「白銀聖闘士」編
第三話
〜昔日の友誼〜
「なんだと、ミスティとバベルが!? 馬鹿を言うな、あいつらが
「だが、現実に二人の
同僚の白銀聖闘士に諭され、モーゼスと呼ばれた巨躯の男は、しばし呆然と自失した。
「まさか、ミスティが……」
モーゼスの巨木のように太く、岩石のように鍛え抜かれた腕がわなわなと震える。聖闘士として
それを拭え、堪えろと側に立つ同僚には言い出せなかった。涙を流しているのは、モーゼスの右目だけ。左目は、とうの昔に潰れて失明している。その傷こそ、親友ミスティを庇って負ったもの。そのミスティこそ、モーゼスを置いて天へと旅立ってしまった友。それを知っているからこそ、モーゼスの悲涙を非難することができなかった。
「……アステリオン、次の指令は何だ？ 俺たちに課せられた、次なる任務は。まさか待機などという、戯言ではあるまいな？」
悲しみに暮れているとはいえ、モーゼスも勇猛なる聖闘士の一味。いつまでも泣きわめいているよりは、その悲しみを生み出した相手を屠りに赴くことを本懐とする。
「もし、そうなら俺はアルゴルに……いや、教皇猊下に直談判しに行く。ミスティとバベルを倒した青銅聖闘士の抹殺指令を、俺たち二人に下してくれとな」
アステリオンも同じだ。感情を抑え込んではいるが、苦楽を共にした仲間の死を悼んでいないはずがない。友の仇を討つことが、最大の供養になると信じている。その二人に声が掛かる。古来より女人禁制とされた聖闘士の世界では珍しい、女の声だ。
「心配は無用だよ。聡明なアルゴル殿は、青銅聖闘士の抹殺をお前たちに任せるってさ」
「
亜麻色の髪と、しなやかな肢体とは若くて健康的な少女の象徴か。だが、身に纏った
「指揮はアステリオン、お前が執るようにってさ。お前たち二人……そして、私も日本への派遣を命じられたよ」
「なに、お前がか？」
仮面に遮られ、魔鈴の表情は窺えない。それでも、その胸中は穏やかではないだろう。彼らに与えられた使命は、日本にいる聖闘士四人の抹殺。それは、同じ日本人である魔鈴にとって残酷な指令であるだけでなく、標的の一人である
「それを師であるお前が、何も感じぬとは思えない。敵を前に躊躇するような足手まといは不要だぞ」
「言ってくれるね。この仮面が示す通りだよ。女人禁制が掟の聖闘士の世界……そこに女が飛び込むためには、女であることを捨てなくてはならない。私が日本からギリシアに来て、まず与えられたのが女としての性を捨てたことを示す仮面。そして、まず初めに教えられたのが心を閉ざすことだったよ」
女としての感情、優しい思いやり、母性。それらを忘れ、封印し、一人の戦士となること。まだ幼い少女であった時分から叩き込まれた掟は、そのまま魔鈴という闘士の性格となっていた。
「よし、信じよう。だが、念のために俺は自分の耳で直接アルゴルに確かめてくる」
「万が一、お前が俺たちを出し抜こうとしていないかをな」
男たちの反応は冷たいものであった。だが、そんなことにも魔鈴は慣れっこだ。東洋から来た、よそ者であること。禁じられた女聖闘士であること。魔鈴を取り巻く環境は、常に偏見と共にあった。
「私には、やらなくてはいけないことがある。そのためには、安っぽい連中の白眼視なんかに構ってはいられない」
胸に手を置き、遠い東の空を見上げる。そこに馳せた思いと共に浮かび上がる顔は、果たして弟子のペガサス星矢のものであったろうか。それとも彼の知らない、魔鈴自身も覚えているのか定かでない人物のものであったろうか。
東京、城戸沙織の邸宅に星矢たち四人の青銅聖闘士は帰還を果たしていた。もちろん、
