「冥王ハーデス 十二宮」編
第十三話 決意の朝
東の空に真一文字の光が浮かび出す。
夜明けの水平線が、空と大地の境界を示す頃。ハーデスの尖兵となって聖域に赴いていたサガ、シュラ、カミュの一行がハーデス城へと帰還した。
出迎えた冥闘士の雑兵たちは、一瞬の躊躇を持った。けれども、サガの腕の中にある布を確かめると、上官への報告に駆けていった。
サガが抱えた布のふくらみは、確かに少女一人分の形をしていた。与えられた命令通り、アテナを害してその遺骸を持参したのだろう。後は、その遺体を責任者に引き渡して実検をするまで。
間もなく、ハーデス城を預かるフログのゼーロスがサガたち三人の前まで現れた。サガが抱えた遺体は、顔から足の先に至るまで布に包まれてはいるが、まずアテナに間違いないだろうと判断して、サガたちに付いてくるよう指示する。城代であるゼーロス自らが、ハーデスの代行者が待つ間まで連れていこうというらしい。サガらも、それに従って暗黒の城内を進んでいく。
先導していたゼーロスが、長い廊下を渡り終えて一つの扉の前で立ち止まる。中にいる人物の機嫌を損ねぬよう、細心の注意を払って声を掛けると巨大な扉が独りでに開かれていった。
「お前たちに入室は許可されておらん。扉の側で控えていろ」
サガたちに促しながら、自らも畏まって跪く。そのゼーロスと同じく、サガらも少女の形をした布を廊下に置いて片膝を付いた。
扉が完全に開かれた気配を感じて、悟られぬよう部屋の中を覗き見る。そう広くはない、薄暗い部屋の中央には大きなハープが設えてあり、その側に一人の女性――いや、少女が腰掛けていた。
若い。異常に翳のある趣を貌に映し出していなければ、子供とも取れる妙年。それでありながら、容姿は真に美しい。瞼を閉じていながらも、顔立ちの美しさをはっきりと見せている。月の女神でさえも、自身の美が讃えられることを恥じるほど、嬋娟たる美貌だ。
腰まで届く程の長く美しい黒髪、醜悪な冥衣ではなく紫紺のドレスを許された身。ハーデスの地上代行者パンドラが、座してサガたちの帰りを待ち構えていた。その脇に、冥闘士を一人だけ配しながら。
「パンドラ様……」
ゼーロスやサガらの報告を受け取る前に、部屋の中から声がした。パンドラの側で跪いている冥闘士が、一礼をした後に主に進言をする。
「僭越ながら、私からサガたちに尋ねたい事柄がございます。アテナの遺骸を受け取るする前に、どうか御許可を」
「許す。申してみよ、エルピス」
エルピスと呼ばれた冥闘士は、畏まった姿勢こそ崩さぬものの威圧するような視線をサガたち三人に向けて問い掛ける。サガたちに二心が無いことの、最後の確認をするために。
「……お前たちが帰還する前に、我々は三人の黄金聖闘士たちの侵入を許した。辛くも撃退には成功したが、あの三人……よもや、お前たちが手引きしたのではあるまいな？」
エルピスの質問は、アテナの小宇宙が途絶えた直後にハーデス城に現れたムウ、アイオリア、ミロのことを指していた。アテナの死を感じ取ったことで油断しているハーデス城を、彼ら三人に襲撃させたのではないかと。それが失敗に終わったため、第二陣としてサガたちが現れたのではないかと。
その問いを、サガは一笑に付した。
「何を訊かれるかと思えば……アテナを失ったことで我を忘れた者たちの行動など、我々の与り知らぬこと。刺し違えて止めることも出来たが、それよりも与えられた役割をこなすことこそ優先すべきと思ったまで」
短くない沈黙。サガたちの真意は読めぬが、アテナの死そのものは確実であるとしてエルピスも一旦は身を引くことにした。
パンドラに再び礼をして退くと、そこに至ってようやくパンドラが長い睫毛を揺らして瞼をうっすらと開けた。
「気を悪くするな。大事ゆえに、こちらとしても細心になるのは理解できよう？ さて……アテナの首実検は後に回すとして、先にお前たちの望みを叶えてやるとしよう。かつての主に背くことの心苦しさ、敬虔で知られる聖闘士にとってはさぞかし重荷であったことだろう。それに報いて、お前たちには約束通り永遠の命をくれてやろうではないか」
感情を読み取ることの出来ない冷たい眼差し、石の表情。言葉通りの温情など感じられないが、サガたちにとっては問題ではない。真にパンドラの厚意から来た言葉であろうと、単に事務的なものであろうと、向こうから話を切り出してきたという点のみが重要だった。
「で、あれば……」
深々と頭を下げた後に、サガが顔を上げてパンドラの瞳をまっすぐに見詰める。言葉以上に表れる、意志の強さ。それをサガの脇にいるシュラとカミュの視線からも感じ取った。
「我らには、どうか生ではなく死をお与えいただきたく」
