「冥王ハーデス 十二宮」編
第九話 金色の激突
瞋恚の一歩が、処女宮の床を踏み鳴らす。
シャカが没した後、呼吸を整えていたサガたちの所へと黄金の獅子アイオリアが到着した。
両の拳は固く握りしめられ、睫毛の先が細かに震えている。燃える瞳は三人を捉えて離さず、その気になれば一瞬の内に全員を葬るつもりで狙いを定めていた。
アイオリアとて、自分がここまでの怒りを彼らに向けることになるとは予想していなかった。獅子宮で対峙した折も、力でねじ伏せた後に彼らの真意を聞ければと考えていた。
そのような甘い考えが、高潔なる同志の死を招いた。アイオリアの天を衝くばかりの憤怒は、半分は己の心に対して働いていた。
そして残りの半分を、低く唸るように突きつける。
「己の欲に溺れ、同志を手に掛け、恐れ多き禁忌にまで平気で手を染めるとは……地獄の亡者でさえ嫌悪する。いかなる極悪な暗黒聖闘士よりも劣る」
舌はぶるぶると震え、視界さえぐらついてくる。それを必死にこらえて、裏切りの徒と化した者たちがかつて誇り高き黄金聖闘士であったことを忘れようと努める。今、目の前にいるのは聖域を侵そうとする冥王の尖兵。それを、はっきりと意識して義憤の血潮を滾らせる。
「落ちるところまで落ちたな……クズどもめ」
黄金の碩徳には似つかわしくないほど、口汚く罵る。今はむしろ、憤りを忘れることこそが恥だと己に言い聞かせた。
一歩、更に一歩と距離を縮めて近付く。先程から小宇宙の高められた両腕から光速の鉄拳が飛び出せば、たちまち三人の肉体を貫いていくであろう。それを確実なものにすべく、間合いを詰めていった。
「待て、アイオリア」
三人を挟んだ向かい側から、ふいに呼び止められて歩みを止めた。アイオリアも、そしてサガたちも声のした方を向く。スコーピオンのミロが、自身の天蝎宮からここまで下りてきたところだ。
元来、気性はアイオリアとは正反対に激しい男。ただし、その烈火はあくまでアテナに害をなす悪を誅滅する時のみに発揮される。そのような男が、アイオリアの裁きに割って入ったことが意外であった。
「止めるな……ミロ」
もはや何者であっても、自らの怒りを抑え込むことは出来ない。そう宣言するかのようなアイオリアの視線が、味方のミロにさえも突き刺さる。
だが、当のミロは柳に風のごとく受け流して静かな表情を浮かべている。その様にも逆撫でされたアイオリアは、震える声で胸に渦巻く思いを打ち明ける。今、自分がどれだけの憤懣に急き立てられているかを。
「この期に及んで、このクズどもを成敗できなければ……シャカの無念すら晴らせないようであれば、俺は二度と自分を男と認められんのだ」
幼少より幾度となく己に誓ってきた。蔑みの内に世を去った兄の汚名をも掻き消すほど、誰よりも雄々しく生き抜いてみせると。たった一度の足踏みで、その積み重ねてきた半生を崩す訳にはいかなかった。
今こそ、人知れず敢然と悪に立ち向かっていった兄と同じく、自分も巨悪に挑む時なのだと。
その意志を、ミロは真っ向から否定するかのように頭を後ろにそらした。それは、アイオリアがあまりに頑迷固陋になっているのを止めるための仕種だ。
視線を前に戻して、アイオリアだけでなくサガたちも含めて見据えて口を開く。
「勘違いするなよ。かつては最強の黄金聖闘士であった三匹を相手にするのだ。いかにレオのアイオリアといえども、一人では骨が折れよう。俺たちも加勢するぞ。友の仇を討ちたいと願っているのは、ここにも二人いるのだ」
その言葉に呼応して、ミロの背後から更に一人の男が現れる。いつの間に双児宮から運んだのか、眩き双子座の黄金聖衣を纏った新たなる聖闘士が現れた。