「お嬢さん、これで
組み立てた聖衣をパンドラボックスに収めながら、星矢が得意げに話す。死闘に臨む時には、あれほど精悍な表情を見せていた星矢も、厳重なガードを施された城戸邸の中では年相応に振る舞ってみせる。その屈託のない笑顔に、沙織も心を許して微笑み返した。
「ありがとう星矢。
星矢たちは、これが記憶の中にある少女と同一人物なのかと、改めて感心していた。
世界有数の財団の令嬢ということで、沙織は他者を思いやることなく自儘に振る舞う女権力者であった。少なくとも、まだ幼少のころの星矢たちの目に、彼女はそう映っていた。
いずれ城戸光政から名誉と財産とを受け継ぐ身として、華やかな淑女としての未来を歩む沙織にしてみれば、財団の保有する孤児院で暮らす星矢たち孤児は、体のいい遊び道具でしかなかった。与えられた遊具と同じ、自分の意のままとなり、遊び飽きたら捨てられる。星矢たちに注がれる沙織の目は、そんな傲慢な考えに溢れていた。
しかし、六年の時を経て各々の修行地から帰国した星矢たちを迎えた沙織は、全くの別人となっていた。元より可憐であった佇まいは、いっそう美しさを増していたのは想像に難くない。それよりも意外であったのは、かつての孤児を見つめていた目が柔和になっていることであった。
これが、あの傲慢と我儘に満ち満ちた女君主の目であろうか。星矢たちは、記憶の中の沙織と照らし合わせながら、そう思ったに違いない。変わっていたのは、目つきだけに留まらない。かけてくる言葉も労わりと慈愛に満ち、接してくる物腰も気品と尊厳に溢れていた。
体の成長に伴い、内面も成長した結果なのであろうか。それだけではない。彼女は、変わらざるを得なかった。少年たちが聖闘士となるための修行に赴いている間、自分は祖父光政と死別し、その際に己の宿命を聞かされた。すなわち、戦いの女神アテナとしての宿命である。
自分が女神アテナの化身であると知った沙織は、何を思ったか。前より驕り高ぶるようになったのか。さにあらず。自分を待ち受ける過酷な運命以上に、沙織は自分のために邪悪に立ち向かうことになる聖闘士のことを不憫に思っていた。だからこそ帰国した彼らを労わり、心を開いて愛をもって接することを決めたのだ。
彼らの尊敬を集め、導くことが出来るように。彼らの傷ついた体を慰め、安らぎを与える存在になれるように。
「俺たちは沙織さんがアテナの化身であることを知り、そこで合点がいったのです。沙織さんが変わった理由も、俺たちが沙織さんに惹かれていった訳も」
星矢の隣で、長髪の少年が口を開く。その両手首にはまだ、痛々しい包帯が巻かれている。
「紫龍、手首の傷は大丈夫なのですか？」
「なに、これも全ては信じる未来のため。この
言葉の力強さとは裏腹に、疲労に満ちた紫龍の小宇宙を機敏に察知して、別の少年が優しい言葉を掛ける。
「でも、今は休んだ方がいいよ。人間の血液量が元に戻るには、最低でも一週間は必要とするんですから」
少女のように線の細いアンドロメダ星座の瞬だ。その声色からは、真に紫龍を気遣っていることが窺える。だが、実際に休息を必要としているのは瞬の方であることを、沙織は知っていた。
「瞬……貴方には、特に辛い思いをさせてしまいました」
「そんな……確かに、僕も兄さんが暗黒聖闘士になっていることには驚きました。でも、今となっては……」
そこまで言いかけて、瞬は周りの少年たちの顔を見渡す。彼らは、なぜか瞬の視線から逃れるように顔を背け、憮然とした表情をしている。ただ一人、氷河だけはいつもの冷静な様子で応じた。
