「白銀聖闘士」編
第八話
～女神の下で～
「案ずることはない。俺たち
笑いながら語る紫龍であったが、その身を厭ってほしいと誰もが願っていた。兄弟の痛ましい姿に、周りの方が耐えられなかった。アテナ城戸沙織を守護するという大事に身を置く聖闘士の立場から一旦退き、紫龍は静養のために修行地である中国廬山へと引き返していった。
彼の地は、紫龍にとっては言わば心の故郷。辛い修行の思い出ばかりではない。大きく温かな師父が待ってくれている。その師父の養女もまた、紫龍をいつでも優しく支えてくれていた。今ではきっと、懐かしき友も一緒にいるのだろう。
「しばらく、お別れだな。なに、見えない生活に慣れればすぐに戻るさ」
「そんな弱気なことを言うなよ。必ずまた見えるようになるって言ってくれ。少なくとも、俺たちは信じている」
紫龍の見送りに際し、
「フッ、お前はなまじ物が見えているから今の俺の状態が不自由に思えるだけさ。大数学者レオンハルト・オイラーという人は、失明後の晩年にこそ畢生の仕事を成し遂げたのだぞ。だが……お前の期待も、易々と無下にはしないさ」
がっちりと握手を交わし、紫龍を送り出す。その背中を見届けながら、星矢はなおも心配する。失明により紫龍の腕が鈍ることをではない。廬山で紫龍を待つ少女と、いずれ紫龍も所帯を持つのだろう。その時、生まれてくる子供の顔も見てやれないのではないのかと思うと、この上なく不憫であった。
紫龍が日本を離れた、正にその日の夜。静けさに包まれた城戸邸に沙織の叫び声が響き渡った。
「お嬢さん!?」
一人、眠れずに廊下を当ても無く歩いていた星矢が、いち早くそれに気付いた。聞こえてきたのは、確かに沙織の声である。嫌な予感が巡るよりも早く、星矢の足は沙織の部屋へ向かっていた。
「そこか！」
相変わらず小宇宙は感じないものの、何か動くものの気配だけはする。そのバルコニーに勢いよく飛び出した星矢の目に映ったのは、意識を失って横たわる沙織の姿であった。
「沙織さん！」
安否を確かめるために駆け寄ろうとする星矢の視界を、途端に黒い壁が覆う。何事かと両手で振り払うと、その手に漆黒の羽毛がまとわりついている。
「何だ、こりゃ？ まるで、カラスの……」
言いかけた言葉は飲み込まれた。羽毛だけではない。実際に数十羽はいようかというカラスの群が、沙織の体に覆いかぶさっていたのだ。その凶悪な嘴が一斉に沙織をついばもうものなら、彼女の白い肌は彼女自身の血でみるみる内に朱に染まるだろう。
最悪の結果を阻止せんと、星矢は雄叫びを挙げながら悪魔の群へと身を投げ出す。その星矢の手をすり抜け、カラスたちは沙織の肢体を掴まえながら空へと飛び立っていく。
「ま、待てーっ！」
聖闘士の主を攫われて、みすみす逃すという法はない。後先の事など微塵も考えず、星矢は沙織を追ってバルコニーから飛び降りた。
一瞬遅れて、
「氷河！ やっぱり、沙織お嬢さんも星矢もいないよ」
「ああ。やられたぜ……聖域の奴ら、今度はとうとう頭を狙ってきたんだ」
その不安が全く無い訳ではなかった。先日、沙織がその偉大なる小宇宙を発揮したがために、アテナの命を狙う邪悪に居場所を知られてしまったのではないかと懸念していた。しかし、刺客を送り込んでくるなら迎え撃つまでと対策を怠ってしまっていた。紫龍の負傷や離脱による動揺のため、などと言い訳する事は出来ない。常在戦場の不覚悟に例外は認められない。
「きっと星矢は、お嬢さんを攫った刺客を追っていったんだ。ここを離れていく星矢の小宇宙を感じるもの。僕らも急ごう」
「待て、瞬……。これは何だ？ カラスの羽根……カラス……」
刺客が残していった証拠物に、氷河は思うところがあった。氷河も、かつては聖域の命で星矢たちの粛清に赴いた身。その手の任務を主に任されている