サガの願いの意図が掴めず、流石のパンドラも沈黙する。
「……どういうことだ？」
元々、死人であった身。再び死後の眠りを欲するのであれば、何ゆえアテナを害しに赴いたのか。声を低くして尋ねるパンドラに対して、少しも動じずにサガが言葉を加える。
「我ら、戦場で果てた身であれば故郷に別れを告げる暇もありませんでした。例え一夜とはいえ、ギリシアの土を再び踏む機を与えていただいただけで、身に余る光栄。その機をお与えくだされたハーデス様のために、アテナの首を取って参りました。この首は、ハーデス様への供物。そして、死したと雖もアテナは神。となれば、この供物は直にハーデス様に捧げたく。そのため、我らには冥界においても束縛無く行動できるよう、冥闘士と同等の資格をお与えいただきたいのです」
そして、その後もハーデス軍の一員に加わろうという腹積もりか。サガの言葉に、パンドラは迷った。僅かながら安心や納得はしたものの、サガたちを直接ハーデスに会わせることに躊躇っていた。
その主の迷いを機敏に読み取ったエルピスが、再び前に出て進言を始める。
「パンドラ様……臣下の身で差し出がましいとは存じますが、只今サガが申した儀……承諾しかねます。元は人間であった者たちが、直にハーデス様に拝すなど無礼に当たります。一先ずはアテナの遺体だけでも受け取り、サガたちへの褒賞は後程ということにすべきかと」
パンドラからの返答は無い。考えあぐねている様子だ。自分の口からは言いにくいことを切り出してくれた側近の機転には、感謝もすれば信頼も置く。けれども、その案を即座に採用する点については躊躇った。サガの願いは聞き入れられないが、さりとて何も報いない訳にもいかない。そんな迷いが、感情の乏しい貌に浮かんでいた。
エルピスも、視線をパンドラから外してサガの方へと向ける。主の命を待たずして、サガたちにアテナを差し出すよう強いる目だ。事が主パンドラの、更なる主に関することだけにエルピスにも折れる気配は無い。観念したサガが足元から再び遺体を抱き上げると、布に包んだままそっと部屋の入り口に置いた。
「……このまま遺体のみを置いて下がれと言われても、我らにも誇りがあります。近寄って布の下の死に顔をお見せすることは致しましょう。それが済みましたら、我らは一旦、遺体ともども下がらせていただく。我らの願いが聞き届けられるまで、アテナの遺体を捧げるつもりは無い故……どうか、そのおつもりで」
取引を持ち掛けるとは小癪、とは思いつつもエルピスも肯んじた。取り合えずはアテナの死だけでも確認できれば良い。その遺体が手中にあることに変わりは無く、サガたちに逃れゆく場所も無い。
開け放たれた扉のすぐ外にいるサガを忌々しく睨み付けながら、エルピスが部屋の入り口へと近付いていく。入り口付近に横たわる人型の布からは、既に神の小宇宙の片鱗さえ窺えない。そのことが、敵とはいえ神の御身に触れることへの畏怖をエルピスから拭い去った。布の端に手を掛けるエルピス。瞬間、指先に違和感が走った。
（おかしい――）
外から見た限りでは、確かに膨らみがあった。なのに、この手応えの無さはどうしたことか。勢いよく布を剥いでみるが、そこには何も無い。遺体どころか、髪の毛一本さえ存在していない。手の中にある布を確かめてみても同様。アテナをくるんでいたと思われた布は、初めから空っぽだったのだ。サイコキネシスによって、人型を作り出していたに過ぎなかった。
唖然とするエルピスも、一瞬後にはサガに
この時を待っていたとばかりに、カミュとシュラも動き出す。サガたちの背後にいたゼーロスは、両足を冷気によって凍結させられ床に張り付かされる。配下の者どもが動けぬ隙に、部屋の中へと飛び込んだシュラがエクスカリバーの刃をパンドラの首筋に突きつける。
「さあ……命が惜しくば、大人しくハーデスの居場所まで案内してもらおう。我らも、女を手に掛けたくはない」
余りに一瞬の出来事、余りに鮮やかな展開であったためか、パンドラには動揺の顔も焦燥の声も上げる余裕は無いようだ。目を見開き、抵抗もせずにシュラに背中を許している。そのパンドラに、部屋の中に入ったサガとカミュも迫り、三方から囲むようにして立った。
「不届き者、どもめ……パンドラ様から、離れ……」
未だ床に伏せたまま、抗議の声を漏らすエルピスをサガの瞳が襲う。サイコキネシスを帯びた視線によって、エルピスの身は壁に張り付けられる。即座に殺すつもりはない。案内役は、エルピスでも良いからだ。服従している相手であるパンドラを盾にしていれば、こちらの要求にそうは逆らえまい。
「……分かった。冥界への入り口を開けよう。その鍵であるハープを奏でるため、指を動かしても構わぬか？」
