「白銀聖闘士」編
第四話
〜不断の忠義〜
深夜の戦地。周辺に人影は無く、地に伏す一人の女と一人の巨漢。そして向き合う少年たち。
「見事だ、ペガサス。このまま葬り去るには惜しい奴だ」
「次は、あんたの番だぜ。俺は必ず
互いに隙を窺い、微動だにしない。ときおり吹き込んでくる風の音以外は、静寂が包み込んでいる。
「どうした？ ミスティやモーゼスを倒した技を、俺にも撃ち込んでこい」
それが挑発であることは、星矢も見抜いている。アステリオンは星矢を攻撃に移らせることで、星矢に隙を作らせようと狙っているのだ。うかつに手を出せば、反撃の餌食となってしまう。血を流して倒れる魔鈴の身も心配ではあるが、共倒れになることだけは避けたい。星矢はいつになく慎重に、この強敵の隙を探し続けた。
好機は、突然に訪れる。冷たい風と共に、枯葉が一枚飛んできた。それがアステリオンの目に被さり、星矢への視界が遮られた。時間にして百分の一秒にも満たない、わずかな間であったろう。だが、マッハの動きを体得している星矢にとっては、一瞬の好機であっても十分に活かすことが出来る。
「ペガサス彗星拳！」
マッハのスピードで右拳を繰り出す。ミスティやモーゼスといった、本来であれば実力が数段は上である
「どうしたんだ？ まさか、今のが本気だとは言わないよな？」
秒速三千メートル、超マッハの彗星拳はアステリオンの体をすり抜け、かすりもしない。今のは星矢が繰り出した中でも、最高峰のスピードを誇っていた。にもかかわらずアステリオンは余裕でかわし、その回避の軌跡を星矢の両目は追うことが出来ないでいた。
「
一発に威力を収束した彗星拳が、かわされた。ならばと、今度は百発の弾丸に分散したペガサス流星拳を試みる。
「ペガサス流星拳！」
「それも無意味だ！」
アステリオン相手では、流星も彗星も変わらない。星矢が作り出した小宇宙の流星群は、やはり一発も当たることなくアステリオンの体をすり抜けていった。
この驚愕の事態に、星矢は己の自信が音を立てて崩れていく錯覚を味わった。それはすなわち、再会を心待ちにしていた魔鈴をこの手で助けることが出来ないという恐怖へと繋がる。
「無駄だよ、星矢……」
聞こえてきた声に、名前を呼ばれた星矢だけでなくアステリオンまでも驚いた。
「魔鈴さん！ 怪我は大丈夫なんですか!?」
モーゼスに敗れ、先ほどまで虫の息であったはずの魔鈴が二本の足で立っている。見たところ外傷も無さそうだ。
「まさか魔鈴、お前……」
「そうだよ、アステリオン。私は、相手の視覚に幻覚を見せる拳を体得している。モーゼスが仕留めたと思っていたのは、いわば空蝉……私が残した残像に過ぎなかったのさ」
その無事な様子に、星矢も胸をなでおろす。ゆっくりと歩み寄りながら、魔鈴が星矢とアステリオンとの間に入り込んだ。
「星矢、私の見立てではアステリオンのスピードはマッハ一万。お前とじゃあ、天と地以上の開きがある。けど、奴の真の恐ろしさは別にある。アステリオンは相手の考えを読み取るサトリ……サイキックソルジャーなのさ」
星矢も六年間の修行の中で、魔鈴から聞かされたことがある。己の拳や脚を武器として戦うのが基本である聖闘士の中にあって、サイコキネシスやテレポーテイションなどの超能力を自在に操るサイキックソルジャーがいるということを。その戦闘力が、徒手だけの聖闘士と比べて何倍も恐ろしいということを。
「それじゃあ、魔鈴さん……」
「ああ。今のお前では、天地がひっくり返ったってアステリオンには勝てない。だから……私が戦うよ」
白銀聖闘士同士の闘い。その二つの巨大な小宇宙のぶつかり合いが、果たしてどんな影響を招くのか。困惑の中、星矢は無言で両者を見守ることしか出来なかった。
魔鈴の表情は、相変わらず仮面の下に隠されたままだ。それでも対峙するアステリオンには勝機があった。表情を読み取る以上に、相手の心中を直接探ることの出来るアステリオンには、絶対の自信があるのだ。
「今度はお前が弟子の……いや、可愛い弟を守ろうというのか？」
「その手には乗らないよ。私は、誰にも頼ることなく生きてきたんだ。安っぽい言葉で動揺するような心は、持ち合わせちゃいないんでね」
「ならば聖闘士らしく拳と拳……小宇宙と小宇宙を交えるのみだ！」
