「冥王ハーデス 十二宮」編
第六話 黒き衣の群れ
夜もだいぶ深まった。
それにも拘らず、十二宮を進む冥闘士たちは明るい陽光を目の当たりにしていた。自分たちが進軍する一本道の先に、太陽の小宇宙で照らされた眩き獅子宮を目撃していた。
「あれが……黄金聖闘士の中でも音に聞こえたレオのアイオリアか」
石段を上り切る途上で、早くも気が付いていた。アイオリアは、自分の宮を穢すまいと外まで出張っていた。黒き冥衣を纏う者どもを厳然と見下ろしながら、闇夜を自身の小宇宙で切り裂いて待っていた。
「いいだろう……奴を倒せば、俺の名も上がるというもの。どけ、サガ！ 黄金の猫は、俺の獲物だ！」
ここまで先導させてきたサガたち三人を押しのけて、一人の冥闘士が前へと躍り出る。立ち塞がる聖闘士を始末できるのであれば、誰でも構わぬと冥闘士を率いるギガントも容認した。
その冥闘士が、軽いステップで石段を上り切る。目前まで敵に迫られて、何故かアイオリアは突っ立ったままだ。
「どうした、どうした？ この大軍を前にして怖気づいたか？」
隙を窺うまでもない。棒立ちのアイオリアを正面から襲撃して亡き者にしてやろうと息巻く。腕を伸ばせばアイオリアの体に届きそうな距離にまで近づいたところで、背後の冥闘士たちは異変を感じ取った。
轟音、閃光、そして消滅。
「な……何が……？」
一人の愚か者は、冥衣の欠片の一つも残すことなく光と消えた。冥闘士のいずれも、目の前で何が起こったのか正確に把握できないでいる。
ただ、鼻腔をくすぐる臭いだけは感じていた。落雷の後のような、オゾン特有の臭いが周囲に充満している。それだけで、全員が悟った。彼らの仲間の一人は、アイオリアの必殺拳が巻き起こした光速の稲妻によって冥界へと逆戻りさせられたのだと。
「し、しかし……そうだとして、ここまで見えぬものなのか？ 今、レオは攻撃の動作を少しも……」
ギガントの恐れを、サガたち三人は内心で愚弄した。アイオリアと同じ黄金聖闘士であった彼らでさえ、肉弾の勝負をアイオリアに挑もうとは思わない。アイオリアの右腕が放つ超光速の拳を知っていれば、それは愚にも付かぬ話だ。
そのことに気が付かない侵入者たちは、多勢を
「こいつらの実力は、一人一人が白銀聖闘士の十人分にも匹敵する。いかにレオが強かろうと、先程のようにはいくまい」
その選ばれた四人が、我先にと石段を駆け上がる。正面、左右、そして頭上からの一斉攻撃でもってアイオリアに挑む。
「間抜けが」
サガの冷徹な呟きが耳に入る間も無く、四人もの冥闘士たちもまた光と化して消えていった。
相手取る人数など、問題ではない。今度もまた、ギガントをはじめとする冥闘士たちは、誰一人としてアイオリアのモーションを目で捉えることが出来なかった。
思わず後ずさり、石段を踏み外すのをやっとのことで堪えるギガント。その無様を、サガの横目が卑しめる。
「たわけ。お前たちが、どれだけ束になろうと敵うはずがあるまい。強さの次元そのものが違うのだ。我ら三人とて、この男と敵対するに当たって先程から足の震えが止まらぬのだぞ」
黄金聖闘士と一括りにされてはいても、同日の談とはいかない。ここを突破しなければという思いを抱きながらも、サガ、シュラ、カミュの三人は攻めあぐねた様子でアイオリアを見上げ続けていた。
「何をぬかすか……さては貴様ら、やはり本気でアテナの首を狙う気は持ち合わせておらんな？」
上手く事を運べないでいるもどかしさを含めて、ギガントがサガに詰め寄る。普段のサガであれば安っぽい挑発など聞き流すところであるが、今夜ばかりはそうはいかない。ここで手をこまねいている状況を、悪く取られては参る。
元より、サガたちには夜明けという刻限が定められている。それを今すぐに早められては、なお困る。
「そうまで言うのであれば、ここは我らが引き受けよう」
先程サガが自身で言ったように、まともにぶつかり合えばサガもただでは済むまい。五人の冥闘士を一瞬の内に消滅させたアイオリアの拳を、脳内で何度も再現させて対策を練る。アイオリアと同じく光速の動きを体得した自分であれば、上手くいけば相討ちには持ち込められよう。後事を託せるシュラとカミュがいる以上、サガは一人でアイオリアに挑む覚悟を持った。
