし、他の者がすり替わっていたとしたら、その力の差からすぐに露見するはずです」
「つまり、元の教皇にも引けを取らないだけの闘士の存在を考えろと？」
アイオリアの言葉に肯んじてムウは続ける。いよいよ核心に迫ったとして、アイオリアとアルデバランの表情も険しさを増してきた。
「そうです。そして、ここ数年から十数年の間、聖域で姿を見せなくなった人物に限ります。常に教皇の間にいるのであれば、衆目に晒す暇などありませんから」
「まさか、オルフェが!?」
真っ先に浮かんだ名前を、アイオリアが叫ぶ。自分も全く同じタイミングで、全く同じ名前を心の中で呼んだにも拘らず、アルデバランは慌ててアイオリアの言葉を否定した。
「いや、オルフェに限ってそんな事は……」
信じられない、といった具合にアルデバランの顔色は冷め切っている。だが、どうしても思い浮かんでしまうのだ。黄金聖闘士にも並ぶ程の実力を秘めたライラの白銀聖闘士の名前が。
思えばオルフェとは、実力もさることながら言動も正義感に溢れ、優しい心根を身に付けていた。だからこそ、教皇の振りをしても容易に気が付かれる事はないのであろう。だからこそ、にわかには信じ難い。それだけ仁徳を尊ばれた人物が、果たして弑逆と簒奪に手を染めるであろうか。
「しかし、ここ数年で聖域から行方をくらませた聖闘士といえば……。いや、結論を急ぎすぎたか。オルフェの前にも、いたはずではないか」
「そうですね。しかも、自身の聖衣ごと出奔したオルフェよりも不可解と言えるでしょう。聖衣のみを聖域に残したまま、十数年前……何故か忽然と十二宮から姿を消した聖闘士……。そんな人物が、確かにいたはずです」
肝心な事を忘れていた、と言うようにしてアルデバランは自身の顔から更に血の気を引かせる。その想像に、おぞましき骨肉の争いを浮かべてしまって。
「では……では、やはり一番考えられるのは……」
清廉潔白であれとアテナから戒められた身であるが故に、想像の域を超えていた。まさか聖域の中に、それだけの野心を抱き、また体現できる者がいたとは。あの悪辣としたデスマスクの非道すら足元にも及ぶまい。そんな人物が、教皇のすぐ側にいたという想像に言語を絶した。
だが、今は勇気を持ってその者の名を言い当てる時。そんな風にムウは、二人に視線で促した。
「アルター……」
アイオリアとアルデバランとが、同時に呟いた。大きく頷いて、アイオリアが言葉を足していく。両者の間で意見が合致した、その聖闘士について。
「そうだろうな。祭壇座アルターとは、古代から教皇の腹心と定められた聖闘士。まして現代のアルターは、シオン猊下の実弟。聖域の誰にもまして猊下に近しい人物」
そのアルターの聖闘士が、密かに教皇を亡き者として黄金の兜と法衣で真の姿を包み隠して教皇を騙ってきた。それがアイオリア達の推理だ。血の繋がった実の兄を手に掛けてでも権力を手に入れるなどという、おぞましき想像に身震いを覚えた。
それについて、ムウは特に肯定も否定もしない。十数年前、姿を消して息を潜めたのはアルターに率いられていた枢機卿連中も同様ではないかとも言わない。そこまでは、未だムウにとっても不透明なままだからだ。
まさか枢機卿たちが共謀して真の教皇を殺害し、その名を用いて聖域を手中に収めているとも考えにくい。本来、黄金聖闘士の中から教皇を選出する任にある枢機卿に限って。アルター一人の犯行で、枢機卿たちも全員がアルターによって抹殺されたと考える方が現実的だ。だが、いずれにせよ憶測を過ぎない。
「私の話は、あくまで仮定だという事を念頭に置いておいてください。私たちは、あくまで慎重に事を運ぶべきです。最終的な蹶起は、全てが明らかとなってからでも遅くありません。その前にアテナの御身が大事というのであれば、その為に星矢たちがいるのです」
ムウが語り終えると、数秒の間を挟んでアイオリアが応じる。
「……分かった。俺も、あえて星矢たちの手助けはすまい。そうして教皇の目を青銅聖闘士たちに向けさせておく。その間に、俺は信頼できる者たちと共に集められるだけの証拠を白羊宮に持ち寄ろう」
捉えようによっては、星矢たちを見殺しにするとも取れる発言にアルデバランも眉をひそめた。しかし、すぐにアイオリアの真意に気付いて咳払いした。非情な案を先に提示したのは、ムウの方だったのだ。それをアイオリアは、あたかも自分の発案であるかのように明言してみせた。それが、ムウに対するアイオリアの静かなる思いやりなのだ。
アルデバランは、自分がギリシアに来る前からの親友同士であったムウとアイオリアの気脈について、心底羨ましいと思った。どちらも生真面目すぎる性格の為か、大人しい気性の割には衝突を繰り返してきた。その度に仲を深める事が出来たのも、互いを強く想い合う故であろう。一生涯の間、そんな相手を一人でも見付けられたのであれば幸福と呼べる。そんな相手と幼少の頃から一緒に過ごすなど、もはや奇跡の領域だ。
