「冥王ハーデス 十二宮」編
第七話 逡巡の刻
シャカが立ち上がった。両目を開いて、戦闘の意思を示している。
それに挑もうとするサガ、シュラ、カミュの三人もまた闘志を小宇宙に転換して高めていく。面持ちは緊張を極めているが、怯んではいない。見つめ合う両陣営の間の空気が震え、火花が散る。
その臨戦態勢に加わらんと、階下の獅子宮からはアイオリアが駆け上がってきていた。いよいよ黄金聖闘士同士の衝突が避けられないと読んでか、加勢のために天蝎宮から下ってくる小宇宙も感じる。その前にケリを付けねばなるまいと、シュラが勇んで進み出る。
「行くぞ、シャカ……エクスカリバー！」
処女宮ごと真っ二つにしようとする一閃が、シャカを襲う。それを読んでいたシャカは、刃が己の身に食い込むより早く飛び上がっていた。天井付近にまで達したところで、シャカは自分の頭上に気配を察した。いつの間にか、シュラに上を取られていたのだ。
「いかにお前が神に近かろうと、体術の勝負では俺の勝ちだ」
右脚のエクスカリバーが、シャカに斬り掛かる。咄嗟に防御壁を張るが、衝撃までは押さえられない。シャカの体は猛烈な勢いで下へと飛ばされる。床に叩き付けられる直前で身を翻し、受け身を取る。すぐさま見上げると、天井を蹴って勢いをつけたシュラがそこまで迫ってきていた。
「なんの……天魔降伏！」
印を結んだシャカの光速拳が放たれるも、シュラはすんでのところで躱す。無傷で着地すると、一気にシャカとの距離を詰めて右腕を突き出す。
「取ったぞ、シャカ！」
「……！」
攻撃を繰り出すシュラも、それを受けるシャカも同時に結末を予期していた。シュラのエクスカリバーが、シャカの左胸に突き刺さる瞬間を思い描いていた。それを振り払わんと、シャカの全力の小宇宙が爆発する。
周囲一帯を吹き飛ばす小宇宙に見舞われて、堪らずシュラも後方へと飛ばされた。惜しくもエクスカリバーがシャカの聖衣へと達する、ほんの一瞬前に。
体勢を整えるシュラの近くに、サガとカミュも寄ってきた。次は誰がシャカに挑む番かと相談する間も無く、次なる一手をシャカが打ってきた。それこそがシャカの切り札。今までのシュラとの攻防は、全てこのための布石であった。
「響け、バルゴの小宇宙……天舞宝輪！」
瞬間、処女宮の景色が一変する。千億の曼荼羅が飛び交い、サガたちは大いなる乙女座の銀河団へと吸い込まれていった。そこは天も地も無く、時間のエントロピーさえ無視される神の領域。宇宙の淵源とでも呼ぶべき調和の世界。シャカだけを絶対者とする結界の中へと、三人は放り込まれてしまった。
「何なのだ、この暗闇の空間は……」
「我々の小宇宙が……全く作用しない？」
「噂に聞いていた……シャカの究極奥義か！」
慄く三人の前で、シャカが静かに口を開く。今やサガたちの身は拘束されたも同然。勝利を悟ったシャカの、無慈悲なる宣告が突き刺さる。
「このシャカが天舞宝輪を放った以上、現実世界の常識が通用するとは思わないでいただきたい。私の敷いた陣により、貴方たちの身は縛られている。この中では刹那がカルパにも等しく感じられ、那由多の世界は行けども行けども果てが無い。今、他の黄金聖闘士たちが処女宮に向かっている。それまで足を止めさせていただく」
黄金聖闘士の光速拳を用いようとも、シャカが立つ位置にまでは届くまい。身を転じて出口を求めようとも、足は一歩として進むまい。永遠の時間を費やそうとも、この空間に終焉が訪れることはあるまい。そんな無限の牢獄に三人は囚われてしまった。
「くっ……こうしている間にも、時は過ぎていく……」
何とかして状況を打破して、十二宮を先へと進まなくてはならない。今、夜明けまでの時間はどれだけ残されているのか。それを確かめる術さえ奪われて、三人は焦りに包まれながら考えを巡らせていた。
その彼らに解決方法を提示してきたのは、意外にもシャカであった。
「もし、この天舞宝輪を打ち破り自由を取り戻したいと願うのであれば……貴方たちが取るべき手段は一つ。そう、遥か神話の時代にアテナ御自らが戒められた聖域最大の禁忌……黄金聖闘士、影の闘法」
「ア……！」
シャカが何を示そうとしているのか。悟ると同時に全身が慄きに包まれる。思い浮かんだ名を口にすることさえ憚れる。そんな思いが、三人の言葉を遮った。
「そうだ。黄金聖闘士が三位一体となって放つ禁断の闘法――アテナエクスクラメーションだ」
