「黄金聖闘士」編
第九話 人馬宮
天蝎宮から人馬宮へと続く石段を、四人はゆっくりとした足取りで上っていた。四人とも、それぞれに互いの肩を抱き合っての進軍だ。氷河は、何度も「俺を置いていけ」と懇願していたが、やがて気が付いた。星矢たちもまた、急いで先を進める体ではないのだと。
ミロのリストリクションによって、長時間も縛られた肉体を普通に動かせるようになるには今暫く掛かる。星矢と紫龍の肉体を蝕むダメージは、スカーレットニードルを受けたのと何ら変わりはしないのだ。瞬もまた、大幅に体力と小宇宙とを失った身。全員が文字通りの満身創痍であった。
「みんな、もう一息だ……次の人馬宮が見えてきたぞ」
その人馬宮を本来預かるのは、サジタリアスの聖闘士アイオロス。その彼が世を去ってから十三年、人馬宮は常に無人の状態だ。傷つき疲れ果てた身である四人にとって、残す宮の一つでも無事に通り過ぎることが出来るのは有難かった。
「だが、待て……何か感じないか？ 人馬宮の中から……黄金聖闘士の小宇宙を感じるぞ」
ここまで多くの黄金聖闘士と出会ってきたからこそ分かる。宮の中央で控え、宮の外にまで届く黄金の小宇宙を放つ存在に、早くも気が付いた。そして、不思議にも思った。その強大な小宇宙に、一片の敵意も感じられないからだ。
逸る気持ちも疲労しきった肉体がために、なかなか達成できない。体を引きずらせながら、ようやく辿り着いた人馬宮の中心地点。そこで星矢たちは目撃した。白羊宮という十二宮の麓に置いてきたはずのサジタリアスの聖衣の姿を。
「これは……本物だ。本物のサジタリアスの聖衣が、いつの間に人馬宮にまで……」
しっかりとパンドラボックスに納めていたはずが、独りでに櫃から飛び出してきたのであろうか。腰から下は駿馬の四足、偉丈夫の上半身は弓を携え背に翼を広げている。
果てしなき大宇宙において、たった十二個の輝き。その中にあっても、格別の思いをもって星矢たちはサジタリアスの聖衣を見詰めていた。自分たちが今日、こうして身を投じている戦いの全ての始まりである誇り高き勇者の聖衣を。
「思えば、この聖衣も幼かったアテナ共々アイオロスによって魔手から逃れてきたのだな」
「その聖衣が、こうして自分の宮に戻ってきた。老師が所持するライブラの聖衣を除けば、全ての黄金聖衣が十二宮に集ったんだ」
十三星霜を経て、サジタリアスの聖衣が人馬宮への帰還を果たした。星矢たちを迎え入れた黄金のケイローン像。同じく黄金の弓を構えてはいるが、矢はつがえていない。アテナに仕える聖闘士に例外は無く、射手と呼ばれるサジタリアスも武器は有していないということか。
その事実に、星矢たちはかえって想像を働かせた。弓矢を射るより優れたサジタリアスの拳が、いかなるものであるのかという事に。アイオロスが世を去って久しい今日、サジタリアスの拳は完全に幻と化してしまっている。
その幻の片鱗でも窺えないかと、皆の目は自然と一点に向けられた。
「文字だ……壁に、文字が浮かび上がっているぞ」
聖衣が放った光が、壁の一部に文字を映写している。それに気付いた四人は、壁際まで寄って確認する。光り輝く短い文章は、全てギリシア文字で書かれていた。
ギリシアが発祥である聖闘士の修行過程において、ギリシア語の習得は不可欠である。四人の中で最もギリシア語に慣れ親しんだのは、聖域に六年も滞在していた星矢だ。その星矢の目が、文章の末尾に添えられた署名を捉える。
――ΑΙΟΡΟΣ――
「アイオロス!?」
その名を確かめて、星矢は一字一字を噛み締めるようにして壁の言葉を読み上げる。それが死したアイオロスが遺した言葉だという確信をもって。
「ここを訪れし……少年たちよ……君らに……アテナを託す――アイオロス」
星矢の口を通じて、アイオロスの肉声が心に響くようだ。かつてアテナを邪悪の魔の手から救い上げたアイオロス。死に瀕してもなお、地上に最後の希望を残していった偉大なる先達。聖域が教皇という邪悪の手に落ちた今日でも、地上が滅びずにいられるのも全てはアイオロスのおかげ。そのアイオロスから、四人の少年たちは直に声を掛けられていた。
