「冥王ハーデス 十二宮」編
第五話 古の闘士
今を去ること、実に二百四十三年前。
その当時、ギリシアは全土をオスマン帝国に支配されトルコクラティアの真っ只中であった。そのような時代であっても、聖域だけはアテナが施した結界によって人界から隔離され護られてきた。
他国の支配という難を逃れた聖域の聖闘士たちは、何故か祖国ギリシアをオスマン帝国の支配から解放するための動きを見せなかった。天を裂き海を割る聖闘士の力をもってすれば、いかな大国であろうと物の数ではないというのに。
その理由は一つ。国同士の問題も些末と思われるほど、深刻な事態が地上の全てに降りかかろうとしていたからだ。即ち、人類の根絶と地上の奪取を画策する冥王の魔手こそ、聖闘士が命を懸けて阻まなければならない大敵であった。その脅威を払わなければ、ギリシアの解放も水の泡となる。
「その二百四十三年前に行われた聖戦を、私はお前とともに駆けた。ただただ一心不乱に、アテナと地上のために駆け抜け……生き抜いた。遠く……美しい記憶だ。現実のものであったと思えぬほど、時は隔てた。当時と正反対の立場として生まれ変わった今、特にそう思うぞ」
「お前の口からだけは、それを聞きたくはなかったぞシオン。同じ時代に聖衣を授かり、そして死した七十七人の同志に詫びよ」
己を厳しく見詰める瞳。それをシオンは一笑に付した。
「忘れたわ。やはり、あれはただの夢……幻であったのかもしれぬな。その実感を否定する唯一の存在が、お前だ……童虎よ」
二百四十三年前の前聖戦を生き抜いた、たった二人の聖闘士。元アリエスのシオンとライブラの童虎とは、十二宮の麓で向き合った。
片や、過去に交わした友誼を否定するために。片や、その交わりを取り戻さんがために。
「お前さえ蹴散らしてしまえば、我らを止め得る障害も無くなる。私の記憶に眠る甘美な夢も消える。枯れ果てた老骨が相手であろうと、一切の情け容赦なく葬ってくれるぞ」
「確かに、ワシの見掛けはこのように老いさらばえた。だがな、シオン……果たして冥闘士に身をやつしたお前の小宇宙に、二百四十三年前と同じだけの力が残っていようか？」
老師童虎の言葉になど耳を貸さず、シオンは全力の小宇宙を掌底から放って攻撃する。超光速の輝きは、瞬きする暇もなく老師の体を吹き飛ばした。
「どうだ？ これでもまだ、私の小宇宙が力不足だなどと抜かすか？」
「なるほどのう……確かに力量は衰えてはおらぬか。不思議なことよ……」
老師の口調は、言葉の内容ほどにも疑問を感じていないようであった。アテナを信じる正義の心こそが、聖闘士が宿す小宇宙の源。それが少しも衰えていないという点を、老師は殊更に強調した。
「何も不思議なことはあるまい。今の私には、ハーデス様がついているのだ。その偉大なる加護によって、私はかつて以上のパワーを手に入れたのよ。ところで童虎……お前はどうなのだ？ アテナの加護を信じて二百六十一年も現世で過ごした結果、お前の肉体は弱り果てている。そんな脆弱な肉体では、例えお前の体内にかつてと同じだけの小宇宙が残されていようと、発揮した途端にお前の肉体の方が音を上げよう。哀れなことよ」
まして老師には、その身を守る聖衣も無い。若き肉体を有し、完全武装したシオンとでは勝負にはなるまい。それでも退却という選択が、一瞬たりとも浮かばぬのが聖闘士であった。
「お前の言うことも、もっともじゃ。じゃが、ワシはアテナの聖闘士としてお前との勝負を避ける訳にはいかぬ。野生の虎は、その生涯において二十回の猛を為す。ワシにとっては、お前との決着がその二十回目じゃ」
自身の痩せた肉体が悲鳴を上げようが、それを厭わぬ勢いで老師の小宇宙は高まりゆく。
