「冥王ハーデス 十二宮」編
第十話 震撼の聖域
戦いに敗れ、囚われの身となった三人の冥闘士たち――サガ、シュラ、カミュの三人は、それぞれかつての同朋に抱えられながら、十二宮の残りの石段を上っていた。
三人とも、ムウが作り出した小宇宙の網によって全身を拘束された状態。かろうじて、石段を一歩ずつ上る程度には足を動かせる状態だ。ここから逃れることは出来ない。巧まずして目的であるアテナ神殿へと向かっている途上ではあるが、まずは囚われた状況を打開しない限りは希望を見出すことは叶わない。
必死に考えを巡らせながら、一歩また一歩と進んでいく。脳髄を滾らせて思案しつつ、アテナ神殿へと続く石段の数が一つ一つ減っていくことに冥闘士たちは焦りを感じていた。
その中でも、サガは特に心を痛めていた。聖域に生を受けて以来、幾度となく往復した十二宮。麓から頂までの石段の数も記憶しているアテナ神殿への道のりを、このような心で上る日が来ようとは。
地上の正義と女神の愛のためにゼウスによって遣わされた身でありながら、今こうして逆賊の徒と化して十二宮を上っている。誇りと仲間の命と、多くのものを引き換えにしておきながら、志半ばで捕縛されるという不面目を演じている。どこまでも中途半端な自分の情けなさに打ちひしがれながら、その足は容赦なく一歩一歩と先を進んでいく。
断頭台に上がる囚人の気持ちで、とうとう三人の足が双魚宮の先、教皇の間から伸びる最後の一段を踏み終えた。神話の時代より、決して外敵に侵されたことのない神聖なるアテナ神殿へと踏み入った。
そびえ立つアテナの巨像。その足元には、確かに現代のアテナ沙織の姿があった。その表情には、怯えた様子も無ければ些かの怒りも感じられない。いつものように静かに微笑んでいる。慈しみに溢れた女神の面差しだ。全てを許そうという愛の眼差しが、巨像と沙織自身から注がれている。
ムウたちは、三人の逆賊をどこまでアテナの側に近付けようかと迷った。三人の身は拘束されているとはいえ、彼らがもしも命懸けでアテナの首を狙うつもりであれば、それこそ小宇宙を振り絞ってムウの拘束を解き、アテナを害するかもしれない。そういった恐れから、三人を神殿の入り口に座らせたままムウ、アイオリア、ミロ、カノンの四人で取り囲むようにしてアテナを守った。
「……サガ、此方へ」
距離を保ったまま、アテナが声を掛ける。それと同時に、サガは全身を締め付ける見えない鎖が消えたことを実感した。アテナの大いなる小宇宙が、サガの身を束縛から解き放ったのだ。そして、導かれるままサガの足取りはアテナの方へと向かっていく。
ゆっくりと近づいてくるサガを、アテナは巨像の下で待ち続けた。やがて互いの眉目がはっきりと分かる距離まで縮めると、アテナは一度だけ目を伏せ、そして見開いた慈愛の双眸でしっかりとサガを見詰めた。
「今夜、貴方々の侵攻を受けて私も覚悟を決めました。貴方たちの思いは真剣であり、例え囚われた今であっても私の命を狙い、そして自身も果てるつもりなのだと分かった以上……私も諦めました。この上は生に執着することなく首を差し出し、潔く地上を去る決断もしましょう。最期のお願いです……私の命の幕引きはサガ、どうか貴方に託したい。一時でも私に代わって聖域を治めていた、貴方の手で――」
そこに至って、アテナの手にある物が握られていることに気が付く。眩い
しかし、サガは知っていた。アテナの言うように、一時は教皇を騙って聖域を牛耳った身であるサガは、聖域が保有する秘宝の一切についても知識があった。アテナの小さな手に包まれた柄と、そこから短く伸びた刃の正体についても。