「カノン……」
思わずアイオリアも呟く。まさか、この男が味方になろうとは。アテナの裁きの結果に目を見開くも、それが主の出した答えであるなら逆らうつもりはない。共に悪と戦ってくれるのであれば、今は喜んで迎え入れる。カノンを凌ぐ邪悪が、目の前で聖域と禁忌を侵しているのだから。
「サガ、あの男は……」
「……貴方に、任せて良いのですね？」
シュラとカミュからの問い掛けに、サガは目も合わさずに短く頷く。尋ねた者同士も、軽く目を合わせただけで後はそれぞれの敵と向き合った。
サガと同じ顔をした男の登場に訝しみこそしたが、それについて詳しく尋ねているような余裕は無い。その男に関しては、最も縁がありそうなサガに任せて話は後回しにする。何より自分たちが言い出さずとも、当人同士が先程から視線をぶつけ合って離そうとしない。
「十三年ぶり……今度こそ、本当の再会というわけだな……カノン」
「ああ……俺の小宇宙は、もはや双児宮で対峙した時とは訳が違う。この再会でもって、お前との永遠の別れにしてやろう」
その輝ける聖衣の片鱗が目の端に映った時から、サガは理解していた。あれほど邪念に満ちていた弟カノンが、今や完全に正義の聖闘士に変わっていることを。聖衣に持ち主と認められた立ち姿は、正しく生前のサガの生き写しであった。
双子座の名が示す通り、同じ日に地上に生まれた兄弟が小宇宙を漲らせながら向き合う。シュラもカミュも、また同様に自身の敵と向き合っていた。示し合った訳ではないというのに、相手の方も同時に自分たちへと近づいて向こうを張る。
カノンとサガ、アイオリアとシュラ、ミロとカミュ。深き因縁の者同士が、自然と一対一の形で対峙する構図が出来上がっていた。
「アイオリア……いや、多くの言葉を交わすのは、お前の流儀ではなかったな」
戦闘に移る前に、シュラはアイオリアに声を掛けようとして止めた。
シュラにもかつて、目標と掲げて目指した勇者がいた。シュラの目の前には、その勇者の在りし日の姿が立って自分を見据えていた。幼き日の修行時代、その勇者から自分が教わったことを、自分より遥かにアイオリアが体現していた。
そのことに一片の妬心も抱かず、シュラは嬉しいとさえ思っていた。思えばシュラは十数年間、ずっとこうなることを待ち望んでいたのかもしれない。レオの黄金聖闘士アイオリアが、かの誇り高きサジタリアスの勇者アイオロスと見紛うほどに成長してくれることを。その勇者によって、自分が葬られることを。
そうなのだ。この状況にあってもなお、出来ればアイオリアに自分を討たせてやりたいとさえシュラは考えていた。そのために、自分という存在はあるのだと。
彼から兄アイオロスを奪ったのは、他でもなく自分なのだという自覚がシュラにはあった。その兄の仇を取らせ、シャカの無念を晴らせてやりたいと。
だが、それは出来ない。
「我らの間にあるのは、どちらかの勝利と敗北のみ。敗北し、この処女宮に骸となって転がるのはお前だ、アイオリア。せめて兄アイオロスと同じく、このシュラのエクスカリバーによって死ぬがいい」
その宣言に、アイオリアは表向きは何の反応も示さない。内なる小宇宙までも、既に激しく燃え盛っていた状態から変化を見せない。今さら兄の名を聞かされたところで、その名を兄を殺した男から聞かされたところで心は騒がなかった。
アイオリアも、教皇がアイオロスの追手としてシュラを差し向けたことは話に聞いて知っていた。アイオロスが帰らぬ人となった点から、シュラが命令通りに仕留めたのだと理解していた。
だが、愛する兄を殺したとしてシュラに憎しみの心を向けたことなど、一度として無い。