「もし、俺が聞かされたことのあるクロウが相手だとすれば……ヤバイぞ。今度ばかりは、星矢にも勝ち目は無いかもしれん」
冷や汗で頬を濡らしながら、互いに目を合わせる氷河と瞬。意思を確かめ合うまでもなく、二人の足は星矢を追って駆け出していた。
全身黒一色のカラスを闇夜の中で追跡する事ほど困難な事があるだろうか。けれども星矢が目印としているのは、そのカラスに捕えられた沙織の方であった。純白の衣服に身を包み、夜目にも輝く白い肌を見失いさえしなければ追跡は可能だ。
その沙織の位置が、やや下がったように思える。空中に吊るされた状態を保てず、落下しかけているのであろうか。星矢は咄嗟に受け止める用意をするが、さにあらず。カラスどもが向かっているのは、どこかの崖の上。道も舗装されておらず、深夜に人の往来など無さそうな僻地だ。どうやらカラスを操っている張本人は、そこで待ち受けているらしい。
果たして、沙織を連れたカラスたちは崖の上で羽を休め、丁重に沙織を地に下ろす。未だ意識を取り戻さない沙織の顔を、品定めでもするかのように覗き込む一人の男。それが白銀聖闘士、烏座のジャミアンだ。
「教皇猊下が仰せられたのは、この小娘か。大胆にもアテナを名乗り、数人の青銅聖闘士を扇動しようとは」
その城戸沙織を抹殺ではなく、生きたまま聖域へ連行せよという下命にも解せないところはあった。大方、聖闘士でもない女子の暗殺など教皇は好まなかったのであろう。見れば城戸沙織とは、十五歳にも届かないような小娘。ジーザスコンプレックスにかぶれた無害な少女など、わざわざ命を奪うまでもないとの叡慮であろうとジャミアンは推し量った。
「さて、俺には子供を相手にする趣味は無い。お次はギリシアまで飛んでもらうぜ、お嬢さんよ」
横たわる沙織を見下ろしながら、手を伸ばすジャミアン。その背中に、息せき切った声が浴びせられる。
「待ちやがれ！ その人に指一本でも触れたら、このペガサス星矢が容赦しねえぞ」
ゆっくりと振り返ったジャミアンは、思わず吹き出してしまった。一体、どれほどの相手が追ってきたのかと思えば、その正体には笑いを禁じ得ない。
「何を笑っていやがる!? こっちは冗談じゃなく、マジでキレてるんだぜ」
「いやいや、こいつは勇ましいことで。だが、
そうだ。星矢の青銅聖衣は、先のアルゴルとの戦いにおいて破損したままなのだ。かつて大破した時のように聖衣自体の生命までもが途絶えた訳ではないが、とても本来の防御性能を残しているとは思えない。まして今の星矢は、聖衣を取りに自室へ戻ることさえ思いつかない程に冷静さを欠いていた。そう、もう少し頭を冷やして観察していれば、あれほどいたカラスの大群がまるで姿を消している事にも気付けただろう。
「だから、どうしたっていうんだ！ 俺はな、お前と同じ白銀聖闘士たちを倒した事があるんだぜ。その時の技……お前にも見舞ってやる！」
息巻いて両腕を広げる星矢。ジャミアンも顔から笑みを消して身構える。
「高まれ、俺の小宇宙よ……ペガサス彗星拳！」
星矢の全小宇宙を乗せた渾身の一発が、怨敵に向かって一直線に飛んでいく。その速度と軌跡を冷静に計算し、烏座の聖闘士も迎撃に出る。
「ブラックスクリュー！」
その右腕から繰り出された四点の小宇宙が、それぞれ錐揉みとなって彗星拳に衝突する。轟音が夜空に鳴り響き、両者の必殺技は相殺されて消えていた。
「そ、そんな……」
「この程度で白銀聖闘士を倒してきたとは、笑わせる。今度は俺が、本当の白銀聖闘士の技って奴を見せてやるぜ」
両の手を開いて、その中を見せるジャミアン。そこから零れ落ちるのは、大量の黒い羽根。そういえば、この白銀聖闘士のしもべは、どこへ消えたのだろう。もっと早くに気付くべきであった己の失態に、星矢は途端に不安と恐怖に襲われる。
