「白銀聖闘士」編
第一話
～美獣の襲撃～
底冷えするような夜であった。澄み切った夜空を幾つもの星々が瞬き、そして翔けてゆくのが観測された。
五つであったか、六つであったか。それぞれ異なる方角へと翔けていった流星に、多くの天文学者が様々な憶測を語った。
ある学者は天変地異の前触れだと語り、実際にその日、日本の富士山麓にて大規模の地震が発生した。
また、ある識者はいよいよ核戦争のはじまりを予感した。だが、これから始まる戦いは人間同士が引き起こす核の炎ではない。神話の時代より繰り返されてきた神々の聖戦。
その新たな幕開けとなるのだった。
「ムウ様！ 後ろから強大な
他に物音など一切しない深更。甲高い声が、そばにいる人物に呼びかける。
「あっ、いえ違います！ これは接近してきてるんじゃなく……オイラたちのほうが、後ろに引っ張られています！」
まだ幼い少年の声が、慌てた様子で自分たちの置かれた状況を説明する。語られたほうの青年は、そんなことは先刻承知とばかりに涼しい顔をしていた。
「やむをえまい。
虚空を飛んでいたムウは、貴鬼の小さな体を腕に抱えると音もなく地上へと降り立った。もしも降りた場所が人里離れた地でなければ、さながら天使の降臨かと思わせるような光景であったろう。
だが、彼らは神に仕える者であっても天使とは異なる存在。その彼らと同じ立場にある別の少年が、ムウたちの近くへと現れた。
「やはり、これだけの芸当が出来るのは貴方でしたか……ムウ様」
しなやかな肢体に、夜目にも艶やかなブロンドの髪。そして引き締まった体を覆うのは、古代ギリシアの彫刻と見まがうばかりに美しい白銀のプロテクター。その姿にムウは、ひとつの確信を得る。
「
「いかにも。私はアテナに仕える聖闘士の中級に位置する白銀聖闘士。蜥蜴星座の加護と宿命を与えられたミスティ」
白く輝くプロテクター白銀聖衣に照らされて、ミスティと名乗った少年の顔が闇に浮かぶ。歳のころは、まだ十代の半ばといったところ。だが、凛とした表情は彼の潜り抜けてきた戦いの過酷さと、彼自身が内に秘める闘志とを物語っていた。
「なるほど。蜥蜴星座の聖闘士は重力を自在に操ると聞いたことがある。先ほど、富士山の地下に巨大な地震を発生させたのも君の仕業ですか？」
「ご明察、感服いたします。アテナの代わりに邪悪と闘う使命を帯びた聖闘士……その拳は空を裂き、蹴りは大地を砕く。白銀聖闘士となれば、あれしきの地震は造作もないこと」
自らの所業を誇るでもなく、淡々と述べるミスティ。ムウに対する物腰はあくまで慇懃ではあるが、その胸の内は疑心で満ちていた。
「ムウ様、私は重力を操るとともにブラックホールでさえ自在に作り出すことが出来ます。マッハ九十万の光ですら抜け出すことの出来ないブラックホールを。その私から逃れることなど、たとえ格上の
前置きを述べると、ミスティは一歩だけムウへと近付いた。そのたった一歩だけでも、ミスティの体に宿る強大な小宇宙が迫り来るのを感じ、貴鬼は怯えたようにムウの背後へと身を潜めてしまった。
「安心なさい、貴鬼。彼は我々に手出しは出来ません」
自分を慕い頼ってくる少年の頭に手を乗せながら、あくまでムウは落ち着き払っている。その超然とした佇まいに、問い詰める立場のミスティのほうが気後れしそうになる。しかし、自分に与えられた使命を思い出し、そこから勇気を得てミスティは話を続ける。
「私は此度、聖闘士の総本山……ギリシア
ミスティのムウに対する疑心に、怒りが加わる。それがミスティの眼差しを鋭くさせ、語気をも変えさせる。
