「白銀聖闘士」編
第二話 ケンタウルス座のバベル
～白銀の意地～
「馬鹿な、そんなはずは……」
決して、起こり得ることのない事態であった。相手は、たかが
後詰めとして控えていたバベルも、自分の出番は無いものと思っていたが、そうはいかなくなったようだ。
「いいだろう。ミスティの弔い、このケンタウルス星座のバベルが遂げてくれよう」
両肩に付けられた大きなトゲを始め、鋭角的な意匠の白銀聖衣は、そのまま彼の好戦的な性格を表すものであろうか。バベルは標的である四つの小宇宙の位置を正確に掴みながら、その内の一つに焦点を絞った。
「ミスティを破ったのはペガサス……相手にとって不足は無いが、それよりも先に屠らねばならぬ奴がいる」
自分のいる場所が日本のどこなのか、日本人の父とロシア人の母との間に生まれ、これまでの人生のほとんどをロシア共和国で過ごした氷河にとって、日本の風景は馴染み深いものではない。それでも、北天に輝く白鳥座の主星デネブの光だけは見失わない。それを目印に、城戸沙織の待つ東京を目指していた。
「悪いが、俺は先を急いでいる身だ。用件なら手短に頼むぞ」
後ろを振り返ることもなく、背後に現れた刺客に声を掛ける。その不敵な態度に、追手のバベルは鼻につくものを感じた。
「ならば単刀直入に言おう。キグナス氷河……
その言に氷河も足を止める。視線だけを振り返り、自分に向かって攻撃的な凝視を投げ掛けるケンタウルス星座の聖闘士を確かめる。
「白銀聖闘士が、わざわざお越しとはな。俺を買ってくれたのは光栄だが、素直に始末されるほど聞き分けは良くないぜ」
「減らず口を聞きに来たのではない。だが、お前の心変わりだけは聞かせてもらうぞ」
「心変わりだと？」
バベルの視線が、いっそう厳しさを増す。とうとう氷河も体ごと振り返り、正面から刺客と向き合う。
「そうだ。お前は、まさか自分の使命を忘れたとでも言うのか？ 日本において城戸沙織とかいう小娘が世界中の聖闘士を集め、
バベルの熱弁に乗せられた大義。それは氷河も、散々に聞かされてきたことであった。
母と共にロシアで暮らし、その母の死後に実父のいる日本へと引き取られたのが七歳のころ。半分は日本人の血が流れているとはいえ、金髪碧眼の容姿は周囲の子供たちとの間に深い溝を作っていた。
その翌年から六年間、母の遺体の眠る東シベリアで血ヘドを吐くような厳しい特訓の日々を越え、とうとう白鳥星座の聖衣を手に入れたのだ。聖闘士としての初任務は、同じ青銅聖闘士である同世代の少年たちの抹殺。
「銀河戦争で私闘を繰り広げ、聖闘士の掟を破ったペガサス星矢、ドラゴン
「そうとも。敵に対しては非情になれ……それが東シベリアの地で、師から教わった訓示だ。だからこそ、一度は同じ孤児院で過ごした仲である三名の抹殺にも、異論を唱えることなく日本へと向かった」
淡々と悪びれる様子も無く語る氷河の姿勢に、バベルは頭に血が上るのを覚えた。己の使命を自覚していながら、それを全うせずにいる若造の姿に。
「その三名、未だにのうのうと生き延びているではないか！ その上、貴様まで奴らと一緒になって城戸沙織の軍門に下り、その力を聖域から離れたところで恣意的に行使している。言い逃れは出来んぞ！」
バベルの言い分に、氷河は一言の弁明も出来ないでいた。命令を下した聖域から見れば、氷河の背信行為は覆すことの出来ない事実。氷河自身、それを否定する術を知らなければ、そんなつもりも無かった。
「確かにな。同じ孤児院育ちとはいえ、外国生まれの俺にとって日本は、あまり住み心地の良い場所とは言えなかった。星矢たちと仲良くした記憶も無かったしな。だから聖域から奴らの抹殺指令を受けた時、俺は何も感じなかった。一切の罪悪感も無く、ただ指定された敵をクールに倒し、与えられた任務を遂げるだけだと考えていた。だが……」
