「白銀聖闘士」編
第七話 ペルセウス座のアルゴル
～聖闘士の矜持～
その日、一通の文が城戸邸に届けられた。ギリシア語で書かれた内容は簡潔で、城戸邸に滞在する
ペルセウス座のアルゴル。その立ち位置を、
「聖域を守護する
記憶を辿りながら沙織や他の仲間に話す星矢に対し、皆は一様の視線を送っていた。それはつまり、アルゴルの具体的な強さを問うものだ。
「俺も当時は修行中の身でさ、聖域の中でも立ち入りの許されている場所は少なかった。だからアルゴルって聖闘士と直接会ったこともなければ、どれだけの小宇宙を持っているのかも分からない。だけど、あの
同じく白銀聖闘士である
「罠かもしれんが、応じない訳にもいくまい」
「うん、そうだよ。確かに今、都内にアルゴルのものと思われる巨大な小宇宙を感じる。けれども、とりあえずは他に伏兵がいるような気配は感じられないもの」
「しかし、なんだってグラードコロッセオなんかに呼び出すんだ？」
グラードコロッセオとは、グラード財団が
「銀河戦争のことをマスメディアは、グラード財団の財力を示すための喧伝であると評した。そして聖域は、私闘を禁じるという聖闘士の掟に背く行為と判断した。アルゴルとやらは、聖闘士の掟に反する銀河戦争の象徴……グラードコロッセオまでも破壊するつもりなのかもな」
元は銀河戦争の粛清のために派遣された身である
「ご丁寧に、時間まで指定してくれてるぜ。良い子は、とっくに寝ている時間だな」
「グラードコロッセオが建つのは都心だ。辺りが静まるのは、その時間ぐらいってことだろう。随分と念入りに調査をしているみたいだな」
その点からしても、今回の刺客は異様と思われた。あるいは聖域の不正を知ったために寝返るつもりなのかもしれない。しかし、状況は常に最悪を想定してかかるのが戦士の本質。希望的観測は捨て、警戒と慎重を胸に事態に臨む。
「それで、今回は誰が動くことにする？」
敵は呼び出しに当たって個人を名指しした訳でも、全員で来いとも言っていない。馬鹿正直に四人全員で乗り込んで、掌中の珠である沙織のガードを手薄にすることは罷りならない。自然、幾人かは城戸邸に残る算段となる。
先の戦闘において、氷河は戦闘中こそ平気なつもりでいたが、思いのほかダメージが残っていた。客観的に判断して、氷河は待機することにした。
「念のため、二人ずつに分けた方がいいだろうな。よし、アルゴルの所へは俺と瞬が行くことにしよう」
「星矢……俺の体を気遣っているのなら、もう本当になんともないぞ」
眉を顰めながら、紫龍が食って掛かる。かつて星矢の聖衣を生き返らせるために、紫龍は自らの血液の大半を捧げた。その事について星矢がいつまでも気に掛けているのだとすれば、紫龍にとってもやりづらい事この上ない。
「そうじゃない。グラードコロッセオで待っているのは、白銀聖闘士のボスなんだぜ。俺と瞬は、白銀聖闘士を相手に勝利した実績がある。奴らとの闘いには、一日の長があるんだ」
「星矢の論も頷ける。紫龍、この場は退け。沙織さんを守ることも重大な使命のはずだぜ」
仲間から諭され、紫龍は静かに瞼を閉じる。心の中で自らに言い聞かせていたのか、短い時の後で目を開くと素直に応じた。
「分かった。沙織お嬢さんの身は、俺と氷河で守り抜く。お前たちは、安心してグラードコロッセオに向かってくれ」
星矢と瞬の瞳へと、交互に視線を送る紫龍。その思いを受け取り、
近代的なビルが立ち並ぶ東京都心。その景観に溶け込みながらも、古代から蘇った装いを見せる壮大な円形施設、グラードコロッセオ。古代ローマの闘技場をイメージして建造されたそれは、十万人を収容できるという未聞の大建築物であり、ドーム状の天井は自由に開閉できる仕組みとなっている。
「だが、奴は中にいるな」
ひっそりとした敷地内の静寂とは裏腹に、コロッセオ内部からは先ほどから煮え立つような小宇宙が感じられる。星矢たちの到来を察知して、アルゴルも気持ちが昂っているようだ。