観念したパンドラが、首を差し出したまま願い出る。それが必要な事柄であるならと、サガが許可したことを視線で示す。それを受け取ったパンドラの瞳がハープの弦を見つめ、ポロンと音を奏でる。天井の一部が、音も無く動き出すのを感じてサガたち三人も自然と上を向いた。
天井の一部分がずれ、円形の天窓が姿を見せる。美しいステンドグラスを隔てて、眩い光が真上から部屋中に注がれていった。
「こ……これは!?」
瞬間、サガたちが蹲る。突然の光に目眩がした訳ではない。肉体の内側から溶かされていくような錯覚を味わい、足腰に力が入らず倒れ込んでしまったのだ。シュラも、パンドラの首筋から刃を離して身を崩す。サガのサイコキネシスから自由を取り戻したエルピスが、すかさずシュラの体を投げ飛ばしてパンドラの側から引き離す。
「愚か者どもめ。約束した通り、お前たちに与えてやった仮初の肉体は、一晩限りのもの。望月の明かりによって実体化しているハーデス城と同じく、夜明けの陽光を浴びればお前たちの肉体は再び失せて消えるのだ」
ここに来て、パンドラが初めて感情を表した。勝ち誇った嘲笑が、倒れ伏せる三人に容赦なく降り注いでいく。
サガは悟った。パンドラがサガらの願いを叶えようと言ったのも、サガの発言に迷った素振りを見せていたのも、全てはこのため。パンドラは、わざとサガたちを部屋の中へと招いたのだ。初めからサガたちの目的を見抜いた上で、朝日が降り注ぐ部屋の中で待ち受け、追い詰められたふりをして、こうして一網打尽にするつもりだったのだ。
冷徹に嘲笑うパンドラを僅かに見上げて、サガは歯噛みしながら呻く。もはや指先に至るまで力が抜けている。その僅かな力を振り絞って、最後の抵抗とばかりにパンドラを睨み付けた。
「何ということだ……まさか小娘一人の画策によって、最強を誇るはずの黄金聖闘士がこうも手玉に……」
そこまで言いかけて、視線がパンドラの横へと動いた。
そうなのだ。十六歳程度の少女にしか見えないパンドラが書いた筋書きにしては、あまりに老獪すぎる。サガたちを利用し、冥王軍の勝利を得ようと計画した真の首謀者。それは、常にパンドラの側に控えて彼女を操る冥闘士なのではないかと思い至った。
サガの視線から、その思考を読み取ったエルピスが口の端を上げる。
「愚昧な。パンドラ様は、ハーデス様から全権を委ねられた偉大なる御方。私のような一臣僕に操れようはずがあるまい。
あくまで参謀は地上代行者パンドラ。その計画について、側近であるエルピスはどこまで関与していたのであろうか。その忠誠心をパンドラに利用されただけなのか、全てを聞かされた上でサガの攻撃を甘んじて受けたのか。
そんなことは、どうでもいい。今の危機には関わりが無い。その関わりの無いはずのエルピスの発言に、サガは妙な引っ掛かりを覚えた。計画が上手く行き、安堵したことによる気の緩みから、エルピスが重要な一言をふと漏らしたように聞こえていた。
「エンデュミオン……眠り？ ……聞いたことがある。冥王ハーデスの側に仕える、神の名を……。まさか、その女の正体は……」
再びパンドラを見上げるサガの顔を、エルピスが踏みつける。主を直に見上げられて、不遜だと憤ったのであろうか。それともサガの読み通り、エルピスが自軍の秘密をうっかり口にしてしまったせいだろうか。聡明なサガは、後者であると確信していた。
だが、そんなことに気が付いたところで何になろう。もはや自分たちの命は、風前の灯火。今さら何を知ろうが、誰にも伝えられぬ。この地上に、何も残すことなど出来ぬのだ。
エルピスに踏みつけられ、耳を床にピッタリとくっつけたサガには聞こえていた。地の底より轟く震動が、自分たちが伏せるすぐ下にまで迫っている。ハーデス城そのものが、土台から崩れていく震動を全身に感じていた。
「パンドラ様、朝日が降り注いだとなればハーデス城もじきに崩壊に見舞われます。急ぎ、冥界へと戻りましょう」
「うむ。消えたアテナの動向も気になる。恐らく、今頃はハーデス様を討たんと冥界を彷徨っている頃であろうからな。とすれば、なおさら急がねばなるまい」
もはやサガたち三人への興味を失ったのか、パンドラは床に伏せる姿に一瞥もくれずに部屋を後にする。忌々しげにサガの額を足蹴にした後、エルピスも主に続く。
完敗。その言葉がサガたちの脳裏を貫く。
肉体は力を失い、精神的にも打ちのめされていたサガの背中に、更なる衝撃が走った。
「これが聖域最強と呼ばれた黄金聖闘士とはな！ まったく無様な姿よ」
カミュの冷気からようやく抜け出したゼーロスが、サガの背中に体重を掛けて圧し掛かっていた。下卑た笑いも、もはや誰にも気兼ねする必要も無い。部屋中を飛び跳ねながら、何度も何度もサガらの上に飛び掛かって痛めつける。