放たれる閃光。一瞬のすれ違い。まばたきよりも短い刹那の衝突が生み出した衝撃波が、星矢の頬をかすめる。
「やるな、魔鈴。お前のスピードも俺に引けを取らないぜ」
「本気で来なよ。私だって聖闘士の端くれ。生半可な技じゃ倒れやしないよ」
挑発ではない。小競り合いを続けていては、時間だけが無駄に過ぎて決着を見ない。実力者同士の戦いであるからこそ、互いの必殺技を駆使する必要があるのだ。アステリオンも目の色を変えた。
「そこまで言うなら見せてやろう。猟犬星座のアステリオン、最大の奥義を」
アステリオンの小宇宙が、更なる高まりを見せて最高潮を迎える。空気の振動から、星矢の肌にもビリビリと伝わってくる猟犬星座の小宇宙は、今まで出会ったことのないほど無尽蔵だ。
そしてアステリオンが地面を蹴って空高く舞い上がる。その過程でアステリオンの体が、いくつもの分身を生み出していく。
「なに!? アステリオンが分裂した!?」
その様を両の眼にしっかりと焼き付け、星矢は初めて自分とアステリオンとの力の差を思い知った。空中で、どんどんと数を増やしていくアステリオンの分身の総数は流星拳の比ではない。千、万、十万と数えきれないほどに増加していき、ついには白銀の影で夜空を覆い尽くすにいたった。
「行くぞ、魔鈴。ミリオンゴーストアタック！」
百万の白銀の猟犬が、一斉に地上にいる魔鈴へと襲い掛かる。あまりの速さに、星矢は身を投げ出すことさえ出来ない。そんな青銅聖闘士の子供には目もくれず、アステリオンの猛攻は止むことなく魔鈴へと降り注いでいく。
「さあ、どうだ。これなら音を上げるか？」
ようやく攻撃の手を止めたアステリオンは、また元の通り一人に戻る。その眼前で魔鈴は、全身をボロボロにしながら辛うじて堪えていた。首から下、
それが幻などではなく現実の姿であることを読み取り、勝利の確信を得たアステリオンが静かに魔鈴へと近付いていく。
「これ以上は苦しません。今、とどめを刺してやる」
「マ、魔鈴さーん！」
彼女の危機に星矢が慌てて駆け寄ろうとする。それを制止したのは、意外にも魔鈴その人だ。
「来るんじゃないよ、星矢！ アステリオンは、私が相手をすると言ったはず」
自分に稽古をつけてくれた時と同じく凛とした魔鈴の声に、星矢も動きを止めてしまう。一見して傷だらけのように思える魔鈴ではあるが、その言葉に強がりは無い。現に彼女の小宇宙は、アステリオンの無数の分身をも吹き飛ばすほどに燃え盛っていた。
「無駄なことを。お前が、どんなに小宇宙を激しく燃やそうとも俺には通用せん。なぜなら、お前の思考など俺には手に取るように分かるからだ。お前の動きの全てを予測することが出来るからだ」
「本当に、そうかい？ だったら私の次の動きを予測してごらんよ」
小癪なことを言う。そう思いながらもアステリオンは、言われた通りに魔鈴の心の中を読み解こうとする。しかし、そこには何も見えなかった。あるべきはずの心が、微塵も感じられなかった。
「馬鹿な……。これも幻か？ いや、現実に魔鈴は目の前にいる。なのに、その心が窺えないのは何故だ!?」
今までに味わったことのない感覚がアステリオンを襲う。アステリオンと敵対した相手は、自分の考えの全てをアステリオンに掴まれている感覚に慄き、敗北へと引きずり込まれていった。その得意の読心術が効果を発揮せず、常勝の手段を封じられたアステリオンに言いようのない恐怖が忍び寄る。
「今の私の心は、この無表情な仮面と同じく無そのもの。聖闘士となった当初に教えられた『女を捨てること』の境地そのままに、己の心を捨て去っているのさ」
種を明かされたところで、アステリオンにはどうする事も出来ない。相手の手の内を知り尽くして優位に立つという戦法が使えないことに変わりはない。次に魔鈴がどう動くのか見当もつかない。自然と後手に回らざるを得なくなる。
「いくらお前でもスピードの拮抗する勝負じゃ、後手に回ったら不利に違いない」
魔鈴のしなやかな身体が、夜空に向かって飛翔する。それを目で追いながら、アステリオンは周囲にも警戒を配る。魔鈴の心が読めない以上、自分も魔鈴の幻術に騙されない自信は無い。それによって生じた隙を魔鈴は見逃さなかった。
「今度は小細工は無しさ。私はここだよ！」
