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「冥王ハーデス 冥界」編
第一話 ～ 第十話
第一話 『Invocation ムーサへの祈り』
ムーサよ、私にあの男の話を聞かせてください。
背に雄大な翼をはためかせ、千里の空も駆け抜けたペガサスの話を。
偉大なるゼウスの娘よ、昏き幽冥にも怯むことなく挑んだ闘士の話を語ってください。
神話の時代より幾度となく地上に降り立ち、美しきアテナの側で邪悪を打ち倒してきた闘士たち。
彼らの新たなる神話が、いかにして繰り広げられたのかを。
輝けるアポロンの侍女よ、その清らかな声で彼らの栄光を歌ってください。
地の底へと落ちてなお、望みを捨てることなく突き進んだ少年たち。
時をも越える翼が、いかにして彼らをエリシオンまで導いたのか。
生きとし生ける全ての人が背負う罪。少年たちの働きが、いかにしてそれらを贖ったのか。
罪を背負いし人の子が、それらの全てを乗り越える物語。
神の裁きに人が抗う時、神の手はいかなる罰を下すのか。
いかなる罰にも恐れを抱かず、ハーデスへと立ち向かった男の神話。
ムーサよ、私に誇り高き聖闘士の話を記す力を授けてください。
第二話 『地獄門』
地上ハーデス城より遥か地の底、幾億もの闇を抜けた先に広がる無限の荒野。
ここは冥王ハーデスが支配する冥界。生前に罪を犯した者たちが永遠の責苦を受ける地獄。
今、白亜の翼もて小さき天馬が舞い降りた。生きながらペガサスの聖闘士・星矢が冥界まで行き着いた。
共にハーデス城まで乗り込んだ仲間とはぐれ、それでも目的を見失うことなく星矢は進む。
己が手に託された最後の希望、アテナの聖衣を主へと届けんがため。
彷徨う霊魂を地獄まで導く獄卒も、最後の聖衣を纏った星矢の敵ではない。
倒れ伏せるは地佐星の馬頭と地祐星の牛頭。その脇を抜けて星矢は巨大な門の前へと逢着す。
刻まれたる漆黒の文字は、ハーデスに挑まんとする星矢への宣告か。慣れ親しんだはずのギリシア文字が少年の心に突き刺さる。
「この門に入りし者、一切の希望を捨てよ」
思えば十四年の月日、星矢は孤独という名の地獄を歩んできた。いつか出会えるであろう面白き世を夢見て。
眼前に広がる真なる地獄の果てにこそ、己が目指した光溢れる平和があるのなら最早星矢に躊躇いなど無い。
憂いの国へ行かんと勇んで足を踏み入れる。永遠の呵責を受けんと門を潜り抜ける。
正義の心が怯むことなく足を進めさせてくれると信じて。女神の意思が、この足を勝利へ導いてくれると信じて。
第三話 『前域』
星矢たちより遅れること僅かばかり。輝ける日輪の光が地の底にまで届いた。
女神アテナより授かった至上の聖衣に包まれるは、神をも欺く知略に富んだ双子座のカノン。
兄より聖衣を受け継ぐも、不完全な八識はその身を縛り付けて自由を許さぬ。
冥界を飛び越えてハーデスの下まで行くのが叶わぬのなら、待ち受ける獄の一つ一つも甘んじて受ける覚悟。
恐れることなく地獄門を潜り、見渡す限りの地獄の光景を瞳に映す。
大地には黒き蟲が満ち溢れ、裸の亡者が重なり合っては虻や蜂に刺され続ける。
遠くから聞こえる冥闘士どもの声は「卑しき天使」という呼び名でもって、荒地に佇む暗黒聖闘士に投げ掛けられる。
これから彼らが遭遇する苦難とは如何なるものなのか。神の教えに背き己の星から逃げた者たちに課せられる罰とは如何に。
人の想像を超えたる地獄絵図へとカノンは進む。それが自身の罪を贖う唯一の道なれば、カノンに一縷の迷いも無し。
神をも畏れぬ所業を繰り返してきた男の孤独な旅が始まる。
第四話 『アケローン河』
上流の果ても下流の果ても対岸さえも見えぬ深遠の河。
汚物と見紛う亡者が延々と流されゆくアケローン河まで星矢は着いた。
渡し守を担うは天平星のカロン。星矢は己の命を対価に舟を走らせ、河の中腹までやってきた。
