「冥王ハーデス 十二宮」編
第三話 慟哭の三人
春の宵を、地上の多くの者たちが謳歌する中、聖域の十二宮だけは争いが渦巻いていた。再び血で血を洗い、骨と肉とが相食む戦いが繰り広げられようとしていた。
穏やかな春の夜空を拝む暇も無く、その星空が見下ろす白羊宮においてアリエスのムウは頭を下げていた。二百五十年前、自分が今着ている黄金聖衣を雄々しく纏っていた先代に対して、礼を尽くすように。
「かつての黄金聖闘士を二人も目の前にしながら、あくまで自分の使命は忘れぬか。相変わらず可愛いな、ムウよ」
裏切り者として帰還したデスマスクとアフロディーテ。その二人を葬り去ったムウの手腕を褒めながら、師は弟子に近付く。自分が見知ったムウは、修行段階の幼少期まで。自分の手解き無しで、よくぞここまで成長したものだと称えてやった。
「だがな、ムウ……その力、この私に対しても振るえるのか？ お前を育てた師……この教皇、アリエスのシオンに対しても」
自分の足元で立ち止まった師を、ムウは仰ぎ見る。近くで確かめることで、あることに気が付いた。生前のシオンは、既に聖闘士としては引退した身。二百年以上も生きた肉体は老いて、年輪の皴が刻まれていた。それが、どうしたことか。今、目の前に立つ男は若々しい生気に満ち溢れている。二十歳を迎えた、ムウよりも若いくらいではないか。
「驚いたか？ ハーデス様の御力によって、私は若い頃の肉体を取り戻したのだ。かつての聖戦を戦った、あの最も輝いていた十八歳の肉体をだ」
そして、その若い肉体を包み込んでいるのは、やはり聖衣ではない。月の光を吸い込んだオブシディアンにも似た色合いは、一見して艶やかな魅力に富むが、その実は虚飾以外に何も無い。爬虫類を前にして怯む生物の本能が、時として快楽に繋がるように、冥界の亡者たちはこの衣に群がると云う。その名も冥衣。大恩ある師までが、それに魅せられた事実にムウは言葉を失った。
「不死の肉体、新たなる衣……素晴らしいぞ、ムウよ。二百数十年の生も、最後には死が吹き飛ばしてしまう。それを迎えて、私は悟ったのだ。限りある命に喘ぐ人間たちに、真の喜びと幸福をもたらしてくれるのは生ある地上の女神などではなく、死者の冥界を統べるハーデス様なのだとな」
十数年の眠りから醒めた恍惚からか、シオンは唇を歪ませてムウを見下ろす。かつては聖闘士の長として、地上をハーデスから守り抜く使命に燃えていたはずのシオン。その様変わりに、ムウは心の底から震える思いがした。
「では……やはり、貴方が聖域にお戻りになられたのは……」
「知れたこと。ハーデス様のため、アテナの首を頂戴しに来たのだ」
その言葉は、落雷に打たれるよりも衝撃的であった。何より自分を育てた師から聞かされるのが、他の同朋の口から聞こえるより遥かに悲しかった。
「分かったら、そこを退け。それとも、私の忠実な弟子としてお前がアテナの首を持ってきてくれるのかな？」
奥歯を噛み締め、滝の汗を流しながらムウは思考する。やがて口にした言葉は、初めて師に背くものであった。元より考えるまでもない。自分はシオンの高弟である前に、高潔なるアテナの聖闘士なのだから。
「いかに我が師の命令とはいえ、こればかりは聞く訳には参りません。それが、かつて貴方に教わった至上の使命なれば……」
「その私が、改めてお前に指図しているのだぞ」
シオンの追い打ちに対し、ムウは目を伏せながらも小宇宙で手向かった。あくまで白羊宮の番として、ハーデスの冥闘士を通さぬという気迫が居住まいに込められていた。
「ならば、力尽くで排除するまでよ。だが――」
言葉を区切り、シオンが僅かに後ろを向く気配があった。それは、彼がデスマスクとアフロディーテの他にまだ手勢を引き連れてきたことを意味する。ムウは感覚を敏感にさせて、シオンの視線の先にある小宇宙を辿った。
