「冥王ハーデス 十二宮」編
第二話 半神の贖罪
時間は遡る。十二宮に、まだ戦闘の兆しが訪れる前の時刻。ムウは白羊宮にて、ある人物を迎えた。
「ご苦労様です、アイオリア。では……そちらが？」
アイオリアに連行される人物をチラリと見て、ムウが尋ねる。奥底に眠る小宇宙は強大だが、今は戦闘による疲労からか衰弱して見える。戦闘時に用いる衣も装着しておらず、みすぼらしいとさえ感じる。だが、顔立ちだけは美しい。そこに些かの気品も感じられないところから、ムウはその人物と同じ顔をした男とは別人であると理解した。
「そうだ。海闘士の領袖である
サガといえば、かつては全ての聖闘士からの尊敬を集めた男。それが、いつしか邪悪に身を委ねるようになってしまった。最期には邪心とも別れを告げ、アテナに抱かれて世を去ったサガは、双子の弟のことなど誰にも話したことがなかった。
そのため、聖域の誰も気づくことがなかった。敵である海闘士を指揮するシードラゴンが、まさかサガの弟などとは思わずに驚愕した。
カノンは、本来であればサガと共にジェミニの宿命に生き、サガに不測の事態があれば代わりに立ち上がってジェミニの空席を埋める役割を負っていた。そのために聖域内でも存在を知られずにいたのだ。そうした日陰の生活自体には、カノンも何ら不服を感じてはいなかった。その代わり、表に出ないなりに密かにサガを苦しめ続けてきた。
「サガも、さぞ辛かっただろう。自分の側に、常にカノンがいることに。そのことを誰にも相談できないことに。このカノンは、あの心清らかであったサガとは正反対に、生まれながらに邪心を備えていたのだからな」
静かに語りながらも、カノンを貫くアイオリアの視線は冷たく尖っていた。その視線に、カノンはふっと兄を思い出していた。共に育ってきた兄が、いつも自分に注いできた瞳と同じだと感じて。
遡ること十三年前、あまりの暴虐非道ぶりから、双子の兄であるサガもカノンを見捨てる時が来た。十五年間、己と同じ顔をした男が、己が目指し心掛けてきた行いと正反対の悪事に手を染めるのを目の当たりとしてきた。如何に説き伏せて言い聞かせようとも、素知らぬ顔で弟は蛮行を重ねる。いずれは改心して、自身の宿命に気付いてくれるはずと心を砕いて更生に努めてきたが、それも観念の時が訪れた。
その時、サガは地上侵略を目論む邪悪に対する備えを磐石とするための計画に集中していた。その際になって、最も己の身近で、最も頭を悩ます存在を真っ先に排除すべきだという結論を出したのだ。カノンはサガ自身の手で、スニオン岬の岩牢に閉じ込められた。そこは神々の力を用いなければ、脱出は不可能とされる。だが、同時に海皇ポセイドンに最も近い場所であるということを、サガは知らなかった。岩牢の中で、カノンは唯一の経路から人知れず脱走していたのだ。数千年前にアテナが封印した、海底神殿への経路を通って。今まで封印されていたからこそサガでさえ気が付かず、封印が弱まった現代だからこそカノンにも好機が訪れた。海底神殿とは、神話の時代にポセイドンが築いた海の聖域。そこに眠る海の秘宝と武具の数々を恣にすることで、カノンは己の野望の実現に取り掛かった。
シードラゴンになりすまして、ポセイドンの復活という偽の報せを用いて各地に眠る海闘士を呼び寄せる。そうして居もしないポセイドンの存在を笠に着て、海底と地上の全てを手に入れようと目論んだのだ。結局、その企みは聖闘士の活躍によって潰えて、こうしてカノンは聖域に連行されることとなった。
「この男には、今からアテナの裁断を下していただく。アテナの御前に連れ出すことに不安が無い訳ではないが、教皇不在のため已むをえんだろう」
「分かりました。君が付いているのであれば、アテナに危険が及ぶことも無いでしょう」