「受けてみよ……ブラックウイングシャフト！」
無限に湧き出ては地面に落ちていくだけであった漆黒の羽根が、ジャミアンの掛け声に合わせて一気に星矢へと向かっていく。渦巻き状に回転しながら襲い掛かる無数の羽根は、途中で姿を変容させる。羽根の一つ一つが、凶暴なカラスへと変貌を遂げたのだ。
「何……こいつの能力は!?」
前後左右から襲撃してくるカラスの大群を、星矢は拳を振り回して撃退する。そして理解した。ジャミアンは生きたカラスを操っているのではなく、無機物に命を与えることの出来るサイキックソルジャーなのだと。
「さあ、この全方位攻撃を相手にして……どこまで防げる？ ペガサスとやらよ！」
倒しても倒しても黒い壁は隙間さえ見せず、星矢を取り囲んでいる。打ち落とされて元の羽根に戻ったカラスも、すぐさまジャミアンによって新たな命を吹き込まれる。切りが無い状況に、ふと星矢の心が折れそうになる。
「お前は、しばらく遊んでいな。その間に俺は、この小娘を聖域の教皇猊下に送り届けるぜ」
「な、何だと！」
星矢の怒りが頂点に達した。依然として頭に血が上り、落ち着きを取り戻していない。だが、そんな事はお構いなしに星矢は怒りの小宇宙をたぎらせる。
「こんな……こんなカラスの群がなんだ！ 俺はアテナを守る聖闘士なんだぜ……」
ジャミアンも、沙織を連れて立ち去る寸前で足を止めた。これまで感じた事のない程に強大な小宇宙が、すぐ近くで燃え盛っている。星矢が白銀聖闘士を倒したという話も、まんざら妄言ではないと信じはじめていた。
「心の中に宇宙を感じろ……その宇宙を爆発させるんだ……。熱く燃えろ……奇跡を見せてくれ……俺の小宇宙よ……女神アテナよ！」
深黒の塊の中央から、星矢の命の小宇宙が輝きを放つ。その全身から発せられた流星群が、自身にまとわりつくカラスを一羽残らず吹き飛ばしていった。
「何!? 青銅が、ここまでの奇跡を起こせるとは……」
その光の爆発に巻き込まれ、カラスのみならずジャミアンまでもが跳ね飛ばされた。崖下への転落こそ免れたものの、必殺の羽根は四散してしまい戦力の低下を実感した。
ジャミアンが体勢を立て直そうとする間に、星矢は素早く沙織の身を抱く。力を込めれば折れてしまいそうな程にたおやかな沙織の肢体は、見たところ外傷を負ってはいないようだ。まずは胸を撫で下ろす星矢であったが、真に落ち着くためには戦域を離脱しなければならない。
「ひとまず退かせてもらうぜ。俺たちを始末するんなら、次は女の人を攫うなんてマネをせず、直接かかってきな」
「残念だけど星矢、お前に次なんて機会は無いんだよ」
突如、背中から聞こえてきた覚えのある声。聖域での修業時代に知り合った中で、最も苦手としていた人物を予想して星矢が振り返る。
「参ったな……。まさか、アンタまで来ていたとはな……シャイナさん」
仮面で素顔を隠しているのは、女聖闘士の証。しかも、その造りは凶相を象っていて見る者を圧倒する。そんな面に相応しいほど苛烈な性格で知られる、
「良いところに来てくれたぜ、シャイナ。手伝ってくれよ」
「虫がいいこと言ってるんじゃないよ、ジャミアン。星矢は、私の獲物なんだ……誰にも手出しはさせないよ」
低く唸るようにして言葉を吐くと、シャイナはじりじりと星矢に向かって歩み寄っていく。過去のやり取りの事で、まだ怒り心頭なのかと星矢は改めてシャイナに苦手意識を覚える。やる気満々のシャイナを説き伏せるのは、難しそうだ。沙織を抱えたまま、星矢は視線を右へ左へと行き来させては隙を窺う。
「う、ん……」
小さな吐息が漏れ聞こえてくる。沙織の重なっていた長い睫毛が上と下に分かれて、大きな瞳が満天の星を確かめる。