大河アケローンの最も深く最も凍えるこの場所で、カロンは黒曜石の櫂を振るって星矢を襲う。
辛くもカロンを退けて、その遺骸を河の底へと叩き付けるも星矢に運無し。
舟の底に潜んでいたもう一人の冥闘士。天損星マーマンの存在にようやく気が付いた。
舟に穴を開けられ、星矢の身は冷たく突き刺さる河の中へと引きずり込まれる。
一撃の下に冥闘士を下すも、死してなお敵は星矢を離さない。
アテナの加護が溺死から守ろうとも、哀れ少年の姿は藻屑と化して遥か彼方コキュートスまで流れていった。
第五話 『第一獄 辺獄リンボ』
アケローン河を無事に渡り終えた聖闘士二人。天秤座の童虎と、その高弟ドラゴン紫龍。
二人の行く手を阻むのは、醜き冥衣に巨体を包んだ天微星の九頭竜。
「そこ退け、そこ退け、猛虎が通る」と吠えながら、童虎の全身から放たれる黄金の飛龍たち。
その数、実に百匹。弟子に授け得る最後の奥義を見せながら、伝説の闘士は冥闘士の死体を乗り越え先を行く。
師の背が遠ざかるその脇に、紫龍が見据えるは幾万もの冥闘士。
二百数十年も掛かった魔星の復活、その間に死した冥闘士たちが佇む辺獄。
彼らの虚ろな眼は、主が成し遂げんとする業を今か今かと待ち続けていた。
紫龍も、そして童虎も知らぬハーデスの目的。それを阻むため、若き龍も地獄を走る。
第六話 『裁きの館』
辺獄の百里を越え行くと、そこに聳えるは裁きの館。冥界三巨頭ミーノスの、その代官たる冥闘士が亡者の裁きを行う場。
生きながら辿り着いた侵入者を屠るべく、天威星ラドンが双鞭を振るってアンドロメダ瞬を襲う。
復元したアンドロメダのチェーンは、いとも容易く攻撃を避けて敵を地面に伏す。
重々しき扉を開けて館の中を進んでいくと、地獄の法廷にて地正星バルロンのルネが待ち受けている。
冥衣の上に法服を纏って、無慈悲なるルネの目が瞬を捉える。間も無く裁判は開廷されて、瞬が行き着くべき地獄が定められる。
嗚於、見よ蒼白きルネの顔面を。彼は瞬に相応しき地獄が見えず、恐れ戦いているのだ。
生まれたての赤子の如く瞬の心は純白一色。生前に犯した罪など一つも無く、故に受けるべき罰も見当たらぬ。
ルネが震えるのは己の役目を果たせぬためか、然に非ず。
濁り無い魂を宿した肉体こそが、百八の冥闘士が探し求めていた大事な要素。冥王ハーデスに捧げる最大の供物。
歓喜に打ち震えるルネの前で、瞬が忽然と姿を消した。何事かと慌てふためくルネは、これは一大事と捜索に出る。
館の裏口を抜けて、奈落に架けられたドゥリンの橋の上で四方を見渡す。
動揺を極めたルネは背後から近付く者の気配に気付かず、奈落の底へと突き落とされて消え去った。
第七話 『ドゥリンの橋』
ルネが落とされたドゥリンの橋の上、一部始終を見ていた冥闘士の首魁が凍り付く視線を投げ掛ける。
「貴様、生きて冥界まで辿り着くとは……腐っても神の化身と呼ばれた男の血筋か」
ルネを蹴落とした聖闘士カノンは、一歩一歩と近づいてくる相手の小宇宙を冷静に読み取って返事をする。
「そういう貴様こそ、ハーデス城で小宇宙が途絶えてっきり死んだと思っていたがな」
「馬鹿め、俺は不死身だ。偉大なるハーデス様の目的を達成するまで、この冥界三巨頭が一人ワイバーンのラダマンティス、ただでくたばる訳にはいかぬ」
対峙するラダマンティスとカノン。聖闘士の頂点を極めたサガより引き継ぎし小宇宙であれば、魔人ラダマンティスにも負けはせぬと気を張る。
「くらえ、幻朧魔皇拳！ これで貴様の意識はこのカノンの配下。さあ、貴様の導きでハーデスの下まで案内してもらおうか」
相手の頭脳を支配する伝説の魔拳の前では如何にラダマンティスといえども無力。しかし、それも一瞬のこと。ラダマンティスはすぐさま正気を取り戻してカノンに向き直る。
不完全な八識はここでもカノンの枷となる。反撃に出たラダマンティスが放った拳を見極めること能わず、カノンは暗黒の小宇宙の前に膝を屈した。