「ムウ様、貴方は青銅聖闘士たちをテレポーテイションで、いずこかへと逃がしましたね？ 先程、夜空を翔けた五つの流星……あれは青銅聖闘士たちに違いない」
ミスティが何故、自分たちを追ってきたのか。ムウも、ようやく合点した。だが、それで態度を改めるようなムウではない。たとえミスティが聖域の勅命を帯びていようと、その権力に屈服する気などムウにはさらさら無い。
そんなムウの態度を見せつけられて、ミスティもますます語気を強める。
「聖域の……教皇猊下の勅命なのです。掟に背いた青銅聖闘士を粛清せよと教皇猊下がお決めになられた。その青銅聖闘士どもを匿うのであれば、貴方も彼らと同じ反逆者ということになるのだ。それがお分かりにならないのですか、アリエス猊下!?」
ミスティの言わんとしていることは分かる。事の重大さもムウには分かっているはずであった。だが、ムウには一つの確信があった。その確信が揺るがぬ限り、ミスティにも教皇にも従うつもりはない。
「ミスティよ、私は聖域に投降するつもりはありません。しかし、ここで君とやり合うつもりも無い。空を裂き大地を割る聖闘士同士の闘いは、この静かな夜をも引き裂いてしまう。どうか矛を収め、今夜のところは互いに出会わなかったことに出来ないだろうか？」
「貴方は、ご自分に選択権があるとお思いか？ 教皇とは、すなわちアテナの地上代行者。教皇の言葉は大いなるアテナの言葉と等しきもの。貴方は今、我ら聖闘士の主であるアテナに背いているのです。貴方まで
「アテナに見捨てられた暗黒聖闘士、か……。可哀そうなことにミスティよ、私には君たちのほうが暗黒聖闘士に近いように思えてならない。悪いことは言いません、この場から立ち去りなさい」
ミスティの中から疑心と怒りが消えた。途端に虚無感に襲われ、表情からも険しさが失せてしまった。それは一種の諦めに似た思いであった。出来ればミスティとしても、ムウを葬りたくはなかった。ムウが反逆者であると思いたくなかった。それが叶わぬ願いとなった今、ミスティは勅命に従って冷酷にムウを粛清することを決意した。
「残念です。いかに貴方といえど、聖衣も無しに私と渡り合えるとは思えない。せめて、その坊やともども一瞬で葬ってさしあげます」
右拳を掲げるミスティ。その全身を巡る小宇宙が、いっそう激しく燃え盛っていく。だが、同時にムウの体内でも小宇宙が静かに燃え上っていた。ミスティのそれを覆い尽くすかのように巨大な小宇宙が。
やがてムウの内側の小宇宙が、形となって現れる。自分と貴鬼の周囲を光り輝くドームに包み込んだ。
「防御壁のつもりか？ いいでしょう……このミスティの全力の小宇宙で、破ってご覧に入れる」
「早まるな、ミスティ。この防御壁は君の攻撃を防ぐための物ではない。聖衣無しでは、超光速の動きによる摩擦熱に耐えられないからだ」
ムウの発言の意図するところを量りかねている間に、ミスティは二人の姿を見失った。光のドームが目映いほどに強烈な閃光を放ったかと思うと、もうそこにムウと貴鬼の姿は消えていた。光さえも逃さないブラックホールから脱出してみせたのだ。
「これが……これがムウ様の真の実力……本気を出したムウ様のエクスティンクションは、この私のアブソープションからも逃れられるというのか……。光の速度をも超えたスピード……そんなことが出来るのは、黄金聖闘士にもそうはいないはず」
一人取り残された状況でミスティは慄きながら、見逃してもらったのは自分のほうであったことに気が付いた。だが、このまま引き下がるつもりは毫も無い。
「ムウ様は取り逃したが、他の青銅聖闘士どもは逃すわけにはいかない。聖域からの本来の勅命……今度こそ果たしてみせるぞ」