「この様子じゃ、やっぱり歓迎はしてくれなさそうだな」
「話し合いで解決できれば、それが一番なのだけれど……仕方ないね」
「よし、開いた天井部分から乗り込むぜ」
星矢と瞬が身軽に壁を乗り越えて観客席に降り立つと、ステージの中央付近に立つ一人の男が目に映った。銀河戦争の間、そこに設けられていたリングも撤去されてコンクリートがむき出しの状態になっている。
その冷ややかな床に立って二人を待ち受ける白銀の
「刻限通りとは、殊勝だな。だが、お前たちには問い質さねばならぬ事がある」
観客席から飛び降りてきた星矢たちに、アルゴルは年長者らしい威厳を見せて口を開く。その堂々とした態度と、単なる敵意だけでは醸し出せないであろう雰囲気に、二人も思わず威儀を正す。
「私たち聖闘士が地上に遣わされ、その人智を超えた力を与えられた天意……それは、アテナと共に邪悪の魔の手から地上の平和を死守するためだ。断じて、聖闘士同士で争い、その武力を誇示するためではない。それは理解しているな？」
星矢と瞬が、息を合わせたように無言で頷く。
「ならば問おう……何ゆえグラード財団に呼応して、銀河戦争などという聖闘士に禁じられた私闘に他ならぬ行為に手を染めたのだ？」
静かに、ゆっくりと、それでいて逃げ道の無いことを示すかのような強さを秘めた詰問を前に、星矢も瞬も気圧されていた。聖闘士の掟を破ったのは事実。弁解の余地も無い事実。青銅聖闘士の上に立つ者として糾問してくるアルゴルに対し、星矢たちも隠し立てすることを恥じた。
「俺は、六年前から離れ離れになった姉さんを捜している……」
アルゴルの問い掛けに対し、まず口を開いたのは星矢だ。
「両親のいない俺にとって、唯一の肉親……だと思っていた姉さんだ。ギリシアでの修業を終えて日本に帰国した俺を待っていたのは、姉さんが俺を捜すために孤児院を抜け出し、それから行方不明になっているという話だった。グラード財団は、俺に取引を持ちかけてきたよ。もしも俺が銀河戦争で優勝すれば、財団の力と情報網を駆使して姉さんを見つけ出してくれるって。いや、財団に乗せられて仕方なく参戦したっていうのは、言い訳がましいな。
銀河戦争は世界的に中継されるから、俺が銀河戦争で勝ち続ければ、姉さんが世界中どこにいたって俺の活躍を目にしてくれる。そして、俺のいる所まで来てくれることを期待していた。そうさ……言い訳なんか、これっぽっちも出来やしない。銀河戦争へは俺の意思で、俺自身の勝手な目的のために参加したんだ」
星矢が語り終えると同時に、今度は瞬が話し始めた。後ろめたい気持ちはあったが、そこから逃げることだけはしたくないという思いが瞳に込められていた。
「僕は小さい頃から弱虫で、兄さんがいなくては一人で何も出来ない奴だった。そんな僕でも、アンドロメダ島での厳しい特訓に耐えて聖衣を手に入れることが出来た。兄さんがいなくても、一人で立派にやり遂げられたことを伝えたかった。他の誰でもない、
全てを告げると、そこには再び静粛な空間が取り戻された。時折、遠くの方から車の通りすぎる音が微かに聞こえてくる程度だ。
二人の話を聞き終えて暫く、アルゴルは一言も口をきかなかった。何を考えているのか、自分たちへの判決はどうなるのか。いい加減、星矢が焦れはじめたところでアルゴルからの返事があった。
「情けない……お前たちは所詮、力に溺れた暗黒聖闘士であったか」
その短い言葉の中からは、様々な感情が読み取れた。憤懣もあれば憐憫もあった。そのどれもが先輩としての労わりを持っており、また自らの立場を重んじてか表出しすぎないよう努めていた。
「ならば、おとなしく裁きを受け入れよ……お前たちに残された道は、死……それのみだ」