道を開けて二人を先へと通すムウ。その視線は、あえてカノンと目を合わせることを避けていた。見たくはないと思った。サガと瓜二つの顔をではない。その顔の裏側に潜む邪悪な心根をだ。偽りの教皇としてアテナに背いたサガの別人格が、明らかにカノンの性格を基盤としていることを見て取ったがために。
ムウの大きく見開かれた瞳は、警戒の色を浮かべながら東の空を見詰めていた。
八番目の天蝎宮にまで上ってきたところで、アイオリアとカノンの足は一旦止められた。天蝎宮の守護者、スコーピオンのミロが行く手を遮るようにして立っている。ミロはカノンに一瞥をくれると、無言のまま近付いてアイオリアの前で止まった。
「ここから先は、俺が替わろう。老師からテレパシーで連絡を頂戴した通り百八の魔星が復活したとなれば、いつ冥王の穢れた軍勢が不可侵たるべき聖域に押しかけてくるかも分からん。その時に自分の宮から離れすぎるのは、面白くなかろう？」
それも道理であると、アイオリアは肯んじた。ミロという男の正義を信用していることもあり、彼に任せることに不安も躊躇いも無かった。
アイオリアの足音が遠ざかっていく。天蝎宮の下にある宮へと石段を下りる足音が完全に聞こえなくなる頃、未だに動こうとしないミロを視線の端でカノンが捉える。
「どうした？ 行くのではなかったのか？」
「そうだな……やはり貴様が行くべきは、地獄こそが相応しい」
ミロの宣告が言い終わらぬ内に、カノンの身は衝撃によって吹き飛ばされていた。生身の肉体では、どんなに鍛えていようともダメージは抑えきれない。ミロの一撃もさることながら、計り知れない硬度を持つ十二宮の敷石に叩き付けられた衝撃は筋肉を突き通して骨にまでダメージを与えた。カノンもすぐには立ち上がれない。打ち据えられたこと以上に、鎖骨の下に開いた小さな穴から走る激痛のために。
「スカーレットニードル……今から、お前の全身に蠍座の星図の形に十五の傷痕を刻み込んでくれる。その一つ一つが、お前がこれまでに重ねてきた罪の償いと知れ」
傷口を押さえながら、ゆっくりとカノンが立ち上がる。防具さえ身に付けていれば、たった一撃でここまでのダメージは受けなかったのに、などとはカノンも考えない。全身を血液の流れ以上の速さで巡る死の激痛から察するに、この男の技は例え最強の黄金聖衣を着込んでいようと完全に防ぎ切れるものではあるまい。出血を止めようと直に触れてみれば、その傷跡の小ささに驚く。こんな細い針に刺された程度の傷で、どうすれば悶え苦しむような痛みを作り出せるのかと。
「俺のスカーレットニードルは、敵の神経を直接破壊する技。お前ほどの大罪人を、即座に殺してなるものか。出来る限り時間を掛けて、たっぷりと後悔を味わわせた後で息の根を止めてやる」
「い、いいのか……俺を連れてこいというのは、アテナの命令のはず。自分の主に背くことになるのだぞ……」
尤もなことを言う。その口ぶりが、何とも言えず不快であった。そうやって海闘士たちを唆してきたのかと思うと、虫唾が走る思いであった。海闘士だけではない。聖域の誉れであった、あのサガまでも。
「愚か者め。自分が助かりたいがためだけに、その薄汚れた舌で我らの女神の名を呼ぶのは許さん。稀代の愚か者……正義のサガを悪魔に堕とした愚者よ……」
ミロの指先から、真紅の閃光が迸る。一瞬の時さえ待たず、カノンは左の膝を貫かれていた。その片膝を付き、また新たな痛みと苦しみが体内を駆けていく。声にならない絶叫に喉が焼け、危うく白目を剥くところであった。
動けぬカノンに向かって、ミロが近付いてくる。左手でカノンの髪の毛を無造作に掴み、右手の人差し指を立てて新たな傷を刻み付ける。噴き出す血液よりも遥かに燃え滾る怒りの炎が、ミロの碧い瞳の色をガーネットよりも赤く染めていた。