「かつての仲間が相手では、互いにやりにくかろう。だが、この私はアイオリアにとっては兄の仇……手加減は無用となれば、私も本気で闘えるというもの」
それならば俺が、というシュラの目線を制止してサガが前へと出る。一瞬のやり取りで、シュラもサガの覚悟を理解した。ならば自分がなすべきことは、今後に待ち受けるシャカやミロとの戦闘に備えて小宇宙を高めることで、この場はサガに任せた。
「兄のことなど関係ない。畏れ多くもアテナに叛きし逆賊どもを、この拳にかけて打ち砕くのみよ」
その言葉の通り、冷静に語るアイオリアの小宇宙には私情も戸惑いも感じられない。自身が天から授かった使命の元、聖域を侵す敵となったサガを葬り去ることのみにアイオリアは意識を集中させていた。
石段の上と途上とで、睨み合う両者。緊迫した視線のぶつかり合いから、冥闘士たちも汗を禁じ得ず無言で熟視した。
「来い……サガ」
「……よかろう」
一歩、一歩と石段を踏みしめて上るサガ。次第に速度は速まっていき、二人の息遣いが分かる距離まで近づくと、サガも光速の動きで迫る。それまで構えを見せていなかったアイオリアも、戦闘の姿勢を取って待ち受ける。
そのアイオリアの意識が、全てサガに注がれていた瞬間を狙って地中から飛び出す物があった。サガもアイオリアも、とっさに注意を相手から逸らして足下を確認するも遅かった。敷石を突き破って、幾つもの不気味な触手が飛び出していた。その触手が、アイオリアの肉体を聖衣ごと拘束していた。
「こ、これは……!?」
「……冥闘士か？ 我らに気取られることなく、いつの間に地中に……」
あと一歩でアイオリアに手が届くといった距離で立ち止まったサガは、冷静な目でもって観察した。いかに注意を逸らしていたとはいえ、自分やアイオリアの隙を突けるだけの冥闘士に脅威を覚え、うかつに近付くのを避けた。
サガの見立てでは、床下から伸びた触手の群れは、いずれもアイオリアの筋肉を完璧に締め付けていた。それは、もはや力を込めることも能わずといったほどに縛り上げており、サガもアイオリアからの抵抗は無いと見て一歩下がった。
「くっく……流石は地伏星ワームのライミよ。黄金聖闘士に気配さえ感じさせないとはな」
背後から届いたギガントの不快な大口を、サガは心の中で「おめでたい奴だ」と見下した。自分がそうであるように、アイオリアも他のことに構っていられぬほど、全ての神経をサガへと注いでいたのだ。そうでなくては、一瞬の隙を突かれてアイオリアはサガに敗れていた。
ワームのライミとやらは、その真剣勝負に水を差したわけであり、全くもって称賛になど価しない。だが、実際に屈強なるアイオリアの自由を封じ込めた力は本物であり、形勢が逆転したのも事実だ。
「どうするのだ？ よってたかって痛めつけるのであれば、好きにしろ。もう、我々は邪魔をしない」
興味も無さげにサガがギガントに問い掛ける。意外にも、ギガントの方もその気は無いとばかりに首を振った。
「いや……ライミの奴は、自分の獲物が奪われることを何よりも嫌う男。我々は、一足先に次の宮へと進もうではないか」
未だ地面の下から触手だけを伸ばして姿を見せぬライミとやらに、ギガント一向は相当の信用を置いているようだ。何とか侵攻を止めようと藻掻くアイオリアの脇を通って、残った冥闘士九人は獅子宮へと侵入する。サガたち三人も、それに続いていった。
後に残されたアイオリアが、去りゆく背中に「待て」と叫ぶ。声を張り上げると、全身の筋に一層の激痛が走った。短く呻いたアイオリアの耳に、地の底から響いてくる声が入る。
「このワームズバインドに掛かっては、何者も逃れることは出来ない。このまま、じわりじわりと締め上げて四肢を一本一本、引き千切ってやろう」
その声の主が、顔も姿も見せぬワームのライミであろう。敵の姿を確かめることも出来ず、黄金の獅子は斃されてしまうのか。
「舐めるな……賊め！」
例え身動き出来ずとも、体内を巡る熱い小宇宙を滾らせることは出来る。鍛え抜かれた筋肉を凌駕する黄金の小宇宙が、漂う熱気を爆発させる。