それまで押さえ込まれていたアルゴルの戦意が、星矢たちにも分かるほど表情や筋肉の強張りに浮き出てくる。アルゴルが肺の中の空気を一息に吹き出すと同時に、ペルセウスの小宇宙が爆風となって四方へ走る。突風は鋭利な刃物と化し、コンクリートで出来た床も巨大なコロッセオの壁にも亀裂を刻み込む。
放出された小宇宙に何とか両足で堪えた星矢と瞬であったが、変わり果てた辺りの様子を見れば安堵はしていられない。一瞬にしてグラード財団の権威の象徴を傷だらけにしてしまった威力は、名高きギリシア神話の勇士ペルセウスの名に恥じぬ強さを分かりやすく示していた。
「さあ、この世に別れを告げる準備が先に出来たのはどちらだ？ フッ、お前たちに選択権など無かったな」
仕掛けてくる。二人がそう思って身構えるよりも早く、瞬時に距離を詰めたアルゴルの猛攻が星矢と瞬とを同時に襲う。左右それぞれの手で放った掌底が、二人を数十メートル離れた壁まで一気に突き飛ばす。
「うわぁぁぁ……」
叫び声まで同時に上げながら、星矢と瞬は壁にめり込む程したたか背中を打つ。もしも聖衣に守られていなければ、二人とも今の攻撃で背骨はおろか全身を打ち砕かれていただろう。
星矢は、どうにかして壁の中から身体を引きずり出すと、元の位置から動かず構えも取らないでいるアルゴルに対して闘志を剥き出しにする。
「俺たちだって、むざむざとやられる訳にはいかないんだ。銀河戦争の時とは違う。今度は、本当にアテナのため……地上の平和のために！」
両腕を胸の前で大きく動かし、自らの守護星座の形を描く。ペガサス座の十三の星の輝きが星矢の手によって再現されると、星矢は心の奥底から燃え上がる小宇宙を感じ取った。
「行くぞ、ペガサス流星拳ーっ」
一秒間に三百四十メートルを進む速度で、まっすぐにアルゴルへ向かって突進しながら、右の拳で流星拳を放つ。およそ数百発の連打をアルゴルに浴びせ、そのままの勢いで脇をすり抜ける。星矢の閃光のような攻撃の後、バランスを崩して頭から倒れたのは星矢の方であった。
「なんだ……何が起こったんだ？」
軽く意識を失いかけながら、星矢は必死に一瞬前の状況を振り返っていた。星矢の放った数百発の流星拳。それをアルゴルは全て片手で受け止めた上、脇をすり抜けようとする星矢へと空いた方の手でカウンターを見舞っていた。
星矢は、そのアルゴルの拳をかわす事はおろか、反応する事さえ出来ずにまともに食らってしまった。これまで相対した強敵たちの攻撃を防いできた天馬星座の聖衣にも、小さくないヒビが入っている。
「ペガサス流星拳……所詮は、児戯ということだ」
背後で倒れる星矢に、肩越しに視線だけで振り返ってアルゴルが口にする。
「ギリシア神話において、ペルセウスはメドゥサの首を一刀のもとに切断した。その時、メドゥサの首より溢れ出でる血から生まれたのが天馬ペガサスだ。つまりペガサスにとってペルセウスとは、父も同然……勝負になるはずがない」
アルゴルの声は、白目を向く星矢に届いたであろうか。その確認は不要とばかりに、アルゴルが片手を挙げる。星矢へのとどめを刺そうというアルゴルの手首に、前方から飛んできた鎖が巻き付いて制止する。
「メドゥサと同じように、星矢の首を落とそうというのか!? そうは、させない！」
鎖を辿った先にいる瞬に視線を向けるアルゴル。その息は既に荒くなっているものの、闘志と小宇宙は少しも衰えていないようであった。
「愚かな……こんな鎖が役に立つと思っているのか？」
「残念ながら、このアンドロメダの鎖は生半可な強度じゃない。完全なる束縛を約するネビュラチェーンなんだ」
意気込む瞬から目を離す事なく、アルゴルは自由のきく方の手を手刀の形にして
「エチオピアのアンドロメダ王女を鎖から解き放ったのも、またペルセウスだ。この程度は造作もない事よ」
