「冥王ハーデス 十二宮」編
第十一話 女神の聖衣
「よいか、青銅聖闘士たちよ……冥闘士として地上へと帰還したサガ、デスマスク、アフロディーテ、シュラ、カミュ……そして、このシオン……いずれも、決してハーデスの野望のためにアテナを害しようとしていた訳ではない」
星矢たちの前に現れたシオンは、いよいよ自分たちの真意を述べようとしていた。
十三年前に殺害されて世を去った教皇シオン、そして
「あの、サガたちが……」
驚愕する星矢たちに、シオンは一々説明するだけの時間を持ってはいなかった。今宵サガたちが、ある目的のために復活を遂げたという事実、その目的を遂行するために裏切り者を演じて、かつての仲間である黄金聖闘士たちを騙し、誇り高き同朋の一人であるシャカの命を奪ったことのみを簡潔に話した。
「やっぱり、処女宮が無人だったのも……シャカの小宇宙が途絶えていたのも……」
「俺の命を救ってくれたシュラが、何故そこまで……」
「我が師カミュよ……貴方が帰還されたと知っていれば、俺は一目でも……」
シオンの口より聞かされたそれぞれの名前に、瞬たちは溜息を漏らす。それを側で聞きながら、星矢の目はシオンの動きを捉え続けていた。話を続けながら、一歩一歩と自分たちへと近づいてくるシオンの動きを。
「それで、サガたちが果たそうとしていた目的とは、一体何なんだ？ どんな事情があれ、現実にアテナは命を奪われた。そのことについて、ハーデスに加担した訳ではないと言い切れる根拠があるっていうのか？」
無垢なる少年の正義の眼差し。それを正面から受け止めつつ、シオンは星矢の目の前で足を止めた。それは、星矢に納得がいく説明を施すためではなく、星矢の背後に湛えられた赤き泉に用があってのことだ。
そのことをシオンの視線から悟り、指図も無しに星矢がシオンの前から退く。今は亡きアテナが流した鮮血を臨んで、シオンは深く謝罪するかのように跪いて頭を下げた。涙でくぐもった声が、かろうじて聞こえる。
「そう……全ては、私がアテナ神殿へと到達し、このアテナの血を手に入れるための計。サガたちが自身の心に背いたのも、シャカの命を無残にも奪ったのも、そして……アテナを地上から奪い去ったのも……。それら全てに対する贖罪を、今こそせねばならぬのだ。他ならぬ、この教皇が！」
魂の奥底から叫びを上げて、シオンの輝く両手が鮮血の泉へと伸ばされる。その手に触れられたアテナの血液もまた、不思議な光を放ちだした。
目の前で起こった現象に対する理解が追いつかず、言葉を失う星矢たちにシオンが解説する。自分が今、この清浄なる神殿で何をしているのかを。星矢たちには、どうしても理解してもらわなくてはならない故に。
「アテナは神とは言い条、肉体は人間として降臨した身。故に、流れ出た血液中には僅かながら不純物が混ざっている。それを取り除き、血液中に含まれる神々の元素アイテールのみを取り出す。この業は失われた大陸の技法ゆえに、我らジャミールの者以外には伝えられておらぬ秘儀。このシオンが行うより他は無い」
非常に神経を擦り減らす作業ながら、シオンはそれを巧みにこなしていく。具体的に何をしているのかまでは定かでないにしても、星矢たち四人にも目の前で行われている奇跡には息を飲んだ。この世のものとは思えぬ、人が持つ言葉では形容できぬ色合いで輝くアテナの血を前にして。
「そして……アイテールをふんだんに含んだ大いなるアテナの血液には、我ら人間には計り知れぬほどの奇跡を起こす力がある。その力こそ、
光に包まれた真紅の液体を両手で掬いつつ、膝を付いたままの姿勢で両手を掲げるシオン。彼の手が、これから何を成そうとしているのか、未だ飲み込めずに青銅聖闘士らは無言で見守った。
「我らジャミールの民は、戦闘のみならず聖衣の修復を手懸けることでもアテナに報いてきた。聖闘士が纏う聖衣が破壊された場合、それに再び命を宿すには聖闘士の血液が必要となる。そして、その