元より死を覚悟して十二宮へと戻った身。他ならぬシオンを止めるための帰還だったのだ。シオン一人のために、自身の命を投げ打つつもりだったのだ。
「いいだろう。そこまで本気なら、私も徹底的にお前を叩き潰せるというもの。お前との千日戦争に幕を引く時が来たようだ」
シオンの言葉に、老師の追憶はお互いが修行に励んでいた少年時代にまで遡った。時に同調し、時に反発した真の友であったシオンと童虎。互いに互いを乗り越えるべき目標と掲げ、修行仲間として何度となくぶつかり合ったものだ。何度対戦しても決着には至らなかった両者の戦いは、千日間戦い続けても終わらぬ千日戦争と評された。
千日戦争――悠久の古より天上の銀河にて人知れず繰り広げられてきた竜虎の争いの如く、拮抗した二者の戦闘は終焉を予期させることなく続く。
いつしか二人は、決着を望まなくなっていた。自分が相手を倒し、唯一の勝者になることを望む以上に、自分と互角に渡り合える相手の存在こそ望むようになっていた。そうした思いが、永遠に終わらぬ闘いに拍車をかけていた。
「修業時代、お前とは幾度となく拳を合わせた。楽しかったぞ……どちらも一歩も退かぬ互角の戦い。次こそは相手を上回ろうと、互いに同じだけの努力を積んでは再戦し、また決着を先延ばしにしてきた。その千日戦争……終止符を打たせてもらうのは私だ。この究極技……スターダストレボリューションでな」
宣言すると同時に片腕を高々と掲げるシオン。体内にて無限に渦巻く小宇宙の全量が、その指先に集中されていた。さしもの老師も慄く。最強と呼ばれた闘士の究極技が放たれた時、その場に何がもたらされるのか。それは、老師一人の死では済まない。ハーデスが直に手を下すまでもなく、地上が永遠の暗闇に包まれる恐怖を老師は予感した。
「ムウのレボリューションが『回転』を意味するのであれば、シオンのそれは『革命』……過たず新たな宇宙を生み出すに匹敵する威力を秘めている。それ故にお前は、前聖戦においても一度として全力でその技を振るうことは無かった。それは、守るべき地上の終焉をもたらすことを恐れる以上に、アテナに……」
「お喋りの時間は終わりだ、老いぼれ」
老師の言葉を遮り、最後の攻撃を完遂させようとするシオン。そこへ、何かが飛来してくる。
シオンが思わず攻撃を躊躇うばかりでなく、高めた小宇宙までも萎縮させてしまうほどの驚愕を見せる。遠き彼方から接近してきた小宇宙は、黄金聖闘士だけが持ち得るものだったからだ。
「何者の小宇宙だ……地上に残る黄金聖闘士は、全て十二宮に集っているはず。い、いや……これは!?」
それが近付くごとに、シオンも確信へと近付いていく。
その小宇宙は、生身の聖闘士のものではない。誰よりも多く、それに触れてきたシオンには、はっきりと分かった。
無機質でありながらも生命を持つ神話の衣。
「聖衣……黄金聖衣に蓄えられてきた、代々の黄金聖闘士たちの小宇宙が近付いているのか。それも、この小宇宙は……間違いない！」
その正体を見極めた時、シオンの
「童虎よ……呼び寄せたな？ 自らの聖衣……そう、ライブラの黄金聖衣を」
シオンがそれを言い当てるのと、実際に輝く聖衣が老師の目の前に現れたのと、どちらが先であったか。今、シオンの前には天秤を模った黄金聖衣が佇んでいる。在りし日、いつでも尊敬と信頼を寄せて見詰めていた眩さが、変わることなく十二宮に帰還した。
「フ……だが、それでどうするつもりなのだ？ 老いぼれた貴様の体では、聖衣も無用の長物……ただその身を縛る枷にしかならぬぞ」
「いいや……そうはなるまい。のう、シオン……不思議だと考えたことはないか？ 永遠の存在である神でもないワシが、どうやって二世紀以上も生き永らえてきたか。長命な者の多いジャミールの人間であるお前では、深く考察するには至らなかったといったところか？」