「ここを訪れし――」
「少年たちよ――」
「君らに――」
「アテナを託す――」
今度は全員で、今一度アイオロスの言葉を口にする。瞬間、八つの瞳から同時に熱いものが流れ出していった。自分たちで発した言葉に胸を打たれ、早まっていく鼓動が後から後から涙を溢れさせていく。
「アイオロス……この言葉を俺たちに伝えるために、貴方の魂は今一度この地上に舞い戻ったのか……俺たちと変わらない年齢で地上から失われた魂が」
わずか十四年と余人は思うかもしれない。だが、例え百年の生命を得たとしても成しえないほどの大挙を、アイオロスが全うしたことを星矢たちは知っていた。アテナを未来へ託すという死に場所を得る事こそが聖闘士の本義である以上、彼の十四年間は何十年分にも匹敵する意義を持っていたのだ。
これは、アイオロスからの贈り物だ。四人の少年たちが、自分自身の足で困難な十二宮の道程を越えてきた。それを麓から、ずっと見届けてくれていたのだろう。だからこそサジタリアスの聖衣、いやアイオロスの魂は人馬宮へと戻ってきたのだ。少年たちの体を突き動かした信念に、己の言葉で報いるために。
少年たちは流涕を堪えることが出来なかった。偉大なる先人から託された一諾に胸を打たれ、とうとうと迸る涙で人馬宮の敷石を濡らした。
嬉しかったのだ。この上ない幸福が、頭の頂から全身へと降り注ぐ心地がした。もしも、この時代に聖闘士として生まれてこなければ――。そうすれば、もっと穏やかに、誰とも争わぬ生き方も出来たかもしれない。代わりに、その自分は果たして世の中に残すことが出来たであろうか。自分が、この地上に生きていたという証を。
かつては父を憎み、運命を呪い、神を罵倒したこともある。だが、そんな自分たちにアイオロスはアテナを託してくれた。己にとって最も大事な存在を。アイオロスは星矢たちを一廉の聖闘士として遇し、聖闘士として地上とアテナのために生きられる道を示してくれたのだ。その想いに、どうして目を背けることが出来よう。
少年たちの胸の奥、彼らの信念を根底から支える最も奥の方で何かが芽生えていた。自分たちの使命を改めて認識し、それを命懸けで果たしたいと願う気持ちが新たに根付いていた。それは単に思いだけに留まらず、肉体にまで作用していた。
多くの血を流し、限界にまで来ていたはずの体がやけに軽く感じられる。いつしか傷の痛みも忘れ、燃えるような力が漲ってくる実感がある。アイオロスから直に言葉を受け取ったことによる感動が彼らの心を労わり、気力を蘇らせた心が小宇宙を更なる高みへと押し上げたのだ。それが肉体的な力にも影響を及ぼした。
それぞれがアイオロスに対して心の中で誓いを立てていた。その約束を互いに確かめ合うようにして、少年たちは向かい合って差し出した手を重ね合わせる。
「思えば俺たちは皆、多くの孤独を体験してきた」
「ここまで来た以上、生きるも死ぬも全員同じだなどと贅沢は言わん」
「例え一人になっても、僕たちの誓いを果たす」
「アイオロスが託してくれた希望……俺たちのアテナを守り抜く！」
互いの瞳を見詰めれば、そこには同じ顔をした自分自身が確かめられる。四人とも、思いは同じなのだ。その思いを同じくする兄弟たちが、例え自分が途中で倒れたとしてもアイオロスとの誓いを遂げてくれると信じて、少年たちは外へと駆けだしていった。その足取りは、もう疲弊など感じさせなくなっていた。
最初の白羊宮を発ってから、既に八時間以上が経過している。残す宮は、あと三つ。そのいずれにも強大な黄金聖闘士が待ち受けている。そして、それらを抜けた先には教皇が。西の方角には、太陽がもう半分ほどしか姿を見せていない。だが、地上を照らすアテナの命の灯だけは、絶対に守り抜かなくてはならない。
アテナを託す――その想いを受け取った今、少年たちは自分たちの頭上で輝く大いなる運命をも感じていた。地上を守護する定めに引かれし女神の申し子たち、その神話のままに。
沈みゆく夕陽とは正反対に、どこまでも上昇していく四つの小宇宙をムウは正確に捉えていた。その輝きが、どんどんと黄金色に近付いていく瞬間さえも。