「どうした、どうした？ それでも黄金聖闘士なのか？ このゼーロス様に手も足も出ないとはな！ お前たちのような軟弱者は、ハーデス城が崩壊するギリギリまでたっぷり可愛がって、性根を鍛え直してくれるわ」
ゼーロスの悪言も、背中に圧し掛かる衝撃も、サガには何も感じなかった。こんな取るに足らぬ男の言動など、意に介すだけ無駄だ。それよりもサガの身と心を打ちのめしているのは、己の不甲斐なさであった。血の涙を流しながら、何一つ成し遂げられずにいる自分自身に怒っていた。
「ここで朽ち果てるのか……ハーデスを討つことはおろか、アテナに聖衣をお渡しすることも叶わず、我々は……」
二十八年間の生涯が、サガの頭の中を駆け抜けていく。アテナの御許で、地上の愛と正義を守り抜かんと修行に励んだ日々。それを遂げるために、血を分けた弟まで排除した過去。そうまでして得られた力を、邪悪に注いでしまった過ち。アテナの下で戦うという宿命に耐えられず、天から与えられた運命に背を向けて逃げ出した卑怯者の自分。その贖罪のため、せめて一つでもアテナに報いようと現世に戻ってきたはずなのに。畢竟、何の役にも立たずに終わろうとしている自分の人生を、サガは血を吐く程に呪った。
「私たちは、何のために地上に生まれたのだ？ 何のために今一度、この地上に蘇ったのだ？ そして……シャカは、何のために死ななければならなかったのだ！」
小宇宙の奥底から震えるように吠える。それでも、その身に力が戻ることはない。間も無く、この身は跡形も無く消え去る。二度と蘇ることもなく。友が常に語っていた、一度きりの出番の日を見つけることも出来ず、ジェミニのサガという男の一生は終わる。地上に生まれ、生きてきたことの意味を一つとして成すことが出来なかった矮小な人生が。
サガの側で横たわるシュラとカミュも、同じ気持ちで末期を待っていた。もはや身動きすることも出来ず、ただただ天井から降り注ぐ光を見つめていた。その光が、浮かび上がった影によって遮られる。いよいよ目も霞んできたかと諦めかけた時、ステンドグラスが割れる様がはっきりと見えた。
サガたち三人が見上げる天井。ステンドグラスを突き破って姿を現したのは、四人の青銅聖闘士だ。彼らもよく知る、星矢たち四人の姿だった。今にも消えそうなサガたちの小宇宙を辿って、一直線にこの部屋を目指してきたのだろう。
部屋に侵入した途端、星矢は怒りの小宇宙を爆発させた。下賤な本性を冥衣に表した冥闘士が、誇り高き黄金聖闘士を足蹴にしている様に怒髪を逆立てた。
「ペガサス流星拳ー！」
床に着地するのも待たず、星矢の右拳が唸りを上げる。ガラスが割れる音に見上げたゼーロスが、あんぐりと口を開けている。今や光速に限りなく近づいた星矢の流星拳が、ゼーロスに一筋でも見切れるはずがない。その身は、自身の死を悟ることも出来ず、一瞬で粉微塵となって消えた。
「サガ！」
着地すると同時に、星矢は倒れ込むサガの側へと急いで駆け寄る。小宇宙に響く声に誘われて、サガの視線が星矢の姿を捉える。日本から来たこの少年のことは、彼が幼い時期から度々目にしてきた。周囲の白眼視に負けまいと励む姿に、自然と関心を寄せていった。あどけなかった顔立ちが、今では一廉の戦士のそれに変わっているのをサガは認めた。
星矢が纏う聖衣も、黄金聖衣に負けぬほどの輝きを放っている。その内側から湧き立つ小宇宙も、信頼して送り出すに足る勢いだ。そして何より、彼の手の中にある神聖な小宇宙に思わず打ち震える。
「セイ、ヤ……」
「そうだ。貴方が身を引き裂く思いで地上に齎してくれた、最後の希望……アテナの聖衣は俺たちが持っている」
サガの霞む目にも、その眩さははっきりと見て取れる。星矢の手に、しかと握られたアテナの聖衣を認める。熱い吐息が、最後の灯火とばかりに喉の奥から吐き出される。そこに本来であれば乗せられたであろう言葉を読み取り、星矢は大きく頷き、サガの手を取った。少年の熱誠が、気死寸前のサガにも直に伝わっていった。
「俺たちは、貴方たちの意志を受け継ごう。死してなお、アテナを守り抜いた黄金の魂を受け取り、未来へと託す。かつて勇者アイオロスが、俺たちに託してくれたように。貴方が見せてくれた想い、今こそ受け取った」
一筋の光が、サガの頬を伝う。
意味はあった。何も果たせないまま終わったと思われた自分の人生に、意味があった。己の使命から逃げ出した卑怯者のままで終わるはずの人生にも、後に続く者たちに残せるものがあった。