むしろ反対に、アイオリアはシュラを目指していたのだ。己が歩んでいく聖闘士としての人生を、いかにして乗り越えていくか。その手本をシュラの背中に見出そうとしていた。
何故なら、その背中こそ幼きアイオリアをおぶった兄の姿そのものだったから。アイオリアを抱き続けた男の熱き背中――それを常に側で見てきたシュラが自ずと養ってきた心根が、彼の背にも映し出されていたから。
その当時、既にシュラの思想は魔皇拳の影響によって邪悪に堕ち切っていたにも拘わらずだ。アイオリアは、己の理想をシュラという男の中に見出していた。死別した実の兄アイオロスの影を、赤の他人であるシュラの中に。
成長したアイオリアが、聖域でも有数の闘士として尊敬を集めることが出来たのも、邪悪に染まったシュラの中にアイオロスが生きていたからに他ならない。まだ未完成であった魔皇拳では、シュラの高潔な魂までも操るには至らなかった。そこにこそ、兄の仇と知りつつアイオリアがシュラに対して尊敬の念を禁じえなかった本当の訳がある。
幼くして亡くした兄の代わりに、何度「兄さん」と呼びかけたことか。自分より三年先の道を克己的に歩む背に、どれだけ憧れ、どれだけ励まされたことか。アイオリアにとってシュラは、記憶の片隅で生き続けるアイオロスそのものだった。自分が理想として追い続ける姿そのままであったからこそ、言葉には出さないまでも密かに兄事してきたのだ。
心を鬼にして、その兄を討つ。その一念だけを抱いて、アイオリアの右拳が光り出す。
「受けてみよ、我が光速の拳……ライトニングプラズマ！」
時計の針が一秒を刻む間に、アイオリアの拳は一億の軌跡を生み出す。聖域においても、これと並ぶ妙技はあるまい。カプリコーンの聖闘士に与えられた聖剣を除いて。
アイオリアが放った超光速の拳は、それをも凌ぐスピードを持つエクスカリバーによって全て斬り落とされてしまった。冥闘士に身をやつしながらも、その速度と切れ味に一片の曇りも生じてはいない。いや、魔皇拳に支配されていた時より上とも言える。シュラ本来の小宇宙を完全に取り戻したエクスカリバーは、聖域の歴史の中でも目を見張るほどになっていた。
「お前の拳は、獅子宮で全て見切っている。血を分けたお前よりも多く、あのサジタリアスの拳を見てきた俺だからな」
そのエクスカリバーを、防御から攻撃へと転じる。アイオリアが防御のために一億の光線を張り巡らせようとも、僅かな間隙を縫ってシュラの手刀がアイオリアを斬り裂くであろう。そういった予測に関係なく、アイオリアの頭に防御の考えなど浮かびはしなかった。あくまで攻撃のことしか頭になかった。
この男と戦うのであれば、自分から退く訳にはいかない。あくまで自分から向かっていき、自分が繰り出せる最大の攻撃を放つことしか考えていない。そうすることで、見せつけようというのだ。カプリコーンのシュラという男を目指し続けてきた自分が、その男にも負けぬほどの小宇宙を鍛え上げたという証拠を。
「よくぞ覚悟した……その覚悟、今こそ俺の全霊の小宇宙が叩き斬る！」
処女宮の天井を貫く勢いでシュラが右腕を高々と掲げる。闇夜を凝縮した色の凶々しき冥衣とは、正反対の正義の小宇宙。その黄金色の小宇宙を纏った右腕のエクスカリバーを見舞うために、床を蹴る。見据える先には、固めた拳を腰のあたりに構えたままのアイオリア。その迎撃の拳が放たれるより早く、黄金の聖剣が振り下ろされる。
この瞬間を待っていた。エクスカリバーが最大のスピードで振り下ろされる瞬間であれば、シュラも咄嗟には軌道を変えられないはずと踏んでいた。後手に回れば、速度で劣る自身の拳が不利なのは承知。しかし、アイオリアの目的は初めからエクスカリバーを砕くことにあった。シュラを完膚無きまでに倒すためには、彼が誇る剣を砕く以外にないと考えていた。
