「冥王ハーデス 冥界」編

第二十一話　～　第二十五話

第二十一話　『カイーナ』

　四つの圏からなる地獄の最下層コキュートス。その最も外側の圏に足を踏み入れたカノンは、全身に突き刺さらんばかりに研ぎ澄まされた小宇宙を感じて立ち止まった。
　凍える烈風の中を苦も無く飛翔し氷上に降り立つは、冥界三巨頭が一人アイアコスであった。魔星・天雄星の化身にしてガルーダの冥衣を身に纏うアイアコスの小宇宙に、カノンは相対して早々息を呑んだ。
「よくぞここまで来たな、双子座のカノンよ。お前が地上で働いた悪事の全て、このアイアコスには既に知れている。故に我が手で直々に葬ってくれるため、ここまで招いてやったのだ。さあ、冥界三巨頭の手に掛かりコキュートスの底にて永遠に罪を償うのだ」
　百八の冥闘士たちを束ねる冥界三巨頭が相手と聞いて、臆するどころかカノンは返って気を吐いた。ここで三巨頭の一人でも倒せれば、戦局は聖闘士側に大きく有利に働くはずと。
「三巨頭が自らお出ましとは手間が省ける。お前こそコキュートスの氷に自身の墓碑銘を刻むがよい」
　互いに高め合う激しい小宇宙。そこへ割って入らんと現れたのは、コキュートス全土を焼き尽くさんばかりに燃え上がる灼熱の小宇宙。その持ち主に覚えがあってカノンは名を呼ぶ。
「この天を衝く程に吹きすさぶ小宇宙……お前もやって来たか、フェニックス一輝！」
　かつてはポセイドンの海底神殿において敵対した両者。それが今では同じ目的に向かって目の前の冥闘士を倒さんとしている。カノンと並び立って見据えてくる一輝の存在をアイアコスは一笑に付した。
「何者かと思えば、たかが青銅の小僧ではないか。お前の相手は後でしてやる。そこで黙ってカノンがやられる様を見ていろ」
　一輝の登場を全く意に介さず、アイアコスの瞳はカノン一人のみを映し続ける。ならばと一輝はカノンの前に身を乗り出して、アイアコスの視界に入らんとする。
「相手の力量も測れんとは、これで冥界三巨頭とは聞いて呆れる。そこまで言うなら見るがいい、お前の言う小僧とやらの拳を」
　激しく燃え盛る一輝の小宇宙。一輝を小僧と侮っていたアイアコスも目を見張り、ガルーダのマスクを打ち砕かれる。
　それがアイアコスの怒りを買った。最下級の青銅聖闘士に後れを取ったと思われてはならぬと、その真価を発揮するアイアコスの身のこなし。
　光速を超越したカノンの目ですら一瞬、アイアコスの姿を見失ったのだ。一輝に見切れるはずもなく、アイアコスの拳によって一輝の体が宙を舞った。
「その身、地上まで昇り、そして墜落するがいい……ガルーダフラップ！」
　アイアコスに掴まれた一輝の肉体は遥か上空へと投げ飛ばされ、錐揉みとなって再び地の底へと落下した。その衝撃は正しく地上に隕石が衝突したが如く、コキュートスの氷上に巨大なクレーターを作り上げた。
　アイアコスの技の威力もさることながら、真に驚嘆すべきは一輝の生命力か。その名に負いし不死鳥の小宇宙が瞬く間に聖衣も一輝の五体も蘇らせて、こうして少しの気力も損なうことなくアイアコスと向き合わせている。
「青銅と思って手加減し過ぎたか。ならば次こそ全力で以って、お前の聖衣も肉体も微塵に打ち砕いてくれる」
　再び一輝の背を取りガルーダフラップを仕掛けるアイアコス。ところが今度は一向に一輝の体が落ちてくる気配が無い。これは面妖と思うと同時にアイアコスは背後からフェニックスの拳を見舞われる。
「お前の技は先程の一撃で既に見切った。今度はお前が俺の拳によって倒れる番だ」
　フェニックスの両翼は例え空高く飛ばされようとも、一輝の身をひらりと舞わせてアイアコスの背後へと着地させていた。しかし、不意を突かれたはずのアイアコスは傷一つ負ってはいない。
「成程、確かにお前のことを見くびり過ぎていたようだ。だが、それでも所詮は青銅に過ぎん。このアイアコス、例え背を向けていようとお前の拳を躱すことなど造作も無いことよ」
　今や黄金聖闘士にも匹敵する程の小宇宙を手に入れた一輝であるが、それでもアイアコスの速度にはまるで追いつけない。再びその姿を見失うと、頭上よりガルーダ最大の拳を受けてしまう。
「お前もカノン同様、裏切りの咎人。なれば、この拳によって己の罪を悔い改めよ……ギャラクティカイリュージョン！」
　アイアコスの両手から繰り出される最大の技もまた、光を上回る速度で一輝に襲い掛かる。自身が浴びた光の一筋さえも見切ることが出来ずに一輝はコキュートスに沈んだ。
「フェニックス一輝、お前が犯した罪は肉親への裏切り。その重さを噛みしめて永遠に眠るがいい」