マッハ百万を超そうかというムウの瞬間移動は、またたく間に貴鬼ともども彼らの住処であるジャミールまで運んでいた。
この中国とインドとの国境にある幻の秘境こそ、聖域から目を眩ませてムウが潜み続けてきた隠れ家。そして、教皇がこの場所を突き止められないことこそ、ムウに教皇への背信を起こさせた要因に他ならない。
ミスティの危機から逃れられたことによる安堵からか、ようやく貴鬼も生きた心地を取り戻していた。
「けどムウ様、青銅聖闘士たちは大丈夫なんですか？」
自分たちの逃走だけで手一杯であったという訳ではない。ムウほどの実力者であれば、日本に残してきた青銅聖闘士たちも引き連れてジャミールに飛ぶことも出来た。あえて、その選択をしなかったのだ。
「私が彼らを助けたのは、単に機会をあげたに過ぎない。彼らはアテナの名の下に、富士の風穴にて暗黒聖闘士たちと戦い、それに勝利を収めた。だからこそ、その勝利の生還をミスティに奪われないよう取り計らったのです。この先、彼らが白銀聖闘士との新たなる戦いにも勝ち続けられるかは、彼ら次第」
まだ幼い貴鬼にとって、ムウの発言は残酷にも思える内容であった。だが、幼いとはいえ聖闘士の修行を積む者の一人。ムウの心の小宇宙に触れる術は知っている。ムウが心の奥底で、友誼を交わした青銅聖闘士たちにあえて過酷な試練を与えたことに涙を流している。その機微を知っていた。
「一つだけ気がかりなのは、
遠い東の空を眺め、ムウは生き残った青銅聖闘士たちの小宇宙を感じ取る。その命の灯火は、まだはっきりと感じられていた。
「
ムウが、遠く離れたジャミールからでも日本にいる青銅聖闘士の小宇宙を感じられたのだ。同じ日本国内にいるミスティに、それが出来ないはずがない。やがて、その内の一つに的を絞った。
非情なる狩人は、標的の位置を正確に掴み取ると音速のスピードでもって接近を図る。たちまち海岸にいる一人の少年を見つけ出した。
「な、なんだ!? この異様な小宇宙は……」
暗黒聖闘士との戦いで負傷した体を引きずりながら、
息もつかせぬスピードは星矢の眼前まで来ると停止し、その蜥蜴星座の聖闘士の姿を浮かび上がらせた。
「見つけたぞ、ペガサス。私の名は蜥蜴星座のミスティ。お前たち青銅聖闘士の上位にある白銀聖闘士だ」
「何だって、白銀聖闘士!?」
突如、自分の前に現れて名乗ったミスティを目の当たりにして、星矢は己の動悸を自覚した。
星矢は日本人の両親の間に日本で生まれた、生粋の日本人だ。だが、聖闘士としての修業を積むために七歳のころから、ギリシアで厳しい修行の日々を送ってきた。そのギリシアで六年間、星矢の師匠として修業を付けた人物がいる。
「俺の師匠であった
ギリシアでの修業を終え、天馬星座の青銅聖衣を教皇より授かった瞬間までも星矢は魔鈴を実力で上回ることが出来なかった。その魔鈴と同じ白銀聖闘士が敵意を持って現れたことに、星矢は意図せず身を強張らせた。
「怯えることはない。私の使命は、君を含めて四人の青銅聖闘士の抹殺にある。君一人に時間もかけていられないのでな……苦しまぬよう、一瞬で終わらせてくれるぞ」
ミスティの小宇宙が、姿を現した時よりも一段と大きく膨れ上がる。そして、その高められた全小宇宙がミスティの右拳に集められる。星矢に向けて右拳を差し出すと、人差し指と中指だけを伸ばす。
「死ね、ペガサス！ マーブルトリパー！」
伸ばされた二本の指から、重力の波が星矢に向かって放たれる。咄嗟に防御の姿勢を取る星矢であったが、全身を圧搾してくる重力には防御など意味をなさない。たちまち星矢は全身の血が逆流する感覚に襲われ、視界を覆う闇に抗う術なく意識を手放した。
「終わったか……たわいない」