「さらばだ……我が生涯、最強の敵……我が人生、最大の目標だった聖闘士よ……さらば！」
下から上へと鉄拳が突き上げられる。アイオリアの超光速の右拳が、過たずエクスカリバーの刃へと突き立てられる。一億発の衝撃を、たった一発の拳に込めて撃ち抜く。ほんの一瞬の刹那に、強烈な閃光が処女宮の端にまで走っていく。その閃光を生み出したアイオリアとシュラは、元の位置からすれ違って背中合わせになっていた。
一瞬のすれ違いの間に、両者の超光速の戦いは終わっていた。その戦いに敗北し、右腕を押さえ込んで片膝を折ったのは、シュラの方だった。その目は、何故か嬉しそうに細められていた。
「成長したな……アイオリア」
自分が、かつて無二の勇者と憧れて目指した男がいる。思えば、他でもない自分自身の手でその男を斬った時から、シュラは魔道に堕ちていたのかもしれない。悪のみを断つために授けられた聖剣で、決して背いてはならない男を斬った。その罰として、シュラは自身の心をも真っ二つにしてしまったのだ。
時は流れ、シュラは再びかの勇者と向き合った。冥闘士に成り下がった自分を罰するために、この地上に勇者アイオロスが蘇ったのを見た。
自分が地上から奪い去った勇者と血を分けた男がいる。その男が、兄アイオロスと瓜二つの域にまで陶冶を果たしてくれた。他でもない自分が絶対と信じた勇者によって、聖域を侵そうとする自分を止めてもらえた事実にシュラは喜び、床に突っ伏した。
その気配を背中に感じた現代の勇者は、反対に泣いていた。瞳から零れるものは無くとも、心の小宇宙が静かに泣いていた。
（さらば……兄さん……）
処女宮の一角で閃光が激しく瞬いている間に、別の隅では黄金の蠍が怨敵を打ち払うべく小宇宙を高めていた。彼の目の前には、暗黒に汚れた水瓶で身を包んだ男が立っていた。ほんの数か月前までは親友同士であった蠍座のミロと水瓶座のカミュにも、冷酷な運命が降り注ごうとしていた。
「お前の謀叛の理由について、今更聞き出すつもりはない。また、踵を返して立ち去れなどとも言わぬ。汚れたる賊であるお前は、我が真紅の拳によって魂もろとも滅びる以外に道は無いと知れ」
幼き日に出会った時からの親友であるカミュに、ミロがこれほど辛辣な言葉を浴びせたことがあろうか。歳相応に小癪であったミロより遥かに早く、カミュは聖闘士として相応しき心根を宿し育てていた。そんなカミュのことを、ミロは友と思うと同時に師と仰いでもいたのだ。一生を、この人の側で過ごしたいと願うほどに。
そのミロの目が、悪に対する嫌悪で紅蓮に燃えている。その目を、かつての友は真っ直ぐには見返せなかった。
ミロに比べれば口数も少なく、感情を激しく表に出す人間ではないが、そのミロと気脈を通じていたという点で分かるだろう。カミュも、友から掛けられるのと寸分変わらぬ思いをミロへと向けていた。元来、朗らかな人格である。昔は、よく笑い、よく語り合ったものだ。内に抱える熱い思いを舌に乗せることを照れるミロに比べれば、カミュの方が遥かに素直に自身の考えを述べたものだ。
この友には、いつだって正直に話したいと思っていた。この友に対してまで本心を隠さなくてはならない状況が、自然とカミュの視線をミロから逸らさせた。
「余所見をするとは余裕だな。俺の見立てでは、お前の小宇宙は以前と比べて遥かに弱まっているというのに」