確かに、星矢たちが装備している青銅聖衣もまた、これまでの熾烈な闘いの中で幾度かの破壊に見舞われてきた。それをシオンの高弟であるジャミールのムウによって、再生してもらってきた。ある時には、仲間の血を用いて。
「それでは……まさか!?」
漸く光明を見た星矢たちの頭脳に、まさかという予想が宿った。同時に思い出してもいた。大いなるギリシア神話の中で綴られる、アテナ誕生の物語の一篇を。神王ゼウスの砕かれた頭部より出現した女神アテナが、その身に纏っていたと言われる衣の伝説を。
「そうだ。アテナが命と引き換えに流した神の血――イーコールを捧げることで、二百四十三年の時を経て復活を遂げるのだ……偉大なるアテナの聖衣が、我らの前に！」
シオンが掬ったイーコールの輝きが、眼前に聳える巨像へと吸い込まれていく。アテナ亡き後も、聖域を見守り続けるアテナの神像へと。アテナ自身の血を浴びると、巨像は強烈な光を白羊宮の端にまで発して、星矢たちの目を眩ませる。
目を開けた星矢たち四人は、一人としてアテナ神像の姿を確認できなかった。見上げた夜空にあるのは、すっかり雲の気配が消えたことを示す星明かりだけ。しかしながら、全身に感じてもいた。巨像の存在感にも勝る、甚大なる小宇宙の存在を。その出処を探って視線を下ろしてみれば、先程まで巨像が位置していた場所に小さな光が見える。目を凝らしてみれば、それは確かにアテナの像と同じ形をしていた。
姿は小さく変われど、その威光は凝縮されて一層の輝きに満ちている。星矢たちは、忽ちに理解した。この両手で収まる大きさの像こそ、シオンの言ったアテナの聖衣なのだと。聖なるイーコールによって、巨像に封印されていた聖衣が蘇ったのだと。
至上の黄金聖衣が太陽の輝きと形容されるとすれば、アテナの聖衣は如何に讃えられるべきか。闇夜を照らす月よりも希望を与え、満天に映る星々を集めたよりも眩い光を放つ聖衣を前にして、星矢たちは自然と跪いていた。
その光に照らされることの、何と安らぎに満ちたことか。優しき温もりは、母親の胸の中とも異なれば、甘美な夢の中とも違う。地上を慈しむアテナの小宇宙そのものが、聖衣の中に蓄えられていた。さなきだに気高き美君沙織が、この聖衣を纏った神々しき姿容を思い描いて、星矢は小宇宙を紅潮させた。
「しかし、これを纏うべきアテナは、もう……」
突きつけられた皮肉。聖衣無くしては、アテナもハーデス相手に勝機は無し。しかしながら、その聖衣を手に入れるためにはアテナの尊い命を捧げねばならなかった。
じっと聖衣の輝きを見つめ、胸の内にあるどうにもならない思いに打ちひしがれる星矢たちとは反対に、シオンは落ち着いている。
「
青銅聖闘士たちの目には、惨憺としか表現できない淋漓を残してアテナは逝ったようにしか見えない。そのアテナに、如何にして聖衣を渡せるというのか。その糸口を提示しつつも、シオンは順を追って説明する。星矢たち青銅聖闘士に、確実なる理解と納得をしてもらうために。アテナに聖衣を届ける手段は、その後だ。
「とにかく、これで分かってもらえたであろうか……我らの……サガたちの真意が。ハーデスに悟られぬよう、それをひた隠しにしたがために同朋に罵られ蔑まれ、シャカまで手に掛けねばならなかったサガ、シュラ、カミュの苦しみ……デスマスク、アフロディーテの無念……彼らの魂が夜を通して流し続けてきた血の慟哭が」
元より彼ら誇り高き聖闘士が、真に邪悪に染まったなどとは一片も信じていなかった四人だ。無言で、しっかりとシオンを見上げて大きく頷く。その純粋にして誠実な瞳を前にして、シオンの胸は痛んでいた。
「……他に方法が無かったのかと問われれば、私はお前たちに如何なる誹りを浴びせられようと文句は言えぬ。童虎が……五老峰に住むライブラが、サガの乱で私と同様に命を落としたのではないと分かっておれば、我らも今しばらくは待つという選択も取っただろう。このシオンと同じく前聖戦を生き抜いた童虎の導きによって、我が弟子ムウがイーコールを手に入れてくれることを期待して……」