額から一筋の血を流し、前のめりになって倒れそうになるのを瞬は辛うじて堪えた。遠間であった事と聖衣に守られた事が幸いしてか、瞬の肉体はごく軽傷で済んだ模様だ。だが、圧倒的な力の差を目の当たりにしたためか、闘争心は先ほどより薄らいでいる。それは防御の小宇宙にも影響を及ぼし、それを見逃すようなアルゴルではない。
「先にとどめを欲しいのは、お前のようだな、アンドロメダ？」
「ま、待て……」
瞬へと向けられていたアルゴルの意識が、背中から聞こえてきた声によって後方へと向き直される。星矢が起き上がったのだ。しかし、半壊した聖衣が示す通りアルゴルから受けたダメージは小さくない。それでも体に、精神に、命に小宇宙の宿っている限り星矢は立ち向かう。
「アルゴル、まだ俺との勝負はついちゃいないぜ。うおぉぉ……」
喉を震わせて小宇宙をみなぎらせる星矢。その両の目が、アルゴルの背中で何かが光るのを目撃すると、途端に咆哮は聞こえなくなり、小宇宙さえも途絶えた。
「セ、星矢！」
アルゴルが攻撃を仕掛けたような仕草は見受けられなかった。見たところ星矢も打撃の類を受けた様子は無く、二本の足で立っている。だが、天馬星座の聖衣からは輝きが失せてしまっている。肌の色からは生気が感じられない。星矢は髪の毛の先から爪先まで、完全な石像と化してしまっていた。
「これは一体……」
星矢の身に何が起こったのか理解できないでいる瞬の方へ、アルゴルが静かに歩み寄っていく。そして、その最中に背中から何かを取り出した。それはペルセウス座の聖衣の背に収められていた盾である。だが、異様なのは盾の真ん中に彫られた意匠。
「それは、まるで神話に登場するメドゥサ……はっ、いけない！」
瞬がアルゴルの意図と盾に秘められた魔力に気付いた時には、もうアルゴルは自らの間合いを獲得していた。左腕に盾を装着し、そこに彫り込まれたメドゥサの首を瞬へと向ける。
「ラス・アル・グール・ゴルゴニオ」
アルゴルの唱えた呪文に反応し、メドゥサの顔が閉じられた眼を開く。その視線に魅入られた瞬は、星矢と同じく一瞬で全身を石に変えられてしまった。
「たわいない……後は、城戸邸に残る二名の訪れを待つのみか」
星矢と瞬の小宇宙が消失した。その異変を敏感に察知して、紫龍たちにも震撼が走る。
「ま、まさか星矢と瞬が……」
「早まるなよ、紫龍。下手に動いて骸を増やすことはならない」
友の危機を知って、今にも飛び出しそうな紫龍を冷静に抑え込む氷河。だが、その氷河も流れる冷や汗を止められないでいる。
「分かりました。紫龍、お願いします」
それまで側で見守っていた沙織が、沈黙を破る。その驚愕の言葉に、二人とも咄嗟には声を出せない。それでも紫龍の目と表情とは感謝の念で溢れていた。氷河もまた、何かを言おうとした口をつぐみ、心得たとばかりに目礼する。
誰よりも友との絆を大切にしたいと願う紫龍の心。それを全うさせてやりたいからこそ、沙織も紫龍の出撃を許可した。その心尽くしを、側で仕える者たちが気付かぬはずがなかった。
城戸邸からグラードコロッセオまでは、そう離れている訳ではない。鍛え抜かれた聖闘士の足ならば、ものの数分で向かえるだろう。その接近しつつある紫龍の小宇宙を感じ取りながら、アルゴルは一人静かに傍らの石像二体に語り掛けていた。いや、そう見えるだけで実際には、もっと遠くにいる人物へと言葉を送っていた。
「これで良かったのだ。聖闘士の誇りを汚した罰を正すのも、私の役目。それとも……貴方であれば、別の手段を選んだのだろうか」
その返答を風が運んでくれるなどとは思わない。よしんば便りが届いたとしても、耳を傾けている暇は無いだろう。すぐ背後に、
「また小出しにしてくるのか？ まあいい、残るキグナスの始末はお前を片付けて、すぐに済ませに行くとしよう」
観客席の紫龍に向き直ると、アルゴルは顎を動かして下りてくるよう指図する。その前に紫龍は、仲間の安否を確かめたかった。
「星矢!? 瞬！」