「お前がいなければ……お前がサガを唆したりしなければ、彼は正義を愛す聖闘士のままでいられた。聖域の長い歴史の中でも、有数の教皇として名を残せたはずだった。それがお前によって歪められ、狂い、多くの前途有為なる同志の死を招く暴君と成り果ててしまった」
声だけでなく、小宇宙によってカノンの心へと直接訴えかける。悲痛なまでのミロの激怒が、スカーレットニードルの干戈となってカノンの体を突き刺す。十個目となる針の痕は、最初に負った痛みの累乗となってカノンの肉体と精神を蝕んでいく。持って生まれた気力のためか、はたまた実の兄に見捨てられたことで鍛えられたのか、地獄の苦しみの中にあってもカノンは意識を手放すことも、発狂することもなかった。
ミロもまた、カノンがあっさりと楽になることを許しはしなかった。自分たち聖闘士がサガを失った痛手が、どれほどのものであったか。そのサガによって多くの仲間が犠牲となった事実が、どれほど受け入れ難い苦しみであったか。しかもカノンが世に招いた厄は、それで終わりではないのだ。
「そして、お前さえいなければポセイドンの復活もなかったのだ。世界を未曾有の大洪水が襲うことも、それによって何十万……何百万という無辜の命、その一つ一つの人生が奪われることもなかった。地上に生きる人々の平和を守る聖闘士の発祥である聖域において、何故お前のような男が生まれてしまったのか……」
心で流したミロの血涙が、カノンを頭から濡らしていく。その一滴一滴の熱さが、カノンの体を灼いていく。髪の毛の一本一本に至るまで。足の爪先に至るまで。かのサガと見紛う容姿が、醜い肉塊となるまで。カノンが自身で流した真っ赤な血が、カノンの肉体を赤黒く塗り替えていく。地獄に住む赤鬼に姿を変えたカノンを見下ろしても、ミロの怒りは一向に静まらない。十四発目となる蠍の針が、一層の勢いで振り下ろされる。
「お前の行いは、聖闘士の名を百遍汚してなお余りある。己の力を過信し、神になれると思い上がった蛇夫宮の伝説そのままにな」
自身を見上げるカノンの瞳の色から、ミロは彼の意識も生命も失われてはいないことを悟っていた。天蝎宮を濡らす血の海を見ても、カノンの死は確実と思われる。五感を失い、命が果てるのを見届けるのも悪くはないが、それではミロの気が済まなかった。
「あくまでも、お前の幕引きは俺自身の手で直接下してやる。この最後の一撃……アンタレスを以ってしてな」
ミロの人差し指が、一際紅く光り出す。辛うじて生命を繋ぎ止めているカノンに、決定的な致命傷を負わせるために。
「死ね、カノン……その薄汚れた魂ともども塵と化せ」
急所を突くだけに留まらない。人間の肉体など、跡形も無く消し飛ばしてしまえるほどに高められたミロの真紅の小宇宙がカノンを狙う。それを放とうとした瞬間、ミロの脳裏にテレパシーが突き刺さった。決して逆らうことの出来ない、神聖な小宇宙と共に。
――お待ちなさい、ミロ。カノンを殺してはなりません。
「ア……アテナ!?」
それは正しく、自分たちが仕えるアテナの声。教皇の間にある寝所にて休み、海闘士との戦いの疲れを癒していたはずのアテナの声であった。その声が、自分の行いを制止してきた。聖域と地上に悪しき災いを振りまいたカノンを生かせと命じてきた。
「し、しかし……アテナよ！ 俺は……」
地上を守るという己の使命。アテナの言葉には逆らえないという忠誠心。その両者が一瞬の間にせめぎ合い、葛藤を生み出す。アンタレスを打ち込むために拳を繰り出しながら、その拳がカノンの胸に到達するまでの刹那を、ミロは葛藤に費やした。
「俺は……聖闘士として、こいつだけは許せん！」
ミロが繰り出した最後の一撃。それが、過たずカノンの胸を突く。薄らいでいったはずの自身の意識が、はっきりとしていくのをカノンは感じ取った。冷たくなっていくところであった血の巡りに、温かさを感じる。失われていくのを待つのみであった小宇宙も、芯から蘇っていくようだ。