それこそ、神の命を奪う力を秘めた黄金の短剣。無限のラビリンスをも打ち砕く生還の命綱とでも呼ぶべきアリアドネの糸や、あらゆる神性を無効化して征矢を突き立てる光の魔弓と並ぶ聖域秘中の秘宝。いずれも神々の業を超える品であるため、聖域の奥深くに封印され、その存在も効力も秘匿されてきた。
「この短剣の在り処を知っている者がいるとすれば、真の教皇シオンと、このサガ……そして、アテナのみ。その封印を解く術も、その効力についての知識を有しているのも……」
「そうです。私も、霊峰オリンポスの神の端くれ。如何に最強の黄金聖闘士が力を結集させようとも、命を奪うのは難儀しましょう。けれども、この短剣で一突きすれば、それで全てが終わります。神々の小宇宙をも貫いて殺傷する黄金の短剣の前では、私も一人の人間に過ぎません。さあ、サガ――」
アテナからの呼び掛けに、いつしかサガは呆然としていた。果たして、アテナはここまで読んでいたのであろうか。先の処女宮における一戦において、サガはムウに対して幻朧魔皇拳を試みた。相手の頭脳を支配して、自らの操り人形とする伝説の魔拳を。その魔拳は、ムウによって跳ね返されて反対にサガの頭脳を直撃した。かつて鏡に映る自分自身に対して魔皇拳を撃った経験のあるサガは、同じ技を二度も食らうような愚は犯さない。それでも、僅かに魔拳の呪いは脳内に残っていたのだ。そこへ大いなるアテナの小宇宙が働き掛け、サガの頭脳はアテナの支配下に陥った。
言われるがまま、サガはアテナから黄金の短剣を受け取ると、その存在を確かめるようにして両手で握り締める。虚ろな目で凶刃の輝きを見詰め、その先端をアテナの白く細い喉へと向ける。
自身の確実なる死を悟りながら、それを望んでいるアテナは焦りも恐怖も見せずに構えている。サガに突かれるのを待ちながら、その眸はサガの後ろで控えるムウ、アイオリア、ミロの三人へと向けられる。主の危機を前にして、それを止めることさえ許されないでいる彼らに、せめて一言でも残して世を去りたかった。
「私のため、そして何より地上のために心を砕いてくれた貴方たちに何も報いることが出来ず、申し訳ないと思っています。どうか自分を責めることなく、貴方たちのこれからの道を歩んでいってください」
語り終え、唇を結ぶアテナ。その赤い唇の下にある柔らかい箇所へと黄金の短剣が突き立てられ、唇より赤く鮮やかな血を噴き出させる。その凶行を行った感触が完全に両手から去った後、ようやくサガの思考はサガ本人の元へと帰った。
魔皇拳の呪縛は、標的の死を確認しない限り解かれることはない。サガは自分が魔皇拳に侵されたことに気付き、そこから解き放たれたことで目の前の人物の命が潰えたことを悟った。
震える諸手から黄金の短剣が零れ落ち、仰向けになって倒れようとするかつての主に向かって、必死の思いで手を伸ばす。その手は、途上で止められてしまった。白い喉元から噴き出す赤き鮮血の勢いから、それが即死に至る傷であると分かってサガは身動きを止めた。
指の先まで硬直し、瞳はまばたきすら忘れて見開かれたまま。心臓以外の全ての動きを止めたサガの目の前、指呼の間でアテナは斃れた。
忠誠心厚き四人の黄金聖闘士たちも、主の命が弄ばれるのを目の前にして何もせずに眺めていた。
その足は床に張り付き、腕は
永遠とも思える長い時間。全員が生きた心地を失くした長い時間。初めに時間を取り戻したのは、サガだった。これを望んでいたはずなのに。この目的を果たすために帰ってきたというのに。いざ目の前に突き立てられて、サガは自失するほどの衝撃に叩きのめされた。
両手は真っ赤に染まっているのに、そこに感触は残っていない。アテナのせめてもの思いやりなのだろうか。むしろサガには、自分の意思でアテナを殺めるという事をさせてもらえなかった事実の方が苦しかった。