たった一夜だけの命。その限られた僅かな時間こそが、サガにとって一生に一度の出番の日であった。この夜のために、自分は地上に生まれ、小宇宙の限り生きてきたのだと胸を張ることが出来た。
サガだけではない。氷河の腕に抱かれながら、彼の想いにカミュは涙していた。シュラもまた、震える手で紫龍の右腕に触れている。もはや掴み取る力も無いようだが、その熱い小宇宙が体中に注ぎ込まれるのを紫龍は実感していた。
そして訪れる、永訣の瞬間。朝日の光に飲み込まれ、三人の仮初の肉体は冥衣ともども溶けるようにして消えていった。それを見届けて、四人の少年たちは涙を拭って立ち上がる。
「……行くぞ。彼らに誓った通り、俺たちがこの手で成し遂げるんだ。沙織さんに聖衣を渡し、必ずやハーデスを倒す！」
死してなお、聖闘士としての使命を貫いた英雄たちの遷化を見送った星矢たち四人。内なる小宇宙は、ハーデスを討ち滅ぼさんという意思を更に高めて、青銅聖衣を真紅に染める勢いだ。
パンドラたちが出ていった通路に目を向け、四人は冥界への
「パンドラ様が冥界に到着された故、後片付けに来てみれば……最初に見つけた獲物が、こんな子供だとは拍子抜けよ」
「なんだと……!? いいだろう。その子供にお前たちの仲間が倒されたってことを、教えてくれるぜ」
歯を剥き出して、星矢が目の前の冥闘士を睨み付ける。紫龍、氷河、瞬も小宇宙を高めて臨戦態勢に入る。彼らの凄まじい小宇宙を感じながら、新手の四人は余裕の態度を崩さなかった。
「ゼーロスごときを葬った程度で、いい気になられても困る。あれは所詮、人におもねる才のみしか有さぬ俗物。だが……我々は違うぞ」
冥闘士たちもまた、体内の小宇宙を爆発させる。同時に、四人が四人とも飛び出す。それぞれ自分の相手を決めて、その相手の前へと躍り出て名乗りを上げる。
「天哭星ハーピーのバレンタイン」
「天殺星ミノタウロスのゴードン」
「天捷星バジリスクのシルフィード」
「地平星アルラウネのクィーン」
冥闘士たちが見せた小宇宙の本領と、一瞬にして距離を詰めた速度に星矢たちも息を飲む。しかし、臆した訳ではない。立てたばかりの誓いに背く訳にはいかない。気力を漲らせて、それぞれ目の前の敵へと挑んでいった。
「食らえ、廬山昇龍覇！」
紫龍の右腕から放たれる龍神の小宇宙。それを真正面から見据えたゴードンが、自身の右腕を勢いよく振るって迎え撃つ。その一閃は小宇宙の昇龍を真っ二つに引き裂いて、尚衰えぬ衝撃でもって紫龍の身に斬り掛かる。真新しい聖衣の加護をもすり抜けたゴードンの拳が、紫龍を一撃で沈めさせた。
「ホーロドニースメルチ！」
その隣では、氷河が気を吐いていた。持てる小宇宙を凍てつく旋風に変えて、シルフィードを冥衣ごと凍結させんと拳を放つ。その猛吹雪が、一瞬にして氷河自身へと跳ね返されていった。シルフィードが、両腕を氷河に向かって伸ばしただけの衝撃によって。急激な体温の低下に気を取られた氷河にシルフィードの追撃の拳は躱せず、頭から倒れていった。
「ネビュラチェーン！」
光り輝く二本の鎖をクィーンにぶつけようとする瞬。アテナの血によって鍛えられたはずの鎖は、クィーンの手刀の前にあえなく寸断されてしまった。瞬が驚愕するより早く、クィーンの猛攻は瞬自身にも及ぶ。チェーン自体は聖衣の生命が失われない限り、自力で再生することも出来る。だが、クィーンの拳によって受けた瞬のダメージは、すぐに回復できるとは見込めない。
瞬きする間に、仲間が三人とも圧倒的な戦力差の前に敗れた。残された星矢は、彼らの救援のためにも先ずは自分の敵を倒さねばと小宇宙を熱く燃やす。その全力の小宇宙が宿った右拳から流星の輝きを放つも、バレンタインはスローモーションだと言わんばかりの表情で楽々と回避する。
「ならばっ……これならどうだ！」
床を蹴ってジャンプする。頭上からの攻撃であれば、どんなにスピードを誇る相手であっても反応は鈍るはず。そう考えた星矢の策は、即座に破られる。いつの間にか星矢よりも高く飛翔していたバレンタインが、星矢のがら空きの背中に向かって強烈な回し蹴りを浴びせる。床を砕くほどに星矢の身体は叩き付けられ、内臓を痛めたのか血を吐いた。赤黒い血と一緒に、星矢の呻きが漏れ聞こえる。
「な、なぜ……こんなにも、力の差が……」
自分たちが蓄え、養ってきたセブンセンシズは、一瞬とはいえ黄金聖闘士に匹敵する域にまで高まっているはず。アテナの血によって蘇った青銅聖衣が、更なる力を与えてくれているはず。それなのに一方的に打ちのめされるのは、どういう訳なのか。床に下りたバレンタインが、星矢の疑問に嘲笑を送る。
「確かに聖域へと送り込んだ冥闘士たちは、全滅したようだが……だが、それらを退けた黄金聖闘士ならいざ知らず、お前たちカスにも入らぬ青銅の子供が……フッ、どうして我々に勝てると思ったのやら」