突きつけられたシャカの言葉に、戦慄が一際大きくなる。確かにシャカの言う通り、如何に黄金聖闘士といえども天舞宝輪を打ち砕く術など持ち得ない。その術があるとすれば、聖闘士の力量をも超越した神の業が必要となる。三人の黄金聖闘士が揃った時、その神の力は聖闘士にも与えられるのだ。その力こそ、アテナエクスクラメーション。
生前において、この秘技を放ったことはサガを始めシュラにもカミュにもない。それでも自信はあった。この三名が小宇宙を最大限にまで爆発させれば、必ずや神の域に達してアテナエクスクラメーションを作り出し、目の前の結界を破壊できるであろうと。
「よかろう、シャカよ。いかに神仏との対話を繰り返してきたお前でも、これを拝んだ試しはあるまい。それほど所望するのであれば……アテナエクスクラメーションを放ってくれるわ」
「し、しかしサガ！」
「待て！ 待つんだ！」
サガの決意に反対する声が飛ぶ。その声は震え、恐れをなしていた。カミュの長い睫毛が小刻みに震える。勇猛であるはずのシュラが歯を鳴らしている。二人が何に恐懼しているのか、サガも理解していた。それでも二人を叱咤して説得しなければならない。神の化身と言われたサガであっても、単独ではアテナエクスクラメーションを撃つ力は無いからだ。
「お前たちにも分かっているはずだ。最も神に近いシャカの最大奥義を破るには生半可な闘技ではなく、こちらも黄金聖闘士が生み出せる最大級の攻撃を繰り出すしかない。ミロやアイオリアたちが迫ってきているのだ。迷っている場合ではない」
サガの声は、覚悟を決めてアテナエクスクラメーションを撃てと命じている。それを意識するごとに、シュラの身は強張り、カミュは声にならぬ声を震わせる。
本当に、それ以外に方法は無いのだろうか。天舞宝輪を破る手段が他にあるのであれば、出来得る限りアテナエクスクラメーションだけは避けたかった。いや、例えそれ以外に道が無くとも撃つことは出来なかった。生前、誇り高き黄金聖闘士であったが故に。
シュラとカミュが葛藤している間にも、天舞宝輪の外で時間は動いている。アイオリアは、ミロに先駆けて処女宮へと辿り着いていた。けれども、入り口は閉ざされている。宮の入り口が、という意味ではない。見えない壁によって、アイオリアの足は遮られていた。超光速の拳を以ってしても砕けない壁によって。
「これは……シャカの天舞宝輪か!? この結界を張られては、例えフェニックスの翼であろうと、アナザーディメンションを用いようとも往来は不可能……。だが、先程から止まぬ胸騒ぎは何なのだ？ シャカよ、俺を中に入れろ！ アイオリアが助太刀に来たのだぞ！」
その叫びは、シャカ本人には届かない。焦りながら、アイオリアは察する。シャカが結界を施したのは、加勢が来るまでの時間を稼ぐためではない。それでは、シャカの狙いは何なのか。
そのシャカと相対するサガの瞳は、あくまで決意に満ちていた。焦りはあっても、戸惑いで揺れたりはしなかった。アテナエクスクラメーションを除いて状況を打破できる術が無い以上、その恐るべき力を行使することも吝かではないと考えていた。
それ程の威力を、アテナエクスクラメーションは約束するのだ。
「アテナ最大の剣たる黄金聖闘士が三人一体となり、究極にまで小宇宙を高める。それを攻撃に転じた際に生じる破壊力は、宇宙開闢を引き起こしたビッグ・バンにも相当する。ごく小規模とはいえ、それだけのエネルギーがあれば必ずや天舞宝輪も砕けよう」
「ですが……聖闘士は、あくまで神に仕える人間。その人間ごときが、神の業であるビッグ・バンと同等の力を生み出すなど……」
「神に……アテナに対する冒涜。いや、それだけなら他のオリンポスの神々はいざ知らず、アテナはお許しになった。だが！」
サガが二人を攻撃に参加させようと説得するのと同様に、シュラとカミュもサガを諭そうと試みる。彼らが何に怯えているのか、それをサガにも思い出させようと。神の慈悲深さを体現していた敬虔な男には、無論承知のことであった。
「分かっている。正義を愛し、卑劣を嫌うアテナにとって、最強の黄金聖闘士が三人掛かりで挑むなど恥辱の極み。師表たる黄金聖闘士だからこそ……アテナに次ぐ力を持つ身だからこそ束縛も強く、戒めも厳しい」
「それに背いた黄金聖闘士は……聖闘士としての名も、過去も、誉れも、実績も……全てを剥奪され、なお……」
「主たるアテナから、死後も末世の後も永劫にわたり……見捨てられる運命なのだぞ」