「ここは……」
か細いながらも決して弱くはない呟きを耳にして、星矢が仕方ないといった溜息をつく。
「やれやれ、何もこんなタイミングで起きなくってもいいだろうに」
「星矢？」
まだ半ば夢の中にいるかのように小首を傾げる沙織。段々と自室のバルコニーで襲撃を受けた時の記憶が蘇ってくる。そこで辺りを見渡すと、白銀聖衣に身を包んだ見慣れぬ男女に左右を挟まれているのが分かった。
「もう少しだけ眠っていてくれれば、何も怖い思いはしなかったろうぜ」
危機的な状況ではあるが、不必要に怯えさせまいと星矢はわざと冗談めかして言う。その配慮が分かったのか、沙織も何も恐れてやいないといった秋波を星矢に送った。
「悪いんだけど、これ以上じゃれつかれると目障りなんでね……。星矢、その娘をおとなしくジャミアンに渡して、お前は私と闘ってもらおうか？」
一歩踏み出し、シャイナが苛立ったように挑発してくる。沙織の柳腰を抱く星矢の腕にも、自然と力が入り出す。
「それは出来ない相談だよ。この人は、俺が守ると決めたんだ。例え、命と引き換えにしたってな」
「何だって!?」
一際動揺したかのように声を荒らげるシャイナ。そこで改めて、仮面の奥側から星矢に抱かれた少女を観察してみる。年若くも凛とした佇まいや、アテナを自称したくなるのも頷けるような美貌は衆目を集めそうだ。だが何よりもシャイナの目を引いたのは、その楚々とした体つきや柔らかな雰囲気であった。戦士として生きてきた自分とは、最も懸け離れた要素に言いようのない歯がゆさを感じていた。
「その女が……そんなに大事なのか!?」
「そうさ。だから俺は、沙織さんを生かすためだったら喜んで地の底にでも飛び込んでやる」
星矢の言葉が、ただの例えには聞こえずシャイナが聞き返そうとしたところで、星矢が身を躍らせた。宣言の通り、沙織を抱えたままの状態で崖下目掛けて飛び出したのだ。
「嘘だろ!? 下までは優に三百メートルはある……正気の沙汰じゃないぜ！」
目の前で見ていたジャミアンは、驚嘆の声を上げながら真っ暗闇の崖下を覗き込む。対してシャイナは、両拳を握りしめて全身を震わせていた。
「星矢……。そうかい、それがお前の答えって訳か……」
ここに来るまでの間、何度となく繰り返してきた自問自答。その決着が、ただ一つのものになってしまったとシャイナは確信を得た。それは果たして、彼女が心から望んだものであったのだろうか。
「私に与えられた道は、他にもあった。だが、最早これまで。あんなマネを見せつけられた以上、やはり私はお前を殺さなくてはならない」
ぶつぶつと独り言を続けるシャイナに向かって、気付かれないようにジャミアンが訝しんだ目を注ぐ。自分たちに与えられた指令は二つ。即ち城戸沙織の聖域への連行と、青銅聖闘士の抹殺だ。しかし、どうもシャイナの頭には指令の二文字は無いらしい。シャイナの目には、あの
「おい、シャイナ。奴らを追うのか、追わんのか？」
「お前を、この手で葬る。そうすることで、あの娘と永遠に引き離してやるよ……。ああ、そうだね。追跡して息の根を止めるんだ。だけど、この闇夜じゃあ簡単には見つかりっこないよ」
底の見えない崖下を一瞥すると、シャイナは何とか下へと通じていそうな道を探して移動を開始した。ジャミアンは、そんな悠長なマネは御免だとばかりに鼻を鳴らすと、得意のレビテーションで体を宙に浮かべる。そして、そのままゆっくりと崖下へ向かって降下を始めた。
ジャミアンが降りてくる気配に、星矢は気付いただろうか。それを求めるのは酷だ。聖衣も無しに落下した衝撃により、星矢は全身をしたたかに打ち付けて意識を失っていたのだから。それでも沙織には怪我一つさせなかったのは、流石アテナの聖闘士と褒めるべきであろう。