挑発だとは分かっていても、友の言葉を無視するのは憚られる。カミュは僅かに視線を戻すと、自身の小宇宙を燃え滾らせて無言の反論に出る。その勢いは、対面するミロにも負けないほどであった。
「……少しは、その気になったか。だが、それでもまだ足りん。生前であれば、お前の拳は単身であっても他の黄金聖闘士に負けなかっただろう。邪悪に染まった拳では、卑怯にも三人掛かりでなくては黄金聖闘士の一人も倒せぬほどに弱り切っている」
カミュの心が如何に汚れ、矮小になったか。ミロは厳しく断じた。こうまで見下されては、カミュも自分から技を繰り出す他無い。ミロの見立ての正誤はともかく、カミュには勝機があった。最強の黄金聖衣をも凍結させる自身の小宇宙に、絶対の自信を持っていた。
「私の拳が衰えたかどうか、その身で確かめるがいい……フリージングコフィン」
カミュが伸ばした右手の指先から、絶対零度の猛吹雪がミロへと襲い掛かる。如何に黄金聖闘士の小宇宙が灼熱の太陽に匹敵していようと、これには容易には抗えまい。ミロの体は、たちまち聖衣ごと冷凍されて数百年の眠りに就くことだろう。その予測を、ミロが真正面から打ち破った。
燃え盛るミロの小宇宙の熱量が、カミュの凍気を悉く蒸発させて身を守っている。さしものカミュも目を見開いた。勝負はこの一瞬で片付くものと思っていただけに、改めて気を引き締め直して身構えた。その間も、ミロの小宇宙は燃焼し続けていた。
「俺は一度、氷河のカリツォーを攻略している。今のは、そのカリツォーの応用だろう。基本さえ破れれば、その発展を破るのも容易い。さあ、今度は俺の番だ……スカーレットニードル！」
狂える戦神の心臓をも貫く毒針が、真紅の群れを成してカミュの肉体へと迫る。その数、実に十五発。
亜光速で飛んでくるミロのスカーレットニードルを回避するのは、至難の業だ。その上、食らってしまえば確実に動きを止められてしまう猛毒を秘めている。だが、一発一発にそれだけの威力を込めているが故に、スカーレットニードルは最大の弱点を孕んでいる。それは、一度に撃ち出せる数が限られているということだ。まして、今相手にしているのはカミュ一人。致命傷となる十五発を超えて撃ち込む必要など無い。
「それさえ、しのげれば……私の勝ちだ」
いかに卓越した聖闘士のミロであっても、技を繰り出した直後には僅かに硬直する。それは、刹那にも満たない
すぐさま態勢を整えて、ミロへと向かって腕を伸ばす。その先に、ミロの姿は無かった。気が付けば、ミロは既に自分の側にまで接近している。カミュの動きに反応してから飛び出したのでは間に合わない。ミロは、既にカミュの作戦を読んでいたのだ。カミュは、きっとスカーレットニードルをかわして反撃してくるはず。そのため、意識の全てをスカーレットニードルに注ぎ込んでいるはず。だからこそ、スカーレットニードルを撃つと同時に距離を詰めたミロの動作に気が付かなかった。
「やはり衰えたな……」
作戦負けを喫したカミュは青ざめ、半ば呆然としてミロを見詰めた。意外な程、愁いをたたえた表情がはっきりと分かり、更に足を竦ませてしまった。そんなカミュに、ミロの追撃を防御するどころか反応する術など無い。
「死んで今一度、我が友として生まれ変われ！」
怒りと悲しみとを込めて突き上げられたミロの右拳が、カミュの顎を砕いた。
容赦など微塵も見せず、その身を焼き尽くす勢いで拳を振り上げた。
もしも再び同じ時代に生まれたのなら、今度こそ手を取り合ってアテナの下でと祈りながら。
六つの輝きが照らす処女宮の中央。その中でも、特に眩い光を放つ者がいた。新たにジェミニの黄金聖闘士の資格を得たカノンだ。向き合うサガも素直に驚くほど、カノンの小宇宙は正義一色の勢いを見せていた。