「だが、私としてもかつての弟子を手に掛けるのは心苦しい。ここは一つ、お前たちにも手柄を立てさせてやろうではないか」
シオンに促されるようにして、複数の足音が聞こえてくる。重なり合う靴の音からは、正確な人数は測り難い。しかしムウには、彼らの小宇宙から近付いてくる者たちの数を捉えることが出来ていた。三人。間違いなく、三人の小宇宙を感じる。その一つ一つが誰の物であるのかさえ分かってしまうことに、ムウは瞼を痙攣させる。
「この小宇宙は……貴方たちまで敵に回ったとなれば、聖域は……」
顔を上げて直に確かめようとするムウの瞳に、予想通りの顔が三つ飛び込んでくる。
アクエリアスのカミュ。
カプリコーンのシュラ。
そして、ジェミニのサガ。
輝ける黄金聖衣の他に似合うはずもなき三人が、暗黒の冥衣を身に纏っている。ハーデスの仕組んだ幻影などではないというのは、先程から分かっている。それでも、目の前に現れたのが彼ら自身だとは信じたくない思いに駆られて、ムウは跪いたまま動けないでいた。
「サガ……貴方は、自らを長年苦しめていた邪心に別れを告げたはず。それなのに、またしてもアテナに背くと？ その事の苦しみを、誰よりも知る貴方が……」
哀れむように訴えてくるムウの視線を外すことなく、サガが静かに答える。
「所詮、生ある者たちの世界で心臓を動かしている以上、分かるはずもないのだ。我々が冥界で味わった苦しみなど」
絶望がムウに訪れる。最強と呼ばれたサガたちを相手取ることも
老いさらばえた末に命を失ったシオンは、永遠の若さと再びの生を求めて。サガたち地獄に落ちた者は、その重苦から逃れるために。ハーデスに忠誠を誓い、その忠誠を示すためにアテナの首を取りに来た。かつて絶対と信じていたアテナの愛を裏切りに現れた。そんな思考が、本当にアテナの聖闘士に出来るものなのか。冷酷な事実を突きつけられてなお、ムウは一片の期待に縋ろうとした。
「ショックのあまりに硬直とは、まだ青いな」
カプリコーンのシュラに声を掛けられて、ムウの視線がそちらへ動く。研ぎ澄まされた右の手刀を胸の位置にまで上げる所作は、本気のように思えた。そのシュラが一歩前へと出ながら、横目で指示を仰ぐ。本当に良いのか、と尋ねる視線にシオンの冷徹な命令が下される。
「やれ、シュラ」
未だ跪いたままのムウへと、シュラの右腕が飛ぶ。威嚇などではない。本気で葬り去るつもりでいる超光速のエクスカリバーだ。
振り下ろされる剣を、ムウはすんでのところで掴んで真っ二つになるのを防いだ。真正面から防御したのでは、そのまま斬り裂かれてしまう。ムウが掴んだのは、片刃のエクスカリバーの峰の部分。シュラから見て、腕の内側に当たる箇所だ。等しい力で一振りの剣を引き合う形で、両者は静止した。
「シュラ……私には、信じられない。貴方はアイオロスを殺めたことを悔い、紫龍の命を救うために自らの命を絶った程の男。その貴方までもが……」
「お前に何が分かるか。暗い穴の底で、一瞬たりとも止むことのない責め苦に喘ぐ事への恐怖……如何に死をも恐れぬ聖闘士といえど、死後の苦しみに耐えられる訳ではないのだ」
シュラはムウの体を斬り付けようと力を込めて右腕を押す。ムウは、それを阻もうと反対方向へ必死に押し戻そうとする。その攻防をシオンが制した。
「膂力の勝負では、埒が明かぬか。もうよい、シュラよ下がれ」
言われるままに、シュラはムウの手を振り払って後方へと飛び退く。その間にムウも立ち上がり、次なる攻撃に備える。シュラの代わりに前へと出たのは、アクエリアスのカミュだ。
「倒せぬまでも、足止めさえ出来れば良い」
「かしこまりました。私の凍気……ムウよ、受けるがいい」
反射的にムウは、自身の前にクリスタルウォールを張って防御する。この壁が、如何なる攻撃をも防ぐのはアフロディーテとの戦いで実証済みだ。しかし、カミュは構わずに絶対零度の凍気を繰り出す。