「早くするんだな、ドラゴン。お前の罪も明白なのだ。この者たちと同じく、我が力で石に変えてやる」
その言葉に反応を示した紫龍は、アルゴルの左腕に装着されたメドゥサの盾を注視する。聖闘士の発祥がギリシアである以上、一通りの神話をそらんじておく事も聖闘士の嗜みであり、その引き出しの中から勇士ペルセウスによる海の怪物退治の話を引っ張り出した。
「なるほど、そういう事か……」
星矢と瞬が、あっさりと葬られた真相に合点がいったと独りごちて、紫龍はアルゴルの頭上を飛び越えてコンクリートの裂け目の上へと着地した。
「足元は選ばぬということか？ 流石は、廬山五老峰に住まう高名な老師の直弟子」
一瞬、紫龍はアルゴルと以前に見知っていたかと思い返してみた。だが、すぐに考えを改める。紫龍の師である老師と言えば、二百数十年前に遡る前聖戦を戦った闘士。その老師に育てられた聖闘士の噂が、聖域で流れぬはずはない。
「そうとも。己の使命も全うせぬ内から敵に敗れては、老師の教えを汚すというもの。みなし児として生を受けた運命を呪い、やさぐれていた俺に人としての道を示してくれた老師のな」
「ドラゴンよ……自ら掟を捨てたお前に、そのような物言いを口にする資格は無い。身も心も石となり、永遠に老師に詫びるのだ……ラス・アル・グール・ゴルゴニオ」
アルゴルが、不吉な女怪の面を紫龍へと向ける。瞬時に紫龍はアルゴルの手の内を読んだ。アルゴルと全く同じ姿勢で、紫龍も左腕の盾を構える。
「終わったか……なに？」
これまで、いかなる敵も葬り去ってきたメドゥサの盾が、今回ばかりは効力を発揮していない。悠然と立ち、生気に満ちた肌のままの紫龍を見て、アルゴルは訝しんだ。
「残念だったな、アルゴル。メドゥサの目の事は、俺も知っている。英雄ペルセウスが、その魔眼を用いて鯨座の化物を石化したという伝説もな。お前の盾に刻まれた蛇の髪を持った女は、どう見てもメドゥサを象った物。それが平生は目を閉じているところから、お前の聖衣の秘密に気付いた俺は自身のドラゴンの盾をかざすことで、メドゥサの視線から逃れたのだ」
紫龍の解説を、さして面白くもないといった風にアルゴルは聞いている。
「それで、どうだと言うのだ？」
「お前の技は、俺には通用しないという事だ。そして……今度は、こちらから行くぞ！」
普段の落ち着いた性格など、紫龍の本質の一片に過ぎない。敵を目の前にすれば、果敢に立ち向かっていくだけの勇気が備わっている。その勇気を支える小宇宙を右拳に集中させると、メドゥサの魔眼を見ないよう盾を顔の前で構えたままアルゴルへ突進を仕掛ける。
「これぞ老師より授かりし奥義……廬山昇龍覇！ でやあーーっ！」
視界を盾で覆っていようとも、小宇宙を感じ取る事でアルゴルの位置は正確に分かる。渾身の勢いで振り上げた紫龍の拳は、アルゴルの体に直撃した。にもかかわらず、紫龍は手ごたえを感じられずにいた。
「俺の昇龍覇が……かわされた？」
「いや、流石は老師直伝の技……龍神と見紛う程の燐気、恐るべき威力だ。だがそれも、正確な体勢で放ってこそ真価を発揮するもの。そんな盾の陰に身を隠した不自然な姿勢では、パンチに体重が乗らないのも道理。ゆえに、私にダメージを負わせる事は出来ない」
万全の策と思われた紫龍の戦法であったが、指摘されて初めて欠陥に気が付く。あるいは、実力が下か同程度の相手になら通用したかもしれない。だが、紫龍が今対峙しているのは己より上位に立つ白銀聖闘士なのだ。
「くっ……互いに、決め手に欠けるという訳か」
「それは、どうかな？」
アルゴルの台詞は、単なる強がりではない。紫龍がそれを悟るのに、一秒と時間は掛からなかった。
「ぐあっ……げほっ、げほっ……」
強烈なアルゴルの蹴りが紫龍を見舞う。盾の上からでも、そのパワーは十二分に伝わってくる。正に地を割らんばかりの一撃だ。
「ふむ、盾は無事か。だが、その他はどうかな？」