「かつては俺は闇の力のみを有し、お前は光の力を信じていた。それが、今は逆転したという訳だな」
その言葉の通り、完璧なる双子座の小宇宙を手に入れ、輝けるジェミニの聖衣を纏ったカノンが、正しく太陽の如く小宇宙を発光させて兄サガを見据える。
対するサガも、内なる小宇宙を滾らせて弟を見返す。湧き立つ小宇宙の火柱は、冥衣の黒を掻き消すほどの煌めきを見せていた。
「愚かな。貴様の生半可な心で目覚めた偽りの光なぞ、それを取り囲む銀河の闇にたちまち飲み込まれてしまうのがオチだ」
二つの双子座の小宇宙が、処女宮の真ん中でぶつかり合う。互いに異次元世界への入り口を展開させ、相手をその中へ押し込もうと気力を高める。向かい合った二人の間で鎬を削り、対等の力で押し合っていた。
その攻防が、僅かながらも次第に変化を見せる。その変化に口唇を上げたのは、カノンの方だ。
「どうかな……見ろ、サガ。冥闘士に堕ちたお前の小宇宙の方が、むしろ俺の生み出した光に飲み込まれ、押しつぶされようとしているぞ」
それは事実であった。まさかと思い、サガも小宇宙の感覚を鋭敏にして探ってみる。拮抗していると思われた、いや自分の方が優勢と思われた小宇宙の押し合いが、確かに自分にとって不利になっている。
両者の力によって出現した異次元空間の境界が、一歩一歩とサガの方へ迫っていっている。その場に踏ん張っていたはずの足が、じりじりと吸い込まれていくのを感じる。
「馬鹿な……何故だ？」
シャカとの一戦で、疲労したためか。纏っている衣の差か。それとも、信じたくはないが弟の言う通り小宇宙の差だというのか。アテナに逆らったとはいえ、自分の小宇宙には寸分の衰えもないとサガも過信ではなく信じていた。それでは、この力の差は何なのか。
「真なるジェミニの聖闘士に目覚めたカノンの小宇宙が……本来のジェミニであった私よりも、上回るというのか……この時代における真のジェミニは、初めからカノンだったとでもいうのか……」
もしも状況が異なれば、それは実に喜ばしい事柄であった。しかし、今の状況でそれを突きつけられるのは苦渋でしかない。そうであってはならぬと、奥歯を強く噛み締めた。
段々とカノンの小宇宙が近付いてくるのが分かる。それを押さえ込む指先は、痺れを越えて焦げ付く感覚を訴える。爪先が床にめり込むほど足元に体重を掛けなければ、たちまち肉体が異次元へと飲み込まれてしまいそうだ。灼けるような汗が滝の如く流れて、気持ちを焦らせる。今、この時ばかりは認める訳にはいかなかった。あの弟カノンが、自身を上回るほどの成長を遂げたことを。
何とか状況を改善せねばならないと、サガも必死になって周囲を窺う。仲間の助力を頼りにしたのではない。思わずそうしてしまったほど、焦れて躍起になっていたのだ。その目が、更なる窮地を捉えてしまう。
自分がカノンと競っている間、カノンの猛攻に耐え忍んでいる間に他の戦いは終焉を迎えていた。サガの目には、倒れ伏せる仲間の姿がはっきりと映り込んでいた。その事実が、サガを一層打ちのめしに掛かる。
「シュラが倒れた……カミュも敗れた……。とうとう私一人が残されたというのか……。我らの目的が潰えるというのか!?」
心からの咆哮。だが、それが何になる。どれだけ気力を振り絞って叫ぼうとも、状況に変化など訪れない。今やカノンが作り上げた異次元への入り口は、サガの眼前にまで迫っていた。あとほんの少し、サガが気を緩めればサガの肉体は宇宙の塵と化す。それを遂げるために処女宮にまで下りてきたカノンにも、躊躇いの気持ちは少しも無かった。
「この上はサガ、お前も聖域に逆らった愚かさを悔いて俺の手に掛かるのだな。冥福ぐらいは祈ってやるぞ」