どんなに強大な小宇宙が相手であろうとも跳ね返せるはずのクリスタルウォールが、たわんで見える。周囲の空気を凍らされ、正常に機能させることも困難な状態だ。ムウも必死に押し返そうと小宇宙を高める。
「カミュ……生に執着する今の君を見たら、氷河もさぞ悲しむことだろう。それが、本当に君の望んだことなのか？」
「…………」
無言でいるのは、迷っているからであろうか。少なくとも小宇宙に変化は見られない。カミュの凍気は勢いを衰えさせることなくムウに迫り、それを押しのけようとムウも緊張を緩めることが許されない状況だ。
拮抗する力は、やがて互いの消滅をもたらす。凍気は光の瀾に飲み込まれて消え、防壁は氷点下の波動の前に砕け散った。一旦の危機を退けて、ムウも瞬間的に気迫を緩める。その瞬き程の時間を逃さぬ光速拳が飛んできた。
「こ、れは……サガ!?」
ムウの頭脳を直撃したサガの拳が、神経を縛り付ける。萎えた脚はムウの体を敷石の上に沈み込ませ、痺れる指先は小宇宙の攻撃を撃つことも出来ないほどに力を失っていた。
「魔皇拳の一種か……私の触覚だけを奪うとは……」
黄道の一つを担う黄金の羊を自負しようとも、やはり神の化身と称えられた男には敵わぬ。決して認める訳にはいかない敗北感に押し付けられて、ムウの肉体は背を丸め込ませるまでに機能を失した。
「ご覧の通り、ムウを無力化させました」
とどめは必要かと問い掛けるサガの視線に、シオンは不要と首を振る。その目線は、ちらりと夜空に浮かぶ月へと向けられた。
「我々には、道を阻む黄金聖闘士に逐一構っている時間は無い。今宵は満月……あの月が没し、次の日の出を迎え入れた時に我々がどうなるか……分かっていよう？」
三人は教皇の言葉に礼を尽くして頭を下げると、一様にムウの後ろにある十二宮への入り口を見据えた。このまま行かせてなるものかと奮起するムウではあったが、頭脳から肉体への伝達が麻痺している。かつての師であり指導者が、そして友や先達が裏切った。それらと相食む闘争に葛藤した自分の苦しみが、十二宮全体に伝播する。ポタリ、ポタリと敷石に染みる汗を見ながらムウは大いに歯噛みする。
そんなムウなど、いないも同然として三人は通り過ぎていく。耳に入ってくる足音が近付き、そして遠のいていく。それをムウは止めることさえ出来ずに蹲っている。アテナを守護する黄金聖闘士として、あるまじき失態を演じてしまっている。ムウを更に恐れさせたのは、脇をすり抜けていく気配が三つに留まらなかったことだ。
「……冥闘士!?」
影のように白羊宮へと侵入していく無数の小宇宙を感じ取って、ムウは咄嗟にそう判断した。シオンに率いられてきた元聖闘士の他に、正規の冥闘士までもが聖域に入り込んでいる。自分たち聖闘士が、本来倒し封じるべき百八つの魔星が。それらと手を組んで、ハーデスに命じられた任務を確実にこなすつもりなのかとムウは激しく嘆いた。最早、自分一人では止めることも改めさせることも出来ないサガたちの変心と謀叛に対して、ムウは焼ける喉を唸らせる。
「嗚呼……貴方たちは、もはや完全にハーデスに魂を売り渡してしまっている。アテナのお命を奪うことにさえ、些かの躊躇いも見せはしない。そうまでして失った命が惜しいのか……このムウも、貴方たちと同じく冥界の苦しみを知れば同様になってしまうのか……かつての忠義も信心も忘れ果て、ハーデスに利用されることを望むところまで落ちていくのか……」
いざ声に出してみれば、いよいよ信じがたい。彼らと向き合いながら、密かに探りを入れていた彼らの心に触れた時、ムウの小宇宙が目撃していたために。その冷酷な寝返りも、彼らが訴えた死後の苦しみも、暗黒の魔王に対する忠誠さえも真実なのか迷ってしまうものを見てしまったために。
「では……では、貴方たちが流している、その涙は何なのだ!?」