その言葉の通り、盾を通り抜けてきた衝撃波は凄まじく、紫龍の聖衣の左腕部分に明らかな損傷が見えた。腕自体も筋を痛めたのか、もはや顔の前まで上げることは難しそうだ。
「龍星座の聖衣……それは、龍神伝説で知られる中国は廬山で守られ続けてきた物だな？ 漆黒を照らす銀河の星屑が、九重の天空より飛来して鍛え続けたがため、その盾の強度と輝きはオリハルコンの数倍と聞く。天より落ちる星屑とは、すなわち……五老峰の大瀑布」
三千尺（九百メートル）の高さから流れ落ちる滝の壮大さを千二百年前の詩仙は、銀河の九天から落ちてくるようだと歌い上げた。その大滝に幾星霜も打たれ続けた龍星座の聖衣の盾は、最上の黄金聖衣に匹敵する硬度を持つと謳われている。
「だが、それを着けるお前の肉体は、生身の人間のもの。いかに聖闘士といえども、聖衣を上回る程に強靭な筋肉など得られぬものだ。これで、お前の盾は封じた……さあ、おとなしく楽になれ」
再びメドゥサの首を紫龍へ見せようとするアルゴル。ならばと紫龍は、手首に巻かれた包帯を外す。ジャミールで血を捧げた時の傷など、とっくに治癒しているのだ。要はメドゥサの目を見なければ済む話。紫龍は包帯を顔に巻き付けると、それで自らの視界を覆った。
「これならば体勢を崩すことなく、思う存分に昇龍覇を放てる！」
「甘いぞ、ドラゴン……このメドゥサの前ではな」
アルゴルが素早く、例の不気味な呪文を口ずさむ。今度こそは回避できると思っていた紫龍の予想は大きく外れ、メドゥサの魔眼は薄布や瞼をすり抜けて、紫龍の網膜へ直接魔力を送り込んでしまう。
「これは……俺の左半身が、動かない……左足と左腕とが、完全に石になってしまっている」
「だから、甘いと言ったのだ。私がメドゥサの盾を手なずけるのに、どれだけの年月を要したと思っている？ ペルセウス座の加護の下、聖衣に込められた英雄の魂と完璧に心と精神とを重ねなければ、この術は成功しえない。その成功率を常に百パーセントに保つためには、並大抵の小宇宙の高め方では叶わなかった。その苦心の成果、思い付きの策で破れるものか」
半身を封じられては、もう紫龍は身動きが取れない。アルゴルも石化能力に頼らず、手刀で紫龍の首を刎ねてやろうと近づいてくる。その時、徐々に石化部分が広がっていく紫龍の肉体から、これまでにないほど膨れ上がっていく小宇宙を感じた。
「お前の言う通りだ、アルゴル。俺には、どこかで甘えがあった。なまじ最強の盾などを持っていたがため、老師から手解きを受けたという過信があったため、自分より格上の聖闘士を相手にしているという気持ちが足りていなかった。だから！」
まだ自由のきく内に右手で顔の包帯を外すと、紫龍は伸ばした二本の指をそれぞれ両目へとあてがった。そして、迷うことなく自らの手で自らの眼球を潰す。その予想だにしない出来事に、アルゴルの方が息を呑む。
「ドラゴン、お前という奴は……」
「だから……お前の努力を上回る程に自らを追い込むしかない。さあ、これで俺は光なき世界の住人。もはや、メドゥサの魔力も届かぬはず！」
アルゴルの心の中で、何かが揺らいだ。その迷いを振り払うかのように、ペルセウスの化身が紫龍へと飛び掛かる。紫龍も、たとえ視力を失おうともアルゴルとの間合いだけは正確に掴んでいた。主と信じる沙織の導きを、確かに感じていた。
「見えたぞ……メドゥサの醜い顔面などではない！ 勝利の女神が……俺たちのアテナが！ 廬山昇龍覇ー！」
廬山の大滝の流れをも逆流させ、元の天空へと押し戻すと言われる必殺拳。自然の摂理、天地の道理にも逆らう紫龍の昇龍覇がメドゥサの盾を粉々に砕いた。
――駄目だ。
目は見えずとも右腕に伝わる手応えだけは、はっきりと分かっている。全てをかけた昇龍覇も、畢竟はメドゥサの盾を叩き割ったに過ぎない。肝心のアルゴルの肉体はおろか、白銀聖衣の盾以外のどのパーツにもダメージは与えられずじまいだ。