老師が何が言いたいのか、それを考えあぐねてシオンは押し黙る。
そもそも何故、老師は老いた自分一人で十二宮へとやってきたのか。相手がシオンと分かっていたのであれば、なおさら不思議だ。教皇の死が露見した後、地上の聖闘士たちを率いた指導者的立場にある老師が号令をかければ、全聖闘士が一斉に白羊宮へと集結したはず。
そして何故、身に付けることも出来ぬライブラの聖衣をこの場へと呼び寄せたのか。
「お前が、そうであるように……ハーデスの力で若き肉体と新たな衣を得たように……ワシも、この仮の肉体を捨て去る時のようじゃの……大いなるアテナの導きによって」
瞬間、老師の肉体が閃光を放った。前面にある黄金聖衣の輝きなど、無きが如くにギリシア中を照らすほどの光が発せられていた。その現象そのものに対してよりも、光が持つ本質にシオンは恐れを抱いた。
「童虎の老骨が……光り輝いているばかりではない！ 馬鹿な……このような奇跡、起こせるとすれば……」
光の収束は、シオンの双眸に老師の変化を焼き付けた。今、目の前に立つ男は年老いた矮人ではない。青春時代の頂点と言われる十八歳の頃の姿を取り戻している。その体の奥底からは、聖衣と同様の小宇宙が滲みだしている。そして表皮を覆っているのは、黄金聖闘士をも遥かに超えた神々しき大宇宙の波動。
「アテナ……の仕業か」
人間五十年の宿命を与えられた老師が、如何にして二百数十年の時を生きられたのか。その理由をシオンは悟った。前聖戦の際、当時のアテナの力によって、時が肉体に及ぼす作用を操作されていたのだ。外見は年老いて見えようとも、一たびアテナの術を解けば術を掛けられた時と同様の姿にまで若返ることが出来る。
聖域と五老峰という隔たった場所で二百年も過ごしたために、シオンは友の状況を知ることはなかった。
「まさか、アテナが
シオンは戸惑いで頬を強張らせた。目の前に立つ男は、若かりし日の肉体と実力とを取り戻している。最強を極めた自分と互角の力を有する、地上ただ一人の闘士が目の前に蘇っている。その体をライブラの聖衣が覆った時、伝説の猛虎――ライブラの黄金聖闘士・童虎は完全に復活を遂げた。
「もはや悟ったであろう、シオンよ。ワシの肉体は、前聖戦が終わった後から仮死状態となっておったのじゃ。アテナの聖なる神の血を受けることによってな」
その口調は、相変わらず年輪の刻みを漂わせている。しかしながら、声色ははっきりと青年時代に戻っていた。その声が、疑問符をつけて低語の呟きを発する。
「神の血……」
自分で発した言葉を、不思議そうに繰り返す童虎。いざ声に出してみることで、目の前に何かが浮かび上がってくる実感さえある。
「神の……血？ まさか、シオン……それでは……」
何故、今に至るまで想像が及ばなかったのか。他ならぬ自分が。
そして、気が付いた瞬間には全身をおぞましいほどの悪寒が電撃のように走り出す。童虎は、取り戻したばかりの真の力を振るうより前に、友に向かって声を上げた。
「シオン！」
「もう黙っていろ……どのみち遅いのだ。お前が、何に気付こうがな。そう、私は……サガたちは、必ずやアテナの命をもらうぞ。今や、それだけが我らの願いなのだ！」
悲痛なまでの叫びが、白羊宮に轟く。頂点にまで高めれば、万物を消し飛ばすほどのシオンの小宇宙。その昂りが半ばの状態でありながら、待ってはいられないとばかりに発散される。童虎もまた、咄嗟に防御の小宇宙を繰り出す。二つの閃光がぶつかり合い、怒号と共に大地が揺れる。その後に訪れた変化が、白羊宮を越えて伝わっていった。
「老師と師シオンの小宇宙が……消えた!?」