六年の時を経て再会した星矢たちは、氷河の記憶にある姿とは全く異なっていた。自分たちを待ち受ける運命も知らず、両親を知らない寂しさを互いに埋め合っていた子供たちの姿は既に無く、それぞれに厳しい修行を乗り越えてきた戦士だけが存在していた。
星矢も紫龍も瞬も、氷河が考えていた以上に自立し、己の確固たる信念を持って戦いに臨んでいた。銀河戦争という、はたから見れば興行の見世物としか思えないような私闘でも、そこに挑む戦士たちは己の人生を懸けていた。
「冷たい永久凍土の地で生まれ、暮らし、修行を重ねてきた俺は、いつしか自分の心まで冷たく閉ざしていたようだ。それが、あいつらの熱い魂に触れることで迷いが生じた。星矢たちは、なぜ命を懸けてまで掟に背いて戦うのだろうか。彼らは、本当に粛清されなければならない反逆者なのだろうか。彼らを、こうまで焚き付けるものとは一体何なのだろうかと……その正体こそ銀河戦争の提唱者、城戸沙織だったのだ」
遡ること十三年前、世界有数の財団法人であるグラード財団の総帥が、ギリシアを訪れた際の話。
当時のグラード財団総帥、城戸光政は既に高齢の身でありながら、畢生の活動を精力的に続けていた。日本中の孤児を引き取って養うなど、自らの資産をボランティアに投じるのも、その活動の一環だ。
ギリシアには遺跡保護の目的で訪問していた。その折、現地民でも滅多に近づかないような場所に足を運んだ。年代物の崩れた神殿、その瓦礫を踏み分けて遺跡の破損状態を詳しく調査していた。
若い時分から傾けてきた作業である。高齢であろうと、単身でどんどんと奥地へと進んでいった。神話の時代から取り残され、人々から忘れ去られた悠久の都。人の気配など、まるで感じられない遺跡の奥地で、城戸光政は一人の少年に出くわした。
「おい、君！ どうしたんだ？ しっかりしろ！」
ギリシア人と思われる半裸の少年は、全身を血で濡らして息も絶え絶えの状態であった。その傍らには、黄金に輝く大き目の箱。そして、少年の惨状とは対照的に穏やかな寝顔をたたえる女の赤ん坊。この異色の取り合わせに、光政は動転する気持ちを辛うじて抑え込んだ。
「わ、私は……アイオロス。ギリシア聖域に仕える、アテナの聖闘士」
「なに、アテナの聖闘士？」
少年の口から出て来た、聞き慣れない言葉を繰り返す。アイオロスは、もはや目も満足に開けられないほど衰弱している様子であったが、それでも赤ん坊だけはしっかりと腕の中に抱いている。死の間際にいるのは明白だ。その間際にアイオロスは唇を震わせながら、何とか光政に伝えようとする。
「聖域に、アテナのお命を奪おうとする邪悪が現れた。何とかアテナを救い出し、ここまで逃れてきたが……これまでのようだ。この赤ちゃんこそ数百年に一度、天が地上へと遣わすアテナの化身……私に代わり、この子を邪悪から守っていただきたい」
両手に収められた赤ん坊を、ゆっくりと光政に差し出すアイオロス。その意思と共に光政が受け取ると、少年の手は力無く地面に落ちた。
「おい！ しっかりするんだ！」
「私の命は、もう尽きる。いずれ大地の平和を守るため、正義の聖闘士たちがアテナの下に集うはず。それまでアテナを守り、貴方が見込んだ少年に
全てを語り終えるとアイオロスは力尽き、息を引き取った。後に残された光政は、その遺志に背くことなく自身の生涯と財力とを聖闘士の育成に注ぎ込んだ。
光政は慈善事業で辣腕を振るう一方で艶福家としての一面も持っており、各地に落とし胤を用意していた。それは、自分を愛してくれた女性にせめて名残を置いていたのか、はたまた自分の事業を継がせるための候補者を欲しがったのか。
いずれにせよ、光政は日本中から自分の血を引く少年たちを集めた。そして、それぞれを世界中にある聖闘士の修行地へと送り込んだのだ。自らに託された、アテナを守護する聖闘士とするため。例え子供たちから恨まれることになろうと、見ず知らずの自分に思いを託したアイオロスの遺志。そして、地上の正義と平和だけは守り抜かねばならなかった。