「アイオロス……貴方が選んだ若き聖闘士たちの小宇宙が、貴方の域にまで達しようとしています。後は、彼らがそれを解き放てるかどうか……いえ、星矢たちなら必ずやセブンセンシズに目覚めてくれると信じています」
その祈りをアテナに奉じるためか、勝利をもたらす女神ニケの化身たる黄金の杖をムウは沙織が横たわる寝台の側に立てかけた。その瞬間、杖から眩い光が走った。光は、一瞬で姿を消したもののムウの目には、確かに認められていた。
「アテナ……貴方は、ご自身の不例にも拘わらず、なおアテナの聖闘士のために小宇宙を……」
身を震わせながら、ムウが頭を垂れる。そして気が付いた。単に黄金の杖をアテナの側に供えるだけでは、今の奇跡は実現しない。星矢たちが真の小宇宙に目覚め始めている。それを意識の無いアテナさえもが感じ取ったからこそ、アテナの小宇宙が彼らに届いたのだ。
黄金の杖から発せられた光が飛んでいった先は、間違いなく人馬宮の先にある石段。それを認めたムウは、今こそ星矢たちの覚醒を確信した。
「それも全てはアイオロス、貴方の魂がサジタリアスの聖衣を突き動かしたからこそ。嗚呼、死してなお英雄と呼ばれるに相応しき男……邪悪の手に落ちた聖域から、アテナを守り通した孤独の勇者。現代のクレフテスよ……」
そのアイオロスが救い上げたアテナが、ムウの目の前で弱っていく。光の魔弓が放った矢は、もう羽の部分までもが半分以上も埋まっている。その進行を留めることが敵わないのであれば、せめてアテナの体力だけでも精神力だけでも負担を減らせないものか。ムウの放つ黄金の小宇宙が、優しく柔らかく沙織の肢体を包む。その優婉な顔が、苦しみによって歪められるのを見たくないとして。
消えゆく命を救わんとムウが気を張る。その苦渋が、卓越した黄金聖闘士の額にさえも玉の汗を浮かべさせる。不安な表情で、弟子の貴鬼が師の汗を拭ってやる。ここでムウにまで倒れられては困る。そんな弟子の気配りに応えてやる余裕も無いムウであったが、白羊宮に新たな訪問者があったことにだけは反応を示した。
「この小宇宙……イーグルか？」
振り返りもせずに訪問者の正体を言い当てたムウは、沙織の側にて片膝を付いた状態のまま会話を進める。イーグルの白銀聖闘士である魔鈴が、敵ではないと知っているために。
「星矢を一廉の聖闘士に育て上げたイーグルの魔鈴、てっきり、もっと早くに駆けつけるものと思っていましたが？」
問われた魔鈴は、息を切らして仮面の奥からムウと沙織を見ていた。聖衣の隙間から覗かせる衣服のあちこちは破けており、今の今まで過酷な状況と戦っていたことが予想される。
「私は、スターヒルへと行ってきた。古代からアテナの代行たる教皇のみに許された聖域の最奥……正しく天に最も近い場所。そこにこそ隠されていると思ったから。教皇が十三年間、秘匿することが出来るとすれば、そこしかないと思ったから。そして、見た……。あれは――」
鬼気迫る魔鈴の声色に、貴鬼が怯えたように立ち尽くす。ムウも、そこに至って目線だけを僅かに魔鈴へと向ける。日本で星矢の窮地を救った後、すぐさま魔鈴は聖域へと舞い戻って調査を開始した。邪悪を統べる教皇の悪意が隠されている場所はどこかと、懸命に頭を働かせて。
聖域から見れば謀反人である魔鈴に味方は無い。孤独な隠密行動も、敵地の真っただ中では長くは続かない。だからこそ、的確に敵の急所を見定める必要があった。教皇以外の目の届かない場所となれば、それは教皇の間の奥にあるアテナ神殿を除けば一つしか無い。魔鈴の予測は、見事に正鵠を射た。
「あれは……死体だった。御遺体だったよ……」
言葉を区切り、一瞬の静寂をもたらす魔鈴。彼女の前では、ムウと貴鬼が固唾を呑んで次の言葉を待っていた。
「そう、間違いない……教皇の御遺体だ」
その言葉だけで、貴鬼の幼い顔が恐怖に染まっていく。ムウの方は、まだ毅然としていた。もっと確かな情報を聞きたいからだ。何故、魔鈴がそのような確信を得たのか、はっきりと聞き出したかった。