うつ伏せになって倒れる星矢。その死を確信して、ミスティは近づく。
「任務遂行の証だ。その首を刎ねさせてもらうぞ」
身動きしない星矢の首筋に向かって、ミスティが手刀を光らせる。その攻撃的な小宇宙を帯びた手刀が振り下ろされ、星矢の首を胴体と切り離そうかという、すんでのことでミスティは手刀を止めた。死んだはずの星矢の肉体から、小宇宙が滾ってきたためだ。
「馬鹿な……ペガサスは、私のマーブルトリパーをまともに食らったはず」
格下の青銅聖闘士が、白銀聖闘士である自分の一撃に耐えられるはずがない。そのありえない事実を突き付けられて、ミスティは思わず星矢から距離を取った。それに呼応するかのように、星矢もゆっくりと立ち上がる。
「俺も、今のはアウトだと思ったぜ。さすがは白銀聖闘士……今まで戦った青銅聖闘士や暗黒聖闘士とは、桁違いの威力だ」
「それでは、なぜ……」
その問いに答える前に、星矢は自分の胸に手を置いた。そこにあるのは、星矢の身を守る青銅聖衣。これまでの激戦、そして今のミスティの猛攻に耐えて、なお傷ひとつ付いていない天馬星座の聖衣。
「本来なら、最下級の青銅聖衣が白銀聖闘士の一撃に耐えられることなんて、ありえないんだろう。けどな、これはそんじょそこらの聖衣とは訳が違うんだ。俺たちの仲間の一人である紫龍の血が……熱いドラゴンの血が染み込んでいるんだ」
暗黒聖闘士との戦いが勃発する前、星矢は日本で
全力を尽くしての闘いを終えると、両者の聖衣は防御能力を失うほどにまで破損してしまっていた。その天馬星座と龍星座の聖衣を直すべく、紫龍は単身でチベットの奥地へと足を運んだ。そこには世界でただ一人、聖衣の修復を手掛ける人物がいると紫龍は己の師から聞かされていたのだ。
「だが、俺たちの戦いで傷ついた聖衣は、並大抵の壊れ方じゃなかった。聖衣としての役割を終え、死んだも同然の状態だった」
死んだ聖衣を蘇らせる唯一の手段。それは、聖闘士自身の血液を聖衣に吸わせることであった。日本では暗黒聖闘士との戦いを控えた星矢が待っている。その一念で、紫龍は喜んで自らの血液を提供した。その結果として、天馬星座の聖衣は以前より頑強に蘇生することが出来たのだ。
「なるほど……さすがは、世界で唯一の聖衣の修復者。失われた大陸の技術の伝承者……ジャミールのムウという訳か。死んだ聖衣を修復させるだけでなく、本来以上の性能まで引き出してしまうとは」
今更ながら、その力を聖域のために行使しようとしないムウへの怒りが募る。だが、目の前にいない人物に腹を立てたところで始まらない。今はただ、己の任務を全うするだけだ。ミスティの冷酷な視線が、星矢の肉体を捉える。
「だがペガサスよ、その聖衣の性能……過信すれば命取りになるぞ」
「なに？ うわっ!?」
指先から放つ重力波ではない。両の拳に全体重と小宇宙とを乗せたミスティ渾身のブローが、聖衣に守られていない箇所を容赦なく痛めつける。
「そらそら！ 上腕、脇腹、大腿……がら空きだぞ！」
「うっ、ぐわああっ！」
ミスティの固められた拳がめり込む度に激痛が走り、星矢は悲鳴を上げる。幸い、骨までは達していないようだが両腕、両脚は血がにじんで痛々しいまでに腫れ上がっている。
何とか倒れまいと星矢は、全身を濡らす汗を拭いもせずに歯を食いしばり、必死にミスティを睨み続ける。そんな姿をミスティが嘲笑う。
「醜いな、その姿」
「なんだと？」
「醜い、と言ったのだ。お前たち青銅聖闘士は、一つの勝利を収めるのにも血と汗にまみれ、自身も傷を負う。それで真の勝利と呼べるか？ それが誇り高き聖闘士の姿と言えるか？」
