「冥王ハーデス 十二宮」編
第十二話 矜持の果て
チューリンゲンの森の中、切り立った崖の上にて今宵の間だけ姿を現す蜃気楼の城塞――ハーデス城。
その中にいながら、迫りくる三つの波動を肌で感じ取って、一人の冥闘士が夜空を見上げる。
「この……天地を揺るがす程の異常な小宇宙……」
百八の魔星の中でも、類稀な力と頭脳をその身に宿した幹部、天猛星ワイバーンのラダマンティス。
冥界の獄卒どもを束ねる三巨頭の一角でもあり、聖域侵攻の指揮を執るため地上に赴いていた。その晩の一番の仕事をこなす時かと予感して、口唇をニヤリを曲げる。
「……来たな」
十二宮から飛来してきた三人の黄金聖闘士たち。それらとの格闘を予期して握り締めた拳には、力が充満している。それらに勝利すべく、暗黒の小宇宙を森中に轟かせている。
他の聖闘士の相手は配下の雑兵に任せるが、兜首である黄金聖闘士だけは初めから自分が相手をするつもりでいた。
城内に侵入した黄金聖闘士のムウ、アイオリア、ミロたちは小宇宙を奮って進軍していく。目の端に汚れた冥衣が入ろうものなら、金色の小宇宙が逃さず葬り去っていく。光にも迫る速度で移動をしながら、名も無き雑兵を片づけるのにわざわざ足を止めるまでもないと突き進んでいく。
三人の目標は、城内で一際激しく燃焼している小宇宙ただ一つ。それこそが、ハーデスに傅く百八の冥闘士の中でも指折りの存在であると看做して、それを撃破するために進んでいた。
そのムウたちの足が、広間に入った瞬間に止められる。正しく目の前に、探し求めていた小宇宙の持ち主が立ちはだかったために。
全身に着込んだ冥衣からして、これまでの雑兵とは訳が違う。三人が、同時に見抜いていた。ハーデス城のあるドイツでは、リントヴルムの名で知られる翼竜を模した漆黒の鎧。背中に広げる翼からは、むしろ魔神を連想してしまう。それだけの小宇宙が、冥衣を通して全身から迸っていた。
「……ハーデス軍の幹部と見た。名乗りを聞いておこう」
「いかにも。我こそは冥界三巨頭の一人、ワイバーンのラダマンティス。あの世においては罪深き亡者どもに神罰を与え、そして今宵、愚かな生者どもに鉄槌を下すべく汚れたる地上へと出てきてやった。ハーデス様に成り代わって振り下ろす神の鉄槌……初めの餌食は、貴様ら三人だ」
最強を誇る黄金聖闘士を三人も前にして大言、とはムウたちも思わなかった。傲岸なる物言いも納得の力量を、先程から空気を伝わって感じている。だが、気圧されている場合ではない。ここで地上にいる冥闘士の幹部を倒して敵の出鼻を挫く。そして、その足で冥界まで赴いてアテナの御許まで馳せ参じる。そのつもりで三人の小宇宙が、ラダマンティスに負けじと高められていく。
対峙するラダマンティスの額にも、一瞬、冷や汗が滲む。そのことに対して、むしろ喜びとも見て取れる表情をワイバーンのマスクの下に作り出した。
「流石は、名高き黄金聖闘士。我らがハーデス軍雑兵の千人分……いや、もっとと言ったところか」
ラダマンティスの目利きは、相手の力量を正確に見極める。過大にも過小にも評価せず、黄金聖闘士たちの実力を量っていた。地上を守護するアテナに次ぐとされる、最強の小宇宙を見せつけられていると自覚した。
だが、自らも冥界三巨頭の呼び名を持つ鬼神。内に秘めたる小宇宙、肉体の精強さ、いずれも絶倫にして無比。如何に最強の黄金聖闘士の群れを相手にしようとも、絶対の自信を宿して堂々と対していた。
「早々に主を失った貴様たちへの情けだ。最初の一撃は、好きに撃ってくるがいい」
自惚れではない、真の余裕。それを前にして、三人は怯むことも激昂して精神を乱すこともしない。既に戦いに臨んでいる以上、心を揺さぶられることなく小宇宙を限りなく神に近い領域にまで集中させている。
その三人の中から、勇猛なる獅子が一歩前へと出た。
「いいだろう、この一撃で全てを終わらせてくれる……ライトニングボルト！」
超光速の稲妻が、アイオリアの右腕から放たれる。この必殺の拳を見切れる者など、銀河中から探してもそうはいない。ラダマンティスもまた、一歩も動かぬままアイオリアの拳を受ける。その理由が、これまで相対した敵とは異なることに黄金聖闘士が三人とも目を見開いた。
「馬鹿な……っ」
「ア、アイオリアの拳を……」
「片手で、容易く受け止めただと!?」
全力で放たれれば、この世の全てを蒸発させるほどの熱量を秘めた必殺のライトニングボルト。それをラダマンティスが、手を僅かに動かしただけで掻き消したことに驚愕する。