魂の眼窩から流れる紅の暗涙。決して人には見せず、ひた隠しにする熱鉄。一掬という言葉では足りないほど、彼らの両眼から溢れた鮮血が慟哭していた。
「それだけの痛み苦しみを冥界で味わったのだ。それだけ現世に生きるお前たちを妬み、聖闘士としての宿命を与えたアテナを怨んだという証拠だ」
その場に一人だけ残っていたシオンが、ムウの自問に対して答えを出す。それが真なのか、はたまた虚偽なのか。問い掛ける暇などムウには無い。まずはサガに施された術を破らなければ、一方的に弄られるのに耐えることしか出来ないからだ。
蠢くムウの体を、ふっと軽くさせる感覚が訪れる。何事かと顔を上げる。その様子にシオンも目を見開き、そして背後に現れた小宇宙へと目を向ける。
目が合ったのは、見知らぬ老骨の矮人。だが、その内側から溢れ出す黄金の小宇宙には確かに憶えがある。二百四十三年前、いつでも自分の側で戦闘を支えてくれた莫逆の小宇宙だ。
「この小宇宙……童虎か!?」
半ば驚愕した声を上げて、シオンは更に目を見開く。前聖戦が終った後、時のアテナによって魔星の監視を命じられた黄金聖闘士ライブラの童虎。今の時代においては、廬山五老峰の老師と呼ばれて全聖闘士から敬われる存在である。
「何じゃ？ 魔星の封印が解かれた今、ワシが十二宮に戻ったとしても不思議ではあるまい」
「十三年前……サガの謀叛によって、てっきりお前も葬られたと思ってたが……成程、聖域を遠く離れていたがために難を逃れていたのか」
二人の間を流れる空気は、異様であった。シオンと老師との心内の温度差によるものか。旧交とは程遠い不穏な雰囲気を、起き上がったムウも感じていた。シオンは、明らかに戸惑い不安気な表情を浮かべている。何故か。前聖戦において最強の名を争ったライブラとの戦いを恐れているためばかりとは思えない。此度の彼らの計画を、根底から揺るがしかねないような不安をシオンの中に見ていた。
「ムウよ、お前の金縛りは解いてやった。もう動けるな？ ここはワシが引き受ける故、お前は冥闘士どもを追うのじゃ」
「何と、老師御自らが？」
「直弟子のお前でも知らぬ若き日の……全盛期のシオンをワシは常に間近で見てきた。あの当時の無敵の肉体を取り戻したとなれば、その実力はお主でも手に負えまい。あの最強の呼び声が高いサガをも上回る実力が相手ではな」
シオンに問いたいことは山ほどあったが、冥闘士の侵攻をアテナへと近付ける訳にもいかない。老師に一礼をして、ムウは十二宮の石段を上っていった。それを制止したい思いに駆られながら、シオンも動けない。自分と対等の力を持つ老師に隙を見せては、一瞬の内に冥界へと送り返される恐れさえある。
「どういうつもりなのだ……童虎？」
「それは、ワシがお主に聞くべきことのはず。何ゆえ、ハーデスなんぞに下ってアテナに背いた？ かつて先陣を切って冥闘士に挑んだはずのお前が……」
老師の脳裏には、アリエスの黄金聖衣を纏って戦ったシオンの姿が今でも焼き付いてるのか。その眼差しには無常に対する悲しみが浮かんでいた。
その目に見詰められて、シオンも一瞬だけ目を伏せた。そこに老師は、二百年来の親交から来る躊躇いを見出そうと試みた。互いに若き時代には、手と手を取り合って修行に明け暮れ、聖域の防衛に励んだ日々もあったのだから。
「……お前が生きていると知っておれば、私も……」
シオンの呟きに、老師の眉が反応を示す。それに対するシオンの答えは、冷笑と共に送られた。
「私も、お前を先に片付けようと思ったところだ」
覚悟は決まったようだ。シオンが、最強と称された自身の小宇宙を高めていく。冥闘士に身をやつしながらも、生前と全く変わらぬ銀河をも震わす小宇宙。老師もまた春愁を振り払って精神を集中させる。互いに迷いは無いと見て取った。
「いいだろう、童虎よ……ついぞ決着を見なかった我らの戦い。二百数十年の時を経て、ここに終止符を打ってくれる」