「ムウたち三人がかりでも俺に敵わなかったものを、貴様一人で勝てる相手と思ったか？ その不完全な小宇宙を呪って、貴様も亡者の一員に加われい」
とどめとばかりにラダマンティスが距離を詰める。それを止めたのは、ラダマンティスの背後から掛けられた声だった。
「何の用だ、地霊星ネクロマンサーよ。黄金聖闘士が一人でも減れば、アテナ軍の戦力を大幅に削ぐことになる。それを止める権利など貴様には無いはずだ」
「恐れながらラダマンティス様は復活より目覚めたばかり。その蘇生を担った者として御身を案じて参りました。どうか前線に出られることは控えてジュデッカまで戻られますように」
この男の進言はあくまで保身のため。そこまで読みながら、あえてラダマンティスは引き下がった。
「よかろう。カノンは俺の黒死拳で虫の息も同然。放っておいても、じきに亡者と化すのみ。だが、決して侮って手を出さぬことだ。如何に見た目には弱っていようとも、お前の手に負える相手ではない」
ラダマンティスが姿を消すのを見届けると、玉の汗を浮かべて苦悶するカノンに冥闘士がにじり寄る。医師たる男の目には、全身を黒い痣で染めたカノンに如何ほどの小宇宙も残されていないように見えていた。
黄金聖闘士を倒せば、それは最上の武勲。初めから手柄を横取りするつもりでラダマンティスを制したのだ。何の躊躇いもなくカノンに手を下そうとしたところで、冥闘士の全身が眩き光に包まれた。
「聞け！ 銀河を劈く星々の慟哭を……ギャラクシアンエクスプロージョン！」
これぞ兄サガが得意とした最強の秘技。星をも砕く衝撃は目の前に立つ冥闘士も冥衣も塵になるまで吹き飛ばしていった。
「冥界の掟に縛られる肉体、そしてラダマンティスによる黒死拳の呪い……これも私に与えられた罰と思えば軽すぎるほど。どれだけ肉体を痛めつけられようとも私は行くぞ……怨敵ハーデスを打ち倒すために！」
ラダマンティス帰還の報を受け、冥闘士の全権を握るパンドラは次なる指示を出す。
この広い冥界のどこかに、カノンによって飛ばされた瞬の肉体がある。
冥闘士が如何なる目的でもって瞬を捜索するのかは知らないまでも、カノンもそこに不吉な予感を抱いていたはず。
カノンより先に瞬の肉体を回収せねばとパンドラはラダマンティスに瞬の捜索を命じた。
残されたパンドラの側に控えるのは、彼女の側近である冥闘士ともう一人。冥界三巨頭とほぼ同等の実力と権限を有した軍師、地魁星のアタバクが口を開く。
「ラダマンティス様の肉体を蘇らせたのは、ネクロマンサーの施術以上にアンブロシアの霊薬によるもの。例えネクロマンサーが敗れたとしても、ラダマンティス様は何度でも蘇りましょう。ハーデス様に対する永遠の忠誠がある限り」
「その忠誠も霊薬の効果も疑ってはおらぬ。だが、あれは冥界三巨頭の中でも指折りの存在。決して替えが効かぬ駒。ハーデス城での一件もある故、無闇に前線に送るのは得策ではあるまい」
「同感であります。冥界まで乗り込んできた聖闘士たちも、残るは雑兵と変わらぬ雑魚ばかり。これより待ち受ける獄の一つとして突破することも出来ますまい」
第八話 『第二獄 愛欲の獄』
一歩進むごとにカノンの足取りは重くなる。それでも行かねばならぬ。地上に平和を齎すためにも、冥王の脅威は取り除かねばならぬ。
ドゥリンの橋を渡り終え、第二獄へと辿り着いたカノン。門番を務めていた地闘星オルトロスも下し、暴風乱るる空をカノンは仰いでいた。
「どなたでございましょう？ おお、その金色の聖衣は間違いなく黄金聖闘士の証。どうか私の願いが聞き届けられますように」
黒き旋風に吹かれる女性は語る。かつて聖域にて、その名を知らぬ者がいないほど称えられた白銀聖闘士オルフェの話を。
琴座のオルフェはある日、不慮の事故にて恋人を亡くしてしまう。その死から立ち直ることが出来ずにオルフェは冥界へと渡っていった。
オルフェが奏でる不可思議なる琴の音は、仮死の法を生み出して彼の身を守る。生きたままハーデスの処まで行き着くと、恋人の命を返してほしいと願った。