月日は流れ、光政の手元で女の赤ん坊は深窓の令嬢として何不自由なく育てられた。表向きは城戸光政の孫娘として。
そして運命の五年前。光政の往生と共にグラード財団の総帥としての地位と遺産を受け継いだ孫娘、城戸沙織は己の出生と宿命の全てを聞かされた。地上を守る女神アテナの化身。その神託に従い、聖闘士たちを束ねて邪悪と戦う。沙織は、全てを受け入れた。
銀河戦争の開催は、世界中に飛んだ聖闘士たちを呼び集めるため。そして彼らを競い合わせることで、彼らの中から射手座の黄金聖衣を纏うにふさわしい聖闘士を見定めるため。そして、もう一つ。十三年前にアテナの命を奪おうと画策した聖域の邪悪を浮き彫りにするため。
銀河戦争で、わざと聖闘士の掟を破れば聖域も動きを見せるはず。聖域に巣食う邪悪がアテナ殺害未遂の事実を隠蔽し続けることが出来たとなれば、きっと中枢にまで蝕んでいるはず。そして、その邪悪にとって射手座の黄金聖衣は是が非でも手元に安置したい物のはず。アテナの側に黄金聖闘士が誕生したとなれば、その聖闘士に自分が倒される運命なのだから。
「黄金聖衣は、言わば敵を誘い出す餌。だからこそ黄金聖衣を奪い去った暗黒聖闘士たちを、俺たちは倒しに向かったのだ。星矢も紫龍も瞬も、そしてこの俺も沙織お嬢さんをアテナと認めたからこそ従っているのだ」
バベルの望み通り、聖域に背いた理由を語る氷河。だが、それを納得するには確証が無さすぎる。
「世迷言をほざくな、小僧。聖域に邪悪が入り込んでいるだと？ 城戸沙織がアテナの化身だと？ アテナは聖域の最奥、アテナ神殿でギリシアのために祈り、我ら聖闘士を導き続けているのだ。遠いシベリアや日本で過ごした貴様らには、分かるまいがな」
「ほう、聖域に常駐していながらアテナの不在も見抜けぬとは、真贋の区別もつかぬ見せ掛けの聖闘士か」
氷河の挑発は、バベルのプライドを傷つけるのに十分であった。聖域に在中する、白銀聖闘士としてのプライドを。戦いでは白熱し、冷静さを忘れた方に隙が生まれて敗北する。氷河の狙いは、挑発によってバベルに隙を作らせることだ。だが、実際にバベルの心を覆ったのは怒りではなく、深い悲しみであった。
「なぜ、そうまで頑なに逆らうのだ。聖域に……お前を育てた師に！」
師。バベルから聞かされた中で、その言葉だけが氷河の胸に突き刺さる。ふいに脳裏に浮かぶのは、厳しい極寒の地にあって凛とした佇まいを崩さずにいた恩師の顔。
「知っているぞ。お前に修行を施したのも、そして銀河戦争に加担した青銅聖闘士たちの抹殺指令を下したのも、カミュ様であると」
「我が師、カミュ……」
十四歳にしては不遜な氷河も、この人にだけは頭が上がらないという人物がいる。それが東シベリアの師匠カミュだ。当然、それも恐れから萎縮しているという訳ではない。偉大な聖闘士の先輩として、また六年間を共に過ごした間柄から、厳しさの中にも感じられるカミュの温かさを尊敬しているからだ。
「カミュ様は、お嘆きだ。ご自分が手塩にかけて育て、期待を込めていたキグナスが聖域に背いているのだからな。これで聖域におけるカミュ様のお立場も、危うくなるやもしれん」
「お、俺が師カミュの立場を……」
「無論、カミュ様が嘆いておられるのは、ご自分の立場についてではない。弟子の不始末を詫びるためなら、己の命さえ投げ出される方だ。もっとも、カミュ様ほどの聖闘士を失うような痛手を教皇猊下が選ばれるとは思えんがな。カミュ様が何より嘆いているのは……」
「俺が、未だにクールになり切れず、過去の情に流されて任務を放棄していることに、か」
分かっていながら、理解していながら、なぜ氷河は師に逆らうのか。聖闘士として以上に、一人の人間としてバベルは氷河の人格を疑う気持ちであった。
「聖域からは、そうも見えよう。だが、俺は日本に来て仕えるべきアテナを見つけた。だから聖闘士としての本分を見失ったつもりはない。それが罪だというのなら……その罪のために師カミュに討たれるのであれば、俺は師とも戦おう。それまでは誰にも討たれるつもりはない」