「ああ、星矢……」
自分を庇って傷ついた星矢の身を、そっと抱き起して沙織が名を呼ぶ。感謝と申し訳なさとが混ざり合い、瞳を潤ませて労わる。すぐにでも手当を施したいのは山々であるが、自分一人では担いでも行けない。
前途を案じている内に、上空の暗中から一筋の光が舞い降りてくる。夜の帳を銀色に照らす月の降臨を思わせるのは、残念ながら自分に敵意を持ったジャミアンだ。その冷酷な目で星矢の状態を認めると、勝利の確信を持って沙織に手を伸ばしてくる。
「崖下に転落する途中に、こんな足場があったとはな。その小僧にとっては命を亡くす程の衝撃にならず幸運であったが、俺にとっても捜索の手間が少なくなったのは運が良いぜ」
「お下がりなさい。星矢には、一切の手出しを認めません」
両腕を広げて、ジャミアンをきっと睨みつける沙織。若干十三歳の少女では、歴戦の闘士に何の迫力も感じさせられないであろう。ところがジャミアンは仰天した。
「な、何だ……こいつは!? こ、こんな何でもない小娘から……なぜ、これほどの小宇宙を感じる!?」
人形のような細面からは想像もつかないほど気宇壮大な小宇宙。更には、それが限界を感じさせないくらい次第に次第に膨れ上がっていく。地球はおろか太陽系、いや大宇宙の全てを飲み込む程に巨大な小宇宙。その人智を超えた怒涛に気圧されて、ジャミアンの足は一歩一歩と後退していく。ここが崖の中腹だという事も忘れて。
「う……わぁああ！」
恐怖に駆られた状態では、いかに訓練を積んだ聖闘士であろうと為す術は無い。足を踏み外したジャミアンは、得意の超能力を行使する暇も無く奈落の底へと転落していった。
目の前からジャミアンの姿が消えてなくなると、緊張の糸が切れたのか沙織も膝を折って肺の中の空気を吐き出した。それに反応するかのように、星矢の口が僅かに動く。
「アテナ……」
星矢の意識が戻ったのかと、沙織が慌てて顔を覗き込む。その瞼は閉じられたまま、口元以外はピクリともしない。それでも使命感を帯びた少年の表情は精悍な戦士のものであった。
「俺は……アテナの聖闘士だ。アテナを……沙織さんを守る……」
意識を失いながらも己の運命を受け入れ、それを必死に全うしようとする星矢。その血に濡れた手を取り、少しでも傷が癒えるように自分の胸元へと引き寄せる沙織。その二人に声を掛ける者があった。その声に、ジャミアンやシャイナのような敵意は微塵も感じられない。
「お嬢さん！ 星矢ー!?」
「氷河、瞬！ よく来てくれました。早く星矢を……」
戦いの小宇宙を感じ取り、ここまで辿り着いた氷河と瞬。二人とも沙織が無傷で済んだ事に安堵しつつも、重態の仲間に焦りを覚えて急いで星矢を連れて帰る事を決めた。
崖の上、残されたシャイナがジャミアンと同じくアテナの小宇宙に圧倒されて動けないでいたことが、彼らにとって何よりの幸運であった。
日本から遠く離れたギリシア聖域。度重なる白銀聖闘士の失敗から来る危惧と、奇貨おくべきアテナの所在を掴んだ僥倖から教皇は動きを見せた。
八十八の聖闘士中でも最上位に位置する十二人の選ばれし者たち。即ち、黄道を統べる
「黄金聖闘士、
「同じく
ミロとアイオリア。共に聖闘士発祥の地であるギリシアを祖国とし、幼い時分より英才教育を受けてきた正に聖闘士の鑑。その二人が召し寄せにすぐさま応じた事に、教皇は自ずと期待を深めた。
「大儀。まずは、楽にせよ」
跪いた姿勢から二人が頭を上げると、教皇は専用の椅子に腰掛けたまま用件を話し始めた。
「先般よりアテナの御心を悩まし続ける不徳の輩、即ち日本にいる青銅聖闘士の四名、およびそれらが担ぎ上げた城戸沙織……この者どもを誅滅せんと差し向けた白銀聖闘士の十名の内、八名までが悉く返り討ちとなった。残る二名の内、シャイナは成否の沙汰なく、