「ドラゴン……お前のような男には、出会ったことが無いぞ」
表情を読み取ることは出来ないが、それは敵に対する最大級の賛辞のように思われた。だが、それが何になろう。自分は間もなく、このペルセウス座のアルゴルにとどめを刺される。後の全てを氷河に託して、紫龍は命の消える覚悟を固めた。
しかし、次にアルゴルが取った行動は、実に意外なものであった。その両手を、がっしりと紫龍の肩に置くと声を震わせて話しかけてきた。
「たった一つの勝利を得るために、自らの両目さえ捨てられるとは……そんな覚悟を抱ける男が、暗黒聖闘士であるはずがない。お前は……お前たちが、そこまで信じられるものを持てたというのは、これもまた勇者の誉れと認めない訳にはいかない」
命を奪いに来た刺客が、理解を示してくれた。実際に見ることは叶わないが、きっと今のアルゴルの目には光るものが浮かんでいることだろう。紫龍もまた、瞼の奥から流れ落ちる真紅の滝に、熱いものを含ませていた。
アルゴルの小宇宙は燃えたままだが、石化の魔力を持ったメドゥサの盾は砕けた。自由を取り戻した星矢と瞬は、つい今まで戦っていたアルゴルが紫龍と抱き合っているのに気付くと、思わず首を傾げてしまった。
「私の役目は、聖域で働く青銅聖闘士や白銀聖闘士たちを指揮することだ。二十四人の白銀、四十八人の青銅、その他に守護星座を持たぬ雑兵を集めれば総勢で百人を超える軍勢。この地上で、最強の力を持つ軍団。それを従える責任の重圧は、想像に難いほど大きなものだった」
敵対することを止めて、四人の戦士たちはグラードコロッセオで語り合っていた。あくまで聖域から派遣されたアルゴルと、聖域から独立した存在である星矢たちとは本来、相容れない。そんな両者にとって、大事にしたい休息の一時だ。
「ペガサス、お前は聖域で修業を積んだそうだから知っているか。かつて聖域でも、その人ありと謳われた人の話を。最強の聖闘士ジャガーの再来とまで称えられた、ライラのことを」
思い当たる節があって、星矢は頷いて答える。
「そのオルフェが、数年前に聖衣と共に忽然と姿を消してしまった。以来、小宇宙さえも感じ取れない。彼の失踪は、聖域における最大の損失とまで言われ、今も多くの人に帰還を望まれている……私も同じだ。私の地位は、本来であれば私を含めて全ての聖闘士が尊敬していたオルフェが収まるはずのもの。オルフェが帰ってきたら、ただちに譲るつもりでいる。だからこそ、それまで指揮官の職を汚さぬよう気を配ってきた。掟を破って聖闘士の誇りを貶める輩が、一人でもいないよう尽力してきた」
改めて星矢たちは、心が咎められる気持ちであった。自分たちの意思で私闘に臨んだ星矢と瞬は、うつむいている。紫龍も応急処置を終えて、とりあえず眼窩からの出血は治まっていた。
「しかし、ドラゴンの決意を見せられた今、私もお前たちを助けてやりたくなった。私の権限など、たかが知れてはいるが……それでも、お前たちの言い分を上申する機会を与えてもらえるよう、教皇猊下に直訴してみようと思う」
「有り難いが、アルゴル……俺たちは、教皇こそが諸悪の根源だと考えているんだ」
星矢の言葉に、アルゴルが鋭い視線を向ける。星矢は臆することなく、魔鈴から聞いた話や自分たちがアテナと見込む沙織について話した。終わりまで黙って聞いていたアルゴルは、にわかには信じがたいといった表情を浮かべていた。
「銀河戦争の首謀者である城戸沙織の名は、聖域でも広まっている。だが、その彼女がアテナだという確証は……」
反論を口にしようとするアルゴルは、ふと何かに気が付いて途中で止めた。温かな光が差し込んできている。夜が明けたことを知らせる朝日であろうか。それにしては、光を感じ取る術を失った紫龍までもが顔を上げている。
「氷河……それに、お嬢さんも？」