七日に亘るオルフェの演奏に気を良くしたのか、ハーデスはオルフェの願いを聞き入れることにした。
しかし、いざ二人を帰すとなるとオルフェの琴が惜しく感じられたハーデスは、二人を罠に嵌めて地獄に押しとどめてしまった。
以来オルフェはアテナへの忠義を捨てて、琴座の聖闘士であった名誉も忘れて漆黒の冥衣を纏う冥闘士へと成り下がってしまった。
そしてオルフェの恋人は、愛欲によってオルフェを縛り付けた罪人として、ここ第二獄にて黒き暴風に吹かれ続けているのだ。
「そのオルフェの恋人こそ、何を隠そう私ユリティースなのです。生前に交わした激しい愛によって、オルフェを狂わせ道を踏み外させた罪から逃れようとは思いません。ただオルフェが気の毒で……どうか彼を誇り高き聖闘士として死なせてあげてほしいのです」
オルフェとユリティースの愛ゆえの悲劇に胸を痛めるなど、かつてのカノンには考えられなかったであろう。
地上の人々を守る使命に燃える今のカノンであれば、ユリティースの想いに肯んずるのも吝かではない。
オルフェの下へと向かう前に、まずはユリティースを助けねばならぬ。彼女にも元より永遠の責苦に喘ぐだけの罪など無いのだから。
「人が人である限り、愛を捨てることなど出来ぬ。少なくとも私はアテナにそう教えられた。その偉大なる教えを否定するハーデスの尖兵よ、姿を現しこのカノンの手によって滅びるがよい」
半死人が大言壮語と、カノンの前にその身を見せるは天暴星カドゥーシャスのオリアス。獅子を模ったマスクを被り、両手の手甲は蛇の頭を模している。
黒死拳の呪縛で動かぬ体で、この技を躱せるものかと放たれる毒の息。両手を組んだ状態で、手甲の蛇の口から気化した水銀を吐き出してきた。
そんな児戯で参るカノンでなし。黒死拳の影響で鈍っていようとも、その剛腕より放たれる金色の小宇宙は冥闘士の攻撃を跳ね返し、そのまま敵の肉体をも吹き飛ばす。
この獄を守っていた冥闘士がいなくなったことで、猛る暴風も止んで亡者たちも解放される。
天へと昇りゆくユリティースの魂は、涙ながらに訴える。どうかオルフェの魂もハーデスの支配下から解き放ってほしいと。
第九話 『第三獄 暴食の獄』
氷雨の村時雨が降り注ぐ泥濘の監獄。ここは地獣星スフィンクスのファラオが取り仕切る第三獄。
ファラオの配下を務める地微星ケット・シーは、既にカノンに倒されて泥の中へと沈んでいった。
地中に潜む猛獣どもの咀嚼の音を聞きながら、カノンは琴を持って現れたファラオと対峙する。
このファラオ、オルフェが訪れるまでは第一の琴の名手としてハーデスに重宝されていた。それがオルフェに取って代わられ、殊に聖闘士を憎しと思っていた。
その恨みつらみをぶつけるべく、カノンに対して地獄の演奏を始めるファラオ。カノンは敵の思惑にすぐさま勘付いた。
「貴様の悪趣味な演奏で私の身を縛ろうという算段だろうが、そうはいかぬ。このカノン、敵の頭脳を支配する術に長けておる。それは己の頭脳に対しても同じ。貴様が奏でる音階に合わせて自分自身の頭脳を支配すれば、その程度の技などまるで通じぬわ」
焦るファラオ。その隙を突いて反撃に出るカノン。ファラオ目掛けて拳を繰り出すも、あと一歩のところで全身が麻痺してしまう。
黒死拳がとうとうカノンの神経まで蝕んだのか。然に非ず、これもファラオの仕業であった。
「残念だったな。貴様が耳を頼りに私の魔琴を防ぐのであれば、私は人の耳には聴こえぬサイレンス・トーンを奏でるまで。さあ、この最後のG弦で以って貴様の心臓を釣り上げてくれよう！」
しかし、その一撃はファラオ自身へと跳ね返っていった。カノンの身がファラオによって束縛される一歩手前、既にカノンは幻朧魔皇拳を仕掛けた後だった。
ファラオの意思はカノンの意のままとなり、ファラオは自らの指で自らの命を絶って死んでいった。
第十話 『Pape Satan Aleppe』