そこでアイオリアは一瞬だけ眉根を寄せたが、口を挟む真似は仕出かさない。親交のある魔鈴に関する反逆の噂は、以前から耳にしていたからだ。
「この話が伝播し、他にも城戸沙織に呼応する者どもが現れれば由々しき問題。次なる聖戦を前にして、聖域を二分する事態に陥りかねん。そこで、お前たちには是非とも魔鈴と青銅聖闘士どもを粛清し、アテナを騙る不届き者を余の前に引致してもらいたい」
「恐れながら猊下……」
ミロが軽く頭を下げて異論を唱える。
「たかが青銅の未熟者数人を相手に、屈強の黄金聖闘士を二人も派遣する必要は無いと存じます。例え、その者どもに白銀を下すだけの力があろうと……また、標的の中に白銀聖闘士が含まれようとも、我ら黄金聖闘士の実力は神々に次ぐものと自負しております。その黄金聖闘士が二人も動いたという話が広まれば、それこそ聖域に弓引く者どもを増長させてしまいましょう」
「それも道理。だがスコーピオンよ、問題は先に述べただけに留まらぬのだ」
教皇からの更なる反論に、ミロは襟を正して謹聴の姿勢を見せる。アイオリアの方は、教皇が語ろうとしている内容に早くも思い当たる事柄があった。
「十三年前、アテナを害しようとした罪で追われる身となった
視線を落とし、考え込むようにして奥歯に力を入れるアイオリア。その機微を知ってか知らずか、構わずに教皇は続ける。
「それだけではない。アテナのおわすアテナ神殿を守護すべき十二人の黄金聖闘士の中に、この聖域から離れて己の務めを放棄している輩がいる。
ミロは、危うく聞き返すところであった。教皇に対する敬意が、辛うじてそれを堪えさせた。だが、そうなっても不思議ではないほど教皇の発言は意図が掴めないものであった。
「この二人、十三年間にわたってアテナに背き、余の呼集にも応じようとせぬ。おまけに所在さえ伝えてこようとせず、杳として行方も掴めん。叛意は明確だ。もしも天秤座と牡羊座が城戸沙織の一派と手を組めば、我々の側の黄金聖闘士にも犠牲者を出す事になりかねん。そうなる前に手を打っておく必要があるのだ」
教皇の命令は分かった。その危惧するところも理解した。しかしながら、その決断へと至った経緯が不明瞭であると考え、ミロは即答を控えた。その隣で、アイオリアが口を開く。
「しかるべく。ただし恐れながら、先ほどミロが言った通り、やはり黄金聖闘士が二人も出向く必要はございません。ここは私め……獅子座のアイオリアにお任せ願います」
「ふむ……そこまで申すのであれば、お前に一任する。頼んだぞ、アテナの下に集いし真の聖闘士よ」
ミロは依然として話の内容を吟味している様子である。教皇はアイオリアの申し出に肯んじて送り出した。その背中を見送った後、教皇の間に残っていたミロに別命を付け足す。
「実を言えばミロよ、余は始めからアイオリアを一人で赴かせるつもりでいたのだ」
「と、言われますと……やはりアイオロスの件でございましょうか？」
「そうだ。アイオロスこそ他でもない、アイオリアの実兄。それゆえにアイオリアは逆賊の弟として苦汁を飲まされてきた。無論、余もアイオリアが逆境に負けまいと忠勤に励み、アテナからの信用を得ようと奮起してきた事は知っている。だから此度も、アイオロスの名を出せばアイオリアは真っ先に……己一人で任務を遂行するはずと踏んだのだ」
恐ろしい御方だ、とミロは悟られないようにして息を飲んだ。同時に教皇の隠された真意を探れないかと、言葉の一つ一つに一層の注意を傾ける。
「思い違いをするでないぞ？ 余は何も、アイオリアを疑っているのではない。アイオリアの気を引き締めてやったまでだ。しかしだ……血は争えん、という場合もある。分かるか？」
