「冥王ハーデス 十二宮」編
第四話 かりそめの再会
「カノンよ……いつまで悪事によって、その手を汚すつもりなのだ。大いなるアテナから授かった力を、本来と関わりのないことに使うばかりか、悪道のために用いるなど……アテナが、どれだけ嘆かれるか考えたことはないのか？ お前も私と同い年なれば、自分の立場というものは理解できるはず。私に……このサガに何かあった際には、お前が私の代わりに――」
十三年前、双子の兄弟が訣別する直前の場面を思い出していた。兄が弟に対して試みた最後の説得。それが無駄であると分かった時、兄は弟を
ジェミニの運命を背負うサガとカノン。弟カノンは、兄を待ち構えた。兄サガは、弟の帰還に未だ気が付いていなかった。異なる二つの意識は、サガが踏み込もうとしている第三の宮・双児宮に注がれていた。
双児宮――かつて青銅聖闘士たちが挑んだ際には、ある者が仕掛けた幻覚によって宮の入り口は二つ存在していた。内部は、永遠の闇と無限の光とが織りなす迷宮と化してアリアドネの糸も頼りにならなかった。冥闘士となったサガ、シュラ、カミュの三人は、その双児宮の入り口にまで来ていた。幻覚は解け、今では入り口は一つのみ。しかしながら、宮の中は果てしない暗闇の空間が依然として口を開けているようである。
例え、何が潜み何が待ち受けていようとも立ち止まっている場合ではない。勇猛なるシュラは、真っ先に入り口へと近付いていく。それを確かめるまでもなく、カミュも第一歩を踏み出す。その時になって、後ろの気配が自分たちに続こうとしていないことに気が付いた。
「どうしました、サガ？」
カミュの問い掛けに、シュラもサガを振り返る。その目付きは、宮の奥へと続く闇を凝視していた。何故、その闇に惹き付けられるのか。当のサガ自身、半分は不思議でありながら。もう半分は、微かに浮かんだ疑いに対する不安のために。
「我々には時間が無いはず。二の足を踏んでいる場合ではあるまい」
そう言いながら、シュラは一人で先に宮へと飛び込もうとしている。カミュもまた、シュラに同意だということを無言の頷きで示してきた。
「分かった。先へと進もう」
思案の続きは、宮の中を駆けながらだと心に決めてサガも一歩を踏み出す。かつての主の帰還を、双児宮の入り口は如何なる思いで迎え入れるのか。
双児宮の中は、不気味な程に静まり返っていた。単に主が不在というばかりではない。そこを駆け抜ける三人の足音までもが、闇に飲み込まれて消え行ってしまうほどに無音であった。
異変は、それのみに留まらない。
「サガ……妙だとは思いませんか？」
「俺も、そう考えていたところだ。とっくに宮を抜けてもよさそうな距離を走っているというのに……」
光速のスピードで移動することも可能な彼らが、全力に近い速度で走っている。にもかかわらず、出口が見えそうな気配は無い。元々の守護者であるサガだけでなく、往来のために度々通り抜けた経験のあるシュラやカミュも明らかな不審を抱いていた。
「無限……？」
果ての見えない闇の回廊。そこを闇雲に走るだけでは答えは見つからない。サガは空間の隔たりを透過するような視点でもって、闇の終極と外側とを覗き込もうと試みた。その視点が歪み、押し返されてしまう。
「そうだ……これは、無限。ニーチェが迷い込み、クザーヌスが到達した果てることなき無限……」
一筋の汗が、白い頬を伝う。己の宮で、ここまでの業を見せつけられたという意外性もある。それにも増して、ここまでの芸当を行える者の存在に驚いていた。サガが目の当たりに見た現象は、異次元をも支配下に置くサガでさえ驚愕するほどに精巧であった。双児宮の先にある巨蟹宮の入り口までも見通そうと伸ばしたサガの遠隔視までもが、無限に続くフーガの中を彷徨い続けていた。
「
そんな人間が、果たして自分亡き後の聖域に残っていたであろうか。ふと湧いた疑問を解く鍵は、サガの内心に確かにあった。その手掛かりを知る由もない仲間たちが、サガの思考に割り込んでくる。
「サガよ、このままでは徒に時間を浪費するだけではないか？」
足も止めずにシュラが尋ねる。ここは、かつてサガが預かった双児宮。かつてサガが迷宮に作り替えた宮。その性質を一番よく分かっているのもサガであり、そのサガが出口を見つけ出せないでいることに若干の焦りを感じているようであった。