遥か高みから見下すかのようなミスティの発言に、星矢は傷の痛みも忘れて無我夢中で目の前の敵を睨みつける。そこには圧倒的な余裕の色を浮かべる、美しくも冷徹な顔があった。
「見るがいい。このミスティの体には、傷など一つも付いてはいない。なぜだか分かるか？ それが真の聖闘士の証だからよ。アテナの名の下に戦う、美しき聖闘士のあるべき姿だからよ」
そこで改めて星矢は、眼前に立つ敵の姿を注視する。若く美しい肉体は、顔にも体にも小さな傷跡すら見られない。少しの曇りも無く月下に輝きを見せる白銀聖衣と同様、ミスティの肢体は正に神話に登場する少年闘士の生き写しであった。
この世に邪悪がはびこる時、戦いの女神アテナの下に集って戦うと言われる正義の闘士。それが聖闘士である。彼らの存在は歴史の陰に埋もれ、人々の記憶からは忘れ去られた存在である。しかし有史以来、悪が栄えた試しが無いのも事実。ローマ帝国の崩壊しかり、ナポレオンの挫折しかり。その陰には、常に彼ら聖闘士の働きがあったはずなのだ。アテナの名の下、地上の愛と正義を守らんがために。
「なるほどな、確かにお前の容姿は絵画や彫刻にあるような、神に愛された美少年そのものだ。だけどな……ふざけんなよ、ナルシスト」
噛みつかんばかりの星矢の視線に気が付く。そこには苛立ちと共に、はっきりとした信念が燃え盛っていた。
「俺は、みなし児でね。孤児院育ちを馬鹿にされて、小さいころからケンカばっかしてた。ギリシアに来てからも、そうだ。周りはヨーロッパ人ばかり。俺や魔鈴さんみたいな日本人は、差別と偏見のはけ口として白眼視されてきた。そんな奴らと、しょっちゅうやり合ってきたのよ」
「何が言いたい、小僧？」
「そうやってケンカに明け暮れ、体に傷を負う度に俺は強く大きくなってきた。いいか？ 男の体に一つの傷も付いていないのは、自慢にはならない。傷を一つ負う度に打たれ強くなり、傷の痛みを知る度に相手に対する優しさを覚えていくんだ。お前に傷を負う者の気持ちが……痛みが分かるっていうのか？」
一瞬の沈黙があった。星矢の気迫に気圧されたからではない。しかし、ミスティは星矢への反論をなぜか口にしなかった。だが、それも一瞬の間だけ。すぐにもミスティの胸中に、星矢に対する怒りが込み上げてきた。
「格下の青銅聖闘士の分際で、白銀聖闘士の私に説教をするとはな……その減らず口、今すぐ利けぬようにしてやる！」
とどめの一撃が来る。その前に、今度は星矢が先手を打つ。肉体に蓄積したダメージは相当なものであるが、それを意に介している暇は無い。この危機を脱するには、ミスティを倒すしかない。それにも増して、せめて一撃をミスティの身体に見舞ってやりたかった。
「食らえ、ミスティー！」
大きく踏み込んで、右拳を突き出す。ところが、その拳はかすりもせずにミスティの脇をすり抜けてしまった。
「どこに目を付けている？ そんな困憊の拳で、敵を倒せると思ったか」
それでも、やらねばならなかった。残り少ない星矢の体力など、たかが知れている。それを小宇宙で補い、なんとしてもミスティに一撃を食らわせる。そんな思いで星矢は右拳に小宇宙を集中させる。
「お前に今、傷の痛みを教えてやる……受けてみろ！」
星矢の右ストレートが音速に達する時、その衝撃波は人智を超越する。一秒間に数十発も繰り出される拳の弾丸が、ミスティ目掛けて真っすぐに飛んでいった。さしものミスティも動けない。
「愚か者め。忘れたのか？」
ミスティの両掌が、衝撃波を阻むかのように掲げられる。バリバリと雷鳴のような音が響いた後、何事も無かったかのようにミスティは立ち続けていた。