咆哮と共に猛禽類のような滑空を見せる魔鈴。それが幻ではなく実体であると気付いた時には、もう遅い。アステリオンは彼女の強烈な飛び蹴りに仕留められていた。
「イーグルトゥフラッシュ！」
直撃の瞬間、腰をひねって威力を倍加させる。
「やったぜ、魔鈴さん！」
喜びの掛け声と共に駆け寄ろうとする星矢に向かって、魔鈴は手を挙げて制止した。まだアステリオンに息があるためだ。油断禁物という言葉以上に、魔鈴にはアステリオンに確かめたいことがあった。
「アステリオン、あんたの読心術を使えば教皇の真意だって読み取れるはずだ。お前は教皇の悪意を知らないのか？ それとも、知っていてなお仕えているっていうのかい？」
腹部を押さえ、苦痛に顔を歪めるアステリオンに魔鈴が迫る。その問い掛けに、星矢も思うところがあった。
「それじゃあ魔鈴さん、俺が出した手紙を読んでくれてたんですね？」
「手紙、だと……」
星矢に頷き返してから、うめくアステリオンに向き直る魔鈴。
「
「それで、俺が教皇猊下に会ったかどうかを、しきりに気にしていたのか……。猊下の御心だと？ 知っているさ。その悲しみも……いかに地上を愛しておられるかも。知っているからこそ、教皇猊下の命は絶対なのだ」
その眼を裏切り者の仮面から離すことなく、強い真実の意思を宿したままアステリオンは息絶えた。教皇が悪だと信じている魔鈴の思いさえ、揺れ動かすほどの意思を込めて。
周囲は、再び夜の静けさを取り戻していた。動く気配のするものは、星矢と魔鈴しか存在しない。その魔鈴に、星矢はどうしても確かめたいことがあった。その一方で、尋ねることが憚られる思いもあった。
「魔鈴さん、その……」
「星矢。お前には、日本に残してきた姉がいるって話してたね。そして私にも生き別れの弟がいる……」
切り出しにくそうにしている星矢を見かねてか、魔鈴の方から話を振ってきた。待ち受ける答えに対する期待と不安から、星矢は戦いに臨むより何倍も緊張して唾を飲み込んだ。
「馬鹿な想像をするんじゃないよ。お前がギリシアに来る直前まで日本にいた姉とやらが、どうしてお前より先に聖闘士になっているんだい？」
肝心なことを忘れていた。そんな言葉が飛び出しそうなくらい、星矢は口を大きく開けて呆けてしまった。魔鈴は懐からペンダントを取り出すと、更に言葉を付け足した。
「それに、お前はこのペンダントに何の反応も示さなかった。この中に入っている鈴の音に……。お前が、これと同じ物を持たせた私の弟でないってことは、ずっと前から分かっていたよ」
語り終えると、魔鈴は自らの手でペンダントを包み込んで少しだけ俯いた。表情の変化も瞳の色さえも窺えない。声色にも別段、変化は無かったように思える。なのに戦いを終えた女聖闘士の佇まいは、どこか寂しさをたたえているように思えてならなかった。その胸に封じ込めたはずの心が、にじみ出しているように星矢には思えた。
やがて魔鈴はペンダントをしまい、いつも通りの凛然さをもって星矢に向き直った。
「さあ、もう行きな。子供はとっくに寝静まってる時間だよ」
「えっ……魔鈴さんも一緒に戦ってくれるんじゃないんですか？」
戸惑いの表情を浮かべる星矢に対し、ゆっくりと首を左右に振る魔鈴。星矢からは何の申し出も受けないという、無言の意思が込められていた。
「私は聖域に戻る。戻って、この目で聖域に潜む邪悪の正体を掴まなくてはならない」
「それじゃあ、俺たちも……」
「まだ相手の正体も分からない内から、不用意に動くもんじゃないよ。お前たちが動くということは、すなわちアテナが邪悪の懐に飛び込むことになるんだ。今はまだ、日本を動かずにアテナを守るんだよ」
強い口調で指示をしてくる魔鈴の態度は、星矢がよく知っているそれとは異なる雰囲気を醸し出していた。そして星矢も悟る。これは師匠が弟子に向かって発する命令でも、ましてや姉の弟に対する接し方でもない。
魔鈴は師弟という枠組みを越えて、一人の聖闘士として星矢に指示をしている。女神アテナに仕える同志として星矢を見ているのだ。六年間という短くない歳月を共に過ごし、間近で見続け、目標にしてきた相手が自分を一人前と認めてくれている。その気持ちに応えるべく、星矢も一人の聖闘士として魔鈴と向き合った。