カミュも、首をサガの方へと曲げて進言する。この迷宮を抜ける術について、実は先程から思うところがあった。
「この闇の空間であれば、後ろから追いついてこようとしてくる者たちの目もありはしない。ここは、貴方のアナザーディメンションで一気に双児宮を突き抜けるべきでは？」
確かに、異次元世界への介入を可能とするサガの秘術アナザーディメンションであれば、それも叶うであろう。十二宮に張り巡らされたアテナの結界によって、宮を飛び越えてのテレポーテイションは、例え稀代の超能力者であるムウであっても不可能。だが、アテナの結界も届かぬ異次元の通り道を用いれば白羊宮から一気に双魚宮まで移動することも可能となるのだ。
白羊宮の時点で、サガがそれをしなかったのには勿論理由がある。自分たちの背後には、正規の冥闘士がいる。それらが、後を走りながら一挙手一投足を見張っているのだ。アナザーディメンションで空間を飛び越えれば、それらを撒くことも出来る。だが、それは軽率極まりない愚挙でもある。元よりハーデスは、アテナの聖闘士であったサガたちを心から信用などしていない。していないからこそ、監視役を多数用意したのだ。それらの目から逃れるような真似をすれば、忽ち「サガたちは真にアテナを裏切るつもり無し」と看做され、ハーデスに悪意ある報告をされてしまう。その瞬間に、ハーデスから与えられた肉体も消滅させられてしまうであろう。
「その監視の目も、我らを見失っている……いや、奴らも今は迷宮を彷徨っているところか。ならば、せめて双児宮だけでもアナザーディメンションで切り抜けるという案は道理。我らに時間は無く、目的は果たさねばならぬからな。だが――」
カミュに肯んじながらも、サガは言葉を切った。二人の視線を感じながら、心の奥底で唸る思いであった。やれるものなら、とっくにやっているという思いがあった。
「私のアナザーディメンションを封じ込めようとする小宇宙を感じるのだ。この迷宮によるものではない……先程からアナザーディメンションを展開しようと試みてはいるが、そいつに別の異次元空間をぶつけて阻害してくる小宇宙を感じる」
此度、ハーデスに新たな肉体を与えられて十二宮へと帰還を果たした一同の中で、サガだけが二心ありとは思えない。シュラもカミュも、サガの話が真実であると考えた。それは、彼らの境遇をますます絶望へと追いやる事実であった。
「貴方ほどの人に、そこまでの真似が出来る者がいるとは……」
「やはりムウか？ 先程、奴の小宇宙が白羊宮を発つのを感じた。いや……最も神に近い、あの男の可能性もある」
そのどちらに対しても、無言で否定してサガは思案していた。あるいは、答えなどとうに出ていたのかもしれない。他ならぬサガだからこそ、それ以外に導き出せる答えは無いと理解していたのだろう。
だが、それを理解したところでどうなる。現状を打破するためには、目の前の迷宮を切り崩さなくてはならないのだ。その術こそ、今の自分たちには必要なのだ。行けども行けども果てのない空間を走りながら、サガも時間に追われることに不安を抱いていた。
「このままでは埒が明かない。ここは、いっそ……」
覚悟を決め、一つの打開策を提示しようとするサガ。空間を飛び越えることが叶わぬのであれば、いっそ破壊の小宇宙を用いて迷宮を打ち砕こうという提案を口にしようとしていた。その瞬間、サガの周りで二つの変化が起きていた。
「二人とも、どこへ行った？」
隣を走っていたはずのシュラとカミュの姿が、いつの間にか闇の中へと溶け込んで消えていた。立ち止まり、前方に浮かんだ影を見据える。その影は、暗闇の中で自ら光を放っていた。かつて自分が纏っていた黄金聖衣と寸分違わぬ、太陽の如き輝きを見せていた。
「ジェミニの……黄金聖衣だと？」
そして、双児宮の迷路のどこかにおいては、シュラとカミュがそれぞれサガと同じ反応を見せていた。
二人とも、サガからはぐれて別々の場所へと送り込まれ、そして対面していた。生前においては、その身を包んでいた誇り高きカプリコーンとアクエリアスの聖衣を。それらを着込んだ、謎の人影を。
「俺だ……俺がいる？」
「馬鹿な……これは、私自身？」
それぞれ孤立した空間において、シュラとカミュとが同時に呟いた。目の前に立つ己と瓜二つの姿に正面から見据えられて、全身を竦ませて立ち尽くしてしまった。
「これは……いかん」