敵に対しては非情になれ。その教えを、氷河は忘れたことはなかった。その真意も理解していた。アテナの名の下に邪悪と戦う聖闘士が、敵を倒すたびに心を痛めていては生死に関わる。カミュは弟子を想うからこそ、あえて弟子に非情の心得を授けたのだ。
「俺が聖域に背くのは、星矢たちとの友情にほだされた訳ではない。あくまで俺自身が沙織さんをアテナと信じ、それと反目する聖域を悪と考えているだけだ」
「そうか……」
バベルの心も定まった。もはや氷河に対して、怒りも憐みも感じない。ただ聖闘士の掟に従って、目の前の敵を討つのみだ。氷河が破り、捨て去った掟と任務に従って。
「俺もまた、お前に対して非情となろう。一縷の躊躇いも情も無く、お前を葬り去る」
もはや言葉は不要。互いに距離を取り、戦闘の構えを見せる氷河とバベル。高まりゆく二人の小宇宙は、対照的な輝きを見せている。
「カミュ様直伝の氷の小宇宙か……ならば、それすら燃やし尽くしてくれよう！」
バベルの両手から放たれた小宇宙の弾丸。その一つ一つが、鬼火となって氷河に襲い掛かる。
「俺の拳は、青銅聖闘士を遥かに上回るマッハの拳。その摩擦熱が紅蓮の炎を生み出すのよ。さあ、聖衣ごと焼かれて灰となれ！」
バベルの炎は、激しさを増して氷河を取り巻く。周囲の酸素を全て焼き尽くすかのように燃え盛り、氷河を包み込む。この必勝の戦法に、バベルは勝利を予感した。
「ようし、そろそろ骨まで灰になったころだろう。炎よ、鎮まれ」
バベルの掛け声一つで、あれほど猛っていた炎があとかたもなく消え去る。後には、炭と化した氷河の遺体だけが残っているはずであった。ところがバベルの目に飛び込んでいたのは、聖衣も肉体も火傷一つ負わずに平然と立っている氷河の姿であった。
「馬鹿な!? 貴様、どうやって俺の炎を防いだ!?」
「フッ、一応は白銀聖闘士を名乗るだけはある。大した手品だな。だが、暗黒聖闘士との死線を潜りぬけてきた俺にとって、お前の小宇宙は白銀の中でも最低レベルだぜ」
灼熱の炎に包まれていたとは思えないほど、汗一つかかずに軽口を叩き続ける氷河。その身に纏う白鳥星座の聖衣に関する逸話を、バベルは思い出した。
「そうか、その聖衣は一万年前から溶けたことのないシベリアの永久氷壁の中で封印されてきたという。それゆえ、熱に対する異常なまでの防御性能を誇っているという訳か」
「その洞察力が正しいかどうか、もう一度、自慢の炎を見舞ってみたらどうだ？」
よほど聖衣の防御力に自信があるのか、氷河はなおもバベルを挑発する。それに乗せられた訳ではない。今見せた以上の火炎を作る自信があるからこそ、バベルは再び攻撃の構えを取った。
「ならば今度こそ、キグナスの聖衣を溶解し、その鼻っ柱をへし折ってやろう」
ケンタウルス座の下、バベルの小宇宙が急速に高まっていく。それを悟り、氷河も身構える。だが、そこに焦りは無い。攻勢のバベル以上に、守勢の氷河には防ぎ切る自信があった。
「受けよ、真紅の炎の渦を……フォーティアルフィフトゥラ！」
今度の炎は、火の玉ではない。激しい勢いで渦を巻いて、その炎熱だけで全てを溶かし尽くすほどに盛っている。氷河も気合を入れ直し、真正面から炎を受け止める。
「今度こそ終わったか、キグナス……なに!?」
氷河に襲い掛かった火炎が突如、天へと向かって伸びていく。それはバベルの意図したところではない。熱と炎を操るバベルの本領を超えて、氷河が炎を退けたのだ。その証拠に炎の柱は、単に軌道を変えただけではない。まるで樹氷と見まがうが如く、紅蓮の炎が白一色に染まっている。先ほどまでの高熱など、一切感じさせない氷の塔が立っていた。
「キグナスの聖衣については知っていても、俺の修行地である東シベリア海についての知識は無いようだな。そこは、雪が結晶のまま降り注ぐ極寒の世界。絶え間ない低温は、生物にとっては死と隣り合わせ。正に氷と宝石の墓所……光り輝いて天から落ちる結晶をダイヤモンドに例え、人々は賛美と恐怖を込めてこう呼ぶ……ダイヤモンドダスト！」