これは現実なのか、と三人が狼狽えている間に今度はラダマンティスの方から近付いていく。ゆっくりと歩きながら距離を詰め、その余裕の表情が迫ってくることに三人も我に返る。
「リストリクション！」
一歩ずつ近づいてくるラダマンティスの足を止めようと、アイオリアに代わってミロが前へと飛び出る。両目から繰り出される真紅の光によって、ラダマンティスの全身を麻痺させようと試みる。アイオリアの拳が効かぬほどに肉体を鍛えてあろうとも、神経に直接作用されれば一溜まりも無いはず。
そう踏んでいたミロの顔が、みるみるうちに蒼褪めていく。
「どうした？ これで俺の体を締め付けているつもりか？」
ミロのリストリクションなど、まるで意に介さぬ様子でラダマンティスは歩き続ける。とうとう指呼の間にまで近づくと、爪を立てた手を伸ばして小宇宙を発揮しようとする。
「させるかっ、クリスタルウォール！」
すぐさま展開される、ムウの光の防壁。いかなる攻撃をも跳ね返すはずの防壁までも、この男には通用しないのか。伸ばされたラダマンティスの手が、クリスタルウォールの障壁を容易く突き破って引き裂いてしまう。
「万策尽きたようだな？ では……死ぬがいい！」
翼竜の小宇宙が襲い掛かる。咄嗟に三人は散り散りになって回避するが、それすら儘ならない。亜光速以上の動きを会得しているはずの三者に、たちまち黒い影が追いつく。背中を取られたことに気が付くより早く、アイオリアの身体は硬い床へと叩き付けられる。伸ばされた腕から逃げきれず、手首を掴まれたムウが投げ飛ばされる。回避を諦め、ミロが全力の小宇宙を振り絞って迎撃を試みる。
「スカーレットニードル！」
ギリシア神話にその名を轟かせる豪傑オリオンでさえも恐れをなす十五発の衝撃。それを真っ向から受けながら、ラダマンティスは余裕の表情を崩さない。銀河の星々をも貫くはずの真紅の針が、ラダマンティスの肉体はおろかワイバーンの冥衣にさえ傷一つ付けられずじまいだ。
ならばと次なる攻撃のためにミロがいっそう小宇宙を高めている間に、迫っていったラダマンティスがミロの体を吹き飛ばす。歴戦の勇士が受け身も取れず、倒れ伏せるムウ、アイオリアの側に頭から落下した。
呻き声を漏らす三人に向かって、非情なる翼竜の攻撃は止まらない。三人まとめて消し飛ばしてくれようと、いよいよ小宇宙の全てが両手に込められる。
「さらばだ、黄金聖闘士！ グレイテストコーション！」
その凄まじさは、一瞬にして太陽をも溶かしてしまえるほどか。ラダマンティス最大の拳が、とどめとばかりに繰り出される。必死に起き上がったムウが、なんとか拒もうと光の防壁を何重にも張り巡らせる。
「ぐっ、うぅぅ……」
ラダマンティスの小宇宙の威力は、ムウ一人で作り出したクリスタルウォールでは防ぎ切れない。アイオリアとミロも持てる小宇宙の全てを注ぎ込むつもりで、ムウに力を貸す。障壁越しに伝わる小宇宙の震動が、骨の髄にまで染み渡ってくる。それに何とか耐えて、小宇宙を振り絞ったのが功を奏した。辛うじてラダマンティスの攻撃は軌道を外れて、ハーデス城の床を砕いた。その威力は凄まじく、底が見えぬほどの大穴を開ける。
「ほう……追い詰められたことによる覚悟がさせたのか、それとも三人揃ったことによる相乗効果か……。いずれにせよ、このラダマンティスの想像を超える業……称賛に値するぞ」
その発言も、全ては絶対的な自信と勝利の確信に裏打ちされたもの。黄金聖闘士が如何なる抵抗を見せようとも、最終的に勝つのは自分だと自負しているが故の賛辞。
その勝利の予想を、そろそろ実現させる頃合いかとラダマンティスの指先がムウたちの背後を指し示す。先程の攻撃で作られた大穴に向かって、指先から屍臭に満ちた小宇宙を放っていく。
背後から感じる死の国の気配に、黄金聖闘士たちは悪寒と共に察しがついた。
「こいつ……積尸気をも操るのか!?」
ラダマンティスと後ろの崖とを交互に見ながら、三人の驚愕が死の予感と直結する。
崖の下で口を開くのは、黄泉の世界へと直接繋がる大穴。そこへ落ちれば、地獄の最下層コキュートスにまで叩き落されるのは必定。黄金聖闘士たちは、決して足を踏み外すまいと爪先に力を込めた。
しかし、その備えが意味を成すのであろうか。先程の攻防、ラダマンティスに一方的にやられたのは、決して不覚からではない。圧倒的なまでの実力差によって、三人はラダマンティス一人に捻じ伏せられてしまった。