異次元と頭脳を操る能力ゆえにか、サガには仲間の状況もつぶさに捉えることが出来ていた。
「二人とも、このまやかしを作り出した張本人の術中に陥ってしまったか。葛藤の中を彷徨う己自身との対話……これに自力で打ち勝つには、余りに時が足りない。ヘリオスの牛の群れを数え終える方が、よほど早く終わるほどの難問だからだ」
まして今、二人の前に現れたのは黄金の聖衣を纏ったかつての自分自身の影。アテナの威光を背負っていた正義の心に問い掛けられては、此度の決心も鈍ってしまい、更なる葛藤へと陥って自力での立ち直りも難しい。既に一度、その葛藤を乗り越えたサガなら、いざ知らず。
「やはり、ここは私が突破口を開くより他はあるまい。この快刀で以って、目の前の
体内を巡る生命の小宇宙を爆発させる。その威力でもって、自分たちを脅かす黄金聖衣を砕き、双児宮の迷宮をも消し飛ばすつもりだ。それを阻んだのは、ジェミニの聖衣から聞こえてきた声だ。
「待て、サガ」
言われるままに、サガの動きが止まった。
自分自身に呼ばれた感覚は無い。サガは、紛れも無く黄金聖衣を着ているのが自分とは異なる人間であると見抜いていた。
「何のつもりだ……カノン？」
目深に被ったマスクによって相手の表情は窺えない。それでも、名前を言い当てられたことでジェミニの闘士が今さら表情を変えたとも思えない。既に両者とも気が付いていたのだ。互いの存在に。
「何のつもり、とは論外。この身を包む聖衣の輝きが示す通り、俺は聖域を脅かす邪悪を滅するためにここにいるのだ。大人しく引き下がるのであれば、身内ゆえに俺も追い討ちはせん。だが、サガよ……もしも、お前が本気でアテナのお命を狙うというのであれば――」
「私を殺すか？ お前のように汚れた心しか持たぬ人間に、正義の小宇宙を蓄えられるとも思えん。そのような貧弱な小宇宙で、この私を殺せると思うか」
「お前こそ、その目は確かか？ ここにいるのは、お前の知るかつてのカノンとは違うのだ。今やアテナの愛と正義を知るに至った俺の心が見えぬか？」
また、いつもの大言かとサガは耳を塞いで罵ってやろうとも考えた。その一方で、違う感情による歯止めも存在した。無言の兄と面して、弟は語る。
「十三年前、俺はお前によってスニオン岬の岩牢へと閉じ込められた。そこは、満潮時には岩牢の中に入り込んだ海水も溢れ、俺は何度も溺死の死線を彷徨った。そんな時、決まって俺を守り、命を繋ぎ止めてくれた温かな存在を感じていたのだ」
カノンが語る存在に、サガは早くも察しがついた。自らもまた、死に瀕してそれを感じたのを思い出していた。
「それこそが大いなるアテナ。その愛の小宇宙だったのだ。その愛によって、今や俺の邪念は全て洗い流された。かつての非道なるカノンは死に、正義に生きる一人の聖闘士が新たに誕生したのだ」
カノンの話は終わったようだ。ジェミニの黄金聖闘士となった自分がいる以上、ハーデスの走狗などは決して通さぬという言い分であろう。話を理解できたのであれば、早々に立ち去れというのだ。理解できたところで、それを通すつもりなどサガには毛頭無かった。
「ほう……あれほど私が言い聞かせてきたにもかかわらず、全く耳を貸さなかったお前が、アテナの愛だけは一目見ただけで信じたというわけか。相も変わらず、薄っぺらな男よ。それとも真の神には、それだけの威光があるということか？」
「理解は出来ているようだな。神の化身などともてはやされようと、所詮はお前も人間……俺と同じ人間だ。その人間が我らのアテナに手が届くなどと思うのか？」
「では実践してみせよう。今宵の内に、我らはアテナ神殿へと乗り込む。その障害となる十二宮の黄金聖闘士たちには、等しく死をくれてやるつもりだ。特にカノン……お前の姿を聖域内部で見かけるなど、吐き気を禁じ得ぬ」
サガの中で、小宇宙が高められていく。その高まりは、常に脅威としてカノンにまとわりついていた。此度、またしても自分の前に立ちはだかるのかとカノンは苛立った。
「サガよ……そのアテナに従い地上を守るという運命から逃げた卑怯者に、今さら帰る場所など無い。自分で捨てた命……今さら取り戻したいと嘆いたところで遅いのだ」
心の乱れは、そのまま小宇宙にも影響を及ぼす。このまま二人の小宇宙がぶつかり合えば、勝敗は目に見えている。カノンは、苛立ちによって乱れた自身の小宇宙を整えるよりも口先によってサガの心も同様に揺さぶる手段に出た。それをサガは、一笑に付す。
