「冥王ハーデス 十二宮」編
第八話 蠢く者の影
処女宮の脇に、小さいながらも見事な庭園がある。石造りの無機質な十二宮の中にあって、そこだけは生命の息吹が感じられた。ギリシア国内では、他に見られないような樹木。その枝に咲かせた雪のように白い花びらが、風に舞っている。主を失った処女宮の悲しみが起こしたのか、一陣の風が白く美しい花びらをどこかへと吹き飛ばしていった。
それは、誰にも悟られることなく起こされた奇跡。天舞宝輪の束縛から解き放たれた安心感と、禁断の奥義に身を染めたことによる疲労感に襲われて突っ伏す三人には、まるで気がつけなかった。
死の間際、シャカが彼らの目的と、それ故に抱える苦悩とを読み取ったことに。その一切を主に伝えるため、微かに残された乙女座の小宇宙が四枚の花びらに奇跡を与えたことに。
正しく春の夜に咲きたる沙羅の花。その花弁に
阿頼耶識――その、たった四文字を書き記した花びらを。
ギリシア聖域から北西へ千七百キロメートル進んだ先――チューリンゲンの森に、それはある。星稀なる満月の光に照らされている間のみ、切り立った崖の上に現れる漆黒の城館。冥界を統べるハーデスが、地上侵攻の際に冥闘士たちを配置するための橋頭堡。その名もハーデス城。
ハーデス城の中の長い廊下を、軍靴が打ち鳴らす音が響いている。全身を黒い衣で包み込んだ若い男。その形相は勇猛さに漲り、碧き
ラダマンティスが立ち止まった巨大な扉の奥。そこから、ポロンと弦を弾く音が奏でられた。その魔力によって、扉は独りでに開き出す。ラダマンティスはその場に跪き、面会の許可が下りたことへの礼を述べた。
入室までは許されない。その奥に鎮座するのは、冥闘士の三分の一を統率するラダマンティスにも増してハーデスから権力を預けられた、正に地上代行者。側仕えの冥闘士を一人置いて、目を閉じたままハープを奏でている。
ラダマンティスからの一通りの形式ばった挨拶を受け取ると、ハープの弦から手を離して静かに目を開く。湖水のさざ波を宿した双眸に促されて、ラダマンティスは十二宮侵攻の経過を報告した。それは即ち、自らが選出した上で送り込んだ十七もの魔星の敗北に対する陳謝だ。百八の魔星・冥闘士は、いずれもハーデスの所有。それを貸し出されたに過ぎないラダマンティスに、それらの命を勝手にする権限は無い。それに背いた過ちを、ハーデスの代行に深く詫びた。
返事は無い。表面の態度に留まらず、心から真摯な謝辞を述べるラダマンティスに対して、無言の視線だけが降り注いだ。
僅かに見上げたラダマンティスの目には、感情など持ち合わせていないかのような氷の表情が映っていた。若く美しい女が、腰掛けたまま瞬きもせずに見下ろすのを認めた。真っ直ぐに下ろされた濡れ羽色の髪の毛も、柳のようにたおやかな肢体を覆った紫紺のドレスも、いずれもが淑女と形容するに相応しい。冥王に見初められた大地の乙女――その生き写しが、ラダマンティスを見据えていた。
「パンドラ様――」
ラダマンティスの低い声が、主君ハーデスの代行の名を呼んだ。僅かに頷くことで、名前を呼ばれたパンドラも部下の発言に耳を傾ける姿勢を見せる。
「微臣ラダマンティス、此度の不手際につきましては申し開きの余地無く。また、無闇にハーデス様ならびにパンドラ様の御心を煩わせ奉った無礼、平に御容赦を賜りたく。つきましては私めに挽回の機をお与えいただければ、今度こそはハーデス様のお望み通りアテナの素首を献げ奉ること、我が命と引き換えに誓言申し上げます」
言葉の一つ一つに気を配るラダマンティスに対して、パンドラは真一文字に結んだ口を開く素振りを見せない。代わりに、パンドラの側で控えていた冥闘士が頭を上げた。
「パンドラ様は、お怒りです。この場はお下がりいただき、あらためてラダマンティス様の忠誠をお見せいただければと存じます。まだサガたち三人が生き残っている以上は、当面は彼らに任せて我が軍に更なる疲弊が及ばぬようにするのが良策でしょう」
小才子に口を挟まれて、ラダマンティスもそちらに視線を向けて苛立ちを顕にした。当の冥闘士は、涼しい顔だ。この男、身分はラダマンティスよりも下級であるが、ハーデスの代行たるパンドラの副官としての立場を利用し、大将のラダマンティスを退けようとしている。
一喝してやるのは容易であるが、賢い術ではない。パンドラの御前で、これ以上の非礼を重ねる訳にもいかない。渋々、ラダマンティスも折れて深々と頭を下げた。
再びハープの弦へとパンドラの指が添えられる。弦の一本を弾く前に、パンドラが直にラダマンティスに対して声を掛けた。