それを分かっていて、なおサガはアテナエクスクラメーションに踏み切るつもりでいるのか。シュラとカミュの方が、反対にサガを止めようと必死になっていた。
人智を超えた力を有し常に戦いに明け暮れるがゆえ、聖闘士というものは人間社会では生きていけない存在。自分たちが命を懸けて守るべき地上にて、普通に暮らす人々。その人々から聖闘士は、決して認めてはもらえない。忌避されてつまはじきにされ、次第に忘れ去られていく。僅かな伝説と、歴史の陰に埋もれた神話に綴られるのみで。
それでも彼らが命を捨てられる要因は、一つしかない。
「アテナだ――」
例え世の全ての人が見放そうとも、アテナだけは労ってくれる。その確信があるからこそ聖闘士は戦えるのだ。アテナの慈悲深き瞳だけが、戦いに疲れた傷を癒してくれる。救世の活躍が後世に語られる事なくとも、アテナだけが知ってくれるだけで心休まる。そのアテナから見捨てられる事――それだけが怖い。
そんな聖闘士として当然の論理をシャカも見抜いていた。だからこそ天舞宝輪を敷き、アテナエクスクラメーションを提示したのだ。そんなことが出来ようはずがないと見越して。
――そうだ。貴方たちにアテナエクスクラメーションは撃てまい。貴方たちは、まだ忠誠心厚きアテナの聖闘士のはずだ。
シャカにも、元よりアテナエクスクラメーションを撃たせるつもりは毛頭無い。サガたちに禁を犯させ、その名を汚そうという意図は毫も無い。彼らが真にアテナに叛いた逆賊となる前に屈服させ、心の内に秘めている真意を明らかにするつもりなのだ。
逡巡の霧中を彷徨する三人に向けて、バルゴの小宇宙が最大限に燃焼し始める。
「さあ、終わらぬ思案など止めにしたまえ。どのみち、貴方たちに打つ手など無いのだ。このシャカの小宇宙によって、貴方たちの六根を清浄させてくれよう」
天舞宝輪という法律に取り込まれた三人には、シャカの拳を防御する術など無い。閃光を伴った覚者の教えに貫かれて、五感を剥奪されるのを待つのみだ。
このままでは敗北は必至。かと言って、反撃の拳は振るえぬ。進退、これ極まれり。そんなシュラとカミュの頭脳を、サガの叱咤が貫いた。
「何を呆けている？ 私が現世に戻ってきたのは、今さらアテナに許しを請うためではない。聖域を破壊し尽くし、アテナ神殿を血で染める覚悟で……アテナに背くつもりで参ったのだ。そのことに恐れをなすようなら二人とも、早々に冥界へと戻って再び眠りに就くがいい」
その叱責が、二人の脳内に二つのイメージを起こさせる。壊滅と虐殺に襲われた後の聖域と、穏やかな睡眠がもたらす快楽。今、自分たちが選択すべきはどちらなのか。聖域を生まれ故郷とするサガが、一番よく分かっていた。それなのに、シュラとカミュはまだ甘い夢を望むのか。
落雷に打たれたかのような衝撃が、二人にも思い出させた。逆賊と化してでも、果たさねばならない自身の使命と、それに全てを懸けようという自分たちの思いを。
「そうだった。私たちは、かつて貴方一人に苦しみを背負わせてしまった。もはや逃げることは許されない。私は、貴方と共に突き進む」
「俺も、既に偉大なる勇者アイオロスを殺した大罪人だ。元より、アテナの寵愛を賜る資格など無かったのだ」
「我ら……アテナのため……禁を破る！」
自分たちが何よりも望むもの、それは主と看做して仕えた女神の命に他ならない。それを手に入れることに胸を引き裂かれようと、躊躇うことは出来ない。何故なら、それこそが主のため。この美しき地上のためなのだから。
「アテナエクスクラメーション！」
心から血涙を流しながら、三人の小宇宙が究極にまで高められ、解き放たれる。宇宙の真理たる十全の調和を描いた結界も、その爆発を前にしては紙屑に等しい。万有を滅ぼし、新たなる宇宙を切り拓く神の手が、天舞宝輪を引き裂いて焼き尽くしていく。そして、その威力はシャカ自身にも及んだ。
「……そうか、貴方たちの真の目的は……」
銀河に轟く大爆発に巻き込まれながら、シャカはようやく察していた。アテナエクスクラメーションを撃ってまで、サガたちが何を果たそうとしているのか。二十年の生涯を消滅させながら、バルゴのシャカもまた涙した。
「アテナ……せめて、貴方に……」
失われゆく魂魄が、最後の力を振り絞ろうと小宇宙に働きかける。彼らの真意を、残された者たちに伝えねばならないと。
その願いが叶ったのかどうか、当人には確かめる術も無い。サガたちの慟哭の
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