「では、今後はお前が私に代わって双児宮を……アテナを守っていくと？ それこそ思い上がりというものだ。自分の宿命から目を背け続けてきたお前に、聖闘士としての血が一滴でも流れていると思っているのか」
更なる苛立ちが、カノンを襲う。もはや冷静でなどいられぬ。攻撃的小宇宙が黄金聖衣から今にも迸ろうとしている。
「失せろ、サガ……正義に目覚めた、このカノンが放つ小宇宙によって」
幾億の闇を切り裂く閃光。その光が、真一文字にサガへと伸びていく。直撃の寸前、光はそれを渦巻く闇の星々へと吸い込まれていってしまった。
「この程度か？ それでジェミニの黄金聖闘士が務まるとは、舐められたものよ……」
突きつけられた力の差は歴然。カノンの動揺は広がる。それに反してサガの心は、あくまで冷静を保っている。心の小宇宙は、無限にまで高められている。
本物のジェミニの小宇宙が、今や双児宮に充満するカノンの小宇宙を掻き消す勢いだ。
「カノン、やはりお前は未だ悪に囚われている。そのように歪み惑う心で、真に小宇宙を高められると思うか？ お前など、他の黄金聖闘士はおろか青銅聖闘士にも劣るわ！」
轟音と閃光とが、一瞬の間に闇の迷宮を駆け抜ける。霧が晴れるようにして時空の迷路は消え失せ、サガはカノンの小宇宙が遠のいていくのを実感した。
サガから離れていたシュラとカミュにも、事態の変化はすぐに呑み込めた。目の前に現れた黄金聖衣の幻覚が消えると、すぐさま正気を取り戻して出口を目指す。双児宮を抜けたところで合流を果たした両者は、振り返って一人の男を迎える。この窮状を打ち破ってくれた功労者は、何故か項垂れていた。
「流石です、サガ……どうしました？」
「あれだけの術を使う者が相手……やはり、無傷では済まなかったか？」
「いや……」
傷など負ってはいない。サガは、とうに分かっていた。双児宮には、初めからカノンなどいなかったのだ。遠く離れた場所から、黄金聖衣だけを操っていたのだ。そんな状態で、生身のサガとまともに戦えるはずがない。双児宮を幻影で包み、サガの心を揺さぶる程度が関の山だ。
そう、肉体に傷は負っていなくても、サガの心は軋みを上げていた。カノンの言葉によって決意が揺らいだのではない。幼き頃より十数年、心を砕いてきた弟の変心に心が痛んだのだ。その変心こそ、何よりも願っていただけに。どれだけ望みを注ごうとも、期待の余地など得られなかったがために。例え、自分の導きの賜物でなかったとしても。
カノンの存在など、シュラとカミュは知る由も無い。今の双児宮の件のみでなく、生まれた時よりカノンの存在は秘密とされていた。二人は、サガが何によって声を震わせているのか見当もつかず顔を見合わせた。
その時、双児宮の中から邪悪な小宇宙が追いかけてくる気配があった。咄嗟にサガは、心で流した涙を拭いて振り返る。
「やっと追いついたぜ。サガよ、我らを出し抜くことが出来ずに残念だったな」
マスクの中央にて、大きな一つ目が不気味に光る冥衣の冥闘士。確か、名前を地暴星サイクロプスのギガントと言ったか。そんなことをサガが思ったところで、次々と冥闘士たちが双児宮の出口から現れてくる。
「ちゃんと我々が追いつくのを待つとは、殊勝な心掛けよ」
「それはそうよ。貴様らは、言わば新参者。我ら正規の冥闘士には頭が上がらぬはずだからな」
「さあ、これから先は十二宮の道案内をきちんと頼むぞ。何しろ、我らは光速の動きなど会得していないからな」
現れたギガントの後ろに、まだ十五人もの冥闘士の姿を確認できる。これでは大人しく彼らの監視下に留まるしかない。サガたち三人は、無言で彼らを先導した。その直前で、サガはちらりと十二宮の一角を一瞥していた。遠ざかっていったカノンの小宇宙が、確かにそこに落ち着いた。冥闘士たちを撒くことなど後回しにして、今はそこまで辿り着くことをとにかく考えるべきだ。
カノンよりも恐ろしい真の黄金聖闘士が、まだまだ控えている十二宮を進まなくてはならない身であるために。
教皇の間の入り口付近。すぐ下にある双魚宮にも下りずに、その場でカノンは肩で息をしていた。
ミロにやられた傷は、とうに痛みが引いている。この消耗は、明らかにサガの小宇宙によるものだ。
「死したとは言い条、やはり神の化身の力は侮りがたい……それとも、俺の小宇宙が……正義の心が完全でないということなのか」