「ああ。戦いは終わったようだし、沙織お嬢さんと一緒に迎えに来てやったぜ」
観客席から聞こえてきた声が呼んだ名前。それについてはアルゴルも関心を引かれずには、いられなかった。
アルゴルが見上げた方角、それは東。夜明けの頃合いに東の空を照らすのは、太陽に違いあるまい。アルゴルは確かに日の光を見たのだ。偽りの神に仕えるのは止めよと訴える、太陽を背負った女神の姿を。
それは、例えるのなら薔薇の気高さと美しさ。神の真髄の最高の保証と讃えられる、あの薔薇だ。右手に黄金の状を携えて立つ城戸沙織の姿は、それ自体が輝きを放つかのように威厳に満ちた雄大な小宇宙に包まれている。
「これは……」
アルゴルは、体の芯まで竦み上るのを感じた。聖闘士である自分が、何と敵対しようとしていたか。その正体を突き付けられた今、敬虔なアルゴルは自然と跪いていた。
「貴方が、ア、アテナ……」
「良いのです、頭をお上げなさい。これまで真相を隠してきた私自身にも、非はあるのです。その結果、多くの前途ある聖闘士を失わせてしまいました。この浅ましき不徳を、どうぞ罵ってください」
そんな真似が、出来ようか。さりとてアテナの命を無下にする訳にもいかない。進退窮まった事を訴えるべく、ただただ無言で力無く首を横に振り続けることしかアルゴルには許されない。
その反応から、アルゴルが自分を信じてくれた事を沙織も感じていた。
「ごめんなさい、貴方を試すような事をしてしまって。けれど、星矢の話したことも事実なのです。少なくとも、教皇を名乗る男はアテナが聖域にいない事を知っています。そのことを隠す理由が、悪意によるものなのか否かは、まだ私も計りかねていますが」
アテナの寝所は、教皇の間の奥にある。そして教皇は、聖域においてアテナとの謁見が許された唯一の存在。本物のアテナである沙織が日本に居を構えている以上、教皇だけはアテナの不在を知っているに違いなかった。そして、その話をアルゴルも即座に理解した。
「かしこまりました。このアルゴル、貴方様の名において教皇シオンに事の真相を尋ねてまいります。出立に先駆けて、願わくは……」
言葉を切った後、アルゴルは思いの丈を述べる。聖闘士として聖域に仕える身であれば、誰もが乞い願うに違いないであろう切望。
「願わくは、ご尊顔を拝す無礼を……お許しください」
ゆっくりと顔を上げ、沙織の顔をはっきりと網膜に焼き付ける。この世に生を受けて、まだ十三年。それでも神話に描かれる通りの姿、何度も夢に見た美貌には心を奪われる。煌く星座も、闇夜を照らす望月も、そして上り来る太陽さえも霞む程の女神の容貌。
それを生涯において一度だけでも目にすることが叶った瞬間、アルゴルの心からは、いかなる恐怖も混迷も拭われた。
こうして星矢たちは、白銀聖闘士の長という得難い味方を手に入れた。それでも、熾烈な戦いの予感は過ぎ去ってはいない。そう、これからが真の戦いになるのだ。
多くの刺客との戦闘で傷つき、破壊された聖衣。視力を失った紫龍。城戸沙織の下に集った少年たちの負った、痛手は深い。
それだけに留まらず、沙織の胸には去来する不安が存在していた。アルゴルを説得させるためとはいえ、これまで十三年間も発揮せず隠し通してきた戦いの女神としての沙織の小宇宙。それはおよそ、人間が持ち得るものではない。
地上はおろか、大いなる宇宙の果てにまで広がるような神秘的な小宇宙を示せば、それは聖域に潜む邪悪に自分の位置を教えているのと同義。
果たして、沙織の不安は的中した。ギリシアに戻ったアルゴルは、その足ですぐさま教皇の間へと乗り込んでいった。そして今、狂気の教皇の足元に転がるのは、信心深く誠実なペルセウス座の聖闘士の亡骸。
まだ若く美しい聖闘士の一人が、こうして邪悪の手によって人知れず葬られていった。
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