ミロが突いたのは、アンタレスではなく真央点。血止めの急所と呼ばれる生命の神秘だ。全身から噴き出していた出血も止まり、体内で新たな血液が作られていく。抵抗も出来ないほどに奪われた体力も戻り、傷の痛みを気にすることなくカノンは立ち上がる。
その心変わりをミロに尋ねようとするより早く、ミロの手がカノンの首を掴んできた。低く唸るような声で、さも無念そうにミロが吠える。
「お前が積み重ねてきた悪行は、死んで全て償いきれるような軽いものではない。生きて……この地上で、シーシュポスと同じだけの重苦に喘ぐがいい」
聖闘士たちの自分に対する恨みは、決して晴れた訳ではない。あくまでアテナの命によって、自分の裁判は先延ばしにされただけなのだ。ここは敵地も同然。今、無理に刑を執行せずともカノンに逃げ道は無い。自分がこれまで愚弄してきた多くの生命と同様に、今度は自分が弄ばれる番なのだとカノンは捕らえられた時より悟っていた。
教皇の間へと通されたカノン。かつては兄サガが、偽りの玉座に納まっていたが、今となっては主不在である。この教皇の間にて、アテナ城戸沙織がミロとカノンとを出迎えた。
無理矢理に跪かされながらも、カノンは低くした頭の下からアテナの顔を拝もうと試みた。それは、彼女の命を奪う隙を狙ってのことではない。例え、それに成功したとしても背後にはミロがいるのだ。最後に勝利者になれる確信も無い内に、そのような博打には出られない。カノンは、自分でも分からないような感情と欲求から、アテナの顔を盗み見ていた。
カノンとは、悪逆しか知らぬ男である。それは本人も自覚しており、海闘士が敗れれば次なる手を打つため即座に逃げおおせる準備も整えていた。それが何故か、追い詰められたとはいえ意外な程あっさりとカノンは聖闘士に捕まった。ほとんど抵抗もせず、大人しく聖域にまで引っ立てられてきた。それは、もしかしたらアテナのためだったのかもしれない。海底神殿で向き合ったアテナと、今一度だけでも会いたいという無意識から来る願いによるものだったのかもしれない。
コツコツという音と共に、アテナの計り知れないほどに大きな小宇宙が近付いてくる。それを感じるごとに、カノンの小宇宙は反対に萎縮していく。抗うことなど元より考えてはいないが、それが無意識的にも抑え込まれる感覚があった。何も甚大なる小宇宙に圧倒され、威圧されたためではない。雄大な中にも、優しく慈愛に満ちた温かさをアテナの小宇宙に感じ取って自分の小ささを思い知らされたからだ。生まれてより、人の愛など信じてこなかったカノンにさえも、彼女の愛の深さが分かるようであった。
「カノン、私はずっと貴方を見てきました。ずっと、手を差し伸べたいという思いと戦ってきました。今、ようやくそれが実現できるのです」
アテナが接近してきたことで、視線を悟られまいと深く頭を下げていたカノンも、思わず顔を上げそうになった。アテナが自分を見ていた、という言葉の意味が掴めずに直接伺おうと顔を上げるところであった。
辛うじて自制したカノンの頭を、アテナの柔らかな手が左右から挟み込んでくる。両耳に触れられた小宇宙が、心地良い癒しをもたらす。傷の痛みを和らげるのではない。新たなる痛みを胸の奥に生み出すカタルシスの炎だ。その熱を頭上に感じていた。
「開きなさい」
カノン自身にではなく、耳に対してアテナは命じる。カノンの耳に対する以上に、閉ざされた心の扉を開けようとする。自分の小宇宙に指先で直に触れられる感覚を、カノンは味わった。次に聞こえてきたアテナの声は、それまでとは異なる響きを持っているように思えた。それは、むしろカノンの変化だ。意識して避けようという思いが取り払われ、すんなりと受け入れたアテナの声に、その清らかさを初めて知った。
「カノン……よく、戻ってきてくれましたね。貴方の、その勇気を私は待ち望んでいました」