今度、叩き付けられるのがハーデス城の床ではなく冥界へと続く穴となったら、その瞬間にムウたち三人は肉体も魂も滅ぼされてしまう。そうなってしまえば、聖域に残る聖闘士たちがラダマンティスによって全滅させられる恐れさえある。一人、ハーデスとの決戦に向かったアテナを側で護れる聖闘士が誰もいなくなってしまう。
自分たちの命は、もはや厭わない。ここで、何とかしてラダマンティスだけでも倒しておかなくては。そうは思うが、打開策などまるで見つからない。焦燥の汗で全身を濡らす三人を冷酷に見下ろす視線が、嘲笑うかのように挑発してきた。
「遠慮はいらん。三人合わせた力、今度は俺に向かって放ってみろ。その方が、俺も手間が省ける。貴様たち全員分の小宇宙、そのままそっくり返してやろうではないか」
途端、黄金聖闘士たちの肉体と頭脳、そして小宇宙に戦慄が走った。
ラダマンティスの言葉に、恐懼と微かなる希望が思い浮かんでいた。この状況を打破し得る、最後の希望が。
だが、同時に絶望をも齎されたことを三人は知っていた。
それを行使すること、それは即ち、自分たちが命を懸けるべき使命と信じて突き進んできた魂に背くも同義。それを行うこと、それは聖闘士であることを止めるに等しい。他のどんなことと引き換えにしてでも、最後の最後まで失う訳にはいかない誇りを捨てるのと同じことだと分かっていた。
それでも、躊躇ってなどいられない。三人は、今こそ理解した。処女宮で敵対した盟友たちが、どんな思いで聖域に帰還し、どれだけの涙を流してきたのかを。
その友の名を胸に刻んで、ミロが立ち上がる。
「我が、誇るべき畏友が……」
その勇気に後押しされて、アイオリアが構える。
「俺の、もう一人の兄が……」
ムウもまた、常に目指し続けていた男の小宇宙を心に抱き締める。
「そして、私たちが尊敬してやまない偉大なる先達が、その数々の勲しをふいにしてまでも守り通そうとした」
地上の何よりも誇り高き三人の朋友の、その魂の嘆きが完全にムウたちと一体化していた。彼らがそうしたように、今度は自分たちが行う番だと決意した。最強の黄金聖闘士が、三人がかりでたった一人の敵を討つ。アテナが最も嫌悪する、卑劣な拳。その封印を解くことを決めた。
それによって、過去の数多なる勇者たちが築き上げてきた栄光と誇りを踏みにじり、未来に続く者たちに永劫に亘って蔑まれることになろうとも、これに踏み切らぬ訳にはいかなかった。それをしなくては、過去の栄光を伝えていくことも、後の世代が生まれてくることも何一つ叶わないのだから。
そのために、今はただ一つの願いを訴える。常に自分たちを大いなる愛の光で支えてくれていた女神に、最後の悲願を投げ掛ける。
「アテナよ……我らを見捨てたまえ！」
極限にまで高められた、黄金聖闘士の命の小宇宙。それが三位一体となって放たれる時、万物の終焉と新たなる創造が生まれる。その瞬間を目撃したラダマンティスは、今こそ自分の読みが甘かったことを突きつけられて目を見開いた。
「アテナエクスクラメーション！」
渦巻く光が破裂し、幾億の星々を凝縮した闇が圧縮され溶けていく。ごく小規模の内に発生され、小規模のまま消滅したビッグ・バンは一瞬にも満たない命を終えた。それでも、周囲に及ぼした被害は甚大という言葉でも足りない。ハーデス城の一角は完全に崩れ落ち、そこだけが別次元に飲み込まれたかのように削り取られていた。
黄金聖闘士たちが足場としていた床も消え去った後だ。その上に立っていた三人の聖闘士は、アテナエクスクラメーションを撃ち出すのに全ての力を使い果たしてしまっていた。消滅した足場の下で口を開ける、奈落への道へと落下していく三人。重力に引っ張られる以上に、冥界へと呼び込む波動に抗う力を失くして、誇り高き三人の黄金聖闘士は散っていった。
刹那の轟音が立ち消え、静寂の瓦礫の上で吐血しながらラダマンティスが呟く。黄金聖闘士たちは、確かに力尽きた。自らも、それを見届けた。しかしながらラダマンティスもまた、決して勝利の余韻に浸ってはいられなかった。
「なるほど……。黄金聖闘士、噂に違わぬ実力……み、見事……だ……」
ワイバーンの冥衣が、ボロボロと崩れ落ちる。その全てが体から剥がれるより早く、ラダマンティス自身の体が床に倒れ込んだ。全身から血を噴き出して、肉片をあちこちへと飛び散らせている。黄金聖闘士たちの決死の覚悟と小宇宙が、冥界三巨頭の一人を道連れにした。
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