「瞬、そのことは今は考えるな。俺たちに必要なのは休息なんだ。体も、頭もな」
暗黒聖闘士と渡り合った富士の風穴で、何かあったのだろうか。沙織は彼らの機微を悟り、それ以上の追及は避けた。
「では、お嬢さん、黄金聖衣を頼みましたよ」
「はい、氷河。さあ星矢たちも、温かいベッドを用意させましたから、ゆっくりと休んでちょうだい」
安息の眠りへと誘う沙織の言葉に、紫龍と瞬は顔を見合わせた。互いの顔に浮かんだ疲労を確かめて、これは言う通りにするべきかと考えた。
「それじゃあ、お言葉に甘えさせてもらおうか」
「うん、おやすみなさい」
そんな姿を尻目に、星矢は一足先に部屋を後にしようとしていた。
「ベッドもいいけど、戦い続きで俺は腹が減っちまったよ。ちょっくら飯を食いに出てくるぜ」
「あっ、待って星矢。それなら食堂を開けさせるわ。こんな時間に開いているお店なんて無いでしょう？」
星矢の言動に、どことなく引っ掛かるものを感じ、沙織が慌てて引き止める。だが、星矢は振り返ることなく片手を振って答えた。
「俺たちの孤児院……星の子学園に忍びこめば、ガキたちの食い残しぐらいあるだろうさ」
それだけ言い残すと、後はそそくさと立ち去る星矢。先ほどまで、沙織に笑顔の報告をしていたのだ。未だ過去のことを引きずって、城戸邸にいたくないなどという訳でないことは、沙織にも分かっている。だからこそ無理強いはせず、一人にさせることにした。
紫龍も氷河も瞬も、星矢の気持ちは分かっていた。気持ちの整理がつかないことを理解していた。星矢の態度が変わったのは、明らかに瞬が兄
――今こそ言おう、我が弟……星矢よ。
弟。そんな風に、一輝から呼ばれるのは初めてだった。まだ幼いころ、星の子学園で一緒に過ごしていた時、一輝のことは瞬にとっての兄だと思っていた。それ自体は、今も変わらない。だが実際には、一輝と瞬だけではない。星の子学園で育った多くの孤児たちが、同じ一人の男を父親とする兄弟なのだと一輝は言った。
「その父親ってのが、俺たちに聖闘士としての道を押し付けた城戸光政だなんて……」
母親は違えど、一輝も瞬も紫龍も氷河も星矢と血を分けた兄弟。二つ年上の一輝は、星矢にとっても腹違いの兄ということになる。瞬だけではない。城戸光政の親とも思えぬ所業のために、星矢たちは兄一輝と骨肉の争いを演じさせられたのだ。
その事実が一輝を暗黒聖闘士へと落とし、その結果として富士の風穴での別れへと繋がった。
「でも、俺は信じちゃいない。お前が死んじまったなんてな。そうだろう、一輝……お前は、この世の地獄と言われるデスクィーン島からも生還した、鳳凰星座の聖闘士なんだからな」
一輝が兄であること、一度は死闘を繰り広げたこと。そのことに、わだかまりがあるのではない。全て城戸光政の手の上で運命を操られていたこと。我が子同士を戦わせるよう仕向けた男が父であるという事実が許せないのだ。
その一方で、理解もしている。星矢たちは聖闘士として生まれた自分の宿命を受け入れ、沙織をアテナとして受け止めている。だからこそ、歯がゆくて仕方がなかった。光政が多くの我が子を聖闘士としたのは、孫娘として育ててきたアテナを守るためだという想いを。非情の父もまた、我が身を削る思いであったという事実を認めがたくて。
「せめて一言だけでも話してくれていたら……全てアテナのためだって教えてくれていれば、俺も一輝も今度のような目には……」
孤児の皆が兄弟だと初めから知っていれば、互いに支え合ってこれたかもしれないのに。同じ境遇とはいえ天涯孤独の身だと思い込んでいたからこそ、氷河は壁を作り、一輝は瞬以外に心を開くことなく意固地になっていたのではないだろうか。