アテナは己の死に際してまで、裏切り者と化した聖闘士たちを思いやり、自ら死を選んだ。その決断に身震いし、繰り広げられた残酷な光景にサガは涙した。命と共に捨てたはずの涙が蘇り、瞳の奥より後から後から溢れ出してくる。
アテナは死んだ。自らの手で、それを成し遂げようと心に決めて聖域に舞い戻ったはずであったサガは、アテナの死という現実に慟哭した。自分が命懸けで果たそうとした願いこそ、自分が最も見たくない結末であったと理解して、サガは天を仰いで咆哮した。
途端に空は低く垂れ込め、風は強く吹いて雨雲を呼び出す。地上を守護する女神の死に、澄みしはずの空までが泣いた。
地上で最も尊き者の訃報は、誰かから語られるまでもなく忽ち遍満していった。
聖域だけに留まらず、周辺に住む人々は皆、こぞって恐怖に打ちのめされて荒れる天を仰いだ。
聖闘士の名と伝説とが忘れ去られようとも、この地――アテネを包み込む守護神の加護を人々が忘れたことなど無かった。
それが、地上から完全に失せて消えた。
神々の聖戦も何も知らぬ人々でさえ、女神の死を悟って泣いた。
子供が泣いた。女が泣いた。一家の主が泣いた。犬馬が泣いた。廃屋の隠者が泣いた。僧侶が泣いた。空の主が哭き、天涯から注がれた熱き雫でアテネ中の軒を濡らした。
垂れ込める暗雲は、聖域中の悽愴が呼び寄せたのか。敬虔な人々の啼泣が、雷鼓の響きとなって天を覆う。
誰が言い出したのでもない。皆、着飾るのを止め、寝食も忘れて家の中でじっと祈りを捧げる。涙が零れるたびに、祈りの言葉を天へと捧げる。厳かや静けさとは程遠い、悲痛な叫びとしか聞こえない祈りを。
だが、どれだけ悲しんだとしても時は戻りはしない。ギリシアから安らぎと癒しは永遠に失われてしまった。
その事実を受け止められずに、人は更に滂沱をゼウスへと突きつける。
自分たちが望んでいるものを、地上へ返してくれと冀う。
涙よりも、優しい歌を――。悲しみより、その温もりを――。
長い間、雨が吹き荒れる夜だった。雲に隠れていた満月が再び夜空に姿を現す頃には、聖域中が静けさに包まれていた。
雨が上がり、雲が晴れようとも人々の心に光は差し込まない。聖闘士と呼ばれる者の全ては、死んだようにじっとしていた。ある者は自らを責め、ある者は未だ祈り続け、ある者は生きる希望を見失って。
その中に、あの四人の戦士の姿は無かった。
先の戦、即ち海皇ポセイドン率いる海闘士との戦いの折り、アテナと共に海底神殿へと乗り込んだ若き勇者たちはどうしたのか。勇猛なる働きぶりで、見事に七人の敵将を倒して地上を脅威から救った後、彼らは一時的に聖闘士の宿命から逃れていた。
アテナの温情によって、傷ついた肉体を休ませようと深い眠りについていた四人。聖域内部にあるアゴラの地下に設けられた暗所にて、静かに寝かしつけられていた。大いなる神の小宇宙によって仮死状態となった肉体は、容易には目を覚まさない。邪悪の目から逃れ、傷を癒す温かな光に守られていた。
その彼らが、突如として目覚めた。四人が四人とも、同時に覚醒したのだ。アテナの死によって彼らに施された術は効力を失い、肉体は再び動き始めた。彼らが守るべきアテナの小宇宙。それが自分たちの側を離れていった実感が、彼らの頭脳を直撃した。
すぐさま四人は起き上がって十二宮への移動を開始する。ポセイドンによって破壊し尽くされたボロボロの聖衣を纏って、一刻も早くと主君を目指した。
ペガサス星矢、ドラゴン紫龍、キグナス氷河、アンドロメダ瞬。四人の青銅聖闘士たちいずれも口を利くことなく突き進む。