それを感じ取り、後ろを振り返りながらもムウは足を止めようとはしなかった。彼は今、双児宮を抜けたところ。サガたちも他の冥闘士も先刻、ここを通過したようだ。それに追いついて侵攻を食い止めることこそ至上命令である以上、シオンと童虎に訪れた結末を確認しに戻ることなど選択肢には無かった。
シオンの高弟であるムウも知らぬ、古からの千日戦争の行方。それを胸によぎらせることさえ許されぬと己を戒め、ただただ先行する敵を打ち倒すべくムウは急ぐ。その足が、次なる巨蟹宮の中ほどにて止められた。
「隠れていても無駄です。冥闘士よ、姿を現しなさい」
金牛宮での一戦から、ムウは宮の中を進む際には常に気を配るようにしていた。穢れ無き聖域には相応しくない邪悪の小宇宙を、決して見逃さぬよう注意してきた。その甲斐あってか、巨蟹宮に佇む一つの気配を正確に感じ取ることが出来た。
「流石は高名なアリエスのムウ……よく、私の存在に気が付きましたね」
ずいぶんと低い場所から声が届いてきた。そう思っていると、地を這い蠢くような音が近付いてくる。月明かりさえ疎らな宮の中を自身の小宇宙で照らして、ムウは床の上へと目を凝らす。
てっきり冥闘士が登場すると予想していたムウは、その目を見開くばかりか口まで大きく開けてしまった。巨蟹宮にて待ち伏せていたのは、人ではない。一匹の虫だった。
一メートルを超す漆黒の節足動物が、無数の丸い目を動かしてムウを見詰めてくる。一目で嫌悪感を抱かせる見た目は、自然界の動物が「俺は毒を持っている」と周囲に示すのと同様に思われた。
「くっ……冥闘士ばかりでなく、このように醜い害虫まで侵入していたとは」
ムウの言葉に、その害虫が反応を示した。丸い目を鈍く輝かせ、舌を持たぬ代わりにテレパシーにてメッセージを送ってくる。
「これは心外ですね……いえ、この姿のことではありません。毒を孕んだ芋虫にしか見えないというのは、自覚しています。しかし、私もまた歴とした冥闘士なのです。信じられないというのであれば、一つ私の実力を見てもらいましょうか」
ムウは身構えた。目の前にいる虫が、自身を冥闘士だと名乗った。言われてみれば、醜い外皮の色合いは冥衣のそれと酷似している。そして、その冥闘士としての実力を披露するとも。
「食らいなさい……アグリィイラプション！」
ムウを睨み付けていた無数の眼球が引っ込み、その穴から毒液が噴き出してくる。ムウは、その場を一歩も動かずにすぐさま防御の小宇宙を展開した。
「この程度……クリスタルウォール」
噴出された毒液は、光の壁にぶつかった途端に蒸発して消え失せてムウの体までは届かない。自らの攻撃を完璧に防がれて、何故かテレパシーの声は嘲った色を帯び出した。
「おや、今のは単なる威嚇。貴方ほどの方であれば、テレポーテイションなりで易々と回避できると思ったのですがね」
「侮るな。十二宮をお前の体液などで汚す訳にはいかぬからだ」
それは負け惜しみではなく、真実であろう。ムウの意図を理解して、打つ手を変えたようだ。毒液の噴出は収まり、毒虫が醜い顎を大きく開く。
「なるほど……。では、これならどうでしょう……シルキィスレード！」
その開かれた顎の奥から、細く白い糸の束が宙を舞って吐き出された。糸の一筋一筋が、ひらひらと舞いながらも悪意を持ってムウの体を覆おうとする。
「この程度であれば、よけなくとも……何!?」
ムウは、小宇宙だけでなく超能力の扱いにも長けている。その自慢のサイコキネシスで、吐き出された糸の動きを封じようとしたが上手くいかない。一瞬、動作が遅れたムウの体が白い糸に捕まった。
「掛かりましたね、ムウ。このシルキィスレードは、他者の超能力による干渉を受けない。さあ、冥界の絹糸に全身を包まれて逝くがいい」