黄金聖衣の上からアイオリアを締め上げていた触手が、あまりの熱量に悲鳴を上げる。図らずも束縛を緩めてしまったことが、ライミの運命を決めた。その好機を逃すようなアイオリアではないからだ。
すぐさま触手を振り解くや、それらを片手で束ねて引き抜く。固い敷石の破片を飛び散らせながら、醜い冥衣に包まれたライミの身体が飛び出してきた。恐れをなして震えるライミの目が、鋭く光る獅子の視線とぶつかる。同時に、ライミの肉体は強力なサイコキネシスによって吹き飛ばされ、柱の一本に叩き付けられた。
まともに戦えばサガでさえ躊躇う程の戦闘力を見せつけられて、ライミも柱に背中を預けて立てないでいた。
「悪魔のように細心に、か……こそこそと隠れてでなければ、何も出来ぬ卑怯者め」
ライミを振り解いた時以上に、アイオリアの小宇宙が高まっていく。死なばもろともとばかりに、腰が引けたままの状態でライミが自慢の触手を繰り出した。
「ワームズバインド！」
先程、自分を手こずらせた触手の猛攻を前にして、アイオリアは少しも動じない。威力の程は認めるが、そもそも捕まられなければ相手ではないのだ。
「無駄だ……お前の技は、もはや通じぬ」
神速の閃光が、空を突き抜ける。その通り道を塞いでいた触手もライミの肉体も、光に飲み込まれて地上から姿を消した。
足止めしていた敵を片づけるや否や、転身したアイオリアは真っ直ぐに獅子宮の中へと駆け込む。迎え撃つべき敵の群れは、とうに獅子宮を過ぎ去ってしまったようだ。それを追いかけるべく、アイオリアは処女宮を目指していった。
処女宮に到達した冥闘士の群れは、そこで足を止めていた。最も神に近いと呼ばれる男の、甚大なる小宇宙を前にして尻込みしていた。その男は、一見して細面であり相手を圧倒するような迫力は見受けられない。こうして敵を前にしても、座したまま両目まで瞑っている。そんな男に、何故こうも恐れを抱いてしまうのか。
「だが……二の足を踏んでいる場合ではない。こいつさえ倒してしまえば、後はほとんど素通りできるはずなのだ……」
そんな淡い期待でもって、気力を振り絞ろうとする。肝心のシャカを倒すという点が、何よりも困難であることは彼らにも分かっていた。そのシャカの細い体が、分厚い壁となって行く手を阻んだ。小宇宙を通じて、シャカの声が脳内に響く。
「お前たちの目的が、この先におわす我らが主の首だということは承知している。だが……このシャカとて、処女宮の方丈。悪鬼羅刹の類を通すと思ったか」
「ええい、黙れ！ 誰でもいい、奴に挑もうという猛者はおらぬか？」
半ば自棄となったギガントの叫びに、一同がざわめく。そんな中から、恐れを知らぬ者たちが三人ほど進み出た。いずれも冥闘士の幹部が選出した、一騎当千の闘士である。それを自負してか、彼らは臆することなくシャカの前へ出ると、それぞれ名乗りを上げた。
「俺の名は、地陰星デュラハンのキューブ」
「地劣星エルフのミルズ」
「地走星ゴーゴンのオクス」
堂々とした名乗りに、ギガント以下は安堵と期待を膨らませた。一方で、シャカやサガたちの目には既に勝敗の行方が見えていた。なまじ実力に自信を持っているがために、自分と相手との力量の差を測れぬキューブたちの曇った目を見下した。
「お前たち雑魚どもの名などに興味は無い。いいから、さっさと掛かってこい」
言われるまでもないと、キューブら三人は一斉にシャカへと向かっていく。蛮勇を体現した愚か者たちがシャカの間合いに入るや否や、黄金の小宇宙は調伏の威力を発揮する。
「悪霊退散――」
シャカの呟きが終わると同時に、一瞬の閃光が処女宮の中を翔ける。瞬きでもしていれば見逃してしまう程の刹那の発光が収まると、先の三人は姿形も冥衣の影も残さずに消滅した後であった。
それは、つい先刻にも味わった衝撃だ。しかし、その時は相手が黄金の獅子ということもあって納得もいった。まさか早くも次の宮にて、それも痩躯の男によって再現されようとは。並々ならぬ衝撃に、冥闘士一行は打ちのめされた。
「レオのアイオリアの他に、まだこんな男がいたのか……」
もはやギガントをはじめとする者たちに、戦意は欠片も残されてはいない。だからといって、それを見逃すシャカでもなかった。