北西へと遠ざかっていく黄金聖衣の赤方偏移も確かめられたが、それよりも把握しておきたい事態がある。彼らは一目散にアテナ神殿だけを目指していた。口にするのも躊躇われる不安が、ただの悪夢であってくれと必死に願いながら。
十二の宮を越え、教皇の間を抜け、そして最奥の神殿へと到着する。その瞬間に全てを悟り、悪夢が真実であったと突きつけられて、四人は立ち尽くしてしまった。その場に倒れ込み、蹲って喘ぎ出さないのが不思議なくらいに打ちのめされた。
神殿に聳えるアテナの巨像。その足元にアテナ本人の姿は無く、またムウたち黄金聖闘士のみならず冥闘士の反逆者たちさえ消えていた。事が終わってから漸く辿り着いた星矢たちが目撃したのは、惨劇が繰り広げられたことの証拠のみ。即ち、真紅の泉と化したアテナ沙織の鮮血のみだ。それだけが、アテナ神殿に今も鮮やかに残されている。
よろめく四人。心を砕き散らし、足は蹌踉として一歩を踏み出すのにも時間が掛かる。わずかな距離を長い時間を掛けて進み、四人はアテナが流した血の跡を臨む。その中に埋もれ、真っ赤に染まった黄金の短剣を拾い上げると、星矢は夜空を見上げて叫びを上げた。
喉が焼けて血が噴き出るのも厭わず、小さな天馬は言葉にならない思いを叫ぶ。どうしようもない怒りと無念と喪失感とを、ぶちまけた。最早自分たちは、この地上に生きる意味を見失ってしまった。右手には、黄金の輝きを見せる短剣が握られている。神聖なる血液に濡れた刃は、汚れているというよりむしろ清らかであるとさえ感じられる。ふいに、その赤い刃先を自らの喉に突き立てたらどうだろうかと考える。
殉死――主の後を追い、主と自分の血を混じり合わせて逝くが良いか。
頭をよぎった考えを振り解き、星矢は振り返って背後へと短剣を投げ捨てる。思い切り力任せに投げつけた短剣は、光の速度に迫る勢いで飛んでいく。その軌跡が途絶え、空中で途端に静止した。一瞬の後、完全に勢いを失した短剣は神殿の床へと重力に引かれて落ちる。その音によって我に返り、現れた巨大な小宇宙に四人は身を強張らせる。
「誰だ!? これ以上、アテナ神殿を汚す行いは……」
失意に打ちのめされていた肉体に鞭打って、四人はすぐさま立ち上がると臨戦態勢に入る。
今は、無性に戦闘を求めていた。大人しい瞬までもが、憂さを晴らしたくて仕方なかった。
その四人の動きが、目の前に現れた人物を捉えて固まる。初めて見る顔立ちではあったが、その身に纏う衣の形状には確かに見覚えがあった。彼らがよく知る黄金聖闘士の一人、アリエスのムウが纏う黄金聖衣と酷似していた。ただ違うのは、その輝きが月光を浴びて鈍く光る黒曜石のそれであるという点だ。
歳は若く、ムウよりも年少に見える。それでいて醸し出される雰囲気は、明らかに長老の趣を見せている。敵か味方かも分からぬ突然の訪問者を前にして、戸惑いながらも四人は警戒心を顕にして神殿に現れた人物を見据えていた。
その人物――アリエスのシオンが口を開く。牙を剥く四人の少年に向けて、名乗りを上げる。
「控えよ、青銅聖闘士。余は、聖域の教皇であるぞ」
衣の色は違えど、威儀を正す姿も重々しい声も全てが物語っていた。古の聖戦を生き抜き、地上に二百年の平穏をもたらした黄金の英雄の姿が、そこにはあった。アテナに代わって聖域を統べる資格を有した者が漂わせる佇まいに、星矢たち四人は一様に膝を屈した。
地平線の奥へと沈みかけた月の光。それを拒むような鋭い目付きで四人を見据えながら、シオンは口を開く。そして語られる。今宵、六人の黄金聖闘士が地上に蘇った訳――真の目的と理由が。
アテナ亡き後、星矢たちが何のために戦いを続ければ良いのか。その道を示すために。
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