落ち着き払った平生の態度からは、想像もつかないほど響き渡る氷河の雄叫び。それと同時に氷の柱が砕け、周囲の様子も一変する。季節は、まだ秋。雪が降るには早すぎる時期だ。にも拘らず周辺の空気は張り詰め、青白く染まって肌に突き刺さる。地面には霜が降り、空からは雪がちらついている。バベルの炎熱など、何の意味をもたらさないほどの低温世界に変わっていた。
「見ろ、お前の聖衣も完全に凍りついているぜ」
氷河に指摘され、バベルはやっと自分の体にも異変が起こっていることに気が付いた。バベルの業火にも耐えるケンタウルス星座の聖衣にも霜と氷が付着し、結晶と化している。
「なんだと……。あり得ない！ こ、これは白銀聖衣だぞ。白銀聖衣の凍結温度……それは零下二百度を必要とする。地上では、決してあり得ない温度だ！」
驚きと焦りから、全身を震わせるバベル。その僅かな震動によって、ケンタウルス星座の聖衣は音を立てて崩れていった。剥き出しとなった生身の肉体に、容赦なく冷気が襲い掛かってバベルの体温を奪う。
「勝負あったな。時間を置かずとも、お前は体温と共に意識を奪われて昏睡に入る。そして、そのまま息絶えることだろうよ」
わざわざ、とどめを刺すまでもない。東京へ戻るために踵を返そうとした氷河の足を、バベルの意外な行動が制止する。凍え切った体でも、なお死力を振り絞って拳を振るおうとしているのだ。
「まだだ……俺は、誇り高きアテナの聖闘士……白銀聖闘士のバベルだ！ たかが青銅聖闘士の若造に、後れを取ってたまるか」
「強がりは、よせ。既に、お前の筋肉は凍傷によって動かない。神経さえ麻痺しているはずだ。おとなしく死を待っていれば、苦しむことなく逝けるのだぞ」
バベルの肉体は、とうに死んだも同然。体内に残された小宇宙でもって、辛うじて動いているに過ぎないのであろう。その残された小宇宙を、一矢報いるために使おうとしている。
「お、俺は……俺はケンタウルス星座のバベル！ どれだけの相手であろうと、決して退くことだけはせん！」
ダイヤモンドダストが完全に決まったことは、他ならぬ氷河が一番よく分かっている。バベルの命など、持って数分なのだということを氷河は知っている。それだけに氷河には、バベルの行動が不可解であった。
「なぜだ……これほどまでに明確な実力差があるというのに、なぜ立ち向かってくる？」
「知れたこと……俺がアテナの聖闘士だからよ！ アテナの名の下に地上を守る使命を帯びた聖闘士だからよ。その使命に誇りを抱いているのだ。偽りの女神に尻尾を振る貴様らとは、格が違う。聖闘士とは、アテナの下で一致団結して邪悪に立ち向かう闘士。ならばこそ、聖闘士の和を乱した青銅聖闘士は……命を投げ打ってでも成敗する！」
バベルが両腕を伸ばし、掌を開いた。先に見せたフォーティアルフィフトゥラを撃ってくる。そう感じた氷河は、咄嗟に構えを取る。両腕を白鳥の翼のごとく羽ばたかせ、白鳥座のノーザンクロスの軌跡を描く。その時こそ、氷河の全身を巡る全ての小宇宙が爆発する。
「ダイヤモンドダストは全ての原子が静止する、静寂の世界。言わば『静』の技よ。だが、これから披露するのは『動』の技。生み出した超低温の冷気を、一気に相手に見舞う凍気の嵐……ホーロドニースメルチ！」
アッパーカットと共に、氷河が巻き起こした氷の竜巻。それが炎の渦より一瞬早く繰り出され、バベルを襲う。身を守る聖衣も無い今、バベルの敗北と死は決定的だ。耳をつんざくような猛吹雪がバベルの体を通り過ぎると、氷河はツバを一つ飲み込んだ。
「こいつ、まだ……」
拳を放った姿勢のまま、バベルはそこに立っていた。重度の凍傷に掛かった足でホーロドニースメルチを耐え、眼光鋭く氷河を凝視していた。例え白銀聖衣を着ていようと、堪え切れるような生半可な凍気ではない。何がバベルに力を与えているのか。その憶測もままならない内に、バベルが一歩一歩と、重い足取りながら氷河に近づいてくる。