星矢も同じだ。星の子学園に預けられた時から、母親代わりを務めてくれた一人の女性。名は
「その俺たち姉弟を引き裂いたのも、城戸光政なんだ……」
思い出の中で、おぼろげとなってしまった姉の面影を追いながら、星矢は一人で親兄弟の縁を噛み締めていた。
東京に集まる四つの小宇宙。その気配を手繰って、ギリシアは聖域から三人の刺客が降り立った。
「アステリオン、教皇猊下にお目通りは叶ったのかい？」
「ああ、今回の人選は猊下のご叡慮らしい。反旗を翻したのがペガサスとなれば、その師である魔鈴、お前にも累が及ぶのは必定。そうなる前に、お前自身の手で片を付けろという事だ。猊下の期待に背くことは許されんぞ」
「そして、その監視役がお前たち二人って訳か……。そっちの人選をしたのは、アルゴルのようだね。お前たちなら適役だよ」
皮肉でも何でもない。二人の能力を客観的に量った上での発言だ。だが、その言葉の奥側にある某かの黒い意思に勘付いたアステリオンは、魔鈴の背にピッタリとくっ付いてきた。
「俺に世辞は通じん。それだけではない……俺に何を期待している、女狐？」
アステリオンの言葉と行動に、モーゼスも魔鈴ににじり寄る。
「やはり弟子は可愛いということか？ 俺たちを出し抜いてペガサスどもを助けるつもりだったか？」
「待て、モーゼス」
前方をモーゼスに、後方をアステリオンに挟まれた状態で魔鈴は身動きが取れない。焦らずともアステリオンには魔鈴の真意を暴く秘策があった。
「……見えるぞ、魔鈴。お前の心の奥底……そう、まだお前が聖闘士になる前……聖域に来る前……女を捨てる前……幼い子供の姿が見える。お前を姉と呼び慕う少年がな」
「それでは、まさか！」
見破られた。そんな魔鈴の心の動揺をも、アステリオンは見抜く。そうなれば、次に魔鈴が起こす行動とは。
「逃がすな、モーゼス！ 魔鈴はペガサスの所へ行くつもりだぞ」
アステリオンに言われるまでもなく、モーゼスも魔鈴の動きを見張っていた。だが、どうしたことか。魔鈴はモーゼスの眼前から陽炎だけを残して頭上へと飛翔している。モーゼスとて魔鈴と同じ白銀聖闘士。その動きを目で追えぬはずはないのに、魔鈴がいつ飛んだのか気が付かなかった。
「違うぞ、モーゼス！ それは幻影……惑わされるな、魔鈴は後ろに回り込んでいる！」
同僚の忠告で我に返ったモーゼスは、咄嗟に後ろを振り返る。アステリオンの言葉の通り、魔鈴はモーゼスの背後に回り込むと、その巨体を見据えて拳を構えていた。
「ちっ、お得意の幻術か！」
「私の考えを知られた以上、お前たちには倒れてもらうよ」
音速のスピードで拳を繰り出す魔鈴。その細腕からは想像も出来ないほどの迫力で、無数の流星を撃ち出す。
「それも違う！ それは空拳……見せ掛けの拳だ！」
アステリオンの声を背中に受けながら、改めてモーゼスは前方を凝視する。飛んできた流星拳はおろか魔鈴の姿さえ、そこにはない。更に奥を見据えると、宵闇の彼方に走り去ろうとしている魔鈴の後姿が見つかった。
「逃すか！」
二メートルを超す体躯とは思えぬほどの速度で、モーゼスが身軽に魔鈴を追う。たちまち追いつかれた魔鈴は襟首を掴まれると、そのまま遥か上空へと放り投げられた。
「カイトススパウティングボンバー！」
錐揉みになりながら落下してきた魔鈴を目掛けて、モーゼスの金槌のような拳の一突きが魔鈴の背中を襲う。聖衣に護られた部位ではあるものの、その強烈な一撃によってモーゼスは魔鈴の骨を砕いた実感を得た。
「うおおおっ」