　一輝を仕留めて次こそカノンを討ち取る番とアイアコスが向き直る。そこへ飛来する冥闘士の影が一つ。
「どうした、天富星ネロアンジェロ？　半死半生のフェニックスをどこへ連れて行こうと言うのだ？」
「ジュデッカのパンドラ様は現在、ハーデス様の憑代となり得るアンドロメダの肉体を探しております。この男はアンドロメダの肉親なれば、きっと役に立つはずとジュデッカまで連行するようにとの仰せです」
　三巨頭をも指揮するパンドラの命とあっては背く訳にはいかぬ。アイアコスもあっさりと一輝の身柄を引き渡す。
「フェニックスの命を完全に奪っていたら、返ってパンドラ様より罰を受けていたということか。お前は運がいい……その背に負った罪が一つで済んだおかげで、辛うじて生き永らえることが出来たのだ」
　冥闘士に抱えられてジュデッカへと連れていかれる一輝を見ながらアイアコスが憐憫の目を向ける。その様子をカノンが罵った。
「たわけたことを言う。あの男がやられたのは敵の懐へと潜り込むためよ。このカノンも手を焼いた程の男……本気であればお前如きに敗れるはずがあるまい」
「俺もまだ実力を明かした訳ではない。だが、お前が相手であれば我が小宇宙の全容も見せられそうだ」
　両者、あらん限りの小宇宙を燃焼させていく。楽に勝てる相手ではないと互いに出方を窺っている。先に動きを見せたのは、スピードには絶対の自信を誇るアイアコスだった。
　一輝をも翻弄した動きで素早くカノンの背後に回ると、ガルーダフラップでカノンの体を投げ飛ばす。
　これで勝ったと安堵はしない。一輝相手に二度も見せた技だ。カノンは必ず見切っているはずだと、アイアコス自身もカノンの後を追って飛び上がる。
　果たして上空よりアイアコス目掛けて急降下していたカノンは、自身に向かって飛んでくるアイアコスを見つけると空中で互いの小宇宙を激しくぶつけ合う。
　二人同時に着地して次なる手を打たんと小宇宙を更に高める。アイアコスが見せるのは一輝にも放った最大の技だ。
「このギャラクティカイリュージョンは相手が抱く罪悪感を膨らませて無力化させると同時に、肉体と小宇宙の双方を破壊するガルーダ最大の拳。故に生前の罪が重ければ重い程、その威力は増すことになる。お前に下される裁きの地が、このコキュートスという時点で分かるだろう……お前が犯した裏切りの罪の重さによって、お前が受ける苦しみが増すということだ」
　一輝は兄弟に対する裏切りを働き、その罪悪感に耐え切れずアイアコスに敗れた。カノンが犯した罪は、その比では無い。
　肉親への裏切り、祖国への裏切り、己を頼ってきた者たちへの裏切り、そして神への裏切り……それら一切の裁きを今こそカノン自身の魂で贖うのだ。
　己を呪う無数の瞳に見詰められながら小宇宙ごと紅蓮の炎で焼かれ、それでも尚カノンは生きていた。アテナの名の下にハーデスを打ち滅ぼし、地上の愛と正義を守り抜くという強固なる信念が見事にカノンを耐え切らせた。
　全力のギャラクティカイリュージョンを受けながら両脚で立ち続けるカノンを見据え、むしろアイアコスは満足したように微笑んだ。無防備なアイアコスの胸へとカノンの光速拳が突き刺さり、コキュートスの氷に鮮血が降り注ぐ。
「見事だ、双子座のカノン……俺はこれまで罪人を裁きながら、その背に負った罪を乗り越えてほしいと願い続けてきた。俺は今でこそハーデス様の配下だが、元々は天帝ゼウスに仕える身……お前のような男が現れるのを待っていたのだ」
　瞼を閉じて今にも尽き果てそうな命を振り絞ってアイアコスは伝える。その肉体も冥衣も次第に薄れゆく中、小宇宙だけは最後までカノンに語り掛けていた。
「お前は今や全ての罪を償い終えた。後はお前の信じる神の教えに従い、天命を全うするのみだ。ジュデッカへの鍵を担うアイアコスを倒した以上、お前の歩みを阻める者など誰もいない。さあ、行け……アテナの聖闘士……カノンよ」
　アイアコスの声が途絶えると、そこにはカノン一人が立っていた。アイアコスの肉体は消滅し、地獄の第一獄からコキュートスに至るまで全ての罰をカノンは乗り越えた。
　己が犯した全ての罪を清算したカノンの小宇宙は、黒死拳によって死に掛けていた肉体をも完全に蘇らせる。正義の聖闘士が見据えるのはコキュートスの中央に位置するジュデッカの神殿のみ。そこへ乗り込む前に、自分に語り掛けてきた小宇宙に別れを告げる。
「ガルーダのアイアコス……まともに戦えば最後に負けていたのは私だったかもしれん」
　冥界三巨頭の一角は崩れ、冥闘士の戦力も大幅に削がれる結果となった。後は冥王ハーデスさえ討てば自分たちの勝利であると、カノンは脇目も振らずジュデッカを目指した。