「こんな、おぼつかない足取りで……。既に炎を生み出すだけの小宇宙も無く、風前の灯である命を投げ出して俺に向かってくるのか、この男……。この、ケンタウルス星座のバベルという男は」
それは、正しく奇跡であった。聖域に巣食う邪悪に操られた存在であるバベルに、何ゆえここまでの奇跡が起こせるのか。
それこそ、信義のなせる業なのであろう。バベルは、バベルたち白銀聖闘士は自分たちの所属する聖域にこそ、アテナの正義があると信じている。その信念のために戦い、信義ゆえに勇気と力を得て戦っている。
白銀聖闘士の一員として、勝ち目の無い戦いであろうと放棄することなく立ち向かう。その白銀の意地と底力に、氷河は思うところがあった。
「同じだ……」
聖闘士の総本山である聖域の命令に背き、私闘を禁じるという聖闘士の掟を破ってまで城戸沙織に仕える氷河の生き方。それは、長い聖闘士の歴史から見ても異色の行いであろう。それでも、なお氷河たちが自分の道を信じて邁進していけるのは、信義と信念のためだ。
城戸沙織をアテナと信じ、沙織に尽くす道を正義を信じ、共に戦う仲間を信じて突き進む。それこそが、この時代に生まれた聖闘士にとって正しい道であるという信念を持って、氷河は聖域や師にさえも背いている。
「バベルも……他の白銀聖闘士も皆、聖域と教皇を正義と信じ、その信義に従って自らの道を進んでいる。仕える相手が異なるだけで、俺たち青銅聖闘士と信念は何一つ変わらない。この戦いは、正義が邪悪を滅ぼすのではなく、正義と正義……正しい者同士の戦いになるというのか」
それでも氷河の心は揺るがない。その小宇宙から放たれる凍気と同様、あくまで氷の精神でもってクールに戦う。その信念だけを胸に、一歩ずつ向かってくるバベルを見据える。
「いいだろう……お前もまた、信念と誇りに生きる聖闘士。ならば一片の容赦もすることなく、お前を討つのみ！」
バベルの体は、もう氷河とは指呼の間だ。右腕に込められた凍気を、小宇宙と共に眼前のバベルへと放つ。それに応じるかのように、バベルの体内からも今までにないほどの熱量が猛り出す。太陽を宿しているかのようなバベルの命の炎が、正面から放たれた氷河の凍気を跳ね返す。
「なに!? バベルの炎が初めて、俺の凍気を上回った！」
己の熱き信念の全てを小宇宙に託し、全身に灼熱の小宇宙を纏ったバベル。諸手を振り上げ、鬼の形相で氷河に迫る。凍気が通じないのであれば、拳の直撃で迎え撃つしかない。視界を覆うバベルの黒い影に向かって、氷河も生身の拳を打ち込む。
「…………」
最後の攻撃は、互いに打たれることなく終焉を迎えた。バベルの小宇宙は氷河の凍気を跳ね返した時点で底をつき、必死の形相のまま立ち往生していた。それを悟った氷河の拳もまた、バベルの胸に突き刺さる寸前で止められていた。
正義と正義の戦いは終わった。氷河が拳を下ろすと、辺りを支配していた冷気も同時に消え失せていった。時間を取られる訳にはいかない。聖域の邪悪が沙織の存在に気が付き、自分たち青銅聖闘士ではなく沙織に刺客の魔の手を差し出す前に東京へと戻らなくては。
「墓は作らないぜ、バベル」
自分が倒した敵に温情の言葉を掛けることすらせず、氷河は身を反転させる。自分はこの先も、聖闘士として熱い魂と信義を擁した相手と戦わねばならないのだ。たった一人の敵に情けを掛け、心に隙を作る訳にはいかない。
「躊躇う訳にはいかない。相手が聖域であっても、大恩ある我が師であっても、同じ正義を信じる聖闘士であっても……。俺一人の個人的な感情のために、守るべきアテナを……ひいては地上の平和を脅かす訳にはいかないのだ」
己の心を殺し、涙を飲んで氷の闘士は歩き出す。その道の果てに、必ず真の正義と平和があることを信じて。
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