バレンタインたち四人の実力は、正に黄金聖闘士並み。それは、死に物狂いで小宇宙を高めなければセブンセンシズを引き出すことが出来ない星矢たちとは違う。常にセブンセンシズを発揮することが出来るという意味で、黄金聖闘士と互角なのだ。
石で出来た壁や柱にまで亀裂が入るほどに崩壊が近付いたハーデス城の一室において、陽の光に照らされながら星矢たちは肉体が冷え込んでいくのを感じていた。それは正しく、これから死を迎える者に訪れる悪寒であった。
既に朝日の昇った後の聖域。夜明けの光を浴びながら、残った聖闘士、雑兵たちは聖域内とその周辺の混乱を抑えるのに目まぐるしく動いていた。彼らまでが混乱に陥らずに済んだのは、先程まで聖闘士たちを統率し指揮していた黄金聖闘士の存在が大きい。
十八歳の肉体を取り戻し、再び輝ける天秤座の聖衣を纏った伝説の闘士ライブラの童虎。他の黄金聖闘士たちを一足先にハーデス城へと向かわせた後、聖域に残る者たちを束ねていた。だが、それも終わりであると悟った。
「ムウ、アイオリア、ミロ……それに続いてサガ、シュラ、カミュの小宇宙が消えた。そして今、星矢たちの小宇宙までも……」
自分たちが心を鬼にして送り出した現代の若者たちが、全滅を迎えたことを感じ取っていた。その手には、小さな花弁が握られている。夜明けと共に目の前で塵となって消滅していった友シオンから託された、四枚の花弁。
二百四十三年前も、同じだった。最後まで生き残った童虎は、七十七名の誇り高き同志たちの死を目撃した。七十八人目となるシオンの魂を見送ったことで、かつて地上をハーデスから守り抜いた聖闘士はとうとう童虎一人となってしまった。
多くの別れを体験してきた童虎は、最後の涙を心から流して空を見上げる。夜明けと共に消えた星々は、戦友たちの魂の煌めきだったはず。それらと同じ時代に生を受け、同じ目的のために戦えたことが、童虎にとっては誇りでもあり幸福であった。
咲いたと思った瞬間に、嵐によって吹き飛ばされる花さえある。それを思えば、二世紀半も地上で暮らせた人生の何と幸福なことか。例え、そのほとんどを世から隔絶した山奥で過ごしたとしても、少年の内に死んでいった者たちに比べれば遥かに満ち足りた人生であった。
童虎にとっても、もはや生き永らえることは能わず。サガたちも、ムウたちも、そして星矢たちも敗れた今、自らが彼らに代わって冥界へと赴かなければならない。そして華々しく命を散らし、盟友たちの待つ地獄へと堕ちよう。
覚悟を決めた背に、一つの小宇宙が近付く。童虎の他に、もう一人だけ聖域に留まっていた黄金聖闘士がいた。その小宇宙に気が付き、振り返った童虎の目にジェミニの黄金聖衣が映る。
「老師……このカノン、例え最後の一人となろうとも、せめてハーデスに一矢報いるまで聖闘士として戦い抜く所存。かつてはアテナに背き奉り、ポセイドンをも欺いてきました。最後の仕上げにハーデスの首級を上げねば、死んでも死に切れません」
地上最強と謳われた兄サガと寸分違わぬ小宇宙を身に付け、兄から誇りに満ちた聖衣をも受け継いだカノン。神の如き心根までも、今では兄と瓜二つに見えた。それを見て取った童虎が、カノンに向かって手を開いてみせる。
「ならば、お主にもこれを託そう」
示されたのは、四枚の白い花弁。黄金の血文字で一字ずつ刻まれた同朋の辞世の句を、カノンも見た。
「阿頼耶識――これこそ、シャカが現世に遺した最後の言葉。そして、この夜の全ての出来事を一言で表した、正に見事な一作と言えよう」
「アラヤシキ……？」
書かれた文字も、童虎の言葉の意味も分からずカノンはただ鸚鵡返しした。そのカノンの目を見詰め、童虎が説明を加える。この男であれば、きっと到達してくれるだろうという期待を込めて。
阿頼耶識とは何か。二百数十年に亘り仮死の肉体で世を過ごした童虎にも、全てを語りつくすことは容易ではない。それは、生ある限り人間が辿り着くにしては深遠に過ぎた。そう、文字通り死を迎えた果てに待ち受ける感覚である故に。
人が背負う苦の最後とされる死。だが、死とは全ての終わりを意味するのではない。常に変化する生あるものにとっては、死もまた変化の一つなのだ。人は肉体から魂が切り離され、全ての感覚を失うと同時に新たな意識に目覚める。それまで眠っていた阿頼耶識が目を覚まし、冥界での暮らしが始まる。
死の先は、無でも終焉でもない。冥界という世界が存在し、霊魂は冥界で新たな日々を送ることとなるのだ。