この一局は敗北。それは認めよう。しかし、敗北の原因までは認めるのが辛かった。
兄サガが密かに涙ぐむほどに、カノンが正義に目覚めたことは一つの奇跡であった。それが、一瞬の夢で終わるかもしれないことにカノンも息を吐き出した。
「アテナのお許しを受けたとはいえ、悪行の限りを尽くしてきた俺に今さら正義の真似事が務まるだろうか……俺とは正反対に、悪に堕ちたサガの足止めをも出来ぬ俺に……」
簡単に諦めることは、アテナに対する不義理でもある。十三年間、ずっとカノンを案じ続けてきたアテナ。自分の耳を開かせ、目から鱗を落としてくれたアテナ。それを再び裏切ることなど許されない。
カノンは、必死にアテナの顔を思い浮かべる。それだけで足りぬのであれば、自分の改心を信じてくれた者たちの言葉も思い出す。ミロは言った、生きて償えと。シャカは言った、勇気を持って光に委ねよと。それらの言葉を、何とか支えにしようとする。
そして結局は、生来のつむじ曲がりが顔を出す。
「勇気、か……。確かにシャカの言う通りかもしれん。俺は今、正義に生きることに躊躇っている。これまでの半生……二十八年間もの長年を悪に費やしてきた俺には、無常などおいそれとは信じられんのだ」
実際に口に出してみれば、いよいよ実感となってその身に被さってくる。残酷な現実。それと向き合わなくてはならない。
「二十八年か。聖闘士としては、相当の長老だろうな。これは最早、俺にはアテナに従う少年を名乗る資格など無いということではないのか」
それだけの期間を正義と遵奉に費やしてきたのであれば、どれだけ正しい心根を育むことが出来ただろう。あのサガとも肩を並べるほどに正義の小宇宙を燃やすことも出来たろう。仮定の話は、虚しいばかりだ。そして現実を見れば、断念の二文字が目に飛び込んでくる。
一人で思い悩むカノンの頭脳に、直接響く声があった。サガによる業ではない。もっと浮世離れした、高尚な声色が響く。その正体に、カノンはすぐに察しがついた。先刻、処女宮でも聞いた声の主に。
「何を言われる。五老峰の老師なら、きっとこう仰るだろう。『二十八歳など、まだまだヒヨコじゃ』とな。それまでの人生と違う道など、あちらこちらへと伸びているものよ」
「シャカ……」
最も神に近いと称された男には、何もかもお見通しなのか。カノンの自問も、それによる呟きも余さず聞いていのか。そして、一人で悩んでいるカノンに手を差し伸べようとしているのか。
「貴方は私より八つも年長だが、まだまだ子供のように見受けられる。それまでヒネくれた大人の振りをしていたために、まだまだ本当の意味で成長しきれていないのだ。そう、貴方は自分の意思次第で何色にでも染まれる純粋な子供。無鉄砲が売りの子供が如く、さっさと光に照らされた道へと飛び込むがよかろう」
シャカのテレパシーが途絶えると、静寂による耳鳴りがカノンを包み出した。その痛みに呼応して、カノンの心に確かな光が生まれ出す。今度こそ本当に、揺るぎなき正義の小宇宙が発生する。
「そうだ……何のために俺は、この命を拾われたのだ。海底神殿で追い詰められた時も、天蝎宮にてミロの裁きを受けた時も。ミロが言ったではないか。俺が犯した大罪の数々……それらは、決して死んだ程度では……俺ごときの命の代償では贖い切れぬと。兄サガもシオンを殺害した時点では、まだ己の悪の人格に体を完全には明け渡していなかった。まだ正義の人格が、その舌を、手を、足を動かしていた。その時に己の悪事を暴露して自害するという選択肢もあった。なのにサガは、そのような安易な道は選ばず、生きて贖罪の道を選んだではないか」
カノンの意思は定まった。今こそ、約束の時なのだと。自分と同じ日に生まれた兄から託された思い。それを果たす時なのだと。黄道十二星座の中からジェミニが失われた時、その空席を埋めて夜空を照らす役目を任されたのは他でもない。最強の黄金聖闘士サガと血を分けた自分なのだ。冥闘士に堕ちた兄に成り代わらなければならないのだ。
「サガよ……かつて地上に存在した正義のジェミニは死んだ。今、この地上に蘇りしサガは邪悪の化身。なれば、お前が望んだように今こそ……今こそ、このカノンが真なるジェミニとして立ってみせよう」
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