言われてみれば、確かにその通りであった。アテナの聖衣に関する知識は、老師童虎であれば有しているはず。しかし、その手にイーコールを生み出す力は無い。シオンから手ほどきを受けた愛弟子ムウであれば、シオンと同じ術も心得ていよう。けれど、秘匿され続けたアテナの聖衣の所在について知っていたとは思えない。
両者の知識を併せ持っていたシオンが動かねばならないという考えは、青銅聖闘士たちも理解していた。それを甘んじることなく、シオンは謝罪を述べる。
「サガたち五人は、教皇の勅に従ったまで……責めるのであれば、このシオン一人を責めよ。だが、もう暫く……聖闘士として教皇の言葉に耳を傾けてもらいたい。どうしても、お前たちに聞いてもらわねばならぬのだ」
金言を賜る。それを予期して、星矢たちはシオンの前にかしこまる。シオンは、その手にアテナの聖衣を取ると星矢たちに示して語り出す。聖衣の威光が、シオンの舌に乗り移っていた。正しくアテナの代行たる教皇の言葉を、星矢たちは聞いていた。
「アテナの最期を見届けた後、私はここに留まってお前たちを待っていた。必ずや現れるであろう、現代の若き聖闘士……アテナ亡き後も、地上のためにハーデスとの戦いに赴いてくれるであろう希望の闘士を。そのため黄金聖闘士たちには、より苦しい道を歩ませることとなったが……」
「黄金聖闘士たちが……？」
そういえば、十二宮を護っていたムウたち黄金聖闘士は何処へ行ったのであろうか。アテナの死に囚われ過ぎていて、今の今まで見失っていた。そればかりではない。目的を遂げた後、サガたち三人も同様に姿を消していた。シオン一人が、聖域に残った理由は分かる。では、他の黄金聖闘士はどうしたのか。
「……今暫くは、我らの真意を……アテナの聖衣の存在を冥王軍に悟られる訳にいかない。サガ、シュラ、カミュにはハーデスの命を遂行したという名目でアテナの遺骸を届けさせ、ムウたちはサガたちの援護射撃のため敵本陣へと向かわせた。……黄金聖闘士たちには、肝心要となるアテナの聖衣を託す役目を与えてやれなかったのだ」
それも全て、アテナの聖衣を手に入れるという至上の目的のため。シオンが聖衣を蘇らせ、星矢たちがそれをアテナに渡すため。そのためにはシャカの命だけでなく、まだ多くの犠牲が必要だったのだ。
星矢たちは、自身の心に刻み込んだ。何にも増して誇り高き勇者たちが、全うすることを許されなかった大任。それを預けられた意味を深く刻み付け、シオンの手から
「そして、アテナに聖衣をお渡しする術……アテナが、まだハーデスと戦える身であることの証明……それは、これだ」
シオンの手には、小さな白い花びらが四枚乗せられていた。その一枚一枚に血文字で漢字が認められている。そこに込められた意味と想いを噛みしめながら、シオンが四つの文字を口にする。
「阿頼耶識……この花弁は、シャカが己の魂を懸けてアテナに伝えた辞世の句。アテナの御身は、霊魂だけとなろうとも死者のそれとは異なる。大いなる悟りによって、冥界の掟に縛られることなく今もハーデスを目指しておられるはず。そのアテナに追いつき、聖衣を届けることが叶えば、我らの勝利は盤石となる」
冥界の淵で計画され、今宵実行されたシオンの策。その全容を今こそ悟り、星矢たちは衝撃に貫かれながらシオンを見上げた。そこに込められたシオンやサガたちの深い思いも、アテナやシャカが負けを認めて命を捨てたのではないということも、今こそ全てを確信していた。
「お前たちがすべきこと、果たすべきことは夜もすがら泣き暮れることではない。我らは敗北を突き付けられたにあらず。今こそが、今宵こそが憎きハーデスとの聖戦に終止符を打つ時なのだ。悠久の神話より重ねられてきた累々たる聖闘士たちの屍の上に、お前たちが勝利の旗を掲げるのだ」
もはや四人の瞳には、疑いも戸惑いも迷いも微塵たりと浮かんではいない。力強く頷いて、はっきりとした声で応える。
「……しかるべく、猊下」