「まるで、生きて眠っているみたいに綺麗な状態だったけど……周りに転がっていた白骨死体と同時期に死亡していたとすれば、死後十数年は経っているはず。生前の偉大な小宇宙が、その身を朽ちさせることなく保っていたんだ。あれは……アンタと同じ、アリエスの小宇宙だったよ。確か、教皇の守護星座は……」
魔鈴の言葉が言い終わる前に、ムウは視線で制止して大きく頷いてみせた。もう、それ以上は不要だ。ムウの中でも、ずっと蠢いていた猜疑心が固まった。
「周囲の白骨は、恐らくは教皇を補佐する枢機卿たちの物でしょう。闇から闇に葬った後、スターヒルへと隠したと考えれば平仄が合います。アリエスの小宇宙……そう、私もそれの異変を感じていました。それが、私が聖域を捨ててジャミールへと逃れた理由です。何者の仕業かは分かりませんが、その者の次なる狙いが教皇の周囲を固める者たちとなるのは間違いない。まずは側近中の側近である助祭枢機卿アルター、枢機卿たち、そして猊下からアリエスを受け継いだムウ……。浅はかでした。まだ幼かった私は、自分の身を守るのが手一杯で、教皇となった者が最も近付きやすくなるのが誰なのか……そこまで考えが及ばなかったのです」
だからこそムウの中には、アイオロスに対する思いが強く残っていた。教皇の異変に気が付いていながら、何の手も施せずにいた自分に代わり、聖闘士としての使命を全うして誇り高く散っていったアイオロス。そのアイオロスと師シオンを葬った輩が誰なのか。そこまでは魔鈴も掴んではおるまいと、ムウは視線を落とした。
「無礼とは思ったけど、御遺体の握っていた右手をこじ開けさせてもらった。どうも、何かを掴んでいるように見えたからね。御遺体の手に包まれていたのが、この一本の髪の毛だった」
床を見詰めていたムウの目が、再び大きく開かれる。魔鈴が何を言おうとしているのか、察しがついたからだ。そこにこそ、自分が知りたいと願っていた真実に辿り着く糸口が隠されている。無意識の内にムウは、魔鈴に向かって手を伸ばしていた。その開かれた掌に細い金色の毛髪が乗せられる。
「そいつの解析に、どれだけ掛かる？ あの火時計は、アテナの寿命を表しているんだろう？ 残り四時間……いや、三時間半くらいか。私は、今持っている情報だけでも星矢に伝えてくるよ。そして、そのまま偽教皇の下まで……」
言い終わらない内に、魔鈴の足はムウの前を辞していた。後に残されたムウは、じっと自らの手を見詰めている。そこにあるであろう答えに、固まっていた。あれほど望んでいた答えが、もしも自分の予想と一致していたらという恐怖によって。あの日、ムウが聖域を逃げ出した本当の理由が的中していたらという不安に苛まれて。
ゆっくりと決意を固めて、ムウは毛髪を握り締める。それを胸にまで引き寄せると、小宇宙を集中させて髪の毛を分解する。その原子の一つ一つに刻まれた情報を分析し、とうとう持ち主へと行き着く。
地の底まで響き渡るほど、強く長くムウが息を吐いた。普段なら決して見せないような師の仕種に、貴鬼も驚いて言葉を失う。
「やはり、戦わなくてはならないのか……。何故、貴方は背かれたのです？ アテナに……自らの運命に。答えてください……神の化身と謳われた聖域の誉れよ」
かつて抱いていた夢がある。アイオロス以上に、オルフェ以上に願っていた。ムウだけでなく、聖域に生きる全ての人間の期待が込められていた。シオンの後継者と、誰もが見込んでいた。その天使に率いられることの喜びを実感したいと、誰しもが願っていたのだ。決して、矛を交えて戦うことなど望んではいなかった。
十三年前に起こった悲劇の経緯を、ムウは知らない。ただ結末だけを残酷に突きつけられただけだ。そして今、悲劇の最終幕に差し掛かったこの時、またしても最前線で邪悪に挑むのは少年たちだ。あの日、たった一人で正義を貫いたアイオロスと同じ年の頃の少年たち。アイオロスは世を去ったが、彼らは一人でも生還することが出来るのであろうか。
正義の申し子と邪悪の化身、どちらの命で幕は閉じられるのか。勝利を期する女神は、依然として黙したままだ。
聖闘士星矢のトップページへ戻る