そして、そのままの勢いで拳をさらに突き上げ、魔鈴の身体をもう一度、空へと舞いあがらせる。鯨の潮に噴き上げられたかの如く、魔鈴の細身の体が宙を踊って真っ逆さまに落ちてくる。その先に待ち受けているのは、モーゼスの必殺の右腕。
「二心には死を……くたばれ、魔鈴！」
マッハの豪腕が魔鈴の頭部にヒットする。仮面こそ割れなかったが、亜麻色の髪を伝って流れる真紅の血がモーゼスの身体に降り注いだ。
「見事だ、モーゼス。これで後顧の憂いなく青銅聖闘士どもの抹殺に迎えるな。いや、待てよ……」
血まみれで倒れる魔鈴に視線を注ぎながら、アステリオンは瞬時に計画を練る。ハウンドの名の示す通り、アステリオンの目は獲物を仕留めるためだけに機能する猟犬のそれと化していた。
「俺の考えが正しければ、魔鈴とペガサスとは間違いなく……。となれば、魔鈴はペガサスをおびき寄せる餌に使えるはず」
口の端を上げてモーゼスに合図すると、モーゼスも心得たように頷いて見せた。
仲間たちは、もう寝静まったころであろうか。
「姉さん……星華姉さんも、やっぱり光政の娘なのか？ だとしたら、地球のどこかで聖闘士としての修業を積んでいるのかもしれない。俺が姉さんから引き離され、ギリシアへと送り込まれたように……」
憎い城戸光政の血が流れていようと、星矢に兄弟まで憎む気持ちは芽生えない。それどころか、一人の戦士となった今でも姉を求める心を捨てられないでいる。誰よりも信頼してきた姉なら、この事実に対してどんな答えを示してくれるだろうか。与えられることのない言葉を模索しながら、星矢は一人で夜風に吹かれていた。
「姉さんには会えなくても、せめて魔鈴さんには相談したい。『いつまでも甘えるんじゃない』って、どやされるかもしれないな。けど、心のどこかで魔鈴さんの説教を望んでいる俺もいる」
その冷たい仮面の奥にある瞳を直に見ることは出来なくとも、その眼差しに含まれる想いを星矢も感じていた。星矢のことを弟子である以上に、手の掛かる弟のような感覚で見てくる魔鈴の目を。七歳のころから六年間、星矢は魔鈴という年上の女性を師と仰ぐ一方で、心の中では第二の姉と呼んでいた。
目をつぶれば、聖域で別れた魔鈴の凛々しい姿が蘇る。それと共に、魔鈴が常に身につけていた鈴の音も聞こえてくるようだ。違う。それは確かに、風に乗って現実に聞こえてきた。
「まさか、魔鈴さんが日本に……」
そんな予測を胸に、神経を研ぎ澄ませる。感じられる。師匠としての厳しさと、姉としての温かさを共存させた懐かしい魔鈴の小宇宙が。自分に呼びかけてくる、魔鈴の魂の叫びが。
「魔鈴さん！ 今行くぞ！」
実際の光景は見えなくとも、絆の直感を星矢は信じた。魔鈴は今、自分の近くに来ている。そして窮地に陥り、自分に助けを求めていると。その直感に胸を騒がせ、星矢はひた走る。
魔鈴が呼んでいるのであれば、どこであろうと向かわねばならない。一人前の聖闘士に育ててくれた恩義からではない。ギリシアという異国で、二人きりの日本人同士で暮らしてきた魂の姉弟愛がそうさせるのだ。星の子学園で共に育った星華のように、自分の目の前から消えてしまわないように。
「魔鈴さん！」
小宇宙を辿りながら走り続けた星矢を待っていたのは、血まみれで倒れる魔鈴の姿だった。うつ伏せの姿勢で、ピクリとも動かない。その名を呼びながら駆け寄ろうとする星矢の前に、二つの影がそそり立つ。
「よく来たな、ペガサス」
「思ったより、ずっと早かったな。やはり魔鈴の危機は見過ごせぬと見える」
自分と魔鈴との間を阻む男たち。その白く輝く聖衣には、見覚えがあった。