「お前が相手にしているのは、格上の白銀聖闘士なのだぞ。今までの相手に通用した技が、同じく通じると思うとは愚かな奴め」
星矢が見たところ、ミスティはただ手を挙げただけに過ぎない。防御とも呼べないような動作だ。星矢の攻撃をかわせなかったのではない。ミスティにとっては、星矢の拳などかわすまでもない児戯であったということだ。
「まだだぜ、ミスティ。俺の小宇宙は……まだ燃え尽きちゃいない！」
大股に足を開いて構えると、星矢は自身の身体の前で大きく腕を振るう。その軌跡は、あたかも天空のペガサス座を描いているようでもあった。大四辺形を描き終わると、今度は両腕を大きく開いてペガサス座の頭部と脚部とを描き出す。
天馬星座の聖闘士である星矢にとって、ペガスス座は己を守護してくれる宿命の星座。その軌跡を描く時、星矢の体にも心にも、新たな小宇宙が爆発する。
「これが……これがギリシアでの六年間の修行の成果……ペガサス流星拳だぁーっ！」
繰り出された音速の拳。その一発一発に渾身の小宇宙が乗って威力を増す。星矢の右腕が生み出した流星の大群は、一秒間に百発もの勢いで敵に襲い掛かる。今度こそ勝利の確信が星矢の中にあった。
だが、その確信は一秒と待たずに崩れ去っていく。またしてもミスティは、ただ広げただけの両手でもって流星拳を一つ残らず、はじきとばしてしまった。
「分かったか？ これが白銀聖闘士の実力。青銅聖闘士とは天と地ほどに懸け離れた、このミスティの実力だ。分かったら、今度こそ観念してあの世へ旅立て」
自慢の流星拳を防がれて呆然としている星矢を目掛けて、ミスティの逆襲の拳が繰り出される。それが顔面にヒットする前に我に返った星矢は、両腕を交差させて防御する。
「往生際の悪い奴め……」
「そうさ。諦めの悪いところが取り得なもんでね。必ずお前に一発ぶち込んでやらなきゃ、気が済まない。必ずお前に、痛みというものを教えてやる！」
互いに後ろに跳び退いて距離を取る。次こそ星矢へのとどめになるよう、ミスティは冷静に星矢の隙をうかがう。一方の星矢は、疲労から来る息の乱れを整えるのに精一杯だ。
聖衣の上から防御したとはいえ、ミスティの今の一撃で両腕には痺れが走っている。自分の放った百発の拳は全く効果を見せないのに対し、ミスティから食らった一発はこんなにも威力があるのかと、その実力差を思い知る。
「そうか……そういうことか」
天から降ってきたかのように、星矢の脳裏に浮かんだ直感。それは、ミスティの力に屈することではない。まだ試していなかった技を、ミスティにぶつけてやろうという意気込みだ。
「いくぜミスティ。今度こそ……今度こそだ。今度こそ、必ず俺の拳はお前の防御を突きぬける」
「一つ覚えの流星拳か？ 中途半端な力を身につけた者が陥りやすい思考だな。自分の能力が至高であると考え、自惚れ、それにばかり頼ろうとする。さあ、撃ってくるがいい」
「今度のを、今までと同じ流星拳と思うなよ……。高まれ、俺の小宇宙よ……あの富士の風穴での戦いを思い出すんだ」
再び星矢の両腕がペガサス座の形を作る。二重に三重に星座を描く。秋の夜空は、いつしか星矢の頭上に満天の星を輝かせていた。その内の一つ、煌く十三の星こそ星矢の守護星座であるペガサス座だ。天馬星座の導きによって地上に誕生した聖闘士の証だ。
その描き切ったペガサス座の加護によって、再び燃焼する全小宇宙を爆発させて星矢が右拳を放つ。その流星の弾道に、ミスティは虚を突かれた。先ほど、数十発から百発もの流星を生み出した星矢の拳が、今度はたったの一発しか撃って来なかったからだ。
「もはや一発の流星しか撃てぬほど衰弱しているということか……いや、違う！ こ、これは……」