「サガたちの帰順、偽りでないことは確かなのだろうな？ それだけがハーデス様にとって腹心の病なのだからな」
妙齢の娘にしては、落ち着き過ぎた声色で淡々と尋ねる。一旦はラダマンティスに口を利くことを拒否したものの、去り際に声を掛けたのは気まぐればかりではない。自分の腹心が、サガたちに任せると提案した。そのことに対する一抹の不安を思い出したようだ。
「ハッ、いざとなれば私めが聖域へと赴いて、全てに片を付けてみせましょう」
実を言えば、ラダマンティスは初めからサガたちを信用していない。だからこそ、配下の冥闘士を十二宮へと派遣したのだ。しかし、ここで事実を口にしてパンドラを不安にさせても仕方がない。今は不本意ながらサガたちに賭けるしかなく、それをパンドラにも信用させなくてはならない。よしんばサガたちまでもが失敗ないし寝返りしようとも、その際には威力を以って捻じ伏せる。猛将ラダマンティス本来の働きを見せるのみと考えていた。
「それには及ばぬ。可惜兵を亡くしたのは過失であったが、お前という男の評価を下げた訳ではない。お前の言葉、信じるぞ」
その言葉を最後に、パンドラは目を閉じて爪弾く。ポロン、という音と共にラダマンティスの目の前で扉が重々しく閉じられた。
廊下を来た時とは逆へと進んで、ラダマンティスはまた別の一室を訪れた。その服装と同様、余計な装飾を排したパンドラの部屋とは正反対に、仰々しいまでの虚飾にまみれた一間だ。
人の髑髏を積み重ねて拵えた椅子には、城代を任された冥闘士がふんぞり返っている。それでもラダマンティスから見れば、手下の一人。すぐさま眼光を鋭くさせ、無言で威圧する。誰が入室したのか気付きもしていなかった冥闘士は、慌てて飛び降りると自分の代わりに椅子を勧めた。
「無用。お前の悪趣味な椅子などに座る気はない」
壁際に備え付けられた姿見（鏡）の前まで進むと、まるで自己との対話を試みるかのように意識を集中し始める。ラダマンティスの視界には入っていないものと安堵して、元の通り椅子の背もたれに体を預けながらフログのゼーロスが尋ねる。
「何をしておいでで？ さぞかしパンドラ様から叱責されたご様子……おっ、それのみならず折檻まで頂戴されたのでは？ へっへ、パンドラ様のように美しい御方が相手なら、この地奇星ゼーロスもあやかりたいものですなぁ」
ハーデス城の代官という大任を預かったにしては、むしろ王に仕える道化が相応しい下卑た口調でゼーロスは一人笑っている。それには耳を貸さず、初めの質問にだけラダマンティスが答える。
「我が配下の小宇宙の残り火が、まだ十二宮を漂っておる。それを通して、奴らの監視を続けることは可能だ」
「ほほう～、では例えサガたちが二心を抱いていようとも、ラダマンティス様は全てお見通しと？ いや、参りました。流石は冥界三巨頭と謳われた天猛星ワイバーンのラダマンティス様でございますなぁ」
下らぬ世辞に耳を貸している状況ではない。事と次第によっては、サガがハーデス城へとアテナ軍を手引きする可能性さえあるのだ。今のところ、聖闘士の軍勢が聖域を離れたような気配は無い。肝心の十二宮の中は、一箇所に向かって小宇宙が集まろうとしている。
その小宇宙の中心点を探ると、何やら霧に包まれたかのように視界がぼやける。そこだけ時が静止したかのように、次元が切り取られていて冥闘士の残り火を辿ることが出来ない。その宮が、冥界にも名を轟かせた黄金聖闘士の一人シャカの処女宮であると気付くや、ラダマンティスも唾を飲み込んだ。
サガたちは、シャカが作り出した霧の中で一網打尽にされてしまったのか。はたまた、外界から遮断された結界の中でシャカと共謀しているのか。仔細が判明しない内は、決定を下すことが出来ない。
が、最悪に備えて先手を打つことは出来る。視線を鏡から離すことなく、ゼーロスに手短に命令した。
「万が一に備え、お前の隷下（スケルトン）どもを配備しておけ」
「へ、へい。では、パンドラ様の許可を頂きましょう。騒々しくさせては、私の評価に……」
ラダマンティスの焦りになど、まるで勘が働いていないゼーロスという男、責任に繋がる行動に対してはおもむろになる。それを一々叱りつけるのも時間の無駄と、ラダマンティスはゼーロスの言葉を遮った。
「パンドラ様への進言は無用。あの男が側にいる以上、俺の言葉がそのまま届く保証も無し」
「ほ……それでは、万が一の場合にはラダマンティス様お一人が責任を取られると？ いやいや、それは助かります。何しろ姫君が一人訪問されるだけで、余計なことに気を回さなくてはならないのが城代の辛いところでして」