「ならば、俺は元通り金牛宮の番を務めよう。ムウの言うように不動の精神を根付かせてな」
二人に背を向けると、アルデバランは足早に立ち去っていく。その背中の、妙に居心地が悪そうなのが気になった。それ以上に気掛かりな事実に、ムウもアイオリアも先程から肝を冷やしていた。その当人であるアルデバランが去ったことで、ようやく二人は声に出して確かめ合える。
「ムウ、アルデバランは……」
「ええ、気付いています。バルゴのシャカと戦えば、私たちであっても無傷で済むはずがない。それどころか、生きて帰れる保証すら無いでしょう。恐らくは星矢たちの何人かは斃れ、そしてアルデバランは……」
消滅した星命点を再生させるなど、如何に黄金聖闘士であろうと果たすのは困難を極める。まして、短時間で二人も生き返らせたのだ。並大抵の業では成し得ない、などという言葉ですら足りない覚悟がアルデバランを突き動かした。
それは、アルデバランが自らの命そのものを星矢と紫龍に注いだ結果であろうか。はたまた、死者を復活させるという禁忌に対する代価を支払った結果なのであろうか。アルデバランの命は、その小宇宙の絶対量ともども著しく減少していた。
ゼウスの化身であるタウラスの名を冠するに最も相応しい無二の小宇宙が、僅か半分にまで落ち込んでしまった。この先、何十年と生きるであろう寿命を削ってしまった。敗れた青銅聖闘士たちを復活させるという、たった一度の奇跡を起こすために。
その奇跡を目の当たりにした唯一の人物が瞬だ。アルデバランのような奇跡を起こせないまでも、氷河の命だけは何としても救ってみせたい。そんな一途な思いが、瞬を天秤宮に一人留まらせた。
心優しき瞬が、初めて戦闘以外の目的で高めた小宇宙。人と争うより、人を救いたいと願い続けてきた少年の無垢な想いが、冷え切った天秤宮全体を春の日差しで包み込んでいた。大地の女神の祝福による雪解けが、天秤宮にて一つの生命を再生させた。
かつて、その天秤宮でやはり春の芽吹きのような喜びを謳歌したことを、ムウは思い出していた。幸せだった時に浸りたい、などという現実逃避ではない。どうしても今、自然と胸を衝いて思い出されてしまうのだ。
アリエスの黄金聖闘士であるムウが、まだ己が地上に生まれた真の使命を把握する前。そんな事を想像するには幼すぎた頃だ。先程まで話題に上がっていたアルターの聖闘士が、まだ聖域内にて姿を確認されていた時代。とうに成人した現在のムウにとっては、遠すぎる記憶。その記憶の中で、鮮明に憶えている顔と声を浮かべていた。
先代アリエス。その威容を大きな双眸で見上げる時、ムウの心はいつも幸せで満たされていた。その口から直接教えを受ける時、ムウは晴れがましい気持ちで小さな胸を一杯にしていた。その日も、いつもと同じように先代の話に耳を傾けていた。当時、既に無人であった天秤宮にて。
「二百三十年前、ここを守護していたライブラは十八歳と黄金聖闘士の中でも若輩だった。だが、誰よりも雄々しく誰よりも凛として己の務めに臨んでいた。善悪をはっきりと見定め、物事を公平に片付けられるあの男に皆、信頼を置いていた」
その語り口調は古い思い出を偲ぶようでいて、アリエスの目は近くの不安を見据えてもいた。
「現代の黄金聖闘士は、ムウよ……その半数がお前と同い年ぐらいの幼子。当時のライブラの半分にも満たない年端。これからの聖域を支えていく者たちには違いないが、果たして彼のライブラの如き正義の大人物に育つ者がいてくれるのかどうか……」
実際に話を聞かされた時のムウには、先代の話は半分も理解が追いつかなかった。ただ、頭の上に乗せられた掌の大きさに言いようのない安心感を覚え、その腕に抱きついたのみだ。それでも当時から利発であったムウは、意味は分からないまでも先代の言葉の一つ一つを、よく記憶していた。成長するにつれ、その言葉を繰り返すことで意味を深め、自身の行く末について考えてきた。
その先代と自分、二人だけの空間であった天秤宮に訪問者があった。階下の方から聞こえてきた足音に反応したムウは、振り返る前から誰が訪れてきたのか察していた。敬愛する先代に向けるのとは、また違った笑顔が自然と浮かんでくる。踵を返し、春の花のように笑ってみせ、その人物の名を呼んだ。
「サガさまー」
無垢な心をそのまま映し出した、吸い込まれるようなムウの笑顔。両手を広げて自分のいる方へと駆けてくる仕種。それら全てを有りのまま受け入れるがごとく、名前を呼ばれた人物もまた天使を思わせる微笑みでムウに応えた。
それは、遠く昔の記憶。永遠に続くと信じていた、幸せだった頃の思い出。あの日、天秤宮で喜びを分け合った二人と、いつまでも一緒にいられると疑わずにいた過去。その何より大事な思い出を捨て去ることになるかもしれない、此度の戦いの行く末に対してムウは一人、静かに心を痛めていた。
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