例え一時であろうとも、邪悪な小宇宙によって聖域を穢した罪は明白として、攻撃の小宇宙を高める。神に近いと称される男の、最も神とは縁遠き心。即ち、敵に対する慈悲の無さが攻撃的小宇宙となってギガントたちを襲った。
「天魔降伏――」
シャカの方から放っていった小宇宙は、もはや自分に近付いた者たちへの迎撃には留まらない。自ら敵を探り当てて向かっていき、光速の拳と化して処女宮を走り抜ける。残った六人の冥闘士も、その身を覆う不浄な衣ともども芥と散った。
静寂を取り戻した宮には、主であるシャカを除いて立つ影が三つ。
「サガ、シュラ、カミュよ……これで貴方たちの行動を監視し、発言に耳を立てる者もいなくなった」
送られてきたテレパシーに対して、サガたちは返答もせず表情も変えない。それがどうしたのかと、シャカの二の句を待った。
「分からぬのか？ 貴方たちは今、ここで私に何を打ち明けてもハーデス側には一切筒抜けたりはしないということ。ならば、ここまで胸に秘めていた想いを明かしてはいただけないだろうか」
「胸に秘めていた……想い？」
シャカが何を言っているのか、見当がつかぬ様子でサガが呟く。脇にいるシュラもカミュも、そんなサガを不思議に思うことなくシャカを見据えていた。
しかし、そういった態度もシャカの心眼を通して見れば本心とは映らない。本心がハーデスに暴露されることへの警戒から来る演技だとシャカは捉えていた。その固い甲羅のように閉じ込められた本心を、どうにかして引き出そうと試みる。
「そうだ。ムウやアイオリアは、汚れを知らぬ……知らなすぎる清廉な善男子。その忠勇義烈ゆえに、悪事に手を染める者の心を量ることは不得手。だから、貴方たちのこともアテナに弓引く逆賊と看做し、問答無用で誅滅しようとしたのだろう。だが、このシャカは違う……」
神仏との対話を繰り返してきたシャカには、人間というものの姿がよく見えていた。時に愚かな行為を働く汚い側面も多々知っている。そして、そのような愚か者を神は決して見捨てることのない大いなる愛で包み込んでいることも。
黄金聖闘士の中でも、特に清濁併せ呑むことを知っているシャカには、未だサガたちの反意が本心からとは思えなかった。今までは冥闘士による監視の目があったため、裏切り者を演じなければならなかっただけなのではないか。そうまでして聖域に帰還した、真の目的を語ってほしかった。
「人は神ではない。完璧になることなど出来ぬ。正義の目的のために、あえて悪事を行う……そういった相反する思いを抱えて生きる者たちの存在も、私は知っている。貴方たちも、その一員ではないのか？ もはや隠し立てする必要はないのだ」
暫し無言で考えていたサガが、シャカの問い掛けに応えようと一歩踏み出す。シャカもテレパシーを絶って、心の耳を澄ませた。シャカの憶測に適った通りの答えが聞けると願って、サガの言葉を待った。
沈黙を破って、サガがはっきりとした口調で言い放つ。
「言うまでもなかろう……我らの目的は一つ、アテナの首のみだ」
向かい合った相手の本質を、手に取るように分かることが出来るシャカだからこそ、その返答に身震いしてしまった。サガの告白に、偽ろうとする思いは少しも感じられなかった。無言で同意するシュラとカミュも、些かの反対の顔色を浮かばせてはいない。
彼らは、本気だ。本気で、かつての主であるアテナを害するために舞い戻ったのだ。それを突きつけられて、なお悠長に構えることはシャカにも出来なかった。
「シャカが……」
「いかなる戦いも座したまま終わらせてきた、あのシャカが……」
「我らとの一戦に備え……初めて、腰を上げた」
闘士と呼ぶには、あまりに細身。その柳のように立つ肢体を前にして、三人はかつてない程に震えていた。その三人を、久方ぶりに開かれた瞳が直視する。常に瞼によって遮られていたシャカの双眼が、黒き衣を纏った三人の裏切り者を見据えた。
「今の貴方たちの姿は、とても見るに堪えない。……バルゴのシャカ、お相手しましょう」
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