いいから、さっさと仕事をこなせ。そんな思いが小宇宙に宿って、未だゼーロスがもたれかかった椅子から髑髏を一つ吹き飛ばす。流石に上司の怒りを悟って、ゼーロスもフログの名が示す通り飛び跳ねながら部屋を出ていく。
イボガエルの如く醜悪なゼーロスの面など、ラダマンティスは一秒でも早く忘れたかった。むしろラダマンティスの頭には、別の顔が浮かんで悩ませてきた。女のような声で人を惑わす、美しくも冷淡な顔が憎かった。
「エルピス……上辺は俺の顔を立てて慇懃に振る舞っておるが、その実はパンドラ様に媚びへつらい、その威を借るだけの佞臣めが……」
ラダマンティスの鋭い小宇宙が、目の前の鏡面をカタカタと揺らす。その瞳は、自分自身を見ているようで実際はパンドラの側近に向けられていた。思い返しただけで苛つく細面。武を重んじるラダマンティスとは対極に位置する、舌先三寸で阿諛する君側の奸。
「天英星エルピス……パンドラ様に、自軍に災いを呼ぶようであれば、聖闘士どもの前に貴様の首を捩じり切ってくれるぞ」
己の手足となるハーデス城の雑兵に、一通りの指示を出し終えて自室へと引き戻してきたゼーロス。床に這いつくばったまま見上げた目には、ラダマンティスが変わらぬ姿勢で鏡と向き合っているのが見えた。
「ラダマンティス様は、よほど鏡を覗き込むのがお好きなようで。それだけご自身の容姿に自信があるとは、羨ましいものです。これは失礼、それともハーデス様からお借りしたワイバーンの冥衣に見惚れておいでで？」
己の醜怪を自覚した上で他人を嘲る趣味がある男の言葉になど、ラダマンティスは反応を示さない。じっと鏡との対話を続ける。十二宮の清浄な空気の中に紛れ漂う死界の小宇宙が感じ取った情報を、つぶさに得ようと試みる。
その成果が一つ、もたらされた。
「む……」
正面に映し出された自らの双眸を覗き込んでいたラダマンティスが、短く呻いた。鏡に映し出された自分の分身から、重要な報告を受け取ったようだ。ゼーロスも上司の変化に目敏く気付いて、そっと近寄る。道化を演じてはいるが、うつけの類ではない。上官を助けるためではなく、何か自分にとっての利益を探る時、また不利益から逃れる術を探る時、フログの小賢しい頭脳は鋭く働いた。
「サガたちめ、どうやら障害の一つは取り除いたようだな」
ゼーロスに言ったのか、思わず呟いた独り言だったのか。ラダマンティスは最悪の事態が先延ばしになったことに、一瞬だけ気を緩めた。
歴戦の猛将は、すぐに気を引き締め直す。けれども、困難と思われた成果の一つが手に入ったことに対しては、もう一度だけ口にする。その確信を実感するために。
「最も神に近いと言われた男……黄金聖闘士バルゴのシャカ、逝ったようだ」
一先ずの安堵を胸に、ラダマンティスは十二宮の監視を続けた。今、その意識は主の去った処女宮へと注がれている。天舞宝輪の結界が解けたことで、黄金の獅子アイオリアが中へと踏み込んだ処女宮――サガたちの激戦は、むしろこれから始まるのだ。
その意識から外れた十二宮の麓にて横たわる、別の黄金聖闘士の生存に気が付かぬまま。
崩れ落ちた白羊宮の瓦礫の下敷きになりながらも、ライブラの童虎はじっと息を殺していた。小宇宙をも絶って、生死を敵味方に悟られないよう努めていた。
シオンが繰り出したスターダストレボリューションを、自身最大の小宇宙で迎え撃ったまでは良かった。百疋もの
二人分の小宇宙の勢いは凄まじく、半分は光の防壁を打ち砕いてシオンに注がれ、もう半分は反射されて童虎を貫いた。
今は、どちらの小宇宙も感じられない。だが、それは策の内だ。童虎がそうしているように、シオンもまた瓦礫の下に埋もれながら骸のふりをして機を待っている。例えシャカの小宇宙の灯火が消えようとも、まだ頃合いには程遠い。
シオン、そしてサガたちの目的――胸襟を開きたくとも出来なかった無言の慟哭の訳――それをシャカと同じく、童虎も理解していた。この上は、彼らにその思いを果たさせてやらねばならない。
亡者として現世に蘇った彼らに、主たるアテナの首を取らせ、したたる血液をくれてやらねば。
そんな思いを胸に秘め、自らの残酷な選択に童虎は心を痛めていた。未だサガたちの思惑に気付いていない同志たちが、処女宮で彼らと衝突する。それを分かっていながら、止めることも出来ずに成り行きを見届けることを決めていた。
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