ミスティは、すぐに要領を得た。だからといって防ぎ切れる代物ではない。たった一発しか放たれなかった星矢の拳であるが、そこには百発分の流星全てに匹敵する小宇宙が込められていた。
「百発の流星を一つに集約したというのか……これは彗星!? うおおっ！」
ペガサス彗星拳。新たに編み出された星矢の必殺拳は、初めてミスティの防御を打ち破って、ボディにヒットした。薔薇の蕾のような唇から、同じくらいに赤い血がこぼれ出している。聖衣の上からでも、十分なダメージを与えたに違いない。
「まさか……まさか、ペガサスの小宇宙がこれほどまでに増大するとは……。それだけではない。この窮地において驚天動地の戦法を思い付き、更には実現してみせるとは……。こ、この男……並の青銅聖闘士を遥かに凌駕している」
「どうだ、ミスティ……それが傷の痛み。それこそが、本当の男の勲章ってもんだ」
既に何発も受けた後で、星矢はやっと一撃を食らわせたに過ぎない。それでも星矢の表情には誇らしさが浮かんでいた。晴れ晴れとした男の表情だ。
それを前にしてミスティも動揺を鎮め、冷静に口元を拭う。そこには不敵な笑みさえ現れていた。
「ふん。効かぬな。お前の一撃ごとき、このミスティには蚊に刺された程度にも効かん」
「何を……強がるな、ミスティ。男っていうのは、自分が受けた痛みを認め、自分を倒した相手を認めるもんだ。お前みたいに強がっているのは、ただ女々しいだけだ」
「青二才め。お前の方こそ分かっていないようだから教えてやる。我ら聖闘士は皆、アテナの下で戦う闘士なのだぞ。美しさを信条とせねばならぬ……傷ついた醜い姿を嫌悪せねばならぬ。自らの体を傷つけない完璧な勝利を、アテナに捧げるために戦う……それが聖闘士としての務めだ！」
口元から漏れる血を、決して認めないかのように拭い続けるミスティ。胸に受けた彗星拳が痛むのか、額には汗がにじみ、美しい顔を苦痛で歪ませている。
「だから……私は、今の彗星拳による一撃も認めない。お前のことも認めない。お前は聖闘士の掟に背いた反逆者……私は、それを誅殺するために派遣された聖闘士。我ら聖闘士に戦いの女神アテナがついている以上、負傷と敗北はアテナに対する反逆も同義なのだ。私は決して……己を反逆者として認めない！」
ミスティの右手に、高められた小宇宙が集められる。ミスティの怒りと執念の小宇宙が、それだけでブラックホールを生み出しかねない強力な重力波へと変換される。
「受けてみよ、ペガサス……お前の彗星拳もろとも、聖衣もろとも超重力にて粉砕してくれる。マーブルトリパー！」
瞬間的に生み出された重力が、空間さえも捻じ曲げる。その渦に巻き込まれ、星矢は地面へとめり込まれていった。まるで全身に、いや全身を取り巻く空気中に何トンもの錘を乗せられたようだ。
だが星矢もマーブルトリパーを受けるのは、これで二度目。勝算はある。むしろ最後の勝機を得るために、わざと受けたようなものだ。
「墓穴を掘ったな、ミスティ……お前自身の技と……ここが海辺だったことが、お前の敗因だぜ……」
今にも押しつぶされそうな星矢の言葉。少し前のミスティであれば、格下の青銅聖闘士の戯言と相手にしなかったであろう。だが、直前に星矢の底力をはっきりと見せつけられたがために、警戒心と不安とが胸を支配した。
次の瞬間、ミスティは我が目を疑った。重力をかけられ、潰れる寸前であった星矢の体が大きく飛び上がったのだ。
「俺がお前の技を食らったのは、このためだぜ。高くジャンプする時は、一度体を沈める必要がある。お前の重力の反動で、俺は夜空にまで翔け上ってみせる！」