高まりゆくシオンの小宇宙。聖闘士の善悪を推し量る要として、ライブラの老師は敢然と迎え撃つ姿勢を見せる。どちらか、あるいは両者の消滅でもって幕を引くことになるであろう最強同士の戦いが、白羊宮の片隅で開始された。
ムウは、早くも二番目の金牛宮へと辿り着いた。だが、既にサガたちも他の冥闘士も過ぎ去った後のようだ。宮の中は、しんと静まり返っている。
ここを守護するタウラスのアルデバランは、先に発生した海闘士との戦乱において、敵将の一人と壮絶な闘いを演じた果てに命を落としていた。今となっては無人の宮。主を失ったタウラスの聖衣だけが、虚しく輝き続けるだけであった。
だからこそ、ムウも必死に白羊宮を守る必要があったのだ。自分のいる宮を突破されれば、第五の獅子宮までは守護者不在の宮が続くこととなる。聖域随一の屈強を誇るレオのアイオリアであれば、それ以上の進攻はきっと防いでくれるであろうが、十二宮の中腹まで汚されるという事実は変わらない。今、その失態を犯してしまったことの責任からも、ムウは急がねばと考えていた。
一歩、先を急ごうと踏み込んだ一歩で違和感が生じ、二歩目以降は慎重になった。空気が異なるのだ。威風辺りを払う牡牛が居なくなっただけでは、ここまでの変化はあるまい。冥闘士たちの汚れた気配が残っているだけにしても濃すぎる。ムウは、突如として湧いた違和感を肌で感じる以上に鼻で嗅いでいた。
「アミン臭……？」
速度を緩めて柱の一本一本の陰にいたるまで警戒を怠らず進んでいくと、前方の暗がりに不気味な影が躍り出た。それまで絶っていたと思われる邪悪の小宇宙も顕にして、グロテスクな冥衣に身を包んだ血色の悪い顔が浮かぶ上がる。
「冥闘士……ここで待ち伏せていたのか」
「いかにも。聖域にいるのは、何も黄金聖闘士ばかりでもあるまい。我らの目的を達成するまで、それらの邪魔立てが無いよう迎え撃つつもりでいたのよ」
サガやシオンたちのそれは、元の黄金聖衣をモチーフにしている。所々、鋭角的に意匠が変化しているものの、まだ元となった聖衣の神々しさが窺える。だが、目の前に立つ冥闘士が着る本来の冥衣はというと、ムウに嫌悪感しか抱かせないほど醜悪であった。全身からは牙とも爪ともつかぬ突起が飛び出し、頭を覆うマスクは蛙の面のようにのっぺりとしている。冥闘士が魔星の生まれ変わりであり、冥衣がその性質を表すのであれば、この男の下種な性分も知れる。
「俺の名は、ニオベ。魔星が一つ、地暗星ディープのニオベよ。黄金聖闘士アリエス……死ぬのが自分の宮でなくて残念だったな」
ムウは、その姿を確かめた時からニオベと距離を取っていた。その距離を詰めることなくムウを倒せるだけの秘策を持つニオベからすれば、ムウの警戒は何の効果ももたらさないと心の内で笑っていた。
「この香気の虜となって……散れ！ ディープフレグランス！」
ムウへと伸ばしたニオベの右腕。そこから蜷局を巻いて霧状のガスが吹き掛けられる。酸化したガスは異様な臭いを発し、ムウの眉を顰めさせる。その表情を見て、ニオベは反対に口を開けて笑い出した。
「安心しろ。その腐臭も、すぐに馥郁へと変わる。もっとも、その瞬間にはお前の命も冥界へと旅立っているがな」
ディープのニオベ。本来は冥界の第八
この香気を吸ったが最後、いかなる者であっても全身の神経を破壊されて内側から死に至る。あらゆる毒素を体内で無効化してしまえるニオベ自身を除いては。
後はムウの体が崩れ落ちるのを眺めるだけ。そう考えていたニオベの笑い声が、次第に小さくなっていく。既に致死量を遥かに超えたフレグランスを吸ったはず。にも拘わらず、ムウは平然として立ったままだ。不審に思って注視してみれば、ニオベの目にも見えてきた。金牛宮の天井から下ろされたような薄い光の幕がムウの前に垂れこめて、フレグランスを食い止めていることに。