それを悟ったシャカは、生前の世において阿頼耶識を知った。まだ己の意思で肉体を動かせる内に。己の頭脳で物事を考えられる内に。その心に小宇宙が宿っている内に。即ち、エイトセンシズを会得したのだ。シャカが最も神に近いと言われる所以は、そこにある。
生きながらにして解脱を果たしたジヴァンムクタ。他の如何なる聖闘士でも到達していない阿頼耶識、そしてエイトセンシズを手にしたシャカは思った。自分の死後、残された者たちを自分と同じ境地に辿り着かせなくてはならない。生前に阿頼耶識に目覚めた者だけが、生きたまま冥界の地を踏むことが叶うのだから。
「つまり、シャカはこう遺したのじゃ。聖闘士が冥界に赴いてハーデスを討つためには、阿頼耶識に目覚める必要があると。それが出来ることの証明として、まずは自らが先んじて冥界へと赴く。そのシャカの覚悟を受け取ったことで、アテナもまた自身の肉体を捨てて冥界へと行かれた。これは、一石二鳥の策でもあった。アテナの聖衣を目覚めさせるためには、アテナ自身の血液が必要。我々は、アテナの血を手に入れると同時にアテナを冥界へとお送りすることも叶った。それも、サガたちの真意をハーデス側に悟られることなくじゃ。これこそがシオンの思い描いた計画の全容……だが、それもシャカの決死の遺言があって初めて実現できた」
セブンセンシズを自在に操るカノンにとっても、初めて聞く内容だった。肉体に深く関わる五識、意識を司る第六感、そして聖闘士にとって最も重要となる小宇宙の源たる第七感。この他に、まだ人間の感覚というものが存在していたのかと。
「阿頼耶識は、人間が持ち得る最も深い場所で眠りに就いている。それが、死と同時に目覚めるのじゃ。だが、それは第一感から第七感までの全てと引き換えにして得られるもの。感覚と小宇宙を失った魂では、到底ハーデスの元までは行かれぬ。ただ単に死しただけでは、肉体を失い魂を冥界に束縛されるのみ。阿頼耶識に目覚めようとも、意味が無い。生きたまま冥界へと辿り着いたとしても同様。冥界に足を踏み入れた途端、たちまち冥界の掟に魂を支配されてしまう。冥闘士どもは冥衣の効力かハーデスの加護によるものか、とにかくその掟から外れておる。我々が同じように冥界の掟を無視してハーデスの下まで辿り着くためには、生きながらにして阿頼耶識を悟らねばならん。最も神に近いシャカや、神そのものであるアテナと同じ境地に行き着かなくては……」
どれだけ意識の奥底を探ってみても、カノンには実感が無い。それでも他に方法が無いというのであれば、やるしかないと分かっていた。少なくとも自分は、阿頼耶識というものの存在について知識を得た。冥界へ飛び込もうとも、他の生者と同様ではあるまい。この身を冥府の穴へと追いやり、決死の思いから阿頼耶識を見つけてくれようと息巻く。
「このカノン、常に死と隣り合わせに生きて参りました。その程度の覚悟、既に出来ております」
そう信じたからこそ、童虎も知りうる限りについて話したのだ。これ以上、無駄死には増やしたくない。この時代に生まれた黄金聖闘士の、その残された最後の一人に賭けなくてはならない。
「
「はっ！」
光速を超える瞬きが二つ、ギリシアの地を急速に離れていく。仲間たちの小宇宙が途絶えていった位置を正確に記憶し、例え今となっては目印となる城館が消えていようと、その地を目指していった。
地鳴りがチューリンゲンの森の葉を揺らしている。瓦礫が次々と暗い淵に落ちていくハーデス城の一室において、星矢たち四人は倒れたままピクリとも動かない。肉体は、まだ辛うじて脈を打っているようだが、その肉体を立たせるには小宇宙は余りに微弱。バレンタインたちの視線も、既に星矢たちなど見てはいなかった。
「こいつらは、もう動けまい。放っておいても、じきにハーデス城の崩壊に巻き込まれて冥界に落ちるのを待つのみだ。それより、先程からラダマンティス様の小宇宙を感じられんことの方が気にかかる。城が完全に崩壊する前に、手分けして探し出してお救いするのだ」
四人の冥闘士が、それぞれに分かれようと背を向け合う。瞬間、それぞれが背後に気配を感じて振り返る。八つの目に、ふらふらと立ち上がる星矢の姿が映り込んだ。
「ペガサス……こやつ、まだ……」
驚嘆の声が上がるが、それも一瞬の話だ。立ち上がりはしたものの、星矢の姿は見るからに半死半生。小宇宙を振り絞って戦えるような状態ではなく、指先で軽く突くだけでもトドメを刺せそうだ。それを見て取って、バレンタインが仲間たちに指示する。
「お前たちは、先に行け。ペガサスの始末は、私がつけよう」
他の青銅聖闘士は伏せたまま。息を吹き返した星矢も瀕死の状態。となれば、バレンタイン一人でも余裕の相手だ。三人の冥闘士はラダマンティス捜索のため、その場を離れていった。