耳の開けたカノンには、その言葉の持つ愛の深さが自然と心に沁み込んでくるようであった。アテナの言葉を素直に受け入れ、しかし予想だにしない内容に胸を打たれていた。
「何故……俺を責めないのですか？」
顔を上げてカノンは尋ねる。恐る恐るではない。今、カノンは初めて光というものを見詰めていた。常に自分の側で強く輝いていた光から目を背け、まっすぐに向き合うこともせずにいた男が。初めて、自分が生まれた聖域を護る女神の赫奕とした素顔に魅入られた。
「これまで責められていたのは、むしろ貴方なのです。貴方を救うことが出来て、本当に良かった」
アテナが、自分を呼び寄せた真意を語った。その思いの深さ、あまりに大いなる慈悲深さ。地上を愛で満たす女神でなくては持ち合わせることの出来ない思いやりが、カノンの頭を燃やした。こんなにも悪に手を染めてきた男にまで、何故こうも憐れむことが出来るのか。カノンは、己の頭上に愛の炎が赤々と灯されるのを感じ、それに身を委ねた。身を焼くほどの熱さに全身を紅潮させて、瞳の奥からこみ上げてくるものを流れるに任せた。
カノンは涙した。赤面を恥じることもせず、洟を垂らして嗚咽した。それは、後悔と自責から来る涙だった。あれほど義を軽んじ、道を外し、誠を嘲り、己の魂を汚し続けてきた半生を振り返る。天に背き、時には神の名を冒涜し、命を蔑むことしか知らなかった今日までの道程を。
最早、その心には闇など残っていない。自分が、あれほど罵り、逆らい、目を背けてきたアテナによって、心の澱みが洗い流されていた。自分が、どれだけ悪行を重ね、善人が目を覆うような非道に手を染めようとも、アテナは全ての罪を浄めてくれた。その大いなる愛で以って。
なぜ、自分はこの愛を頑なに拒み続けてきたのか――。正義から逃げ、邪悪の道を進む人生に別れを告げる術は、アテナの愛を受け入れる以外に無かったというのに。肉親が自分に望んだ通りの運命を歩む方法を、幼き日よりアテナが示してくれていたというのに。
文字通り汗顔の至りでアテナを仰ぐカノンの姿を見て、ミロも無言で下がっていった。
カノンの兄、サガがアテナに抱かれながら世を去った時の話をムウから聞かされた際、ミロの頭にはピエタが浮かんでいた。そして今、アテナによって閉ざされていた目が開かれ、初めてアテナの声を聞いたカノンに、ミロはパウロスの回心を見る思いであった。
涙に濡れながら、カノンは思い出していた。つい先刻、処女宮を通った時の邂逅を。この胸の奥を衝く思いについて、その時すでに説明を受けていたことを。
「貴方がサガと血を分けた双子の弟、カノンか。サガとは、まるで似ていないな」
その脇を抜けようとしたところで声を掛けられ、カノンも足を止めた。すぐ後ろを歩いていたアイオリアも、警戒の目を逸らさずに立ち止まる。テレパシーで話しかけてきた細面の青年に対し、カノンは別段話したい事柄は無かった。ただ、兄の名を引き合いに出されては黙ってもいられなかった。幼い頃から蓄えられてきた劣等感が、自然と顔に浮かぶ。処女宮のシャカは、瞑った瞼の奥からカノンの表情と機微を窺って、その口が開かれるのを待った。
「フン……そうだろうよ。サガは善と悪、二つの心を持っており、その狭間で常に揺れ動いていた間抜けだからな。だが、俺は違う。俺の中には悪一色しか存在せん」
嘲りと悪態を、カノンは得意としてきた。純粋に心清らかな兄サガには決して真似できず、しようとも思わぬ仕種だ。その得意の悪態をついて、カノンは処女宮を通り過ぎようとした。その足を、新たに届いたテレパシーが制止する。
「違うな」
傍らで聞いているアイオリアも、シャカの方へと顔を向ける。カノンの弁は、アイオリアとしても特に的を外しているようには思えなかったからだ。それほどにカノンは、悪辣とした人間であった。サガの天使の人格を苦しめる、悪魔の人格のみを宿しているかのように。