「こ、これは……!?」
自らの技に絶対の自信を持っているだけに、それを防がれた時の衝撃は耐え難いほどに身を打ちのめす。予想だにしない出来事から大量の汗をかくニオベに対し、ムウが静かに口を利く。
「お前の技は、何等かの芳香族アミンを揮発させて中毒に至らしめるのだろう。浅墓この上無い……その汚れた冥衣から常に臭気が漏れている以上、それに対する備えを私が怠ると思ったか」
ムウの小宇宙が生み出した光のカーテン。それは、単に防御のためだけに展開したに留まらない。ムウが意識を傾けるだけで、次なる奇跡が起こり出す。
「クリスタルウォールよ……この宮に満ちた汚れを押し込めよ。我が友の眠りを妨げる敵を束縛せよ」
その言葉の通りに、ムウの前に広がっていた壁が動き出す。辺りの空気を巻き込んで、包み込むようにしてニオベを取り囲んでいく。八方から迫りくる小宇宙に圧倒されて、ニオベも動くことを忘れていた。次第に次第に小さくなっていくクリスタルウォールの動きを、動揺と共に見守ることしか出来ないでいた。
ニオベを中心に小さくなっていったクリスタルウォールは、遂にニオベの体を完全に覆い尽くす。フレグランスの香りごとニオベの体にピッタリと張り付き、鉄鎖の戒め以上に動きを奪っていた。無抵抗な姿を晒して、次にどんな攻撃をムウが仕掛けてくるのかとニオベも恐怖を覚える。それほどに黄金の羊が放つ小宇宙は厖大であった。
「受けよ……スターダストレボリューション」
静かに死を宣告するムウの、表向きの態度とは正反対に熱い小宇宙。サガたちに対しては完全に向けることが出来なかった怒りをも含めて、ムウの黄金の小宇宙が爆発する。
次の瞬間、ニオベの体は宙に浮いていた。場所は、既に十二宮ではない。辺り一面、頭上も足下も含めて夜空なのだ。その無重力の空間の中で、クリスタルウォールに包まれながらニオベは静止していた。
チラチラと瞬く星の光が目に入る。音は何も伝わってはこない。クリスタルウォールによって外の環境から遮断されているためか、肌には何も感じられない。まさか、このまま広大なプラネタリウムの中に放置するつもりなのか。そう思ったところで、光景に変化が訪れる。
「な、何だ……この異常な小宇宙は!?」
前方、遥か彼方から光速で迫る小宇宙の雨霰。それらが、周囲に浮かぶ小惑星たちを次々と破壊していく。粉々に打ち砕かれた星屑たちは、激しい回転を加えられて軌道をニオベの方へと変え出した。鋭い回転と共に襲い掛かる星屑の流星。そして、それらを破壊するほどの威力を秘めた小宇宙の嵐とが同時にニオベの身を貫いていく。
地上から遠く離れた何処かの宇宙で、ディープのニオベは跡形も無く消えていった。それもムウにとっては、開戦の狼煙に過ぎなかった。瞳に映る金牛宮の出口。その先を行くであろう幾つもの背中を見通して、アリエスのムウは決意を改める。
「今の者の他に、何人の冥闘士が入り込んだのかは分からぬが……必ずや全滅させてくれる。そして、一刻も早く貴方たちに追いつこう。貴方たちが、何故に十二宮へと戻ってきたのか。その真の目的を明らかとするために。どんな事情を抱えているのか、しかと聞くために。そうしなければ……心の奥底で私に見せてくれた、貴方たちの慟哭に申し訳が立たない」
心の瞳には、今も強く焼き付いている。カミュが、シュラが、そしてサガが流した血の涙。そこに如何なる思惑があるのかは定かでないにしても、一縷の望みを懸けたいとムウは思っていた。一刻も早く。せめて彼らがアテナ神殿へと辿り着く前に。そんな思いが、金牛宮を抜けるムウの足を速めさせる。その行く手には、渦巻くように邪悪な波動を見せる冥闘士たちの小宇宙が蔓延っていた。
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