「アイオリアに見張りを付けろ……という仰せでしたら、うってつけの者が白銀聖闘士におりますれば、その者に……」
飲みこみの早いミロの返事に、教皇は満足が行ったようだ。この場に呼び寄せたアイオリアとミロという人選に、やはり誤りは無かったという満足感だ。
「よし、下がれ」
「はっ」
促されるままにミロは教皇の間を辞する。その心にくすぶる思いを表情に出すことも無く。
聖域の教皇の間、並びにその奥にあるアテナ神殿へと至る過程には、黄金聖闘士たちが守護する十二宮という十二箇所の関所が設けられている。そこを上から順に下った二番目の宮、宝瓶宮でミロは立ち止まり、そこの番人に気さくな挨拶をした。
「よう、カミュ」
「猊下にお呼ばれだったのか。先ほど、アイオリアもここを通っていった」
「ああ、それに俺たちだけじゃないだろう？
「ピスケスも猊下から直々に命を受けたようだ。私も、いつ拝命するか分からぬ身だからな」
なるほど、とミロは頷いてみせた。裏切り者の青銅聖闘士の中にカミュの弟子がいることは、聖域の中では公然であった。その不始末を師であるカミュに片付けさせるというのは、確かに納得がいく。
とはいえカミュも、さしあたって十二宮を移動しなければならぬ程でもない。ミロはすぐに立ち去る素振りは見せず、久しぶりの世間話を装って腰を下ろした。
――ところでな、カミュ。
口から出てくる障りない言葉とは別に、ミロはテレパシーでカミュの脳内に話し掛けた。カミュもまた、口では適当な相槌を打ちながら頭の中の声に意識を集中させる。
――君は、どう思う？ 俺には、やはり分からんのだ。
長年の付き合いで、互いに気の置けない間柄である。ミロは聖域内で最も信用する相手に、思い切った相談をぶつける事にした。それは他でもなく、聖域の最高権力者たる教皇に対する疑念だ。
――天秤座の聖闘士が聖域に顔を見せないのは、これはアテナから密命を受けての事だと俺は思っていた。いや、そう考えている者は君をはじめ他にも多数いる。にも拘らず、教皇はこれをアテナに対する天秤座の背信と断言した。
一拍置いて、ミロは相手の反応を窺う。テレパシーによる返事すらせず、カミュはただ目線で先を促した。
――牡羊座についてだって、そうだ。いかに牡羊座が小宇宙の気配を絶っていようとも、潜伏先の具体的な位置を教皇自身が知らぬはずがない。
その意見に関しては同意するとばかりに、カミュが僅かに顎を引く。だが瞳では、ミロの教皇に対する不信の意図を探っているようであった。ミロがカミュを、カミュがミロを互いに教皇の間者ではあるまいかと疑うことは有りえない。ただし八十八の聖闘士たちの中でも師表となるべき黄金聖闘士が、抽象的な憶測で大それた行動をするつもりがないかを確かめたかった。
ただ何となく、そんな気がする。そんな曖昧な心境ではなく、教皇への不信に確固たる理由があること。その不信に対して、明確な計画があること。カミュは、ミロがそれを打ち明けてくれる事を期待していた。
――俺は、出来ることなら天秤座と牡羊座に会いに行きたいくらいなのだ。聖域内部でも、声を大にしては言えないものの教皇への疑惑が募り出している。あの二人は、それに対してどんな見解を述べてくれるのか。彼らは、聖域に顔を見せずとも他の黄金聖闘士よりも教皇に近いからな。そうだろう？ なぜなら、あの二人は……
気さくに見えて、本心は親友相手にも簡単には示さない。ミロの真意をカミュは辛抱強く待ち続けた。だが、事態はいよいよ待ってなどいられない局面を迎えようとしている。
来たるべき運命に対し、カミュは死を覚悟して気持ちを引き締めていた。一方でミロは、この友と過ごせる穏やかな時を出来る限り引き延ばしておきたかった。そのどちらに対しても、聖域を覆う暗雲は平等に垂れ込める。
聖闘士星矢のトップページへ戻る