とうとう異次元から訪れた使者の手が、サガの身へと掴み掛かる。何本もの手が冥衣をすり抜けて肉体に絡みつく。それに抗おうという考えすら、サガの頭には無かった。今、サガが考えることは、ただ一つ。無念の敗北だけは、何としても避けなくてはならないという一念だ。
「私までやられては、何のために我らは蘇ったというのだ。誇りをかなぐり捨ててハーデスに頭を下げたのは、何のためだった？ シャカを犠牲にしてまで……」
脳裏には、志半ばで消えていった者たちの顔が浮かんでいた。
シュラとカミュばかりではない。デスマスクにアフロディーテ、彼らもまた思いは同じだった。その思いを実現するために、シャカまで葬らなければならなかった。いずれも決して望んだ結果などではない。それでも果たさなくてはならないのだ。
彼ら全員の無念を背負っているサガの渾身の小宇宙が、異次元世界に飲み込まれた瞬間、怒涛の勢いで爆発した。
「そんなことは……絶対に許されん！」
ここに来て、サガの小宇宙は一段と激しい燃焼を見せた。神の化身と讃えられた時以上にだ。その小宇宙が起こした爆発は、カノンが生み出した光を突き破ってサガの肉体を解放した。後には、サガとカノンのどちらの異次元空間も残ってはいなかった。
「対消滅……お前と私の、プラスとマイナスの小宇宙とが同じ力でぶつかり合った結果、二人の間でくすぶっていたアナザーディメンションは消滅したのだ。次は我が最大の技ギャラクシアンエクスプロージョンで、お前だけでなくアイオリアやミロともども闇へと消し去ってくれる」
今度は、カノンが焦り慄く番だ。自身の小宇宙がサガを上回ったと自負した瞬間、それを跳ね除けられた衝撃は大きかった。咄嗟に防御も迎撃も考え付かない間に、サガの小宇宙は最高点にまで達する。
動けぬカノン。そこへ向かって小宇宙を放とうとしていたサガの意識が、真後ろへと転換される。何者かが、新たに処女宮へと辿り着いた。その何者かは、もはやアリエスのムウ以外にはいないことも分かっていた。
「幻朧魔皇拳！」
「クリスタルウォール！」
振り向くと同時に魔皇拳を放つ。それを予期していたのか、魔皇拳の軌道は既に展開されていたクリスタルウォールによって跳ね返されて、サガの額へと戻っていった。それを自分で食らうほど愚かなサガではないが、一瞬の戸惑いは生じた。
僅かな隙を突いて、ムウが距離を詰める。サガが正気を取り戻した時には、もうムウによって処女宮の床へと組み敷かれた後だった。必死に抵抗を試みるが、上手くいかない。見掛けによらぬムウの腕力と、覆い被さられる体勢の不利もあるが、何よりサイコキネシスによる束縛からサガは身動きを封じられていた。
サガを組み敷いたまま、ムウの視線が左右へと動く。アイオリアとミロによって、とどめを刺されるのを待つばかりとなっていた、シュラとカミュ。彼らを含めた三人に告げる。シャカが死んだ後、ムウがここに現れるまでの間にアテナから賜った命令を遂行するために。
「裏切りの徒よ、アテナの勅により連行する」
その仔細を遠隔から見届けた者たちが、静かに覚悟を決める。彼らを呼び出した張本人であるアテナは、自らの神殿にて黄金の短剣を握りしめながら。遠くハーデス城にて見張っていたラダマンティスは、聖闘士たちの襲撃を確信しながら。
白羊宮の瓦礫に埋まっていたシオンと童虎も、いよいよ時が来たと覚悟を決めて起き上がる。一夜の骨肉相食む争いは、とうとう結末を迎えようとしていた。
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