一人残ったバレンタインは、呆れた視線を星矢に投げ掛ける。膝が笑い、腕も上がらず、目も虚ろな様子で何をしようというのかと嘲った。
「死に切れんというのも辛かろう。その身を完全に塵にして、楽にしてやる」
バレンタインの攻撃的小宇宙が、幾条もの光線となって星矢に浴びせられる。聖衣の防御力によるものか、バレンタインの宣言通りに消し飛びこそはしなかったものの、星矢の肉体は甚大なダメージを被ったことだろう。その星矢が、未だ立ち続けていることにバレンタインも目を見開いた。
確かに、一瞬は沈みそうになった星矢の体。床に手を着くかと思われた瞬間、膝に力を入れて上体を起こした。心なしかバレンタインを見据える目にも、力が込められているように見える。先程までは頭も働かないほどフラフラとしていたのに、今では言葉を口にする気力さえ取り戻していた。
「俺を支えているのは、俺一人の命だけじゃないんだぜ……。今は亡き、多くの人達と交わした一諾……父と、アイオロスと……シオンと、サガ達と……皆から託された、アテナを守るという誓いが俺を何度でも立ち上がらせるのだ」
そんな目に見えぬ不確かなもので、この絶望的な状況を克服できるものか。バレンタインは、再び小宇宙を星矢へとぶつける。しかし、その攻撃は星矢の体から立ち上る小宇宙に阻まれ、弾かれてしまった。
「な、何だ……この男の……ここにきて、いっそうの輝きを見せる小宇宙は？」
星矢を子供と侮っていたバレンタインが、初めて恐れを抱いた。頬を痙攣させ、唾を飲み込んで星矢の小宇宙を注視する。その勢いは、バレンタインを上回りつつあった。視覚化された星矢の魂は、黄金一色の煌めきを放っていた。即ち、黄金聖闘士と同じくセブンセンシズを常に発揮している状態だ。
「セ、星矢……」
「俺も……」
「僕たちだって、まだ……」
星矢の燃え立つ魂から湧き上がった黄金の小宇宙が、兄弟たちにも伝播する。もはや死を待つのみかと思われた肉体に活力が蘇り、不滅の小宇宙が肉体を起き上がらせる。
四つの小宇宙の火柱が、真紅の稲妻を思わせる輝きで大空に突き刺さる。バレンタインも、僅かに後ずさりした。見た目にはボロボロであったはずの星矢たちが、しっかりとした足取りでバレンタインに向かっていく。彼らが身に負った傷の一つ一つは、聖衣と小宇宙の光によって消えつつあった。
「……死にぞこないの分際で……寄るな、雑魚ども！」
本気になったバレンタインの小宇宙が、両掌から発せられる。その衝撃を正面から受けて、紫龍、氷河、瞬の体が吹き飛ぶ。辛うじて星矢だけが、上体を仰け反らせながらも堪えていた。既に死を待つ身になり果てたと思われた星矢のどこに、これだけの気力が残されていたのか。バレンタインも、驚愕の表情で冷や汗を流す。
それは、肉体に宿った力ではない。魂の根源、意識の奥底、そのもっと深遠なる場所に眠っている力が星矢の中に芽生えていた。小宇宙の極致たるセブンセンシズを働かせようとも見えなかった新たなる境地が、死を乗り越えんとする星矢の目に浮かんでいた。
その新たなる力に手を伸ばそうと、星矢の足がまた一歩バレンタインに近付く。足元から湧き立つ冥界の気配に一片の恐れも抱かず、星矢の目は倒すべき冥闘士の姿をしっかりと捉えていた。
「この肉体の指一本でも動く限り……いや、例え肉体が消滅しようとも死後の世界において魂は……小宇宙は不滅なのだ」
爆発する小宇宙。星矢の右拳が、バレンタインに突き刺さる。その瞬間、漆黒のハーデス城が日の光の下に完全に地上から姿を消した。ハーデス城の下にて渦巻いていた冥界への入り口が、完全に地上と繋がった。青銅聖闘士たち四人の身は、抗う術なく冥界の口に呑み込まれていく。
一瞬遅れて、童虎とカノンがチューリンゲンの森へと到着した。消えゆく寸前、かつてないほどの勢いで燃え盛る星矢の小宇宙を確かに感じたと信じて、二人も冥界を目指す。彼らの脳内にも、冥界に取り込まれる直前に星矢が発した声が届いていた。
「……信じておるぞ、星矢。そして紫龍、氷河、瞬よ。お前たちは今こそ、阿頼耶識――エイトセンシズに目覚めたのだと」
「……そして、我らも続こう。アテナをお助けするため……地上の愛と正義を、ハーデスから守り抜くために！」
東から上った陽光が、真南への移動を遂げる前にと、二人の黄金聖闘士も冥界へと赴く。その先にて待ち受ける冥闘士の群れを打ち倒し、冥界の最奥に鎮座する冥王ハーデスに永遠の眠りをもたらすために。
悠久の神話から続いてきたアテナとハーデスの聖戦を、今度こそ終わらせることを頭上の光に誓った。
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