だが、シャカが否定したのはカノンの性格についてではない。彼が十二宮の中で、拝んできた人物の心の内面についてであった。
「サガは、正義の心以外を持ってはいなかった。アテナに従って地上を守ろうとする正義の心と、アテナに刃向ってでも地上を守ろうとした正義の心とな。このシャカ、如何なる時でもサガに悪心を見出したことは一度もない」
シャカは、態度も口調も超然としていた。それが示す通り、思考も他の者が手を伸ばしても届かない場所から見下ろすかの如く、計り知れないものがあった。そのため、シャカの言葉をアイオリアは俄かには肯定できない。サガの苦しみは分かるが、そのサガによって永年の苦しみを与えられてきた当人としては。
もう一人の当事者であるカノンも、複雑な心境が往来して足を止めたままだ。そんな心の内側を手の上で転がすように笑って、シャカは言葉を足した。
「むしろ動揺しているのは、貴方の方ではないのかな？」
カノンの鋭い目つきが、シャカに投げ掛けられる。それに気付いているのかどうか、涼しい表情を一毫も崩さずにシャカは語り続ける。
「貴方は、サガという強い光を常に身近に持っていた。それがために彼に反発し、彼のように生きることが出来ないもどかしさゆえに悪へと走ってしまった。だが、この宇宙が誕生して以来、完全なる悪が存在したためしは無い。貴方の心も、また無常……海底神殿で直にアテナの御心に触れた今、悪の心は勢いを失って正義の方へと傾き始めている。後は、貴方が勇気を持って、その光に身を委ねられるかどうかだ」
一瞬の静寂の後、カノンが声を震わせる。思い切り嘲った罵りをシャカにぶつけてやろうとするが、その声だけは上ずっていた。
「馬鹿な……。このカノン、そう易々と己の生き方を変えたりはせん。悪なら悪なりに、途中で自分の道を迷ったりせずに突き進んでみせるわ」
震える声の原因を、この時点ではカノンも探ることは出来ないでいた。
教皇の間においてアテナと邂逅し、シャカの言葉の意味を悟った今、カノンは自身の心と改めて向き合う。自身の心の奥底、今も己を見詰めてくる汚れ無き瞳と向き合ってみる。その思考が、途端に阻まれた。異次元を操る能力を有するが故に、カノンは他の聖闘士より逸早く気が付いた。この聖域に、冥王ハーデスの尖兵が近付いてきていることに。その中に、かつての黄金聖闘士が含まれていることにも。
今、正にその死した黄金聖闘士と白羊宮にて向き合うムウ。敵と向き合い、動揺を押し込めてムウは眉根を寄せる。滅多に怒りという感情を表に出さないムウも、目の前に立つデスマスクとアフロディーテに対して唾でも吐きかけてやろうかという視線をぶつけている。
「一体、どういう料簡なのだ？ かつてはアテナに刃向った身であるとはいえ、そこにはまだ聖闘士としての使命が貴方たちの中にも見えていた。真の聖闘士として帰還したのであれば、喜んで迎え入れよう……だが、貴方たちが纏っている、それは……」
形状こそ、かつて彼ら自身が着ていた聖衣に似せてある。だが、意匠は禍々しく変えられており、放つ色も漆黒に澱んでいる。太陽の光と小宇宙が蓄積された黄金聖衣とは、似ても似つかない。
「そうよ。これこそ冥界の衣……
デスマスクの説明を聞けば聞く程、ムウの中で嫌悪感が爆発していく。完全に身も心も冥闘士と同じになり果ててしまった彼らを、生前と同じ名前で呼ぶことさえ躊躇われるほどに。
「分かった……今や、お前たちは完全に冥王の僕に成り下がった敵。ならば、十二宮の領域を一歩たりとも踏ませはしない」
健気にもムウは、かつて最強を誇った黄金聖闘士を二人も相手にしながら白羊宮を守るつもりだ。それは、立派というよりも愚直。デスマスクもアフロディーテも、悪しき小宇宙を燃焼させながら、どうやってムウを料理してやろうかと近づく。
「それ以上、寄るな……聖域の清浄な空気が汚れる」