「おっと、待ちな。ここを通るには通行料がいるのさ。この地会星プルート様に大人しく巻き上げられな」
カノンを呼び止めた冥闘士は、巨大な岩に背を預けて大声を張り上げていた。
見れば冥闘士の背後の岩は一つではなく、同じく巨大な岩々が幾つも重なって一つの山を築き上げていた。
この冥闘士、生前に宝を溜め込んだ亡者に目を付けては、彼らから掠めた宝を岩の中に隠し込み、その岩を亡者に積ませていた。
本来の獄の罰でもない悪趣味な仕打ちにカノンも眉を顰める。こいつも倒すべき敵の一人として近寄ったところで、二人の問答が始まった。
「む、どうやらお前、大した財宝も持ってはいないみたいだな。何故、俺の眼鏡に適ったのか……その金ピカの聖衣が目を引いたという理由だけではあるまい。そうか、お前が生前に抱いていた欲望が俺の目を引いたのか」
「私の欲望だと？」
「否定は出来まい。例え今は改心したところで、お前が重ねてきた罪業の数々は一生かかっても拭い去ることは出来ん。心の奥底に封じ込めたつもりでも、今もお前の中でお前の欲は蠢いている」
「馬鹿を言うな。このカノン、一切の私欲を捨ててただただアテナのため無私となって戦う所存よ」
「お前の半身は、そのアテナに取って代わろうとした男であろう。そしてお前自身は、ポセイドンを操って地上を支配しようと目論んだ張本人であろう。どれだけ否定しようと過去は覆らぬ」
「そうだ。私も己の過去から逃げたりはしない。兄に邪心を植え付け、そして私自身も多くの罪を犯してきた。その全てを清算するべく私は生まれ変わったのだ」
「果たして、そう言い切れるかな。お前が抱いた欲というのは、人が持つ中でも特に手が負えないものだ。人間の欲というものには果てが無い。その中でも特に底が知れず、かつ万人に害を及ぼすもの……お前の心に根付く権力欲だ」
「確かにかつてはそれを望んだ。だが、私は悟ったのだ。人は断じて神になどなれぬ。どれだけ切望しようとも、地上を治める神に成り代わることなど出来はしない。何故なら、神は欲など持ってはおらぬからだ」
「その通りだ。最大の権力を持つ神に権力欲は無い。何故なら生まれながらに全ての権力を握っておるからよ」
「人は神ではない。上を見上げれば、そこには己より力を持った者たちが多くいる。それらを乗り越えようと人は欲を抱く。神にそれはない。生まれながらにして全ての頂点に立っているため、上を目指す必要が無いからだ。故に神は平等に裁くことが出来る。我ら人にそれは叶わぬ」
「人が持つ権力欲は決して無くなることはない。手に入れた権力を守るために新たな権力を際限なく求め続けるからだ。例えその目的が善政を敷き続けるというものであったとしても、そのために法を作り戦争を仕掛け、国内外から多くの自由と人命とを奪うに至る。人が不完全な証拠よ」
「そうだ。だから人は神の前では平等なのだ。誰しもが平等に神の愛を受け入れる資格がある。それなのにハーデスの所業はどうだ？ 生前の罪を理由に多くの人々を地獄に押し込めて苦しみを与え、自分に従う冥闘士だけを手元に置く。これが神の愛だとでも言うのか？ 私は断じて認めぬ。私がアテナに見出した真実の愛は、こんな薄汚れた紛い物などではないからだ。消え去れ……我が心に棲み付きし邪悪なる心よ！」
カノンが心より放つ渾身の小宇宙。それが冥闘士の姿も積み重なれた岩々も溶かし尽すほどに燃え盛る。
後には荒野を彷徨う亡者だけ。カノンは悟っていた。今見た冥闘士の姿、今聞いた冥闘士の声は自分自身の心が映し出した幻影なのだと。
「迷いは断ち切った。私は誇り高きアテナの聖闘士……双子座のカノン。もし我が心に欲が残っているとすれば、それはアテナが宿す至上の愛を地上の人々全てに届けたいという想いだけだ。その夢を叶えるため、私はどこまでも突き進むのみ」
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