毒虫の糸は、その口から次々と吐き出されてムウの体を覆っていく。幾重にも重なり、黄金聖衣の輝きさえ透かして見ることが出来ぬほどにムウの全身を包んでいく。
手足を縛られ、呼吸を封じられてムウも意識が遠くなるのを覚えた。だが、流石は最強の黄金聖闘士。自分の意識が完全に失われるより早く、小宇宙を爆発させて絹糸の呪縛を吹き飛ばした。
「姑息な……。この程度で、私の自由を奪えると思ったか」
すぐさま反撃に出ようとするムウであったが、敵の姿を見失った。今の短い時間で、何処へ姿を消したのか。巨蟹宮に残されているのは、今の瞬間まで自分を包み込んでいたのと同じような絹の繭だけ。
「繭……まさか!?」
ムウの驚きに反応して、繭の中からテレパシーが飛んでくる。先程まで相対していた冥界の蚕が、その中にいるのは明確だ。
「察したようですね。そう、私も今の術で貴方ほどの闘士を倒せるなど踏んではいない。全ては一瞬でも貴方の身動きを封じて、時間を稼ぐため。この私がイバリューション（進化）するための時間をね」
繭に亀裂が走った。そこから姿を現したのは、もはや芋虫ではない。ムウと変わらないくらいの背丈の人間が、黒光りする冥衣に身を包んで登場した。それこそが敵の真なる姿。たった一人であっても、ムウを仕留められる自信があって巨蟹宮に陣取った冥闘士。余裕の笑みを浮かべる口が開かれると、テレパシーではなく肉声がムウの耳に届いた。
「では、そろそろ名乗らせてもらいましょう。私の名前は、ミュー……偉大なるハーデス様の忠臣が一人、地然星パピヨンのミュー」
本来の姿に変貌したミューが、体内で小宇宙を高めてゆく。その攻撃は、もはやアグリィイラプションやシルキィスレードといった児戯には留まるまい。ムウも緊張を以って小宇宙を燃焼させた。
「ムウよ……貴方は、類まれなる超能力の遣い手。その貴方に、是非とも味わっていただきたい。この私もまた、超能力に関しては冥闘士随一と自負している……その威力を！」
ミューが念じると、左右の柱が震え出す。一本ずつ、それぞれ床と天井から切り離されたドーリア式の巨大な柱がミューの意識の配下となっていた。
「さあ、この柱の攻撃をどう躱しますか？」
二本の巨大な柱を、手を触れずしてミューは同時にムウへと向かって投げ飛ばす。神が造り出した柱の硬度は、人間の体など容易く肉片にしてしまえる。ましてミューは、高速でそれを飛ばしたのだ。まともに食らえば、ムウとて無事では済まない。その攻撃が、ムウにぶつかる直前で止まった。
「何……!?」
「どうした？ これで冥闘士随一とは大言」
ムウは、全く動じることなくミューの攻撃を受け止めた。その腕で柱を防御する必要さえなく、サイコキネシスによって迫りくる柱を二本とも静止させてしまった。
驚くミューが、更にサイコキネシスを加えようとも柱は空中で完全に止まったまま微動だにしない。そうなると、次に起こりうる現象は何か。ミューが的確に予想した通り、ムウの前で停止していた柱が急速にミューの方へと押し返されてくる。
「くっ……。駄目か！ 私の力ではっ……」
ミューもまた、先のムウと同じように柱の動きを止めようと試みた。だが、ムウのサイコキネシスによって操られた柱は他者の超能力など受け付けない。このままでは激突は不可避と判断して、ミューは咄嗟に破壊の念動力を放って柱を粉砕する。
総身に被った粉塵を払いながら、ミューは意外と余裕であった。それを訝しみながらも、ムウは全力で敵を叩くことを決めた。小宇宙を漲らせて、とどめの一撃を放とうと床を蹴る。
「こ、これは……!?」
宙を舞うはずであったムウの身体が、巨蟹宮の床に縛り付けられている。気が付けば、ムウは腰から下の感覚を失っていた。伏兵の気配は無い。それでは、目の前にいるミューの仕業かと焦りを浮かべた瞳で見据える。ミューの余裕の表情が、際立って見える。