「分かったよ、魔鈴さん」
少年のあどけなさを残す面立ちの中で、瞳だけが信念の光を見せている。仮面の奥から、それを確かめることが出来て魔鈴も一安心した。その一方で、星矢の視線にどこか縋るような色が含まれていることにも目ざとかった。
「まだ何か言い足りないようだね？」
師の慧眼の前では隠し事など出来ない。ハッとした表情を作った後、星矢は胸の内にある相談事を持ちかけた。父、光政のこと。引き離された姉、
「まったくバカだね……」
全てを語り終えた星矢に魔鈴から送られたのは、そんな言葉であった。突き放すような響きではない。世話の焼ける弟を諭すような姉の声色が混ざっていた。
「私は城戸光政という男が、どんな人物なのかは知らない。自分の両親のことだって、幼い頃に亡くして記憶なんか持ち合わせちゃいない。だから子を持つ親の気持ちは分からないけれど、城戸光政がお前たちに何を残そうとしたのかは想像できるさ」
「俺たちに残す？」
要領を得ないといった表情の星矢に向かって魔鈴は人差し指を伸ばし、その先端を星矢の胸へと置いた。
「その心にあるだろう？ 城戸光政への怒りや恨み、憎しみの感情がさ」
言われて星矢の心臓が、トクンと跳ねた。その鼓動を感じたのか、魔鈴が星矢の胸から指を離した。実の父親に対する憎悪を批判されるだろうか。途端に星矢は後ろめたい衝動に駆られ、うつむいてしまった。
「星矢……お前の父親が何も語ることなく、お前たちに冷たくした結果が、その負の感情ってやつだ。それを城戸光政自身が予想できなかったと思うかい？」
頭の中でグルグルと思考を回転させながら、星矢はある答えに辿り着く。それを認めたくないのか、唇を震わせて、なかなか言葉にしようとしない。見かねて魔鈴が代弁する。
「そう、城戸光政はお前たちに憎まれることを承知の上だったのさ」
「けど、どうして……はじめから俺たちや沙織さんの運命を打ち明けてくれれば、俺たちだって……」
「それを城戸光政自身が赦せなかったんだろう？」
神々の聖戦のためとはいえ、我が子を天へと捧げる所業。それを行ってなお、自らはのうのうと生きた末に聖闘士の父などと崇められる。光政が望んだのは、そんな栄誉などではない。断腸の思いで我が子を捧げようとも、それすら自らへの罰には遠すぎる。俺も苦しい思いをしたのだから、お前たちも運命を受け入れろなど、どうして子供たちに言えよう。
「だったら、徹底的に子供たちから恨まれる。それこそが城戸光政の贖罪だったんだろう。憎まれ役を自分一人にすることで、孫の城戸沙織にまで累を及ばすことなく、お前たちに彼女をアテナとして認めさせる。そして、お前たちが自分の運命を呪わずに済むよう、自分自身に怒りを集中させたんだ」
「…………」
魔鈴の話に星矢は黙って耳を傾けた。それまでは自分たちが最大の被害者であり、城戸光政は自己満足のためだけに生きた敵としか認識していなかった。虐げられた子供という自分中心の視点からでは、決して見えてこなかった観点を教えられて星矢は黙り込むしかなかった。聖闘士としては一人前になろうと、人間としては子供の域を抜け出せない自らを戒めるかのように。
唇を噛みしめて視線を落とす星矢の肩に、魔鈴が手を置く。顔を上げた星矢の目に映った魔鈴は、無表情な仮面ながらも温かな慈愛を醸し出していた。その姿に星矢は母を見た。かつて母親代わりとなっていた姉と重ねることで、まだ見ぬ母を見ていた。
子を持つ親の気持ちは分からないと魔鈴は言ったが、本人も知らず知らずの内に母親に似た気質を備えていったのだろう。星矢という幼い弟の面倒を見てきた星華と同様に、生き別れの弟を迎えに行きたいと願い続けてきた魔鈴は、早くに自立し大人になっていたのだ。
「もう、いいね？ 私は行くよ」
その声は母や姉のものでも師匠のものでもなく、女を捨てた聖闘士のものに戻っていた。だから星矢も聖闘士として応える。大きく頷いて、魔鈴の出立を促す。無言の中にも、自らの決意を表す意思の強さが窺えた。内なる小宇宙からも、もう迷いの無いことが感じられた。今度こそ心からの安堵を得て、魔鈴はその場を離れていった。
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