地上代行者という呼び名の通り、シオンの言葉をアテナの意思と受け取って、四人は礼を尽くした。その四人の勇者に、シオンは今一つ託さなくてはならない事柄があると告げる。
「アテナに追いつくためには、お前たちも冥界へと赴かねばならぬ。だが、最も神に近いシャカならいざ知らず、お前たちに阿頼耶識を悟れというのは酷である。そこで、お前たちに授けるものがある。もそっと寄り、聖衣を委ねよ」
言われるがまま、星矢たちはシオンに近付いて胸を反らす。四人が身に纏ったボロボロの聖衣の胸に、シオンの指が触れていく。その指先は、未だアテナのイーコールで輝いていた。
「この名……決して忘れることなく、心に深く刻み付けよ。そして、その名が共にあることを誇りにして突き進むのだ」
シオンの指が、彼らの聖衣に書き記す。アテナが遺した真紅の血で刻んでいく。処女宮で命を散らし、心を焼き捨てた四人の友の名を。戦いの中で出会い、別れていった友の名を。紅に染まったシオンの指先が、青銅聖衣の一つ一つに血文字で刻み込んだ黄金聖闘士の名前が、聖衣に再び命をもたらす。聖衣に新たなる輝きを宿らせる。
ポセイドンの絶大なる小宇宙の前に破壊された青銅聖衣が、少しの傷も曇りも残さず消して復活を遂げた。その神々しい輝きは、正しく神の力が宿ったとしか思えない。少年たちの心に呼応して、聖衣自身が黄金聖闘士にも負けぬほどの小宇宙を発揮している。
「それこそがお前たちに与えてやれる、最後の聖衣。イーコールの加護を宿した聖衣の護りがあれば、冥界へ入ろうとも他の死者の魂のように束縛されることなく、自由に動くことも出来るはず」
限りなく黄金聖衣へと近づいていた青銅聖衣が、更なる進化を遂げた。その温もりに包まれるだけで、星矢たちはシオンの言葉が的を射ていると確信した。後、必要なのは、冥界へと辿り着く方法だけだ。
「冥界への入り口は、チューリンゲンの森に隠されたハーデス城の中にある。我らの肉体も、そこから這い出てきた。あの、今にも沈みそうな望月が消えればハーデス城も姿を消してしまい、お前たちは冥界への入り口も見失ってしまうであろう。急がねばならぬ……ハーデス城へ。その先にある冥界へと」
シオンから与えられた情報を元に、四人の瞳は北西の空へと向けられた。ギリシアの北西――ドイツはチューリンゲンの森へと。
もはや躊躇いなどなく、星矢たちは敵本陣に向かって飛び立とうとする。その前に、同志の一人に目を向ける。裏切り者の汚名を雪ぐべく、共に戦いに行こうとシオンに目を配る。シオンは、その誘いを静かに拒否した。
「私の肉体は、夜明けと共に朽ち果てる身。ハーデス城まで行ったところで、お前たちの手助けは出来ぬであろう」
曲がりなりにもアテナ殺害を計画した首謀者。その責を取るため、あくまで聖闘士としての従軍を拒むつもりなのだ。その意志を尊重し、星矢も同行を願うことを諦めた。その星矢を見つめ返して、シオンは静かに微笑む。
シオンの瞳には、星矢を通して一人の少年の面影が映り込んでいた。それだけを理由に、シオンは星矢に対して特別に声を掛けようとは思わなかった。その名を尋ねた上で、お前に任せるとも言わなかった。自分の知る遠き日のペガサスと、目の前にいる生き写しのような少年とは別人なのだと言い聞かせて。かつての聖戦において、第一の功能をもたらしたペガサスの聖闘士とは。
「分かった……俺たちは、必ずや冥界まで辿り着いてアテナに聖衣を渡す。必ずやハーデスを打ち倒す。そして、アテナと共に地上へと帰還して永遠に語り継ぐと約束しよう……この時代に聖闘士を率いた偉大な教皇と、黄金聖闘士たちの名を」
少年たちは各々、背に雄大な翼をはためかせる。銀河をも翔け抜ける天上の天馬、龍、白鳥それぞれの姿そのままに、新たとなった聖衣の
その四対の翼に身を任せ、若き青銅聖闘士たちは聖域を飛び立って北西を目指していった。向かうべき暗黒の牙城だけを見据えながら。
「……アイオロス、お前の言葉を借りるぞ。今こそ彼らに、この想いを届けよう」
――少年たちよ、君らにアテナを託す――
聖闘士星矢のトップページへ戻る