そして飛翔する途中で星矢はミスティの体を掴むと、そのまま羽交い絞めの形を取る。咄嗟の出来事であったのと予想以上のスピードから、ミスティは振り解くことが出来ない。
「ペガサスローリングクラッシュ！」
ミスティを羽交い絞めにしたまま、星矢は天高く舞い上がり、頂点に達すると身を反転させる。今度は頭を下にして、海面に向かって真っ逆さまに落ちていく。
「俺と一緒に海の底まで行ってもらうぜ、ミスティー！」
「うおぉ……ペガサス、自分もろとも死ぬつもりか!?」
轟音と共に、水しぶきが舞う。頭から海面に激突した衝撃から、星矢もミスティも目を回して気を失いかけた。それでも星矢は、ミスティの束縛を解かない。がっちりと両肩を固められた状態で、ミスティは大量の水を飲み込んで喉を詰まらせる。
「い、いかん……ダメージを負うわけには……」
そう思って、もがけばもがくほどに逆に水中では体力を奪われてしまう。いかに鍛え抜かれた聖闘士であっても、その身は人間。あっという間にミスティは溺れてしまった。
混濁する意識の中、ミスティの脳裏に一人の男の顔が浮かんでいた。
南半球からやって来たその男と、ミスティは初めての任務に向かっていた。聖闘士としての修業を終え、晴れやかに聖衣に袖を通したことが嬉しかった。今よりも若い時分であり、浮かれていたのだ。それは慢心であり、その慢心が油断を生んだ。油断は任務の失敗という結果だけではなく、同僚に負傷までさせてしまった。自分の慢心が無ければ、避けられたであろう負傷を。
アテナの名の下に与えられた任務の失敗。油断した自分を庇った事によって失われてしまった同僚の左目。無傷の勝利を求めるミスティの理念は、あの時の自戒が始まりであった。そして今日、初めて負った傷の痛みと一緒に、ミスティの肉体は理念ともども海の藻屑と化した。
「ム、ムウ様！ 星矢が海に……」
日本から四千キロメートル離れたジャミールにおいて、ムウは弟子の貴鬼に星矢とミスティとの戦いを見せていた。
ムウは並み居る聖闘士の中でも稀に見る、超能力を駆使する闘士サイキックソルジャー。その存在は、少なくとも白銀聖闘士以上でなければ見当たらず、その中にあってもムウの卓越した超能力は強大無比。遠く離れた異国の様子を映し出すなど、造作もないことであった。
「ミスティは息絶えたか……この勝負、星矢の勝ちのようですね」
映し出された日本の海中に向かって、ムウが一つ念じてみる。それだけで沈みゆく星矢の身体は陸上へと浮かび上がり、その呼吸をも蘇生させた。
「ミスティは最後まで、自身の肉体に傷が付くことを躊躇った。ですが星矢は、自身が傷つくことはおろか、自身の命さえ省みずに格上のミスティに果敢に挑んでいった。それがギリギリのところで星矢に勝利をもたらしたのです」
見知った仲である星矢の生存を、純粋に喜んでみせる貴鬼。その傍らで、ムウは静かな眼差しの中にも某かの期待を込めて日本の光景を眺めていた。
「白銀聖闘士さえも倒してしまえるとは……やはり、老師の憶測は当たっておられたのか。星矢たち青銅聖闘士の側にこそ、真のアテナが付いている。彼らが、その身を犠牲にしてでも守ろうとしている日本の城戸沙織……彼女こそ、現代のアテナなのか」
師のつぶやきに、貴鬼もハッとなって仰ぐ。幼い頭脳を巡らせる必要もなく、聖闘士であればその言葉の重さも容易に分かる。だが今はまだ、ムウの目は日本の少年たちを見守るだけに留めていた。彼らの側にいる城戸沙織が本当に女神アテナであるのかを見定めると同時に、少年たちの成長と勝利を見守り続けていた。
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