二人の侵入を阻むムウの気迫が、二人との間に断層を作り出す。光り輝く透明の壁が、ムウの前に現れていた。そこに映りこんだ自身の姿に目を見張りながら、デスマスクたちは足を止めてムウの出方を注視する。
「このクリスタルウォールは、お前たちの力では絶対に破れん。抵抗も出来ぬまま、再び冥界へと送り返してくれよう」
二人とも、ムウが戦闘する姿を見たことはない。そのため、ムウが造った光の壁に一瞬戸惑った。だが、冷静に見れば何のほどがある。ムウの術は、ただの虚仮威しほどにも思えない。ましてムウより年長であり、その分だけ長く修行してきた自分たちにムウを倒せぬはずがないと、控えめなアフロディーテまでもが息巻いた。
「ムウよ、お前のかつての同僚はそんな薄っぺらな膜一枚も破れないと侮っているのか？」
挑発を受けても、ムウは静かに沈黙している。やれるものなら、やってみろという面持ちだ。その余裕を打ち砕いてみせようと、アフロディーテが小宇宙を発現させる。
「目に物見せてやる……ピラニアンローズ！」
アフロディーテの右手から飛んだ亜光速の小宇宙が、一瞬の内に夜空を凝縮した漆黒の薔薇へと変わる。その鋭さは、神が造った聖衣であっても貫き引き裂く力を有していた。
全てを切り裂く黒薔薇の短剣がクリスタルウォールにぶつかった瞬間、貫かれたのはアフロディーテ本人であった。冥衣を砕かれて戸惑うアフロディーテに、続けて襲い掛かるムウの光速拳をかわす術は無い。脳天を割られ、物言わぬ骸に逆戻りとなったアフロディーテが地面に崩れ落ちる。
「おのれ、ムウめ……ならば、お前の背後から仕掛けて……」
前面からの攻撃が無駄と悟り、何とかムウの背中を取ろうとした矢先、そのムウがデスマスクの視界から消えた。テレポーテイションを使ったのだ。となれば、逆に自分の方がムウに背後を突かれる恐れがある。振り返ったデスマスクの眼中にも、やはりムウの姿は無く、その時になって後方からムウの声が飛んできた。
「さらばだデスマスク……二度と蘇れぬよう完全に消滅せよ」
今度は、振り返る暇さえ無い。自らの背中越しに、大いなる光の輪が何重にも包み込んでくるのを見て取った。その光こそ、魂の葬列を強制するアリエスの秘術であると悟った。
「スターライトエクスティンクション！」
闇をも溶かす強烈な光が、二つの影を包み込む。影のみならず、実体までも溶かして彼方へと消し去る甚大な小宇宙をムウは放っていた。哀れデスマスクの肉体は、倒れるアフロディーテともども冥界の淵へと送り返され、帰還したばかりの白羊宮から完全に消えてしまった。
この一瞬の出来事を見ていた者が、石段を登ってくる。その気配と小宇宙に、ムウは既に気が付いていた。デスマスクらと戦いながら、意識をそちらへと傾けていた。デスマスクたちより、遥かに強大な小宇宙を持った者たちが、まだ控えている。
「さあ、今度は誰が相手なのだ？」
ムウが放つ黄金の小宇宙が、新たに現れた人物を照らす。その顔を見て、ムウの体に緊張が走る。デスマスクとアフロディーテの到来に驚愕したことより、何倍も強烈な衝撃が駆け抜けた。
「そ、そんな……貴方が……あ、貴方までもが……」
ハーデスの軍門に下ったなどとは信じられぬ。その言葉が、思うように出てこなかった。全身を震わせて、ムウは目の前の人物に対して跪こうかと躊躇いもした。それだけの人間が、白羊宮に現れたのだ。
「十三年ぶりだな……ムウよ」
幼少の頃、何度も聞いた柔らかな声がムウの耳に聞こえる。その響きによって、今度こそムウは両膝をついた。内面に潜む大いなる小宇宙に探りを入れるまでもなく、それが本人であると気が付いた。
「はい……我が……我が、大恩ある師……教皇シオンよ」
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