「お前たち、白銀聖闘士だな！ 言え！ お前たちが、魔鈴さんを痛めつけたのか!?」
「だとしたら、どうなんだ？」
自分より遥かに上背で勝る容貌魁偉の男が、低く唸るような声で聞いてくる。そんな愚問に言葉で答えるつもりなど、今の星矢には微塵も無い。
「こうするんだよ！ でやぁっ」
瞬間的に、モーゼスのみぞおちに向かって数十発の拳を繰り出す星矢。さしものモーゼスも見切れずに短く呻く。
「ぐっ……何という重い拳だ」
「こ、これが青銅聖闘士の拳か……。間違いない。奴は魔鈴を痛めつけられたことで逆上し、本来以上の力を引き出している。それこそ奴と魔鈴との絆の証明」
「何を、ごちゃごちゃ言ってやがる！ 魔鈴さんがやられた痛みを数百倍にして返してやるぜ！」
完全に頭に血が上った状態の星矢。そんな冷静さを欠いた星矢でさえ、モーゼスから発せられる殺気には慄いた。
「なんだ、こいつの異常な小宇宙は……」
そこに至って、初めて星矢はモーゼスの体を注視した。まず目に付くのが、二メートルを超す巨体であることに間違いはない。だが、それ以上に異様なのは体に付いた無数の傷だ。失明した左目を筆頭に、聖衣に覆われていない部分には大小様々な傷跡が刻まれている。
「これだけの拳を放てる聖闘士……となれば、ミスティを殺ったのは貴様か？」
「ミスティだって？ 確かに、蜥蜴星座のミスティは俺が倒した。お前たちは、その弔いに来たってのか？」
星矢がそれを認めた瞬間、モーゼスの瞳に宿した炎と小宇宙とが、いっそう激しく燃え盛っていった。この男は、自分に対して並々ならぬ憎悪を燃やしている。本能的に星矢も防御の小宇宙を高める。
「ミスティは、この白鯨星座のモーゼスにとって莫逆の友。その友を殺した奴は、聖域の命令に関係なく必ず屠ってくれる！」
「そういうことか……だがな、俺にだって死ねない理由がある。ここで一人で死ぬのは、あいつらとの友情を裏切ることになる。それに魔鈴さんを傷つけられた俺の怒りは、お前にだって引けを取らないぜ！」
急激に高まる二つの小宇宙が、ちょうど両者の中間でぶつかり合って火花を散らす。その迫力に、側で見ているアステリオンもたまらず冷や汗をかいた。
「手を出すなよ、アステリオン。こいつは、俺の獲物だ」
気合を込めたモーゼスの眼力は、それだけで相手の息の根を止められそうなほどに尖っている。それに気圧されることなく、星矢の命の炎もギラギラと燃え立つ。
「ペガサス流星……」
「うおおぉぉっ！」
腕を伸ばしたタイミングは、ほぼ同じであった。だが、先に相手へと届いたのはモーゼスの方が先だ。魔鈴と同様に、星矢もまた丸太のような腕の餌食となる。頭髪を掴まれると、振りほどく間も無く空へと投げ飛ばされてしまった。
「なんだ、この怪力は!?」
回転と共に天高く放り上げられた星矢の体は、受け身の体勢をとることさえ、ままならない。そのまま星矢の意に反し、頭を下にして急降下する。地上では、復讐の握り拳を固めてモーゼスが待ち受ける。
「我が友よ、この一撃がお前への手向けだ！」
開かれて右目で星矢をしっかりと補足しながら、閉ざされた左目には亡きミスティの姿がありありと浮かぶ。左目だけではない、その身に刻まれた傷の一つ一つが記憶していた。
「モーゼス……お前は何ゆえ、頑なに自らを犠牲にするのだ？ 私なら、一人でも傷を負わずに戦える」
「知らず知らずの内に、お前のプライドを傷つけていたのなら謝ろう。だがな、これは俺の意地でもあるんだ。負傷こそ、戦いの女神アテナの加護を信じて戦った証……傷の数だけ勇猛だという証明になる」