「気付きませんでしたか、ムウ？ 貴方が私に向かって柱を投げ返した時、既に貴方の下半身は私の念動力によって自由を奪われていたのですよ」
自惚れを自戒し、油断とは無縁のムウであったが、予想を上回る展開というのは存在する。自分と敵との力量差を正確に見定めた上で戦いに臨んでいたはずであったが、読み切れない事柄もある。
しかしながら、ムウにはまだ秘策があった。例え足腰の自由を奪われようとも、相手の命を奪える必殺の技があった。
「ならば、この技を食らえ……スターダストレボリューション！」
ムウが右手を振るって放った幾条もの光線が、巨蟹宮を燃やす勢いで照らしながらミューへと向かっていく。この期に及んで、ミューはなお笑う。光速で飛ぶムウの小宇宙に気付けていないためでないのは無論だ。
「何!? 私の……恩師シオンの大技、スターダストレボリューションが……」
無数の流星群は、一発もミューに直撃することなく夜空へと舞い戻っていってしまった。ミューと同じくサイコキネシスの天才であるムウには、すぐに分かった。今、ミューは念動力を働かせることによって、スターダストレボリューションの軌跡を全て逸らしてしまったのだ。一歩もそこを動かぬままに、それほどの芸当が出来るとは信じがたいが、それ以外に考えられない。
「侮り過ぎた……私は今、初めて……敗北を予感している」
果たして自分がミューの立場であった時、今のミューと同じことが自分に出来たであろうか。教皇の寵児として授けられた必殺の小宇宙を前に、かすり傷一つ負わずに済む術など容易には思い浮かばなかった。
「貴方が繰り出せる技は、今のでお終いですか？ それならば私の技で、そろそろ旅立ってもらいましょうか」
敵の姿が、妙に大きく見える。威圧、という言葉を両肩に感じる。両脚を動かそうと必死に抗うが、どうにも上手くいかない。目の前の男を倒さぬ限り、この束縛は解けない。しかし、その倒す方法が浮かばないのだ。
焦り藻掻くムウを見据えて、ミューが自身の小宇宙を高める。見れば、ミューの体の周りには、ひらひらと舞う光の羽ばたきがあった。
「これは私の小宇宙が生み出した死界の蝶。これに少しでも触れれば、貴方の霊魂はたちまちハーデス様の御許へと連れていかれ、二度と現世には帰れないでしょう」
光り輝く蝶の群れが、次第に数を増やしていく。包み込むミューの姿全体が光って見えるほどに。その大群が、一斉に飛び掛かってくる。
「終わりです、ムウよ……フェアリースロンギング！」
一瞬の間に、ムウは防御策を頭の中で展開する。敵の技は、弾数こそあれど速度は亜光速にも満たない。見切ることはムウなら造作もないこと。だが、今は足を床に縛られている。
「なんの、全て撃ち落としてくれる。スターダストレボリューション！」
ムウが作り出せる光線の数は、迫りくる蝶の数に決して劣りはしない。まして速度ではこちらが上回り、精度においても自信がある。その自信が、瞬く間に打ち砕かれていく。
「くっ……スターダストレボリューションが当たらない！」
「死界の蝶は、全て私のサイコキネシスの支配下にあるのです。貴方の攻撃が当たらないことは、既に立証済みのはずですよ」
星屑の弾道を潜り抜けて、無傷の蝶が群れを成して襲い掛かる。冥界へと誘われる恐怖を振り払って、ムウはすぐさま次の手を打った。
「ならば……スターライトエクスティンクション！」
目睫の間にまで迫った蝶を、光の彼方へと吹き飛ばす。しかし、ミューが生み出す小宇宙は際限なくムウへと襲い掛かっていく。ムウも小宇宙を防御だけでなく、攻撃へと転じたい思いはある。それが出来ないほど、ムウは追い詰められていた。
「よく持ちこたえますね。フェアリースロンギングだけでは物足りない様子。では……」
ハッとムウも後ろを振り向きたい衝動に駆られた。だが、実際にそうしていたら死界の蝶にたちまち捕まってしまうだろう。それらに構っていたために、ムウは背後の気配に気が付きながらも対処することが出来なかった。ミューのサイコキネシスによって運ばれた巨蟹宮の柱に、今度こそ押しつぶされてしまった。
「楽しかったですよ、ムウ。さようなら……」
自らが放ったサイコキネシスの手応えから、勝利を確信するミュー。生み出した死界の蝶も、もはや不要と全て消す。舞い上がった埃が晴れてから、圧死したムウの死骸を確かめてやろうとその場に留まる。そのミューの両目が、意外な光景を目撃した。
「何……どういうことだ!?」
目の前には、アリエスの聖衣が一滴の血に汚れることなく輝きを湛えている。その聖衣に包まれた男も、傷一つ体に負うことなく平然としていた。異変があるとすれば、その頭上に張り巡らされた光の網だ。ムウを押しつぶしたと思われた柱は、その網がクッションとなってムウの体にまで届いてはいなかった。
「クリスタルネット……我が身を守る防壁だけではない。既に――」
攻撃に夢中になるあまり、気が付かなかった。ムウの頭上にあるのと同じ光の網が、ミューの身体を中心にして放射状に延びている。ミューは、ムウを追い詰めていると思っていたのが、逆に追い詰められていたのだ。
「うっ……は、離れられぬ！」
手足はまだ、辛うじてだが動かせる。だが背中に張り付いたネットは強力にミューを掴んで移動を不可能にしていた。放射状に延びた糸の先端を目で追うと、ミューを更にギョッとさせる事実が存在していた。
「気が付いたか。そう、私がスターライトエクスティンクションによって消し飛ばした死界の蝶は、全てクリスタルネットの先端に括り付けておいた。お前の身と同じく、自由を奪われた蝶はクリスタルネットから外れることは出来ない。そして……私の号令で、全ての蝶はクリスタルネットの糸を辿ってお前へと向かうだろう。お前自身の小宇宙で、お前自身が冥界へと連れて行ってもらえ、パピヨン」
ムウの目が鋭く光る。瞬間、宣言した通りに蝶の群れは一斉に糸の上を滑り出した。向かうは中心にあるミューの肉体。それを魂ごと死の国へ送り込もうと、反逆した蝶の大群が迫っていく。
自分の技でやられては、これに勝る屈辱は無い。ミューも全神経を集中させて超能力を放つ。しかし、どんなに念じようとも蝶はクリスタルネットから離れない。動きを止めることも出来ない。唯一残された手段として、新たに作り出した蝶をぶつけて相殺させていく。頭上から足下から、八方から迫る脅威の対処に追われながらミューは自身の失策に気が付いた。
「しまった！ ムウの狙いは……」
ミューの意識は、自身を縛るクリスタルネットと操られた蝶へと完全に注がれてしまっている。そのミューには最早、正面から飛んでくるムウの攻撃的小宇宙から身をかわす余裕は微塵も残されてはいなかった。
ムウもまた、元より敵の技を利用してとどめを刺す気も無ければ、ミューほどの冥闘士が抵抗もせずに死ぬとも楽観していない。死界の蝶を逆手に取ったのはミューの防御を完全に崩すためであり、とどめはムウ自身の光速拳でと初めから決めていた。
「み、見事……。あ、貴方は……超能力でも、小宇宙においても……完全に、私の上を……」
クリスタルネットに縛り付けられたまま、絶命を迎えようとするミュー。それを眼前に見据えて、ムウは一片の油断も抱かない。何故なら、自身の両脚に対する束縛は依然として残っているからだ。ミューの抵抗は、まだ終わらない。そう考えて備えるムウの目の前で、パピヨンの冥衣が真っ二つに割れた。