「お前のことは、一人の男として尊敬している。だが、その考えにだけは同調できない。それでは、まるで……私が臆病者のようではないか。お前がいつも、率先して敵陣へと乗り込む。まるで私が、お前の後ろからのうのうと付いていっているために傷を負わずに済んでいるようではないか……」
「ミスティ、これは俺のわがままなんだ。目の前で友が傷つくのを見るよりは、自分が傷ついた方が遥かに楽だ」
「残酷なことを言う……私が、友の負傷を見て何とも思わないとでも？」
この身を挺して守り続けてきた友は、もういない。それを奪った星矢へと、とどめの一撃が繰り出される。
「ペガサス！ あの世で姉の魔鈴と引き合わせてやる！」
「なに……魔鈴さんが、俺の姉さんだと!?」
高速回転に飲み込まれ、意識も朦朧としていた星矢に希望の光が差し込んだ。姉代わりの恩師、姉のように慕ってきた恩人である魔鈴。だからこそ命を懸けて救いたいと思った相手だ。その魔鈴が、六年間も追い求めてきた姉の星華だというのか。
「ねえさーーん！」
渾身の叫び。それが星矢の小宇宙に、ペガサスの聖衣にいかなる変化をもたらしたのか。傍で見ていたアステリオンも、最後の一撃で空を切ってしまったモーゼスも、その異様な光景に目を見開いた。
「お、俺の拳をかわした!? 馬鹿な……ペガサスの体が、空を飛んでいる!?」
「聖衣だ……正に神話の天馬そのままに、ペガサスの聖衣に雄々しいまでの翼が生えている！」
星矢が身に纏った聖衣は、ギリシアで教皇から授けられた物。その時には、こんな意匠は見当たらなかった。ジャミールでムウに修復を施してもらった際も同様だ。
だが現実に今、ペガサスの聖衣の背中からは一対の白亜の翼が広がり、星矢の体を自由に飛び回らせている。
「俺にも何が起こったのか分からない。だが、こうさせたのは、お前たちだ。姉さんを想う俺の心の小宇宙が、聖衣に秘められた力を呼び覚ましたのだ！」
空中で静止したまま、星矢は守護星座の軌跡を描く。聖衣の翼の先にまで強大な小宇宙がみなぎっていく。
「いかん。ペガサスの次の攻撃は……ダメだ、間に合わない！」
「食らえ！ ペガサス彗星拳！」
煌く流星を一纏めにして放つ、星矢の必殺拳。その威力は、流星拳のゆうに百倍。それが一直線にモーゼスに降りかかり、白銀聖衣ごと粉砕する。
「白銀聖闘士の俺が、一歩も動けず……こいつ、マッハをいくつ超えているんだ!?」
粉塵と化した聖衣が剥ぎ取られると、鍛え抜かれたモーゼスの生身の肉体があらわとなる。いくつもの死線を潜り抜けてきた勇者の証。無数の傷跡が、深く刻み込まれていた。
モーゼスの背後に着地した星矢は、振り返ってファイティングポーズを取る。だが、追撃は不要のようだ。既にモーゼスの小宇宙は聖衣と共に破壊し尽くされている。体の前面にあれほど付いていた生々しい傷跡が、背中には一つも付いていないことに星矢が気付くと同時に、モーゼスの巨体は仰向けになって地面に倒れ込んだ。
「モーゼス！」
駆け寄ったアステリオンに、息も絶え絶えの状態でモーゼスが何事か口にしようとする。だが、口元からは泡状となった血しか出てこない。
「何も言うな……このアステリオンには、全て分かっている。お前の無念、必ずや晴らしてみせるぞ」
はっきりとした意思を込めて語るアステリオンの目に見つめられながら、モーゼスは最期の一瞬に安堵の表情を浮かべて旅立った。そこで待っている友への、詫びの言葉を胸に抱きながら。
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