「これが、私の最後の脱皮だ！ 死ね、ムウよ！」
瀕死を装っていたミューの叫びがこだまする。クリスタルネットに捕らわれた冥衣を捨て去り、裸体となったミューの肉体が飛び上がった。それを目で追ったムウに対して、空中でミューは攻撃の姿勢を取る。右手から繰り出したサイコキネシスは、ムウの左半身を直撃した。既に麻痺した下半身に加えて、左腕が機能を停止させられる。そして、ミューの左手が追撃を放つ。
「フェアリースロンギング！」
左目も閉ざされたムウは、敵との正確な距離を捉えられない。その動揺を突かれては一巻の終わりとなる。迷わずムウは残された右目も自ら閉じて、敵の小宇宙だけを感じ取る。唯一機能するムウの右腕が、黄金の小宇宙を解き放った。
「スターライトエクスティンクション！」
大いなる光の環が、襲い掛かる死界の蝶を消滅させる。その時に生じた光の瀾が、ミューの目を眩ませた。スターライトエクスティンクションの輝きの向こう側から飛んでくる一撃を見舞われて、今度こそミューは血を吐いて巨蟹宮の床に沈み込む。
ムウの肉体の四分の三を縛り付けていた金縛りが、ようやく解ける。警戒しながらも、ムウが倒れ込むミューへと近付くと不敵な笑い声が届いた。
「流石でした……アリエスのムウ。上には上がいるという言葉の意味を、私も教えられましたよ」
「それも死の間際に悟ったのでは意味があるまい。今、お前の肉体にとどめを刺して楽にしてやろう」
ミューの笑い声が、一段と大きくなった。訝しむムウを視線だけで見上げながら、敗者らしからぬ余裕の弁を論じる。
「我々冥闘士というのは、魂だけの存在とも言える。肉体など仮初の器。神話の古より、ハーデス様のしもべとして世に解き放たれ、各々が相応しき肉体に乗り移って活動する冥界の闘士。いいですか、ムウ？ 例え今生、貴方が私を倒したとしても……我々は、何度でも蘇るのです。時を隔て、ハーデス様の御力を賜るごとに何度でも。だから以前のアテナも、我々を封じ込めるのが関の山だったのです。ふっふっふ……この度は私の敗北ですが、次の世ではどうでしょうね？ 次に私が復活した時、果たして貴方ほどの聖闘士がいるでしょうかね？ その未来の不安を抱えながら、残った生を堪能するがいい……超能力で私を負かした、ただ一人の男よ……」
最後の瞬間まで余裕を崩さなかった口元が歪み、瞼が力無く閉じられる。ミューの絶命を悟り、一瞬の間を置いてからムウは敵の魂に語り掛ける。
「それには及ばぬ。アテナとハーデスとの聖戦は……今回限りで終わりとさせてもらうからだ。そう……お前の主に永遠の死をもたらすことでな。超能力の勝負で私を追い詰めた、唯一の男……パピヨンのミューよ」
その肉体と冥衣とを、光の環で包み込んで冥界へと送り返す。葬送を終えると、ムウは再び先を急いだ。巨蟹宮の次に控える獅子宮には、屈強なるレオのアイオリアがいるはず。前を走る冥闘士たちの小宇宙が、いつの間にか獅子宮さえも通り過ぎていた。
「あのアイオリアが負けたとは思いたくないが……いずれにせよ事態はより悪くなっている。急がなくてはならない。冥闘士の力が我々の想像を超えていた以上、如何にシャカやミロとはいえ守り切れるとも限らぬ。全ては白羊宮を通してしまったムウの責……だからこそ、私が行かなくてはならないのだ」
仲間の力量を信じていないのではなく、あくまで責任感からムウは急いだ。アイオリアの安否を確かめ、シャカやミロの助けとなるためにも急いだ。激戦を終えたばかりの疲労など、意に介している暇は無かった。
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